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二章
30 赤い龍
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これが、自分
本当に、信じているの?
そこに立つのはきみの影。本当のきみはその足元
結局、蛇に会ったのは二回だけだ。一度目よりも、二度目の方が楽だった。ジョイントの質は良かったし、僕は白い彼を取り戻した。
白い煙は忘却の煙。僕はもう、子爵さまの顔を思い出せない。
アヌビスの顔も、鳥の巣頭も。
本当は顔なんてないんだ。皆、三日月の口の仮面をつけている。
蛇の家の連中のように。
仮面をつけているって解ったら、あの蠢く百足も怖くなかった。
仮面の下には、本当は顔なんてないのかもしれない――。
でも二度目の時は、鳥の巣頭が煩かった。僕を迎えにきたのは梟じゃなくて、こいつだったから。
こいつだって、もう泣かなくなっただけマシだけど。
梟は、ずっと僕の面倒をみている訳にはいかなかったから、鳥の巣頭に頼んだらしい。去年、僕に乱暴したアヌビスの仲間がオックスフォードの学生になっていて、僕がここに来ていることを知って狙っているから、気をつけてやって欲しいって。
蛇がそんな噂を聞きつけて、心配して梟に連絡したから、わざわざここまで来たんだって。梟の話じゃ、悪いのは全部アヌビスって事になっている。学校にもまだあの時の奴らがいるから、梟は僕に特別目をかけて、酷い目に合わされないように気を配っているんだって。
僕は笑いを堪えるのに苦労したよ。口元が震えて仕方がなかったから、泣き真似までする羽目になった。
鳥の巣頭はアヌビスから、生徒会の主権がラグビー部からボート部に移ったことで、どれほどの不利益を被ったか聴いていたから、梟のこの馬鹿馬鹿しい話を頭から信じ込んでしまったらしい。
僕が逆恨みされても仕方がないっていう信憑性を与えたのが、他ならぬアヌビスだっていうから傑作じゃないか。
だから、お前の頭は、おが屑だっていうんだよ。
梟は生徒会役員だし、ボート部のキャプテンでもある。でも蛇みたいに権力志向の強い人じゃない。
「俺の血統でできることなんて限られている。まずはこの学校をなんとか卒業することだ」
そう言って、口の端でいつも嗤っている。
梟だけが、僕のことを気にかけてくれる。梟だけが解ってくれる。僕にジョイントが必要だってこと。
僕ならジョイントをたくさん買ってあげるのに。
ジョイントを売ってくれればいいのに。
なぜ僕はこんなことをしているのか、時々解らなくなる。あいつらの相手をしてジョイントを貰う。あいつらは梟にお金を払う。じゃあ、僕が梟にお金を払ってジョイントを貰えばもっと簡単に手に入るはずだろ?
いつも堂々巡りだ。
面倒臭い。梟に任せておけば間違いないから、きっと今のやり方が一番いいんだ。
梟はいつだって僕のことを考えてくれているもの。僕の代わりに――。
二週間なんてあっという間だ。
僕はまた学校という檻の中。いや、家だって、別のどこかだって同じだ。
あの白い煙だけが、僕を解き放ってくれるんだ。
陽が落ちると僕は窓枠に縋って、眼前に広がる甍の海を眺める。
去年みたいに黒く沈んだ巨大な蛇はいないけど、銀色の月光を微かに跳ねる赤茶色の瓦は波打つ海原なのだと気がついたから。
月が昇る。赤い龍が翔ける。波の狭間に。七つの頭と十本の角を持つ赤い龍が。
僕に林檎を食べろとそそのかす。
僕の呑み込んだ蛇は、僕の血の色。
ウロボロスの闇を引っ掻くための大きな鍵爪まで生えてきた。
白い煙に燻されて龍になった蛇。
どろどろの僕を食べてゆっくりと育っていった。
僕の身を焦がす炎の龍に。
明日、また子爵さまに逢わないといけない。
せっかく、忘れていたのに。全て、忘れていたのに。
乗馬にだって行かなかったのに。
僕は鳥の巣頭と、あの林の中を通り抜けて寮に戻るところだった。
新緑に輝く木々の足下には、あの時とは違い、青紫のブルーベルが群れ咲いている。ここを通るのは嫌だったけど、急がないと約束の時間に遅れそうだ。
