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三章
54 タキシード
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閑寂の中
僕を呼ぶのは
微かな羽音
鳥の巣頭の家に着くまでに、何度も嘔吐した。といってもほとんど食べていなかったから、出てくるのは胃液ばかりだったけれど。何度も車を停めてもらって休憩を挟んだので、到着がかなり遅れた。
挨拶もそこそこに、心配する鳥の巣頭に部屋で休むようにと言われ、客室に引っ張っられた。いつもの部屋じゃない。内装は女性向きの、花模様の壁紙の部屋だ。
鳥の巣頭が、ジョイントの嫌な思い出が沢山あるあの部屋はやめた方がいい、と親に進言したからだ。
別にそんなこと、気にしないのに。
ともあれ横たわって、ふらつく頭を休めた。
ジョイントが欲しい。安心したい。あの白い煙に包まれて、頭の中で破鐘のように響くあの人の声を止めたい。
今まであると思っていた、僕の立つこの地面を揺るがすこの不安が何なのか、解らなかった。いきなり何もない空間に放りだされたみたいに、そのあまりの不安定さに目眩を覚えた。この感じが、記憶の奥底に確かにあったような気がした。それが何で、いつの思いだったのか思いだすことはできなかったけれど。
ただ、怖かった。怖くて堪らなかった。
ぐったりとして天井を見つめた。この部屋には、もうあの蛇はいない。代わりに、花のレリーフが漆喰天井を飾っている。
「来て」
両手を伸ばし、視界の隅に捉えた鳥の巣頭を呼んだ。
「マシュー、調子が良くないんだ。休まなきゃ」
鳥の巣頭の指先が、熱を確かめるように僕の額に触れる。
「いいから」
こいつの首に腕を廻す。
「マシュー、――寒いの?」
そうじゃない。怖いんだ。
返事の代わりに、かき抱いた腕に力を込めた。
鳥の巣頭が、体重をかけないように気をつけながら、そっと僕を抱きしめる。
「温めて」
こいつの唇を喰んだ。シャツを引き出し、僕の血の気のない冷たい手を、温かなこいつの背中にぴったりと這わせた。びくりと皮膚が痙攣する。
「はやく」
僕は、今、何も考えたくないんだ。
結局クリスマスの前後三日間を、寝室で過ごした。家族の団欒を邪魔せずに済んだから、かえって良かったのかも知れない。
クリスマスの翌日には、鳥の巣頭の父親がわざわざ見舞ってくれた。
お節介夫人は、僕みたいな病人を楽しいクリスマス休暇中に抱え込まされてさぞ迷惑だろう、と思ったから、ご主人の方にたっぷりとサービスしておいたよ。
パブリックスクール出には、幾つになっても彼のような方々が多いらしい。これも紳士の嗜みってやつだ。
本当に、ここの家族には一家揃って、いろんなことを勉強させてもらったよ。
退屈な鳥の巣頭の家で、何も考えずにただぼんやりと日々を過ごした。クリスマス当日には戻っていたらしいアヌビスには、結局会えずじまいだった。
ジョイントが欲しい……。
どうして皆、僕からジョイントを取りあげようとするのか、いまだに理解できない。あれさえあれば、こんな漠然とした不安に押し潰されそうになることも、訳の解らない感情の昂ぶりに翻弄されることもなく、気分を落ちつけて人生を楽しむ事が出来るのに――。
量にだけ気をつけて、自分でコントロールすれば済むことじゃないか。
僕は大丈夫なのに。だって、いつも梟がコントロールしてくれていたし、僕はちゃんとそれで我慢してやっていたもの……。
浴室のバスタブに浸かったまま、傍らの白く曇った窓ガラスを掌で擦った。ここからも、あの白樺の林が見える。瞳に映る、白樺の寒さに震えるその枝は、僕のように何かを求めて天に向かって手を伸ばしているようにも、何を考えるでもなく、ただそこにつっ立っているだけのようにも見えた。
僕は、いるはずのない大鴉の姿を目で捜した。羽ばたく翼を。その羽音を。立ち昇る湯煙の中、ジョイントのあの甘い香りを思い出しながら――。
緩やかで退屈な時間を無為にすごしていたおかげか、僕はいつもの僕を取り戻せたように思う。
年越しのパーティーでは、気を引きしめてかからねば――。パーティーといっても、鳥の巣頭やアヌビスの友人を集めた内輪の集まりだ。せいぜいボート部の連中の気を引いて、梟に連絡を取ってもらえるようにしなければ。それが無理でも、アヌビスからジョイントを分けてもらえるかも知れない。鳥の巣頭が煩くて、昨日から戻ってきているアヌビスと話をすることさえ難しいのだから。賑やかな場は苦手だけれど、引っ込んでいるわけにはいかないのだ。
「用意はできた?」
ノックと同時に入ってきた鳥の巣頭を見て、眉をひそめた。
そんなの、聞いていない! タキシードだなんて――。こいつ、僕に恥をかかせたいのか!
