微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
38 / 200
二章

37 サナトリウム1

しおりを挟む
 人間扱いされないって
 僕は人間じゃないってこと?
 それとも、人間なのは僕だけってこと?



 鳥の巣頭の親の紹介だというサナトリウムは、爽やかな風のそよぐ風光明媚な高台にあった。ロンドンから車で何時間も走った人里離れた僻地にもかかわらず、明らかに人工的に整備された景観が広がっていた。なだらかな丘陵に広がる芝地、輝く湖面。緩やかな川の流れに沿った整った林――。それらを見下ろす、赤煉瓦造りの瀟洒な建物。
 その田舎のマナーハウスでも訪ねてきたような空気に、母は車中での緊張を幾らか解きほぐしたようだった。


 柔らかなクリーム色で統一された応接間のような瀟洒しょうしゃな院長室も病院とは思えない雰囲気で、父母はゴブラン織りの花模様のソファーの上で、すっかり寛いで院長先生と談笑している。
 ここに僕はまず三ヶ月ほど入院して、治療の経過具合で延長されるかどうかが決まる、との話だ。その間、両親とも月に一度はここに通って、患者の家族の心得ってやつを学ぶのだそうだ。

 友人同士のような軽い調子で話が進み、僕は白衣の医者に連れられて、父母と別れた。僕を見送る母は涙ぐんでいた。

 普通の病院と変わらない白い診察室で、いろいろ検査された。尿検査や、採血や――。




 その後案内された、これからの日々を過ごす場所になる、あてがわれた部屋に入った時、僕は完全に騙されたと思ったね。


 窓のない白色の箱。箱の中にはベッドが一つ。衝立があって、その後ろにトイレ。それだけ。紙はなかった。必要な時に壁に貼り付いているナースコールを押して言えばくれるらしい。用を足した後に手を拭くためのウエットティッシュと一緒に。壁には緩衝材が入っているのか、押すと弾力があった。


 なぜ僕がこんなところへ入れられるのか、わけが判らない。
 鳥の巣頭はいったい、父親にどんな説明をしたんだ? 僕は、医者にはただ眠れないって言っただけなのに。叫んだり、暴れたりした事なんてないじゃないか。


 夜にちゃんと眠れるようになったら、この部屋から普通の病室に移れるから、と言われた。規則正しい生活をしていれば眠れるようになるから、と。

 こんな夜も昼もない部屋で一日中過ごすのに?

 夕食は寮の食事と似たような感じ。缶詰をそのまま温めているんじゃないかな。そっくりだったもの。
 床頭台に載せられて運ばれて、時間になったら取りにくる。これを全部食べられるようにならなきゃ、僕はここから出られない。なんて地獄だ――。

 トイレの横にもう一つドアがあって、夜十時十分前になったら、オートロックのそのドアが開く。小さな洗面台があって歯磨きと洗面ができる。磨き終わったら、用具はドアについている小さな差し入れ口から返さなければいけない。まるで囚人だ。僕は、囚人にはまだなったことはないけれど、たぶん似たような感じじゃないかな。警察には捕まらなかったけれど、結局行き着いた先は同じだった、ってことさ。


 十時に消灯も寮と同じ。

 常夜灯の微かに照らす仄暗い灰色の闇の中、仕方なく堅いベッドに横になってぼんやりと天井を見ていた。天井に小さな赤いランプが光る。僕を見張るモニターカメラだ。そのランプに視点を合わせた。地下室の蝋燭のように、それはゆらゆらと揺らいで見えた。それとも、揺れているのは僕?


 長時間の車での移動で身体は気怠く疲れていた。

 オックスフォードから自宅に戻っていた数日間は、ほとんど寝ていない。神経はぴりぴりと張り詰めていたし、目を瞑るのが怖いのは相変わらずだ。
 それでも、ふわりと眠気が襲う。白い手と共に。奴は僕が眠りに落ちるのを待っているんだ。ほら、もう足首を指先が舐めるように這いだして……。


 僕はいつものように、鳥の巣頭を呼んだ。何度も。何度も。

 なんであいつは僕の傍にいないんだ! 鳥の巣頭のくせに! 鳥の巣頭のくせに!

 一晩中、泣いて、泣いて、やっと眠れた。どれくらい時間が経っていたのかまるで判らない。でも、寝たと思ったら起こされた。白い手にじゃない。朝食の時間にだ。勝手に明かりがついて、ノックと同時にカラカラと床頭台が入ってくる。むわりとムカつく臭いと一緒に。

「おはよう。調子はどう? 朝ご飯の時間だよ。規則正しいリズムを作るためにも、決まった時間に起きるんだよ」

「――無理。起きられない」

 ずっしりと重い頭を持ちあげることすらできない。ベッドがきしりと軋み、低いけれど明るい弾んだ声が降ってくる。これ、本当に英語なのだろうか? 鳥の言葉みたいだ。ピーチク頭の上で囀っている。

 煩い。

 僕は縮こまっていた身体を伸ばし、寝返りを打ってこの声の主を見あげた。まだ若い男。そういえば、ここの廊下で出会う青い服の看護師は皆、若かった。若くないとこんな仕事、やっていられないのかな。

 睫毛を数回暫かせて目を開けた僕を見おろして、青い服の男は驚いたように目を瞠った。

 何を見ているんだ、こいつは?

 僕は、視線を落とし、昨日の検査服のままの自分の姿に気がついて納得がいった。前合わせの検査服の肩紐が解けて、肩から胸にかけてはだけている。それにズボンもない剥き出しの脚。

 赤い痕や痣の残る僕の身体を、舐めるように滑る視線。

「おはよう。紅茶はある?」

 慌てて立ちあがり、上擦った声で肯定するこの青服の後ろの床頭台を見て、僕は心底がっかりした。


 だって、マグカップの中に、ティーバッグがそのまま突っ込んであったんだよ!




しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

ヤンデレだらけの短編集

BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。 全8話。1日1話更新(20時)。 □ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡 □ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生 □アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫 □ラベンダー:希死念慮不良とおバカ □デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。 かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

あの頃の僕らは、

のあ
BL
親友から逃げるように上京した健人は、幼馴染と親友が結婚したことを知り、大学時代の歪な関係に向き合う決意をするー。

好きなあいつの嫉妬がすごい

カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。 ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。 教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。 「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」 ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」

処理中です...