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三章
44 十一月 透明な僕ら
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覗き込む深淵に
映り込む
現し身の僕
頬に当たる冷たい木枯らしを心地よく感じるなんて、今までになかったことだ。僕はずっと機嫌がいい。なぜかって? あの天使くんのおかげだよ。
ほら、また足を掛けられた。選ばれた奨学生の象徴の、黒いローブがふわりと舞いあがる。
なまじお利口なばかりに、歴史とラテン語、他にも幾つかの教科で彼は上のクラスにいる。大人しく下級クラスにいればこうもいたぶられることもないだろうに。
あの様子じゃ、その内やられるね、僕のときと同じように。カレッジ寮の寮長はあの子を守ってやるつもりはないのかな? 皆、ああやってカレッジ寮の出方を伺っているっていうのに。冷たいんだね。お利口さん集団ってのは。
蛇が僕を守ってくれたように、早く対処してあげなきゃ、彼、ぼろぼろにされちゃうよ。
頭上を掠める嘲笑に歯を食いしばり立ちあがる天使くん。大事な黒いローブが砂埃で白く汚れている。丁寧に叩いて払い落としている。片腕で顔をごしごし擦っているのは、埃が目に入ったからだけじゃないだろう?
もうこの学校の伝説にまでなっている白い彼のように、自力でかまってくる相手を叩きのめして、自分の信奉者で脇を固められるだけの力がないのなら、校内で力を貸してくれる誰かに頼るしかないのに。あの子はそれすらしようとしない。米国からの留学生じゃ、そんなことも解らないのかな。
白い彼の家庭環境はなかなかに複雑で、由緒正しい英国貴族の家柄だけど、母親は米国の財閥の一人娘なのだそうだ。両親はずっと別居中。この弟くんの方はずっと米国で育っていて、あまり兄弟仲も良くないらしい。そのせいかな、面立ちは同じなのに似ていると思えないのは。
人種差別主義者で有名な米国の彼の祖父を倣ってか、校内では天使くんも差別主義者と呼ばれている。話しかけてもろくろく返事もしない。お高くとまって、取り澄ましている。肩でも叩こうものなら、露骨に嫌な顔をされるから。
みんな、馬鹿だなぁ――、あれはね、怖いんだよ、周りの全てが。
僕にはきみが理解できるよ、天使くん。だって僕もきみと同じ、ずっと白い彼の影だったもの。
皆、僕たちを見ないものね。透明な僕たちを見透かして。僕たちはどうすればいいのか判らなくなる。
何を言ったって、それは白い彼の言葉にはならないのに。僕たちの中に白い彼はいないのに。
似ていなくて当然じゃないか。別の人間なのだから。
それなのに、理不尽な怒りをぶつけられる。きみのセレストブルーの瞳が恐怖で揺らぐのを見る度に、僕の中で暗い喜びが湧きあがる。
僕の一番近くにいるきみ。もっと僕に近づいて。
今の僕の所有者は、鳥の巣頭。
こいつが副寮長になって睨みを利かせているから、僕にちょっかいを掛けてくる奴はいない。父親が理事っていうのも大きいよね。アヌビスに対抗した蛇みたいに、鳥の巣頭と張り合おうなんて奴はいない。だから今の僕は至って平和。選ぶのは僕。ラテン語や、国語も学年が変わってしまってからは、僕にかまってくることもなくなった。鳥の巣頭の目を盗むのが難しいんだ。
それにしても意外だったよ。
鳥の巣頭は、親の威光に、ボート部の繋がり、今は生徒会の権限まで、使えるものは何でも使う。そうやって僕の行動を監視して縛るんだ。僕は息が詰まりそうだ。
でも、子爵さまは別。
鳥の巣頭だって子爵さまには逆らえない。
子爵さまは鳥の巣頭と張り合おうなんて、毛頭思いもしないけれどね。
十一月のある日のこと。
その日は朝から騒がしかった。食堂の蜂の巣を啄いたような様子に辟易して、僕は入室するのを止め踵を返した。そんな僕を見咎めた鳥の巣頭が追いかけてきた。
