微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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二章

23 十二月 謝罪

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 白い霧の向こうの
 世界はこんなにも美しい




 朝、医療棟から帰ってきた僕を、鳥の巣頭は強く抱きしめた。口許を引きつらせ、必死に痛みを我慢した。

「心配してくれていたの? ごめんね。いつもの貧血だよ。厩舎に忘れ物をして……」
 梟に教えられた通りに、すらすらと嘘をついた。
「本当?」
 鳥の巣頭はちょっと力を緩めて、僕の眼を真っ直ぐに見つめる。僕はすかさず身体を離した。あんなふうにぎゅうぎゅうやられたら、たまったものじゃない。

 鳥の巣頭は厳しい瞳を揺るがさない。テールコートの袖の上から僕の手首をぎゅっと握った。悲鳴を上げそうになって、顔を歪めた。

 今度はそっと僕を抱き締めた。
「クリスマス休暇、きみの家へ遊びに行ってもいい?」
 耳にキスして囁いてきた。

 応えなかった。応えられなかった。

 アヌビスに、ジョイントを貰わなくちゃ――。

 梟に訊かなくちゃ――。

 ――鳥の巣頭の家へ行けば、また、子爵さまに逢えるかな……。

 頭の中はごちゃごちゃで、身体はギシギシと痛んだ。僕は朦朧としたまま鳥の巣頭に倒れかかっていた。




 鳥の巣頭は、本当に僕の家へやって来た。

 父と母はもう大喜びだ。
 僕はよく知らなかったけれど、鳥の巣頭の家は名家なのだそうだ。あの子爵さまが遊びに来るのだもの。それはそうか、と妙に納得した。

 まぁ、鳥の巣頭はどうってことない奴だけど……。

 クリスマスの翌々日、玄関先でこいつの顔を見た時にはイラっときたけれど、すぐにまぁ、いいかと思い返した。取り敢えずこいつがいれば、僕は眠れる。こいつも大分慣れてきて、以前よりはマシになったしね。

 でも、二週間は長すぎるよ。
 新学期が始まったら梟はAレベルの冬期試験だ。きっと僕の世話はしてくれない。一ヶ月もジョイントを我慢することになるだなんて――。




 結局、休暇中にアヌビスには会えなかった。
 梟は試験勉強で忙しい。

 僕はイライラして眠れない。食事をする気にもならなかった。

 眠りたい。

 微睡む僕に逢いたい。白い彼に逢いたい。いつも気だるくて乗馬も休んだ。子爵さまに会うのが怖かった。また、あの目で見られるのではないかと思うと、涙が滲んだ。

 ジョイントが欲しい。

 僕をどろどろに溶かして欲しい。本当に泥になってしまえば、子爵さまに踏みつけられても、きっと何も感じないで済むもの。

 眠りたい。

 僕は、国語とラテン語の相手もしてやる事にした。こんな事してやらなくても、こいつら喜んで僕のレポートを書いてくれていたけれどね。
 鳥の巣頭はボート部の練習の分、時間外で選択教科を取っているから戻ってくるのが遅いんだ。
 僕が欲しくてうずうずしていたこいつらは、直ぐに飛びついてきた。

 がっつくなよ、みっともない……。

 僕はただ、眠りたいんだ。
 ぐったりと疲れきってしまいたいだけなんだ。




 やっと月末になって、梟の試験と僕たちの模試が終わった。

 僕は梟に連れられて、いそいそと旧ボート小屋へ向かった。
 今日の梟は上機嫌だ。

 くれたのは、いつものよりはマシなジョイント。アヌビスのほど、上等ではないけれど。

 控え室に入る前に、がらんとしたボート置き場の広々とした庫内で吸った。これだけ天井が高ければ匂いもこもらない。

 僕は真っ直ぐに立ち上る白い煙を目で追った。

 ああ、やっと白い彼に逢えるんだ――。

 吸い終わってから、梟は僕に念入りに地中海の庭を振りかけて、アフターエイトを食べさせてくれた。

「気づかれるなよ。頭の固いお坊ちゃんだからな」

 頷いた僕の髪を、梟は優しく撫でつけてくれる。そしてすぐに、もう、ふわふわと足取りの覚束無い僕を、控え室に引っ張っていく。

「あいつなら、お前のこの顔に飛びついてくる。思った通りだったよ」

 梟は満足そうに目を細めて笑っている。

「お前は俺の守護天使だな」

 僕をベンチに座らせてから、梟は、こめかみにキスしてくれた。梟がキスをくれたのはこれが初めてだ。



 嬉しそうに足取りも軽く部屋を出た梟と入れ替わりに入って来たのは、子爵さまだった。子爵さまは僕を見て、何とも言えない複雑な笑みを浮かべていた。

 僕はぼんやりと、白い輝きを見ていた。いつか見た、白い陽溜まりを……。


「本当は、きみにあんなむごいことをした先輩方を告発すべきなのだけれど……。僕にとっては、義理も、恩もある大切な方たちなんだ」
 僕の横に腰かけて、子爵さまは申し訳なさそうに口許を引きしめる。

「僕が彼らに代わってきみに謝罪するよ。どうか許してやって欲しい」
 深緑の宝石が僕の瞳を覗き込む。曇りのない透き通った輝きで。

「これからは、きみがあんな辛い目に合わなくて済むように、僕がきみの時間を買いとってあげるから。だから心配しないで」

 そういうこと――。

 僕は納得して、自分でネクタイを解いた。
 子爵さまは驚いて、慌てて首を横に振る。

「そんなつもりじゃないんだ。――どうしてきみは、こんな事をしているの?」

 訝しげな視線でドアを一瞥する。

「あの表の彼に、何か弱みでも握られているの?」


 白い霧が僕を包んでいる。

 子爵さまの声が、頭上を通り過ぎていく。

 薄い薄い白い霧が僕を包む。
 声は聞こえるのに、それはどこか遠くで現実味がなかった。蛇の柔らかな壁面に跳ね返って反響する。木霊のように曖昧に。


「きみ、甘い香りがする」
「地中海の庭――」

 甘い香り――。

 子爵さまの柔らかな声は、この甘やかな香りに似ている。

 僕は、ジョイントと、地中海の庭の交じり合う南国の暖かな潮風の中に立っているような心地よさを覚えていた。
 子爵さまの金の髪は、太陽みたいに僕を照らすのに、アヌビスのように強引に僕を暴き立てたりしない。静かに、柔らかく只そこにある。

 この輝きが無性に愛おしくて、僕は子爵さまの髪にキスをした。
 そのまま擦り寄って肩にもたれたら、子爵さまは身体を避けて横にずれたので、僕は子爵さまの膝に倒れこんだ。

 目を見開いて僕を見下ろしている子爵さまが可笑しかった。僕はくすくすと笑ってしまったよ。
 子爵さまは、なぜだか眉根を寄せてふくれっ面をすると、片手で僕の目を覆った。



 温かくてしっとりとした掌が心地良くて、僕はそのまま眠りに落ちた。不思議なほど、安心して。

 白い彼はふわりと漂う湯船の湯気のように、僕を包んで温めてくれる。

 揺蕩う白い湯気の中で、僕は微睡む僕を抱きしめる。
 微睡む僕は微笑んでいる。嬉しそうに。だから僕も微笑み返す。

 僕を包むこの美しい世界に――。





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