微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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二章

36 来客

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 深い深い霧の中
 僕は今も迷子のまま




 どこか田舎のサナトリウムに送られる前に、梟と鳥の巣頭が自宅まで会いにきてくれた。
 助かったよ。家じゃ、母は泣いてばかりだし、父は僕と顔を合わそうともしない。


 鳥の巣頭の話では、こいつの父親がわざわざ僕の両親を家に呼んで、僕の後見をするから任せて欲しいと話したらしい。
 こいつ、アヌビスのことを全部、父親に話したんだ。息子の不祥事の見返りがこの処遇ってわけさ。
 ありがたいね、まったく。


 骨の髄までおべっか使いのこいつは、梟を残してまずは僕の母を慰めに行った。
 恐れいるよ、まったく。


 梟はポケットに手を突っ込んだまま、僕の家の時代がかった居間を興味深そうに眺めていた。青灰色のブロケード張りの壁に、ジョージアン様式の重苦しい調度品。ただの陰気臭い部屋でしかないのに。

「お前の瞳の色だな」
 梟はにっと笑ってソファーに腰かけた。

「寮長は、大丈夫だったの?」
「ん? ああ、お前のおかげですべて上々だ」

 梟は全部知っていたんだ。だって、鳥の巣頭が相談していたのだから。


 蛇と梟は、まんまと網を張って待っていたのだそうだ。
 オックスフォード大学の会員制エリートクラブの次期会長の座を狙って、会長候補の一人、百足男のライバルを嵌め、蹴落とした。これで蛇は、晴れてDクラブの会員だ。僕がイースターに呼ばれたのも、そのための貢物だったわけ。警察が踏み込んだところで、あそこにいた連中は罪に問われることはない。皆、政・財界の超エリートの子弟ばかりだから。ただ、情けない姿を衆人に晒され、自分の格を落とされて、そこを百足や蛇につけ込まれることになった、って話だ。

 僕は笑ってしまったよ。何百年の伝統があり、本物のエリートじゃなきゃ入会資格さえ覚束ない伝説のDクラブが本当に実在していたのも驚いたし、僕が相手をしていたのが、上流階級でも超がつくレベルのお坊ちゃん方だったっていうのにもね――。

 あの子爵さまだって相当なお家柄だ。今さら驚くこともないか――。



「それはおめでとう。寮長もこれでDクラブの会員?」
 僕がクスクス笑って言うと、「俺か? まさか! 俺には縁がないよ、あんな世界は」と梟はひょいと肩をすくめた。

 そして、物憂げに目を細めて僕を見て、煙草を取りだした。

「僕にもくれる? もう荷物を全部ひっくり返されて煙草も取りあげられちゃったんだ」

 梟は口に銜えていた煙草を、そのまま僕にくれた。新しい煙草はもう出さなかった。

「――俺の同期にな、お前みたいに可愛らしい子がいたんだ。小柄で細っこくって金髪でな、中産階級ミドル出身の奨学生カラスだった。二学年の春頃だったかな、急性中毒で倒れてそのまま学校には戻ってこなかった。危うく死にかけたんだ。それ以来、学校じゃ、ハッパしかやらない。それなのにお前、あの家でジョイント以外のヤツもやっていただろ?」

 わからない……。

 小首を傾げる僕に、梟は畳みかけるように質問を続けた。
「白い粉みたいなヤツ、鼻から吸わなかったか?」
 僕は頭を横に振った。多分そんなことはしていない。あまり覚えていないけれど。
「なら、クラックだ」
 梟は眉根をしかめて吐き捨てるように言い、唇を歪めた。

「潮時だよ」

 そして、僕の頭をくしゃっと撫でた。

「箱に入って薬を抜いてこい。心配するな。戻ってきたら、あの小僧とお坊ちゃんが、ちゃんとお前の面倒をみてくれるさ」

 唇を窄めた僕の頭を、梟はもう一度撫でてくれた。

「寮長は、その奨学生の子のことが好きだったの?」

 そんな言葉がついて出ていた。梟がどことなく哀しそうに見えたからかもしれない。

「さあな、もう忘れたよ」

 梟は僕が唇に銜えていた煙草を取りあげ、もみ消した。そして、軽い、掠るようなキスをくれた。

「元気でな。ちゃんと勉強してオックスフォードに来いよ」
 僕はまたくすくすと笑った。
「僕が入学する頃には、卒業しているくせに」
「馬鹿だな、学閥ってのは一生のつき合いなんだよ。だからちゃんと俺の後輩になりに来い」
「Dクラブに入れてくれる?」
「大きく出たな」

 梟は声を立てて笑った。

 戻ってきた鳥の巣頭と入れ替わりで梟は立ち上がり、「ご両親に挨拶してくる」とこの部屋を出ていった。



「寮長と何を話していたの?」

 機嫌よく微笑んでいる僕を訝しんで、鳥の巣頭が軽く膨れている。

「ん? 寮長の昔好きだった子の話だよ。カラスの子だったんだって」
「へえー! あの寮長が! その子もオックスフォード生なのかな?」
「さぁ? 下級生の内に転校してしまって、今どうしているのかは知らないって」


 梟も、黒のローブを羽のように翻して歩く、選ばれた奨学生のその子のことを、憧れと羨望の眼差しで見つめていたのだろうか――。

 僕がそうだったように……。



 僕の世界の全てだったこの学校を離れる、という事実がようやく、現実の認識となって僕の上に怒涛の如く押しよせていた。

 僕は漂う濃い霧の中に、目的も、意思も、方向感もないままに立ち尽くしていた。






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