「何かあったの? 騒がしすぎて落ちつかないから、朝食はいらないよ」
「きみ、知らないの? 部屋で待っていて。朝食を持っていってあげるから」
逆に驚いた鳥の巣頭は、急いで食堂へ取って返した。
「銃乱射事件?」
鳥の巣頭から聞いた話には、さすがに僕も唖然とさせられたよ。
あの百足男が、学生起業家としてスタートを切ったばかりの白い彼の初の公式記者会見で、かの白い彼に向けてピストルを乱射したというのだ。その模様が中継中だったインターネットを通じて全国に放映された。鳥の巣頭もリアルタイムで見ていたのだという。
銃声が響き、会場にいた記者連中が逃げ惑う中、白い彼は欠片も動ぜず自分に向けられた銃に向かって進み、取り押さえようとした警備を制して百足男を言葉で説得したのだそうだ。
「こう、銃を持つマーレイの両手を握りしめてさ、耳許で何か囁いたんだ。そうしたら、マーレイの奴はがっくり膝から崩れ落ちちゃってさ、」
鳥の巣頭は興奮した面持ちで声を上ずらせ、その様子を僕の手を握って実演してみせる。
「その時の言葉が、『マーレイ、顔を上げろ。きみはエリオット校生だろ。敵の前で膝を折るな』、なんだよ! もう、格好いい、ったらないよ! 今朝はその話題で持ちきりさ」
「けど、なんでまたそんな事に――」
僕は納得がいかないまま呟いた。
確かに、あの百足男は白い彼にご執心だったと聞いていたけれど、そんな大勢の前で殺そうとするなんて――。
「マーレイの顔の傷は、ソールスベリー先輩のせいなんだって聞いているよ。それに、片手の指が何本か動かないのも。エリオット時代の乗馬中の諍いが原因で、マーレイは相当な大怪我を負ったことがあるんだ。身体にもかなり惨い傷痕が残っているって。きみも気をつけて。落馬が大怪我に繋がることもあるんだからね」
鳥の巣頭に頷きながら、決してシャツを脱がなかった百足男を思い返した。
「それにね、」
鳥の巣頭は声を低めて顔を寄せた。
まだ何かあるのか……。
これまでの話だけでも十分に衝撃的だったのに、と僕は気分を落ちつけようと、トレイごとベッドに置いていたトーストを一口齧って、微温い紅茶を口に運ぶ。
「銀行筋の話じゃね、彼の実家のマーレイ銀行を破綻に追い込んだのは、ソールスベリー先輩と親友のラザフォード家だっていうんだよ」
僕は深く吐息を漏らしていた。
これが、子爵さまの心を占めて放さない先輩!
あの蛇や梟ですら、羨望の瞳で彼の姿を追いかけていた――。
天使くんとは、違い過ぎる……。
「食堂じゃ、あの時、彼はマーレイに何て囁いたか――、で持ち切りなんだ。僕は知っているんだよ。ボランティア活動で読唇術を習ったからね。きみにだけ教えてあげる。びっくりだよ。やっぱり彼はすごい人だよ。ずっと敵対していた相手にこんなこと言える人、他に知らない。僕は本当に感動したんだ……」
鳥の巣頭は、紅潮した頬に見開いた瞳を輝かせて、僕をぎゅっと抱きよせた。
映り込む
現し身の僕
頬に当たる冷たい木枯らしを心地よく感じるなんて、今までになかったことだ。僕はずっと機嫌がいい。なぜかって? あの天使くんのおかげだよ。
ほら、また足を掛けられた。選ばれた奨学生の象徴の、黒いローブがふわりと舞いあがる。
なまじお利口なばかりに、歴史とラテン語、他にも幾つかの教科で彼は上のクラスにいる。大人しく下級クラスにいればこうもいたぶられることもないだろうに。
あの様子じゃ、その内やられるね、僕のときと同じように。カレッジ寮の寮長はあの子を守ってやるつもりはないのかな? 皆、ああやってカレッジ寮の出方を伺っているっていうのに。冷たいんだね。お利口さん集団ってのは。
蛇が僕を守ってくれたように、早く対処してあげなきゃ、彼、ぼろぼろにされちゃうよ。
頭上を掠める嘲笑に歯を食いしばり立ちあがる天使くん。大事な黒いローブが砂埃で白く汚れている。丁寧に叩いて払い落としている。片腕で顔をごしごし擦っているのは、埃が目に入ったからだけじゃないだろう?
