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二章
37 サナトリウム1
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人間扱いされないって
僕は人間じゃないってこと?
それとも、人間なのは僕だけってこと?
鳥の巣頭の親の紹介だというサナトリウムは、爽やかな風のそよぐ風光明媚な高台にあった。ロンドンから車で何時間も走った人里離れた僻地にもかかわらず、明らかに人工的に整備された景観が広がっていた。なだらかな丘陵に広がる芝地、輝く湖面。緩やかな川の流れに沿った整った林――。それらを見下ろす、赤煉瓦造りの瀟洒な建物。
その田舎のマナーハウスでも訪ねてきたような空気に、母は車中での緊張を幾らか解きほぐしたようだった。
柔らかなクリーム色で統一された応接間のような瀟洒な院長室も病院とは思えない雰囲気で、父母はゴブラン織りの花模様のソファーの上で、すっかり寛いで院長先生と談笑している。
ここに僕はまず三ヶ月ほど入院して、治療の経過具合で延長されるかどうかが決まる、との話だ。その間、両親とも月に一度はここに通って、患者の家族の心得ってやつを学ぶのだそうだ。
友人同士のような軽い調子で話が進み、僕は白衣の医者に連れられて、父母と別れた。僕を見送る母は涙ぐんでいた。
普通の病院と変わらない白い診察室で、いろいろ検査された。尿検査や、採血や――。
その後案内された、これからの日々を過ごす場所になる、あてがわれた部屋に入った時、僕は完全に騙されたと思ったね。
窓のない白色の箱。箱の中にはベッドが一つ。衝立があって、その後ろにトイレ。それだけ。紙はなかった。必要な時に壁に貼り付いているナースコールを押して言えばくれるらしい。用を足した後に手を拭くためのウエットティッシュと一緒に。壁には緩衝材が入っているのか、押すと弾力があった。
なぜ僕がこんなところへ入れられるのか、わけが判らない。
鳥の巣頭はいったい、父親にどんな説明をしたんだ? 僕は、医者にはただ眠れないって言っただけなのに。叫んだり、暴れたりした事なんてないじゃないか。
夜にちゃんと眠れるようになったら、この部屋から普通の病室に移れるから、と言われた。規則正しい生活をしていれば眠れるようになるから、と。
こんな夜も昼もない部屋で一日中過ごすのに?
夕食は寮の食事と似たような感じ。缶詰をそのまま温めているんじゃないかな。そっくりだったもの。
床頭台に載せられて運ばれて、時間になったら取りにくる。これを全部食べられるようにならなきゃ、僕はここから出られない。なんて地獄だ――。
トイレの横にもう一つドアがあって、夜十時十分前になったら、オートロックのそのドアが開く。小さな洗面台があって歯磨きと洗面ができる。磨き終わったら、用具はドアについている小さな差し入れ口から返さなければいけない。まるで囚人だ。僕は、囚人にはまだなったことはないけれど、たぶん似たような感じじゃないかな。警察には捕まらなかったけれど、結局行き着いた先は同じだった、ってことさ。
十時に消灯も寮と同じ。
常夜灯の微かに照らす仄暗い灰色の闇の中、仕方なく堅いベッドに横になってぼんやりと天井を見ていた。天井に小さな赤いランプが光る。僕を見張るモニターカメラだ。そのランプに視点を合わせた。地下室の蝋燭のように、それはゆらゆらと揺らいで見えた。それとも、揺れているのは僕?
長時間の車での移動で身体は気怠く疲れていた。
オックスフォードから自宅に戻っていた数日間は、ほとんど寝ていない。神経はぴりぴりと張り詰めていたし、目を瞑るのが怖いのは相変わらずだ。
それでも、ふわりと眠気が襲う。白い手と共に。奴は僕が眠りに落ちるのを待っているんだ。ほら、もう足首を指先が舐めるように這いだして……。
僕はいつものように、鳥の巣頭を呼んだ。何度も。何度も。
なんであいつは僕の傍にいないんだ! 鳥の巣頭のくせに! 鳥の巣頭のくせに!
一晩中、泣いて、泣いて、やっと眠れた。どれくらい時間が経っていたのかまるで判らない。でも、寝たと思ったら起こされた。白い手にじゃない。朝食の時間にだ。勝手に明かりがついて、ノックと同時にカラカラと床頭台が入ってくる。むわりとムカつく臭いと一緒に。
「おはよう。調子はどう? 朝ご飯の時間だよ。規則正しいリズムを作るためにも、決まった時間に起きるんだよ」
「――無理。起きられない」
ずっしりと重い頭を持ちあげることすらできない。ベッドがきしりと軋み、低いけれど明るい弾んだ声が降ってくる。これ、本当に英語なのだろうか? 鳥の言葉みたいだ。ピーチク頭の上で囀っている。
煩い。
僕は縮こまっていた身体を伸ばし、寝返りを打ってこの声の主を見あげた。まだ若い男。そういえば、ここの廊下で出会う青い服の看護師は皆、若かった。若くないとこんな仕事、やっていられないのかな。
睫毛を数回暫かせて目を開けた僕を見おろして、青い服の男は驚いたように目を瞠った。
何を見ているんだ、こいつは?
僕は、視線を落とし、昨日の検査服のままの自分の姿に気がついて納得がいった。前合わせの検査服の肩紐が解けて、肩から胸にかけてはだけている。それにズボンもない剥き出しの脚。
赤い痕や痣の残る僕の身体を、舐めるように滑る視線。
「おはよう。紅茶はある?」
慌てて立ちあがり、上擦った声で肯定するこの青服の後ろの床頭台を見て、僕は心底がっかりした。
だって、マグカップの中に、ティーバッグがそのまま突っ込んであったんだよ!
