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二章
29 四月 赤い部屋
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黄昏色が紺青に呑み込まれる時
ウロボロスの牙が覗く
ほら、飛び込むんだ
禍時の今
イースター休暇の二週間、オックスフォードのGCSE試験対策コースを受けたいと両親に相談すると、二つ返事で喜んでくれた。講義は父も通ったオックスフォード大学のカレッジ・スクールだし、宿舎も近くて綺麗なところだ。それに、両親ともにお気に入りの鳥の巣頭も一緒だから。
まったく、冗談じゃない! どうして、こいつまでくっついて来るんだ!
って、解っている。オックスフォードにはアヌビスがいるからだ。鳥の巣頭は、僕がアヌビスに逢いに行くと疑っているんだ。そんなわけないだろ。僕はあいつの携帯番号すら知らないのに。でも、その方が返って好都合。疑り深い鳥の巣頭、せいぜい自分の兄貴を見張っているがいい。
宿舎は個室だったし、僕は文系で鳥の巣頭は理系だから選択科目が違う。講義は別行動。隣の部屋だからってかまうものか。そう思っていたのに、梟からはなかなか連絡がこなかった。
そうなると僕は眠れない。
こんな奴でもいないよりはマシ。梟がジョイントをくれるまでの我慢だ。昼間は講義を受けて、夜は鳥の巣頭とすごす。これじゃ、学校にいるのと変わらない。頭が変になりそうだ。
一週間が過ぎた頃、やっと梟から電話があった。ちょうど、授業が終わった頃だったから、梟はきっと近くにいて僕を待っていてくれてるんだ。そう思うと嬉しかった。
呼び出された場所へ行った。よく判らなかったのでタクシーを使った。街の中心地から離れた郊外の一軒家だった。
呼び鈴を押す。ドアを開けてくれたのは、梟ではなく蛇だった。
「やぁ、マシュー、久しぶり。きみ、ずいぶん綺麗になったね」
蛇があの青い月のような目で、にっこりと冷ややかに笑う。
その時、僕は思ったんだ。今日は、上等のジョイントが吸えるって。
その場に何人いたか覚えていない。赤い部屋だった。きらきらした、艶のある赤い壁。写真がたくさん飾ってあった。
ああ、百足の男がいた。あの不気味な百本の細い足が、僕の上を這っていた。
僕が横たわっていたのは、赤いソファーなのか、赤い絨毯なのか、赤いシーツなのか、それとも、僕の心臓から流れ出す赤い血の上だったのか、覚えていない。
蝋燭が揺れて、美しい指が僕に別れの合図を送る。
――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ
透明の赤が黄昏色に呑み込まれ、僕はやっと僕を見つける。微睡む僕。心を亡くした微睡む僕。心地良い闇。優しい闇の底深くで。
僕は微睡む僕を抱きしめて、恐る恐る天を仰いだ。揺れる水面に歪んだ誰かの像が映る。三日月のように切れ上がった笑みは仮面みたい。くすくす、くすくす、僕を嗤う。
嗤い声が響く度、とっぷん、とっぷんと水面が揺れる。赤い水面。揺れる水面はやがて凍りつき、アフターエイトを包む薄紙のように、カサカサ、音を立て始めた。
カサカサ、カサカサ――。
破れていく。ウロボロスの鱗が。綻びから僕が溢れ出す。
さらさら、さらさら、赤い灰になって。
「ジョイントをもう一本頂戴」
早くウロボロスを繕わなければ。白い煙で。この闇を満たして。破れた鱗を貼りつけなければ。
もっと。もっと。もっと。
足りない、足りないよ。
もっと僕をどろどろに溶かして。僕の血で膜を作るんだ。僕がこれ以上溢れてしまわないように。もっと、もっと、僕を赤く染めあげて。
――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ
行かないで。
凍りついた僕に上着を掛けてくれたじゃないか。
僕に陽だまりをくれたじゃないか。
「ジョイントを頂戴」
白い彼はどこ?
僕を隠して。この赤い想いを溶かして、分解して、消し去って。
もっと。どろどろに――。
目を開けた時に横にいたのは、やはり梟だった。
僕にはなぜだか解っていた。だって梟は優しいもの。
「お前が泣くなんて珍しいな」
梟は親指で僕の頬を拭ってくれた。
僕は泣いてなんかいないのに。それは赤い灰だよ。零れ落ちた僕の欠片。
タクシーで宿舎に戻ると、僕の部屋の前で、鳥の巣頭が口をへの字にひん曲げて待っていた。梟は、僕に部屋に戻るように言うと、話がある、と二人して鳥の巣頭の部屋へ入っていった。
僕は疲れきっていた。
今日のジョイントはきっと安物だ。
ちっとも楽しくなれなかった。
でも、眠い――。
また急激に襲って来た眠気に、笑みが溢れた。
そうだよ、ジョイントがあれば眠れるんだよ――。
翌朝は講義を休んだ。起きられるはずがなかった。
鳥の巣頭も講義に出なかった。ずっと僕の傍らで、あれこれ世話を焼いていた。
部屋に入ってきた時から、なぜだかこいつは機嫌が良かった。
「僕は寮長を誤解していた」と嬉しそうに笑って言った。
そうだよ、お前の頭はおが屑だからね。薄汚い嫉妬ですぐ燃え上がる。
梟が何を言ったのかは知らない。けれど僕は、ぼんやりとした頭の中で、鳥の巣頭のこの変化にほっと胸を撫で下ろしていたんだ。
ウロボロスの牙が覗く
ほら、飛び込むんだ
禍時の今
イースター休暇の二週間、オックスフォードのGCSE試験対策コースを受けたいと両親に相談すると、二つ返事で喜んでくれた。講義は父も通ったオックスフォード大学のカレッジ・スクールだし、宿舎も近くて綺麗なところだ。それに、両親ともにお気に入りの鳥の巣頭も一緒だから。
まったく、冗談じゃない! どうして、こいつまでくっついて来るんだ!