釣鐘型の小さな青紫の花々は、スノードロップと同じ。頭を垂れて、ひっそりと咲く。どうか私を見逃して、と言っているように。
その惨めな姿が僕に重なる。
急がないと。子爵さまを待たせてしまう。
青紫のブルーベルが、僕の足下で揺れる。白く揺れる。
足の下でひしゃげる。僕に踏まれて。白い花弁が散っていく。
息ができない――。
スノードロップに足を取られて、僕はその場に倒れ込んだ。あの時のように。白い影に僕の足首を掴まれて――。
「嫌!」
僕の叫び声に驚いて、鳥の巣頭が僕の上に屈み込んだ。
「マシュー?」
「嫌だ、放して!」
僕はのしかってくる白い影を必死で追い払おうと、手足をばたつかせ、暴れた。
助けて。助けて。誰か、助けて。
「マシュー!」
引き掴む手を必死で払いのけようとした。
恐怖で顔は強張り、涙が溢れてきて止まらない。
甘い香りが纏いつく。ジョイントの香り。ナイルの庭――。
「やめて!」
「マシュー! どうし、」
僕を抱えてしめつける腕が不意に緩んだ。
「何をしている!」
鋭い声に、白い影が掻き消える。
鳥の巣頭がふわりと浮かび、思い切り頬を殴られ倒れている。
鳥の巣頭の上に馬乗りになった背中は、何度も、何度もあいつを殴りつけている。
僕は何が起こったのか、わけが解らないまま、ただその光景を呆然と見つめていた。
肩で息をしながら、木漏れ日に光をはぜる金髪をかき上げ、やっとその背中は立ち上がり僕を振り返った。
「きみ、大丈夫だった?」
子爵さま――。
眉間に深く皺を刻んだ、形の良い眉の下の深緑の宝石。その深く燃え上がる厳しい瞳に見下ろされ、僕は、白い影に襲われた時以上の恐怖で混乱して、そのまま意識を手放していた。
本当に、信じているの?
そこに立つのはきみの影。本当のきみはその足元
結局、蛇に会ったのは二回だけだ。一度目よりも、二度目の方が楽だった。ジョイントの質は良かったし、僕は白い彼を取り戻した。
白い煙は忘却の煙。僕はもう、子爵さまの顔を思い出せない。
アヌビスの顔も、鳥の巣頭も。
本当は顔なんてないんだ。皆、三日月の口の仮面をつけている。
蛇の家の連中のように。
仮面をつけているって解ったら、あの蠢く百足も怖くなかった。
仮面の下には、本当は顔なんてないのかもしれない――。
でも二度目の時は、鳥の巣頭が煩かった。僕を迎えにきたのは梟じゃなくて、こいつだったから。
こいつだって、もう泣かなくなっただけマシだけど。
梟は、ずっと僕の面倒をみている訳にはいかなかったから、鳥の巣頭に頼んだらしい。去年、僕に乱暴したアヌビスの仲間がオックスフォードの学生になっていて、僕がここに来ていることを知って狙っているから、気をつけてやって欲しいって。
蛇がそんな噂を聞きつけて、心配して梟に連絡したから、わざわざここまで来たんだって。梟の話じゃ、悪いのは全部アヌビスって事になっている。学校にもまだあの時の奴らがいるから、梟は僕に特別目をかけて、酷い目に合わされないように気を配っているんだって。
僕は笑いを堪えるのに苦労したよ。口元が震えて仕方がなかったから、泣き真似までする羽目になった。
鳥の巣頭はアヌビスから、生徒会の主権がラグビー部からボート部に移ったことで、どれほどの不利益を被ったか聴いていたから、梟のこの馬鹿馬鹿しい話を頭から信じ込んでしまったらしい。
僕が逆恨みされても仕方がないっていう信憑性を与えたのが、他ならぬアヌビスだっていうから傑作じゃないか。
だから、お前の頭は、おが屑だっていうんだよ。
梟は生徒会役員だし、ボート部のキャプテンでもある。でも蛇みたいに権力志向の強い人じゃない。
「俺の血統でできることなんて限られている。まずはこの学校をなんとか卒業することだ」
そう言って、口の端でいつも嗤っている。
梟だけが、僕のことを気にかけてくれる。梟だけが解ってくれる。僕にジョイントが必要だってこと。
僕ならジョイントをたくさん買ってあげるのに。
ジョイントを売ってくれればいいのに。
なぜ僕はこんなことをしているのか、時々解らなくなる。あいつらの相手をしてジョイントを貰う。あいつらは梟にお金を払う。じゃあ、僕が梟にお金を払ってジョイントを貰えばもっと簡単に手に入るはずだろ?