一気に不機嫌になった僕を見て、鳥の巣頭は言い繕うように早口で喋った。
「あ、これ、僕たちはホストだからだよ。タキシードで来るのは本当に一部だけだからさ、きみは気にしなくていいんだよ」
「嫌だ、出ない」
馬鹿だった。ちゃんと招待カードを見ておけば良かった。こんな失態をするなんて。
「マシュー、本当に、」
鳥の巣頭に背を向けて、スーツのジャケットをベッドに投げ捨てた。
「ごめんよ、マシュー……。そんなに、きみが気にするのなら、僕もスーツに着替えてくるよ」
「――馬鹿を言うなよ」
イライラと鳥の巣頭を睨みつけ、大きくため息をついた。
「――もう、いいよ。きみに恥をかかすわけにはいかないもの」
顔を顰めたまま、ジャケットを拾い上げ袖を通す。鳥の巣頭も、ほっとしたように吐息を漏らす。
「本当だよ。ドレスコードの指定はしていないんだ。皆、自由な格好で来るから、気にすることなんてないんだよ」
大広間に下りて、こいつが、今まで思っていた以上に嘘つきだということを、僕は改めて思い知らされたのだった。
僕を呼ぶのは
微かな羽音
鳥の巣頭の家に着くまでに、何度も嘔吐した。といってもほとんど食べていなかったから、出てくるのは胃液ばかりだったけれど。何度も車を停めてもらって休憩を挟んだので、到着がかなり遅れた。
挨拶もそこそこに、心配する鳥の巣頭に部屋で休むようにと言われ、客室に引っ張っられた。いつもの部屋じゃない。内装は女性向きの、花模様の壁紙の部屋だ。
鳥の巣頭が、ジョイントの嫌な思い出が沢山あるあの部屋はやめた方がいい、と親に進言したからだ。
別にそんなこと、気にしないのに。
ともあれ横たわって、ふらつく頭を休めた。
ジョイントが欲しい。安心したい。あの白い煙に包まれて、頭の中で破鐘のように響くあの人の声を止めたい。
今まであると思っていた、僕の立つこの地面を揺るがすこの不安が何なのか、解らなかった。いきなり何もない空間に放りだされたみたいに、そのあまりの不安定さに目眩を覚えた。この感じが、記憶の奥底に確かにあったような気がした。それが何で、いつの思いだったのか思いだすことはできなかったけれど。
ただ、怖かった。怖くて堪らなかった。
ぐったりとして天井を見つめた。この部屋には、もうあの蛇はいない。代わりに、花のレリーフが漆喰天井を飾っている。
「来て」
両手を伸ばし、視界の隅に捉えた鳥の巣頭を呼んだ。
「マシュー、調子が良くないんだ。休まなきゃ」
鳥の巣頭の指先が、熱を確かめるように僕の額に触れる。
「いいから」
こいつの首に腕を廻す。
「マシュー、――寒いの?」
そうじゃない。怖いんだ。
返事の代わりに、かき抱いた腕に力を込めた。
鳥の巣頭が、体重をかけないように気をつけながら、そっと僕を抱きしめる。
「温めて」
こいつの唇を喰んだ。シャツを引き出し、僕の血の気のない冷たい手を、温かなこいつの背中にぴったりと這わせた。びくりと皮膚が痙攣する。
「はやく」
僕は、今、何も考えたくないんだ。
結局クリスマスの前後三日間を、寝室で過ごした。家族の団欒を邪魔せずに済んだから、かえって良かったのかも知れない。
クリスマスの翌日には、鳥の巣頭の父親がわざわざ見舞ってくれた。
お節介夫人は、僕みたいな病人を楽しいクリスマス休暇中に抱え込まされてさぞ迷惑だろう、と思ったから、ご主人の方にたっぷりとサービスしておいたよ。
