微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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二章

33 六月 螺旋の渦

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 あまねく満たす渦の中
 螺子の階段を駆けおりる
 混沌から、静寂へ




 創立祭がすんでも、相変わらず梟は忙しそうだ。

 僕は毎夜寝る前に、鳥の巣頭にジョイントを貰う。

 朝起きた時、頭が重い。すっきりしない。でも、眠れないよりマシだ。学年末試験の間中、鳥の巣頭がつきっきりで僕の勉強をみていた。

 試験は、きっとなんとか大丈夫。……多分。


 国語やラテン語は、夜に僕のベッドに来ることはなくなった。僕はもう眠れるからあいつらはいらない。その代わり試験が終わったとたんに、鳥の巣頭がいない夕方にまとわりついてくるようになった。僕は授業の後は疲れきっていて何もする気になれないのに。だから、終わるまでぼんやりと天井を見ている。気怠くて、何もかも、どうでも良かった。





 やっと、子爵さまの日がきた。

 創立祭や試験で伸び伸びになっていたので、嬉しかった。もう子爵さまに逢わなくてもジョイントを貰えるけれど、子爵さまのおかげで外で知らない奴の相手をしなくてすむもの。それに子爵さまのお喋りは楽しかった。とても、緊張するけれど。
 子爵さまはあの日の光の届かない地下の部屋にいてさえ、太陽のようにきらきらしく、眩しくて。
 僕は恥ずかしさに身を縮こまらせながらも、陽が昇り沈むまでアポロンの姿を追い続けた向日葵クリュティエのように、その姿を追わずにはいられない。

 創立祭でちらと見かけたきり、校内でもほとんど会うことがなかったから本当、久しぶりだ。


 蝋燭を点けて待っていると、カツンと靴音がした。子爵さまはにこりともせずに、ソファーに腰を下ろした。僕はローテーブルの六本目の蝋燭に火を灯す。
 子爵さまは、黙ってポケットから煙草を取りだすと、蝋燭に近づけ火を移し、ゆっくりと慣れた手つきで吸い込んだ。甘い香りと白い煙が子爵さまにまといつく。

 ジョイント――。

 僕は驚いて子爵さまの顔をまじまじと見つめてしまった。
 子爵さまの輝きのない曇ったみどりに、僕が映る。

「きみも吸うかい?」

 長くしなやかな指に挟んだジョイントを僕に向ける。僕はその指先に顔を寄せて、震える唇に銜えた。

 子爵さまと同じ白い煙が僕を満たし、溢れだす。

 子爵さまは、だらりと背もたれに頭をもたせかけて、焦点の合わないどんよりとした瞳で僕を見つめていた。白い煙に包まれて。

「きみは綺麗だね」

 さらりと、僕の髪を撫でる。
 そしてやっと、にっこりと微笑んでくれた。こんなふうに子爵さまが僕に触れたのは、初めての気がする。僕が微笑み返すと、子爵さまも笑う。
 僕はもう、こんな薄いジョイントじゃ白い彼さえ見つけられない。ふわりと煙に揺蕩うだけ。でも、子爵さまが嬉しそうだから、僕も嬉しかった。

 

 けれど、すぐにまた子爵さまは沈みきった様子で何度もため息をついた。

「先輩が、ずっと学校を休んでらっしゃるんだ」

 白い灰がぽろぽろと落ちる。涙のように。
 子爵さまは、白い煙をゆっくりと静かに吸い込み、口内に溜めて転がす。呑み込んで吐きだす度に、綺麗な指先から白い涙が零れ落ちる。ぽろぽろと。ぽろぽろと。




 子爵さまが帰った後、僕は鳥の巣頭が来る前に地上へ戻った。日に日に色濃くなる、初夏の日差しを照り返す緑の梢が目に眩しい。木陰に座っていた鳥の巣頭が立ちあがる。僕は鳥の巣頭に腕を廻して抱きついた。

 とても、寂しくて哀しかったんだ。

 鳥の巣頭も、僕を抱きしめ返した。僕は、鳥の巣頭にキスをした。なぜだかそうしたかったから。

 

「どういうこと?」

 びくりと、鳥の巣頭の背中が跳ねた。
 木の陰から現れた子爵さまが僕の腕をぐいと引っ張る。

「話が違うじゃないか」

 鳥の巣頭は俯いたまま子爵さまを見ようともしない。

「追加でもう一時間」




 地下室に戻った子爵さまは、ローテーブルの上のまだ輝きを残していた燭台から新しい蝋燭に火を移し、差し替えた。

「きみ、僕がきみのために幾ら払っているか知っている?」

 テールコートを脱ぎすて、ネクタイを解きながら子爵さまはあの深緑の宝石のような瞳を、酷薄に凍らせ僕を睨めつける。

「きみは僕が買ったんだ。他の奴には、きみに触れさせないという約束で。きみのその顔を、誰にも貶めさせたりはしない、って約束したのに。どうして約束を守らないの?」

 そんなこと、知らない。
 いや、どうだろう――。言っていたような気もする。
 わからない――。

「きみは僕のものなのだから、どう扱おうと、僕の好きにしていいのだったよね?」


 乱暴にソファーに押し倒された。
 子爵さまのキスは、どこかアヌビスに似ていた。性急で獰猛で食い散らすように乱暴だった。

 僕の赤い龍――。

 その背に腕を廻す。そっと。

 抱き締める。ぎゅっと。

 ずっと触れたかったこの人の熱い背中に指を這わせる。ドクドクと脈打つ心臓の音が音楽みたいだ。バスドラムの刻む音が僕を押し流し、赤い龍をさらに赤く染めあげる。焔と熱でたぎらせる。

 白い彼はいない。
 微睡む僕が目を覚ます。
 微睡む僕が、僕と重なる。

 赤い龍が、背筋をうねり駆け昇る。
 たかまる熱が絶頂に達した時、

「先輩……、先輩」

 甘やかな、喘ぐような声がその名を呼んだ。

 パリンと、僕が砕ける音がした。
 薄い氷を踏み潰したような、そんな音。

 深淵の底に穴が開いた。
 竜巻のような渦が巻く。僕はぐるぐるに絞られ、ねじ曲がり、どろどろの渦に呑みこまれ、その穴に吸いこまれていった。

 どうして、深淵に底があるなどと思ったのだろう。
 底なんてなかった。だって、ここはウロボロスの体内。永遠に廻り続ける捻れた環。螺旋の渦。


 僕がいきなりくすくす笑い出したので、僕の上で果てて荒く息を弾ませていた子爵さまは首をもたげ、眉根をしかめて不機嫌な顔をされた。
 僕は子爵さまの汗でしっとりと濡れた、太陽の絹のような髪の毛に指を差込み梳きあげた。そして、そっと、柔らかくその唇を喰んだ。蛇がいつもしていたように。



 僕はラグビー部の連中は嫌いだ。だって、下手なんだもの。

 教えてあげるよ、子爵さま。
 何も知らないお坊ちゃん。



 ウロボロスの体内は完全な常闇。

 白い彼も、微睡む僕も、もういない。白い影も、赤い龍も。


 みんな、みんな、死んでしまった。渦巻く螺旋に呑み込まれて。





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