僕は人間じゃないってこと?
それとも、人間なのは僕だけってこと?
鳥の巣頭の親の紹介だというサナトリウムは、爽やかな風のそよぐ風光明媚な高台にあった。ロンドンから車で何時間も走った人里離れた僻地にもかかわらず、明らかに人工的に整備された景観が広がっていた。なだらかな丘陵に広がる芝地、輝く湖面。緩やかな川の流れに沿った整った林――。それらを見下ろす、赤煉瓦造りの瀟洒な建物。
その田舎のマナーハウスでも訪ねてきたような空気に、母は車中での緊張を幾らか解きほぐしたようだった。
柔らかなクリーム色で統一された応接間のような瀟洒な院長室も病院とは思えない雰囲気で、父母はゴブラン織りの花模様のソファーの上で、すっかり寛いで院長先生と談笑している。
ここに僕はまず三ヶ月ほど入院して、治療の経過具合で延長されるかどうかが決まる、との話だ。その間、両親とも月に一度はここに通って、患者の家族の心得ってやつを学ぶのだそうだ。
友人同士のような軽い調子で話が進み、僕は白衣の医者に連れられて、父母と別れた。僕を見送る母は涙ぐんでいた。
普通の病院と変わらない白い診察室で、いろいろ検査された。尿検査や、採血や――。
その後案内された、これからの日々を過ごす場所になる、あてがわれた部屋に入った時、僕は完全に騙されたと思ったね。
窓のない白色の箱。箱の中にはベッドが一つ。衝立があって、その後ろにトイレ。それだけ。紙はなかった。必要な時に壁に貼り付いているナースコールを押して言えばくれるらしい。用を足した後に手を拭くためのウエットティッシュと一緒に。壁には緩衝材が入っているのか、押すと弾力があった。
なぜ僕がこんなところへ入れられるのか、わけが判らない。
鳥の巣頭はいったい、父親にどんな説明をしたんだ? 僕は、医者にはただ眠れないって言っただけなのに。叫んだり、暴れたりした事なんてないじゃないか。
夜にちゃんと眠れるようになったら、この部屋から普通の病室に移れるから、と言われた。規則正しい生活をしていれば眠れるようになるから、と。
こんな夜も昼もない部屋で一日中過ごすのに?
夕食は寮の食事と似たような感じ。缶詰をそのまま温めているんじゃないかな。そっくりだったもの。
床頭台に載せられて運ばれて、時間になったら取りにくる。これを全部食べられるようにならなきゃ、僕はここから出られない。なんて地獄だ――。
トイレの横にもう一つドアがあって、夜十時十分前になったら、オートロックのそのドアが開く。小さな洗面台があって歯磨きと洗面ができる。磨き終わったら、用具はドアについている小さな差し入れ口から返さなければいけない。まるで囚人だ。僕は、囚人にはまだなったことはないけれど、たぶん似たような感じじゃないかな。警察には捕まらなかったけれど、結局行き着いた先は同じだった、ってことさ。
十時に消灯も寮と同じ。
常夜灯の微かに照らす仄暗い灰色の闇の中、仕方なく堅いベッドに横になってぼんやりと天井を見ていた。天井に小さな赤いランプが光る。僕を見張るモニターカメラだ。そのランプに視点を合わせた。地下室の蝋燭のように、それはゆらゆらと揺らいで見えた。それとも、揺れているのは僕?
長時間の車での移動で身体は気怠く疲れていた。
オックスフォードから自宅に戻っていた数日間は、ほとんど寝ていない。神経はぴりぴりと張り詰めていたし、目を瞑るのが怖いのは相変わらずだ。
それでも、ふわりと眠気が襲う。白い手と共に。奴は僕が眠りに落ちるのを待っているんだ。ほら、もう足首を指先が舐めるように這いだして……。
僕はいつものように、鳥の巣頭を呼んだ。何度も。何度も。
なんであいつは僕の傍にいないんだ! 鳥の巣頭のくせに! 鳥の巣頭のくせに!
一晩中、泣いて、泣いて、やっと眠れた。どれくらい時間が経っていたのかまるで判らない。でも、寝たと思ったら起こされた。白い手にじゃない。朝食の時間にだ。勝手に明かりがついて、ノックと同時にカラカラと床頭台が入ってくる。むわりとムカつく臭いと一緒に。
「おはよう。調子はどう? 朝ご飯の時間だよ。規則正しいリズムを作るためにも、決まった時間に起きるんだよ」
「――無理。起きられない」
ずっしりと重い頭を持ちあげることすらできない。ベッドがきしりと軋み、低いけれど明るい弾んだ声が降ってくる。これ、本当に英語なのだろうか? 鳥の言葉みたいだ。ピーチク頭の上で囀っている。
煩い。
僕は縮こまっていた身体を伸ばし、寝返りを打ってこの声の主を見あげた。まだ若い男。そういえば、ここの廊下で出会う青い服の看護師は皆、若かった。若くないとこんな仕事、やっていられないのかな。
睫毛を数回暫かせて目を開けた僕を見おろして、青い服の男は驚いたように目を瞠った。
何を見ているんだ、こいつは?
僕は、視線を落とし、昨日の検査服のままの自分の姿に気がついて納得がいった。前合わせの検査服の肩紐が解けて、肩から胸にかけてはだけている。それにズボンもない剥き出しの脚。
赤い痕や痣の残る僕の身体を、舐めるように滑る視線。
「おはよう。紅茶はある?」
慌てて立ちあがり、上擦った声で肯定するこの青服の後ろの床頭台を見て、僕は心底がっかりした。
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