いつも堂々巡りだ。
面倒臭い。梟に任せておけば間違いないから、きっと今のやり方が一番いいんだ。
梟はいつだって僕のことを考えてくれているもの。僕の代わりに――。
二週間なんてあっという間だ。
僕はまた学校という檻の中。いや、家だって、別のどこかだって同じだ。
あの白い煙だけが、僕を解き放ってくれるんだ。
陽が落ちると僕は窓枠に縋って、眼前に広がる甍の海を眺める。
去年みたいに黒く沈んだ巨大な蛇はいないけど、銀色の月光を微かに跳ねる赤茶色の瓦は波打つ海原なのだと気がついたから。
月が昇る。赤い龍が翔ける。波の狭間に。七つの頭と十本の角を持つ赤い龍が。
僕に林檎を食べろとそそのかす。
僕の呑み込んだ蛇は、僕の血の色。
ウロボロスの闇を引っ掻くための大きな鍵爪まで生えてきた。
白い煙に燻されて龍になった蛇。
どろどろの僕を食べてゆっくりと育っていった。
僕の身を焦がす炎の龍に。
明日、また子爵さまに逢わないといけない。
せっかく、忘れていたのに。全て、忘れていたのに。
乗馬にだって行かなかったのに。
僕は鳥の巣頭と、あの林の中を通り抜けて寮に戻るところだった。
新緑に輝く木々の足下には、あの時とは違い、青紫のブルーベルが群れ咲いている。ここを通るのは嫌だったけど、急がないと約束の時間に遅れそうだ。
釣鐘型の小さな青紫の花々は、スノードロップと同じ。頭を垂れて、ひっそりと咲く。どうか私を見逃して、と言っているように。
その惨めな姿が僕に重なる。
急がないと。子爵さまを待たせてしまう。
青紫のブルーベルが、僕の足下で揺れる。白く揺れる。
足の下でひしゃげる。僕に踏まれて。白い花弁が散っていく。
息ができない――。
スノードロップに足を取られて、僕はその場に倒れ込んだ。あの時のように。白い影に僕の足首を掴まれて――。
「嫌!」
僕の叫び声に驚いて、鳥の巣頭が僕の上に屈み込んだ。
「マシュー?」
「嫌だ、放して!」
僕はのしかってくる白い影を必死で追い払おうと、手足をばたつかせ、暴れた。
助けて。助けて。誰か、助けて。
「マシュー!」
引き掴む手を必死で払いのけようとした。
恐怖で顔は強張り、涙が溢れてきて止まらない。
甘い香りが纏いつく。ジョイントの香り。ナイルの庭――。
「やめて!」
「マシュー! どうし、」
僕を抱えてしめつける腕が不意に緩んだ。
「何をしている!」
鋭い声に、白い影が掻き消える。
鳥の巣頭がふわりと浮かび、思い切り頬を殴られ倒れている。
鳥の巣頭の上に馬乗りになった背中は、何度も、何度もあいつを殴りつけている。
僕は何が起こったのか、わけが解らないまま、ただその光景を呆然と見つめていた。
肩で息をしながら、木漏れ日に光をはぜる金髪をかき上げ、やっとその背中は立ち上がり僕を振り返った。
「きみ、大丈夫だった?」
子爵さま――。
眉間に深く皺を刻んだ、形の良い眉の下の深緑の宝石。その深く燃え上がる厳しい瞳に見下ろされ、僕は、白い影に襲われた時以上の恐怖で混乱して、そのまま意識を手放していた。
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