微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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三章

40 九月 居場所

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 僕はここへ帰ってきた
 僕の居場所
 僕のすべて




 三学年から部屋は個室になる。最上階から年毎に下がる三階の部屋からは、赤煉瓦の塀を挟み深い緑に染まる木立とテムズ川が迫る景色が見渡せた。蛇行する大蛇の鱗が、樹々のまにまにきらきらと光る。

 僕はこの窓からの景色が好きだ。一学年の時よりずっと地上に近づいてしまってはいるけれど。

 ルームメイトだったラテン語や国語、それに元同学年の奴らも、僕が戻ってきたことをとても喜んでくれていた。そりゃそうだよな、半分くらいとやっているもの。
 入学したては皆可愛い子羊だったのに、今じゃすっかり飢えた狼って面構えだ。こんな顔をした連中を見ていると、ここの教育、どこか間違っているんじゃないの? て思わないではいられないね。


 でもこいつらは上級生の棟になるから普段はほとんど会うこともない。食事の時と集会くらいだ。
 鳥の巣頭が先輩風を吹かせて僕の邪魔をしないうちに、早く情報収集しなくちゃ。僕にはやらなきゃいけない事がたくさんある。一年間のブランクをうめて、試験で良い成績を取って、その上、生徒会の推薦まで貰わなきゃならないのだから。

 早く子爵さまのことが知りたい。僕にまだつけ入る隙があるのかどうか……。



 でも思惑とは裏腹に、ほどなく入ってきた事実は僕を驚かすに充分だった。

 あの白い彼――、ソールスベリー先輩が最終学年を前にして、取り巻き連中を引き連れてこの学校を辞め、ライバル校のウイスタンに転校したのだそうだ。
 その取り巻きの一人が、その年度のキャプテンになるはずだった人で、去年一年間ラグビー部はガタガタだったらしい。四学年の子爵さまが必死で盛り立てて立て直したって話だ。

 そもそも白い彼が学校を辞めた理由ってのがよく解らなくて、人種差別にご立腹されたとか、生徒会の連中とやりあったとか、いろんな噂が飛び交っていた。もう、一年が経つっていうのに――。

 いまだに白い彼の人気が根強いのには理由があって、今年の新入生に彼そっくりの弟が入学してきたからだ。白い彼と同じ、奨学生として。
 おまけに白い彼は、今年度の奨学生の中でも特別枠で入った新入生、転校先で新たにできた友人の弟の身元引受人ガーディアンになっているらしい。世界各国から選ばれたとびきり優秀な、この学校では過去数人しか入学を許されたことのない東洋人なのだそうだ。


 白い彼の弟の話を聞いた時には、さすがに僕も絶望したよ。血の繋がった弟が相手じゃ、ちょっと似ているくらいの僕じゃ太刀打ちできないじゃないか……。

 生徒会入りは別の手を考えないと――。



 僕はまた、馬術部へ戻った。もう子爵さまに会うことはないって、解っていたけれど。上級生組と下級生組じゃ時間割が違うからね。部活動は生徒会入りの必須条件だから仕方がないよ。

 その代わり、噂の弟に遇った。そいつも馬術部にいたんだ。

 噂通りの綺麗な子だった。
 天使みたいだ。ずいぶん神経質で臆病そうな天使だったけどね。なんだかいじめたくなるような、すごく嗜虐心を煽る子だ。造りは似ているけれど、あの白い彼とは似ても似つかない雰囲気に、僕は理由もなく安堵した。

 何故だろうね――。
 あの白い彼は苦手だ。近くで見たのはたった一度きりなのに、脳裏に焼きついている。本物の白い彼――。
 僕はきっと、彼が怖いのだ。




「どうして何の連絡もくれなかったの?」

 呼びかけられたわけでもなく、いきなり背後からそんな問いかけをされ、心臓が縮みあがっていた。
 動悸が邪魔して言葉が出ない。
 怖いのと、情けないのと、たぶん、嬉しいのもごちゃまぜになって、脚が震え、振り返る事すらできなかった。

「こっちを向いて」

 掴まれた肩がびくりと跳ねた。
 乱暴に振り向かせた僕を見て、子爵さまは、驚いて眼を瞠っていた。
 だって、僕はもうぽろぽろと零れ落ちてくる涙をどうやったって留めることができなかったんだ。水滴に滲む子爵さまは以前と同じように、否、それ以上に輝いて見えた。

「僕に逢いたかった?」

 子爵さまは、僕のことをどう聞いているのだろう? 寮の皆と同じように、病気療養? それとも、梟からもっと詳しく聞いているのかな? 

「今夜行くから、待っていて」

 耳許で囁いて、子爵さまはすぐに行ってしまった。子爵さまの周りには、いつだって取り巻き連中がいる。立ち話すらそうそうできない。それは今も変わらない。

 相変わらず、強引で自分勝手な子爵さまに、僕は泣きながら笑ってしまったよ。こっちの都合なんて訊ねもしない――。



 鳥の巣頭は何て言うだろう……。

 いい顔をしないに決まっている。あの嫉妬深さだけはどうにかして欲しいよ。すぐおが屑に火がつくんだ。何か理由を考えなくちゃ。


 馬場の柵に持たれて涙を拭っていた僕に、よく知らない誰かが声をかけてきた。大丈夫か、って。僕は物憂げに吐息を吐いて、「休学していた間にいろいろあったんだな、って思うと不安になってしまって。ありがとう、心配してくれて」て、気丈に微笑んでみせたよ。こういうお節介な奴は、何かと役に立つからね。

 


 懐かしい地下シェルター。懐かしい金色の輝き。微かにジョイントの甘い香りが揺蕩う部屋。僕の聖域。
 やはりここが一番落ち着く。

 僕はやっとジョイントを燻らせることができた。
 懐かしい白い煙が僕を包む。優しく。甘く。

 僕にはやる事がたくさんあるから、当分はこの薄いジョイントで我慢するよ。

 子爵さまは、それどころじゃないみたいだけれど。
 ラグビー部って、どうしてこう性急なのだろうね?
 こんなところまでアヌビスにそっくり。

「危ない。灰が落ちますよ」

 僕はジョイントが子爵さまに当たらないように身をよじった。

 後、ちょっと待ってよ――。



「きみが戻ってくれて良かった」

 手だけは忙しく動かしながら、子爵さまが囁いた。

「彼みたいに、僕を裏切って見捨てたのだと思っていた」

 彼? 白い彼?


 僕が連絡できなかった理由に、子爵さまはすんなり納得してくれた。
 僕がどんな病院にいたかはとても言えなかったけれど、オックスフォードの事件の事は子爵さまもご存知だったから。僕はたまたま居合わせていただけだけど、子爵さまにまで類が及ぶといけないから、って、そんな有り得ない言い訳で納得する辺り、ジョイントがヤバイって自覚はあるのかと、ちょっと安心したよ。


 ともあれ、子爵さまが以前とお変わりなくて良かったよ――。






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