もうこの学校の伝説にまでなっている白い彼のように、自力でかまってくる相手を叩きのめして、自分の信奉者で脇を固められるだけの力がないのなら、校内で力を貸してくれる誰かに頼るしかないのに。あの子はそれすらしようとしない。米国からの留学生じゃ、そんなことも解らないのかな。
白い彼の家庭環境はなかなかに複雑で、由緒正しい英国貴族の家柄だけど、母親は米国の財閥の一人娘なのだそうだ。両親はずっと別居中。この弟くんの方はずっと米国で育っていて、あまり兄弟仲も良くないらしい。そのせいかな、面立ちは同じなのに似ていると思えないのは。
人種差別主義者で有名な米国の彼の祖父を倣ってか、校内では天使くんも差別主義者と呼ばれている。話しかけてもろくろく返事もしない。お高くとまって、取り澄ましている。肩でも叩こうものなら、露骨に嫌な顔をされるから。
みんな、馬鹿だなぁ――、あれはね、怖いんだよ、周りの全てが。
僕にはきみが理解できるよ、天使くん。だって僕もきみと同じ、ずっと白い彼の影だったもの。
皆、僕たちを見ないものね。透明な僕たちを見透かして。僕たちはどうすればいいのか判らなくなる。
何を言ったって、それは白い彼の言葉にはならないのに。僕たちの中に白い彼はいないのに。
似ていなくて当然じゃないか。別の人間なのだから。
それなのに、理不尽な怒りをぶつけられる。きみのセレストブルーの瞳が恐怖で揺らぐのを見る度に、僕の中で暗い喜びが湧きあがる。
僕の一番近くにいるきみ。もっと僕に近づいて。
今の僕の所有者は、鳥の巣頭。
こいつが副寮長になって睨みを利かせているから、僕にちょっかいを掛けてくる奴はいない。父親が理事っていうのも大きいよね。アヌビスに対抗した蛇みたいに、鳥の巣頭と張り合おうなんて奴はいない。だから今の僕は至って平和。選ぶのは僕。ラテン語や、国語も学年が変わってしまってからは、僕にかまってくることもなくなった。鳥の巣頭の目を盗むのが難しいんだ。
それにしても意外だったよ。
鳥の巣頭は、親の威光に、ボート部の繋がり、今は生徒会の権限まで、使えるものは何でも使う。そうやって僕の行動を監視して縛るんだ。僕は息が詰まりそうだ。
でも、子爵さまは別。
鳥の巣頭だって子爵さまには逆らえない。
子爵さまは鳥の巣頭と張り合おうなんて、毛頭思いもしないけれどね。
十一月のある日のこと。
その日は朝から騒がしかった。食堂の蜂の巣を啄いたような様子に辟易して、僕は入室するのを止め踵を返した。そんな僕を見咎めた鳥の巣頭が追いかけてきた。
「何かあったの? 騒がしすぎて落ちつかないから、朝食はいらないよ」
「きみ、知らないの? 部屋で待っていて。朝食を持っていってあげるから」
逆に驚いた鳥の巣頭は、急いで食堂へ取って返した。
「銃乱射事件?」
鳥の巣頭から聞いた話には、さすがに僕も唖然とさせられたよ。
あの百足男が、学生起業家としてスタートを切ったばかりの白い彼の初の公式記者会見で、かの白い彼に向けてピストルを乱射したというのだ。その模様が中継中だったインターネットを通じて全国に放映された。鳥の巣頭もリアルタイムで見ていたのだという。
銃声が響き、会場にいた記者連中が逃げ惑う中、白い彼は欠片も動ぜず自分に向けられた銃に向かって進み、取り押さえようとした警備を制して百足男を言葉で説得したのだそうだ。
「こう、銃を持つマーレイの両手を握りしめてさ、耳許で何か囁いたんだ。そうしたら、マーレイの奴はがっくり膝から崩れ落ちちゃってさ、」
鳥の巣頭は興奮した面持ちで声を上ずらせ、その様子を僕の手を握って実演してみせる。
「その時の言葉が、『マーレイ、顔を上げろ。きみはエリオット校生だろ。敵の前で膝を折るな』、なんだよ! もう、格好いい、ったらないよ! 今朝はその話題で持ちきりさ」
「けど、なんでまたそんな事に――」
僕は納得がいかないまま呟いた。
確かに、あの百足男は白い彼にご執心だったと聞いていたけれど、そんな大勢の前で殺そうとするなんて――。
「マーレイの顔の傷は、ソールスベリー先輩のせいなんだって聞いているよ。それに、片手の指が何本か動かないのも。エリオット時代の乗馬中の諍いが原因で、マーレイは相当な大怪我を負ったことがあるんだ。身体にもかなり惨い傷痕が残っているって。きみも気をつけて。落馬が大怪我に繋がることもあるんだからね」
鳥の巣頭に頷きながら、決してシャツを脱がなかった百足男を思い返した。
「それにね、」
鳥の巣頭は声を低めて顔を寄せた。
まだ何かあるのか……。
これまでの話だけでも十分に衝撃的だったのに、と僕は気分を落ちつけようと、トレイごとベッドに置いていたトーストを一口齧って、微温い紅茶を口に運ぶ。
「銀行筋の話じゃね、彼の実家のマーレイ銀行を破綻に追い込んだのは、ソールスベリー先輩と親友のラザフォード家だっていうんだよ」
僕は深く吐息を漏らしていた。
これが、子爵さまの心を占めて放さない先輩!
あの蛇や梟ですら、羨望の瞳で彼の姿を追いかけていた――。
天使くんとは、違い過ぎる……。
「食堂じゃ、あの時、彼はマーレイに何て囁いたか――、で持ち切りなんだ。僕は知っているんだよ。ボランティア活動で読唇術を習ったからね。きみにだけ教えてあげる。びっくりだよ。やっぱり彼はすごい人だよ。ずっと敵対していた相手にこんなこと言える人、他に知らない。僕は本当に感動したんだ……」
鳥の巣頭は、紅潮した頬に見開いた瞳を輝かせて、僕をぎゅっと抱きよせた。
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