微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

50 噂話

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 風が囁く
 それは嘘だ、と
 偽りの疾風でかき乱す




 まるで滑るような独特の歩き方。凛とした姿勢。短い黒髪に、切れ長で鳶色の静かな目をした少年は、全てにおいて、今まで出会ったどんな子とも異なっていた。


「あの子が例の東洋人だよ」

 かなり行き過ぎてから鳥の巣頭は後ろを振り返り、面白そうに瞳を丸めてからかうような口調で告げた。
「今年度から始まった一学年に一人だけ世界各国から選ばれた、国際スカラーの新入生フレッシュだよ。奨学生の中でもトップ中のトップ、化物ばけものみたいにできる奴だよ。授業は全部上級生クラスだからね」

「化物――」

なるほど、下級生の学舎で出会わないはずだ……。

 納得しながらも、鳥の巣頭のあまりな言い草が不愉快だった。けれど、すれ違った時に垣間見た彼の年齢に見合わない大人びた表情に、どこか人を怯えさせるものを感じたのも事実だった。

 今になって噛みしめているこの違和感に、僕は言い訳を探さずにはいられない。


「でも、今まで会ったことがなかったなんてね――。僕も幾つか上級クラスの授業を取っているのに」
「本当に、きみ何も知らないんだねぇ!」

 鳥の巣頭は呆れたように腕を広げる。

「会わなくて当然。彼、授業に出ていることの方が稀だもの。先生方にしろ、彼を授業に引っ張り出すためにあの手この手で、彼にだけ特別な課題だの、レポートだのやらせたり、彼の分だけテスト問題が違うって噂もあるくらいだもの、それにね、」

 鳥の巣頭はいよいよ調子づいて話を継いだ。

「ソールスベリー先輩以来の、エリオット校きっての天才くんは、カレッジ寮始まって以来の問題児だって言われているんだ。まだ入学して数ヶ月だっていうのに、彼の素行の悪さは伝説化しているくらいなんだ」
「でも、その東洋人の奨学生って、身元引受人ガーディアンはソールスベリー先輩だって言っていなかったっけ?」

 僕は若干当惑して、鳥の巣頭に面を向けた。ソールスベリー先輩は、品行方正、貴族の規範のようにいわれていた人なのに――。

「そうだよ! でも、先輩はまだ学生だから、正式にはあの子の身元引受人は、ラザフォード侯爵家なんだ! だから学校側も特別扱いさ。下級生はさ、土日だって校区内から出ちゃいけないのに、彼は週末、ロンドンの弓道場に通っているんだ! 弓道って、解る? 日本のアーチェリーみたいなものらしいよ。だから彼、立ち居振る舞いがサムライみたいだろ?」
 そう言いながら、鳥の巣頭は弓を引く真似をしてみせる。


 そんな変なたとえを出されても、僕に想像がつくわけがないのに。ただ、彼の独特の雰囲気と動作がそのスポーツのせいらしい事は理解できた。うちの学校の課外授業の選択科目にも、東洋の合気道がある。確かに、その講師の先生と共通する何かがあるように思えた。厳しくて、静かな、神秘的な空気、ていうのかな――。東洋人を身近に見ることがないから、そう思うだけかもしれないけれど。


「あの子、平日だって夜中だって、寮を抜け出してほっつき歩いているって噂。今だってきっとサボっていたんだよ。カレッジ寮長、いつもこんな顔をして駆けずり廻っているもの!」

 鳥の巣頭は、僕を振り返って思い切り顔をしかめてみせた。



 あの時、翼を翻して飛び立った大鴉と、鳥の巣頭の話す彼が上手く噛み合わない。それ以上に、僕にはあの大鴉が本当に人間だったことが、いまだに不思議でならなかった。あれだけ懸命に探しながらも、どこか、夢の中の出来事のように思えていたから――。