パブリックスクール出には、幾つになっても彼のような方々が多いらしい。これも紳士の嗜みってやつだ。
本当に、ここの家族には一家揃って、いろんなことを勉強させてもらったよ。
退屈な鳥の巣頭の家で、何も考えずにただぼんやりと日々を過ごした。クリスマス当日には戻っていたらしいアヌビスには、結局会えずじまいだった。
ジョイントが欲しい……。
どうして皆、僕からジョイントを取りあげようとするのか、いまだに理解できない。あれさえあれば、こんな漠然とした不安に押し潰されそうになることも、訳の解らない感情の昂ぶりに翻弄されることもなく、気分を落ちつけて人生を楽しむ事が出来るのに――。
量にだけ気をつけて、自分でコントロールすれば済むことじゃないか。
僕は大丈夫なのに。だって、いつも梟がコントロールしてくれていたし、僕はちゃんとそれで我慢してやっていたもの……。
浴室のバスタブに浸かったまま、傍らの白く曇った窓ガラスを掌で擦った。ここからも、あの白樺の林が見える。瞳に映る、白樺の寒さに震えるその枝は、僕のように何かを求めて天に向かって手を伸ばしているようにも、何を考えるでもなく、ただそこにつっ立っているだけのようにも見えた。
僕は、いるはずのない大鴉の姿を目で捜した。羽ばたく翼を。その羽音を。立ち昇る湯煙の中、ジョイントのあの甘い香りを思い出しながら――。
緩やかで退屈な時間を無為にすごしていたおかげか、僕はいつもの僕を取り戻せたように思う。
年越しのパーティーでは、気を引きしめてかからねば――。パーティーといっても、鳥の巣頭やアヌビスの友人を集めた内輪の集まりだ。せいぜいボート部の連中の気を引いて、梟に連絡を取ってもらえるようにしなければ。それが無理でも、アヌビスからジョイントを分けてもらえるかも知れない。鳥の巣頭が煩くて、昨日から戻ってきているアヌビスと話をすることさえ難しいのだから。賑やかな場は苦手だけれど、引っ込んでいるわけにはいかないのだ。
「用意はできた?」
ノックと同時に入ってきた鳥の巣頭を見て、眉をひそめた。
そんなの、聞いていない! タキシードだなんて――。こいつ、僕に恥をかかせたいのか!
一気に不機嫌になった僕を見て、鳥の巣頭は言い繕うように早口で喋った。
「あ、これ、僕たちはホストだからだよ。タキシードで来るのは本当に一部だけだからさ、きみは気にしなくていいんだよ」
「嫌だ、出ない」
馬鹿だった。ちゃんと招待カードを見ておけば良かった。こんな失態をするなんて。
「マシュー、本当に、」
鳥の巣頭に背を向けて、スーツのジャケットをベッドに投げ捨てた。
「ごめんよ、マシュー……。そんなに、きみが気にするのなら、僕もスーツに着替えてくるよ」
「――馬鹿を言うなよ」
イライラと鳥の巣頭を睨みつけ、大きくため息をついた。
「――もう、いいよ。きみに恥をかかすわけにはいかないもの」
顔を顰めたまま、ジャケットを拾い上げ袖を通す。鳥の巣頭も、ほっとしたように吐息を漏らす。
「本当だよ。ドレスコードの指定はしていないんだ。皆、自由な格好で来るから、気にすることなんてないんだよ」
大広間に下りて、こいつが、今まで思っていた以上に嘘つきだということを、僕は改めて思い知らされたのだった。
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