微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

46 大鴉

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 逢魔が時に
 大鴉が舞う
 白と黒の狭間




 捉まえた――。

 天使くんを掴んで引きずっている三人組の中に子爵さまの姿を垣間見て、僕はほくそ笑んだ。子爵さま一人じゃないのにも、かえって安堵した。
 子爵さまは、やっぱりお坊ちゃんだからね。びーびー泣かれたりしたら、とたんに萎えてしまいかねない。ここはやはり、手馴れたラグビー部の方々にご指導頂かないとね。

 黄金色に敷きつめられたニレの根元に、縛られた天使くんがつき倒される。天使くんの黄金の髪がぱらりと散らばり、地面に交じる。下卑た笑い声。聞き覚えのある罵声。


 僕の脳裏に、スノードロップの花が咲き乱れる。

 ほら、きみは僕と同じ。狩られた兎だ。

 どうしようもない歓喜が腹の底から湧きあがってくる。笑いださないように口許を片手で覆う。口を塞がれてなお叫び続ける彼のうめき声に、官能が駆け巡り、全身が総毛立った。

 地面を覆う黄金をゆるりと撒き散らす木々の陰で、僕は恍惚としてその様子に見入っていた。



 逢魔が時のあけに染まる空を、重なる梢がその枝葉の隙間かきらきらと覗かせている。その煌めきの中に僕は違和感を感じて、はっと目を凝らした。

 何かが光った? 

 明らかに、赤光を跳ね返す閃光がちらついたのだ。

 まさか――。


 息を呑んで、黄金の林の中ただ一本すっとそびえる、紅く燃え立つケヤキの大木を見あげた。足音を忍ばせ、木々の幹に身を隠しながら、少しづつその樹に近づいていく。

 間違いない。シャッター音だ……!

 計画がバレた? そもそも子爵さまは、狙われていたのかもしれない。アヌビスの時のように――。
 子爵さまは白い彼に心酔しきっていたのに、彼がライバル校に転校してしまったことで怒り心頭、憎悪すら抱いていることは、周知の事実だもの。それに、この弟くんの不甲斐なさに辟易していることも――。

 僕は必死に思考を巡らせた。
 こんなことになるなんて、思いもよらなかったのだ……。

 と、その時、



 パシッ!

「痛!」
 一人が頭を押さえて振り返る。

 パシッ、パシッ!

 続けて幾つもの礫を受け、悲鳴を上げてきょろきょろと辺りを見回している。
 急速に薄闇に沈みゆく、キンと張りつめた空気の中に、不釣り合いな罵声が上がる。
 わずかに輪郭を浮き上がらせる紺青に、それは影絵が踊っているかのように滑稽なさまだった。

「くそっ!」
 子爵さまたちは悪態をつき、顔を見合わせて早口で何事かしゃべりあっている。
 だが、後ろ手に縛りあげ、目隠しをして地面に転がしているあの子を一人がもう一度蹴りあげると、彼らは慎重に辺りを伺いながら、この場を引き上げた。


 僕は息を殺し身を潜めたまま、地面に転がされたままなす術もなく泣いている天使くんと、欅の樹とを代わる代わる見張っていた。

 ザクザクと、枯葉を踏み潰す音が徐々に遠ざかり、やがて消えていった。西の空の太陽はすでに隠れ、黄昏色に包まれた林は不気味なほど静まり返っている。




 ザザッ、と枝葉を揺らす音とともに、漆黒の大鴉が欅の樹から飛びたった。それは黒い翼を広げたまま地上にザクリと着地した。ふわりと浮きあがった黒いローブが静かに沈み、人の形となって立ちあがる。

 僕にはそれが人とは、思えなかった。

 影のような形を捉えることしかできない紺青の中、くうを切り佇む彼は、あまりに美しかった。

 僕は自分の高鳴る鼓動に驚きながら、すでに顔すら判別できない薄闇に動くその彼を、息を詰めて見つめていた。


「もう大丈夫だ」

 彼は囁くように言い、あの子の身体を起こし、縛りあげていた紐をほどき、目隠しを外してやった。
 そして、傍に落ちていた奨学生スカラーのローブで彼を包み、身体を引いて立たせてやる。

「歩ける?」

 辺りは夜の帳に包まれて足元すら覚束ない。
 だが彼はあの子の手を引いて、慣れた様子で歩きだした。

 僕は暗闇に眼を凝らし、間隔を取って後に続いた。だが、とても彼のようには歩けない。何度も危うく木の根に躓き転びそうになった。


 天使くんがいつまでもグズグズ泣いているのに、この時ばかりは感謝したよ。
 彼は、天使くんが躓いたりしないように気を使って、ゆっくりと慎重に誘導していたから。



 木々の狭間に、外灯の照らす灯りがチラチラと揺れている。彼は通りにまでは出ず、そこで立ち止まった。逆光に彼の姿が黒く浮かびあがる。

「このまま寮には戻らずに、医療棟に行くんだ。――頭を高く上げて、誇り高くあれ。お前だって、エリオット校生エリオティアンだろ」

 そっと髪を撫でられて、顔を伏せたままずっとしゃくりあげていた天使くんは、やっと顔をあげた。

 彼は、その時にはすでに闇に紛れて去っていた。あっと言う間のことだった。

 呆然と立ち尽くしている天使くんと同じように、僕も刹那の夢を見ていた気分だった。




 しばらく辺りを心許なげに見廻していた天使くんは、諦めたようにゆっくりと歩きだした。片足を庇うような変な歩き方だ。




「きみ、どうしたの、足を捻ったの? 大丈夫?」

 天使くんの背中がびくりと跳ねた。

「医療棟はすぐそこだし、僕に掴まるといいよ」
 怯えた瞳で僕を見あげた天使くんは、おずおずと頭を横に振る。
「ありがとうございます。でも――」

 そうだね。きみは人に触れるのも、触れられるのも苦手だものね。知っているよ。だって、僕はずっときみを見ていたから。

 僕は薄らと笑みを浮かべた。可愛い天使くんに。

「医療棟まで送ってあげるよ。人通りも少なくなって危険だからね」
 僕が彼の無礼を怒らずやり過ごしてやったせいか、彼はほっとしたように吐息を漏らした。

「あの、この通りで誰か見かけませんでしたか? 僕のようなローブを着た、背の高い――」
「さぁ、友達?」
 天使くんは、あの白い彼と同じセレストブルーの瞳を憂い色に染め、残念そうに首を横に振る。
「誰だか知りたくて……。お礼を言いそびれてしまったから」


 友達でも、知り合いでもない……。

 僕は予想外の返答に戸惑い、微かに眉を潜めた。

 誰だか、つきとめなければ……。
 あの大鴉、必ず子爵さまを強請ゆすりに来るはずだ――。



 年代ものの煉瓦造りの医療棟の中まで、この子を送ってあげた。
 そしてその足で、僕は迷わず子爵さまの寮へ向かったのだ。





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