 人というよりも、しなやかな獣のようで、それでいて自由な鳥のようで、あの透明な天使くん以上に、彼は翼を持つに相応しい何かだと、思っていたのだ。


 僕の瞼裏を黒い翼が過る。僕を嘲笑うかのように。




「ふーん……」

 僕は気のない返事をして、彼の話題を打ち切ろうとし、ふと、思い返して鳥の巣頭を皮肉を込めて横目で見やった。

「きみ、どうしてこんなに彼のこと詳しいの? きみがこんなゴシップ好きだなんて知らなかったよ」

 鳥の巣頭はすぐに顔を赤らめて下を向いた。
 他人の噂話を面白可笑しく語るなんて、紳士のすることじゃないからね。
 しばらくしてから、鳥の巣頭は口籠もりながら言い訳するように言葉を継いだ。


「生徒会に、カレッジ寮の友人がいるんだ。僕と同じボート部なんだよ。その彼があの新入生と仲がいいんだよ。あんな無茶苦茶な子なのに、すごく面白いんだって」

「それで寄ってたかって噂話に花を咲かせるわけだ?」

 鳥の巣頭はますます縮こまってしまった。あまり苛めすぎると、彼の情報を引きだせなくなる。僕は口調を変えてこいつの腕に手を添えた。

「ごめんね。僕はきみが羨ましいんだ。だってきみにはそんなに沢山の友人がいて、僕はそんな噂話も知らないくらい、誰ともつき合いがないんだって、思い知らされてしまって――」

 涙の一つも浮かべてみせるべきかな?


 鳥の巣頭は、はっと顔色を変えて僕の手を握りしめる。

「僕の方こそ――、きみにそんな淋しい想いをさせていたなんて! ごめんよ、マシュー。きみも僕たちのクラブにおいでよ。ボート部の連中ばかりだけれど、皆、いいやつらだよ!」

 ボート部の連中――。そいつらから梟の連絡先を聞き出せないかな……。

「嬉しいよ」

 僕がにっこり笑って見せると、こいつは口許を強張らせ、茶色の瞳をますます暗く澱ませて視線を落とした。



 そんな地面ばかり見ているから、そんな土塊みたいな瞳になったんじゃないの?

 僕はこいつの、いつまで経っても直らないウジウジした態度に苛立ちながら、口調だけは優しく訊ねた。

「どうしたの?」

「――きみは、綺麗だから心配なんだよ。また、先輩の誰かに気にいられるんじゃないかって……。叶うなら、僕はきみを閉じ込めて誰にも会わせたくない。誰の眼にも触れさせたくない。きみが僕だけのものだったらいいのに! ……でも、それじゃ、きみのためにならないってことも、解っているんだ」

 鳥の巣頭は辛そうに頭を振っている。

「だから、きみが今みたいに、他人や、ジョイント以外のことに興味を持ってくれるのが嬉しいのも、本当なんだよ」

「馬鹿だなぁ!」

 本当に、馬鹿。

「僕がきみを裏切るわけがないじゃないか」

 僕はこいつの手を握り返した。

 本当、面倒くさい奴――。

 寮の入口が見えてきたので、僕はこいつの手を振り払い、覗き込むように首を傾げた。

「僕たちに共通の友人ができるなら、一緒に過ごせる時間も増えるだろ?」





 正門をくぐり、中庭を通り抜け寮棟に入ったところで僕は立ち止まった。鳥の巣頭越しに、玄関正面にある大きな姿見に映る自分の姿に視線を移し、にっこり微笑んだ。

 艶やかな赤い唇。絹糸のような髪。あの天使くんにだって負けない、透き通るように白い肌。美しい母に似た、この整った顔立ち――。

 きみの言う通り、僕は綺麗だ。
 だから、それに見合う地位を手に入れて然るべきじゃないかい?



「僕の部屋に来る? それとも、きみの部屋へ行こうか?」


 鳥の巣頭を見あげて訊ねると、こいつは、顔を赤らめて僕の手をそっと握りしめた。






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