って、解っている。オックスフォードにはアヌビスがいるからだ。鳥の巣頭は、僕がアヌビスに逢いに行くと疑っているんだ。そんなわけないだろ。僕はあいつの携帯番号すら知らないのに。でも、その方が返って好都合。疑り深い鳥の巣頭、せいぜい自分の兄貴を見張っているがいい。
宿舎は個室だったし、僕は文系で鳥の巣頭は理系だから選択科目が違う。講義は別行動。隣の部屋だからってかまうものか。そう思っていたのに、梟からはなかなか連絡がこなかった。
そうなると僕は眠れない。
こんな奴でもいないよりはマシ。梟がジョイントをくれるまでの我慢だ。昼間は講義を受けて、夜は鳥の巣頭とすごす。これじゃ、学校にいるのと変わらない。頭が変になりそうだ。
一週間が過ぎた頃、やっと梟から電話があった。ちょうど、授業が終わった頃だったから、梟はきっと近くにいて僕を待っていてくれてるんだ。そう思うと嬉しかった。
呼び出された場所へ行った。よく判らなかったのでタクシーを使った。街の中心地から離れた郊外の一軒家だった。
呼び鈴を押す。ドアを開けてくれたのは、梟ではなく蛇だった。
「やぁ、マシュー、久しぶり。きみ、ずいぶん綺麗になったね」
蛇があの青い月のような目で、にっこりと冷ややかに笑う。
その時、僕は思ったんだ。今日は、上等のジョイントが吸えるって。
その場に何人いたか覚えていない。赤い部屋だった。きらきらした、艶のある赤い壁。写真がたくさん飾ってあった。
ああ、百足の男がいた。あの不気味な百本の細い足が、僕の上を這っていた。
僕が横たわっていたのは、赤いソファーなのか、赤い絨毯なのか、赤いシーツなのか、それとも、僕の心臓から流れ出す赤い血の上だったのか、覚えていない。
蝋燭が揺れて、美しい指が僕に別れの合図を送る。
――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ
透明の赤が黄昏色に呑み込まれ、僕はやっと僕を見つける。微睡む僕。心を亡くした微睡む僕。心地良い闇。優しい闇の底深くで。
僕は微睡む僕を抱きしめて、恐る恐る天を仰いだ。揺れる水面に歪んだ誰かの像が映る。三日月のように切れ上がった笑みは仮面みたい。くすくす、くすくす、僕を嗤う。
嗤い声が響く度、とっぷん、とっぷんと水面が揺れる。赤い水面。揺れる水面はやがて凍りつき、アフターエイトを包む薄紙のように、カサカサ、音を立て始めた。
カサカサ、カサカサ――。
破れていく。ウロボロスの鱗が。綻びから僕が溢れ出す。
さらさら、さらさら、赤い灰になって。
「ジョイントをもう一本頂戴」
早くウロボロスを繕わなければ。白い煙で。この闇を満たして。破れた鱗を貼りつけなければ。
もっと。もっと。もっと。
足りない、足りないよ。
もっと僕をどろどろに溶かして。僕の血で膜を作るんだ。僕がこれ以上溢れてしまわないように。もっと、もっと、僕を赤く染めあげて。
――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ
行かないで。
凍りついた僕に上着を掛けてくれたじゃないか。
僕に陽だまりをくれたじゃないか。
「ジョイントを頂戴」
白い彼はどこ?
僕を隠して。この赤い想いを溶かして、分解して、消し去って。
もっと。どろどろに――。
目を開けた時に横にいたのは、やはり梟だった。
僕にはなぜだか解っていた。だって梟は優しいもの。
「お前が泣くなんて珍しいな」
梟は親指で僕の頬を拭ってくれた。
僕は泣いてなんかいないのに。それは赤い灰だよ。零れ落ちた僕の欠片。
タクシーで宿舎に戻ると、僕の部屋の前で、鳥の巣頭が口をへの字にひん曲げて待っていた。梟は、僕に部屋に戻るように言うと、話がある、と二人して鳥の巣頭の部屋へ入っていった。
僕は疲れきっていた。
今日のジョイントはきっと安物だ。
ちっとも楽しくなれなかった。
でも、眠い――。
また急激に襲って来た眠気に、笑みが溢れた。
そうだよ、ジョイントがあれば眠れるんだよ――。
翌朝は講義を休んだ。起きられるはずがなかった。
鳥の巣頭も講義に出なかった。ずっと僕の傍らで、あれこれ世話を焼いていた。
部屋に入ってきた時から、なぜだかこいつは機嫌が良かった。
「僕は寮長を誤解していた」と嬉しそうに笑って言った。
そうだよ、お前の頭はおが屑だからね。薄汚い嫉妬ですぐ燃え上がる。
梟が何を言ったのかは知らない。けれど僕は、ぼんやりとした頭の中で、鳥の巣頭のこの変化にほっと胸を撫で下ろしていたんだ。
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