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二章
22 厩舎
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空が近い
そんな場所が
本当にあるんだ
梟に言われて、馬術部に入った。
ここなら他の部活ほどきつくはないし、体力のない僕でもこなせるから、と。
優しい梟は、いつも僕のことを気づかってくれる。
生徒会に入るには部活動は必須だ。何もしていません、じゃ話にならない。梟は、僕が知らなかった事をいろいろ教えてくれるから、本当、助かる。
僕は乗馬が嫌いじゃない。
練習は週一回出れば良かったし、時間も短い。先輩方も優しくて、ラグビー部みたいな荒っぽい奴もいない。ただ、馬と厩舎の匂いだけが苦手だったけれど。
それに、子爵さまに会えた。
水曜日に予約を入れておけば、課外授業を終えた子爵さまと入れ違いで部活動が始まる。それも梟が教えてくれたんだ。紺地に襟元だけ翡翠色のラインの入った馬術部の乗馬服と違い、課外授業の乗馬服は濃緑に翡翠色のラインだ。夏に鳥の巣頭の家で会った時と同じ。子爵さまのエメラルドの瞳にとても良く似合っている。
「馬術部に入ったの?」
僕を見つけて子爵さまは、気さくに声をかけてくれた。
いつもではないけれど、ほんの短い会話を交わせるようになった。
僕は水曜日はうなされない。
子爵さまの笑顔はとても温かくて、僕は陽だまりの中にいるようで、その日一日凍えたりしない。
鳥の巣頭は、僕が馬術部に入ってから明るくなったと喜んでいる。
梟が言っていた通り、薄いジョイントはその後何日かは辛いけれど、前のジョイントが切れた後ほど辛くはなかった。微睡む僕には逢えないけれど――。薄い薄い白い彼は、かき消えてしまいそうだったけれど――。
僕はジョイントの作る煙幕の中で、白い彼と束の間の逢瀬を楽しむんだ。
薄い薄い夢のような――。
月に一、二度の彼との逢瀬。
僕を掴む腕は毎回変わる。顔なんていちいち覚えていない。
僕が逢うのは白い彼。ふわふわと優しくて、掴みどころのない彼。
彼はもう、僕の顔をしていない。僕とは違う。
それはどこか、子爵さまに似ていた。
霧雨に濡れた子爵さまに――。
その日はボート小屋に行かなかった。
梟は僕を厩舎に連れてきた。誰もいない馬場の柵に腰かけて、梟は煙草を取り出した。
「ラグビー部の奴ら、ボート部のテリトリーは嫌だなんてぬかしやがる」
煙草を銜えたまま、梟は、ずいぶんと汚い言葉でラグビー部を罵った。
「一人じゃ何も出来ない臆病者の集まりのくせに!」
言いながら、僕にジョイントを銜えさせた。僕の肩に腕を廻し、長い指を丸めて風避けにして、銀のライターで火を点けてくれた。
「今日は人数が多いからな、上等な奴を吸わせてやる」
煙水晶の瞳がすっと笑う。
一本吸いきった後、厩舎の端にある倉庫に連れていかれた。天井高くまでキューブ状の干し草が堆く積まれている。小さな明り取りの窓があるだけの薄暗い庫内は、干し草の香ばしい匂いが充満している。乾いた、甘い香り。それがとても可笑しかった。
けらけらと声を立てて笑っている僕の髪を、梟がくしゃっと撫でてくれた。
「大物が来るんだ。しっかりサービスしてやれ」
僕は梟に抱きついて頷いた。
梟はもう一度、僕をわしわしと撫でてくれた。
久しぶりの本物のジョイントで、僕は浮かれ飛んでいた。
だから、倉庫に入って来たラグビーの連中の中に子爵さまを見つけた時も、ただ、笑っていた。
子爵さまは、僕をちらと見て、眉根を寄せた。
そして、子爵さまより一回り大きい周りの連中と二言、三言、言葉を交わし、そのまま踵を返した。
木製の大きな引き戸が、ギ、ギィ、と軋んで閉まった。
金色の干し草は、お日さまの香りがした。
子爵さまの髪みたいにきらきら光る。
僕はずっと笑っていた。身体を痙攣させながら。
いや、泣いていたのかもしれない。よく判らない。
白い彼は、どこにもいなかった。
踵を返して行ってしまった。どこかへ。どこへ?
僕はまた、白い彼を探さなければ――。
微睡む僕が泣いている。
眠ったまま、泣いている。きっと夢を見ているんだ。
金色の干し草の夢を――。
いつの間にか、子爵さまがいた。開いた戸口から差し込む光の中に。逆光で顔が見えない。コツコツと、冷たい靴音が響く。
僕の近くで立ち止まった彼は、ぴっと片眉を上げて、さげずむように僕を見下ろした。
「合意の上なの?」
汚いものでも見るような、そんな眼つきだった。
僕の目から涙が溢れてきた。
抵抗したら、殴られるじゃないか。そうしたら、痣が残るじゃないか。
そうしたら、蛇に、怒られるじゃないか。蛇に、見捨てられるじゃないか。
もうこの学校にはいない蛇のことを考えていた。あの、冷たい青い瞳を。すっと細められた三日月のような目を……。
唇を噛んだまま、大きく見開いた両眼から零れ落ちる涙を止めることができない僕から、子爵さまは目を逸らした。
「服を着て」
ため息交じりの声だった。
僕は起きあがろうと腕に力を入れた。まだ無理だ。無様に干し草の上に突っ伏した。
早く、立ち去ってくれればいいのに。
この干し草の中に潜り込んでしまいたい――。
ふわりと、何かで覆われた。
手首がそっと持ちあげられた。赤い指痕のついた手首が。
「すまない。酷いことを言った」
静かな、囁くような声がした。
子爵さまは僕に服を着せてくれた。
それから、携帯で車を呼んで、僕を医療棟へ運んでくれた。僕は梟が迎えにきてくれると思っていたから、無駄足になるに違いない梟に、心の中で謝った。
目を覚ました時横にいてくれた梟に、僕はにっこりと微笑みかけた。
「寮長、僕、上手くやれましたか?」
梟は、笑って僕の頭を撫でてくれた。
そんな場所が
本当にあるんだ
梟に言われて、馬術部に入った。
ここなら他の部活ほどきつくはないし、体力のない僕でもこなせるから、と。
優しい梟は、いつも僕のことを気づかってくれる。
生徒会に入るには部活動は必須だ。何もしていません、じゃ話にならない。梟は、僕が知らなかった事をいろいろ教えてくれるから、本当、助かる。
僕は乗馬が嫌いじゃない。
練習は週一回出れば良かったし、時間も短い。先輩方も優しくて、ラグビー部みたいな荒っぽい奴もいない。ただ、馬と厩舎の匂いだけが苦手だったけれど。
それに、子爵さまに会えた。
水曜日に予約を入れておけば、課外授業を終えた子爵さまと入れ違いで部活動が始まる。それも梟が教えてくれたんだ。紺地に襟元だけ翡翠色のラインの入った馬術部の乗馬服と違い、課外授業の乗馬服は濃緑に翡翠色のラインだ。夏に鳥の巣頭の家で会った時と同じ。子爵さまのエメラルドの瞳にとても良く似合っている。
「馬術部に入ったの?」
僕を見つけて子爵さまは、気さくに声をかけてくれた。
いつもではないけれど、ほんの短い会話を交わせるようになった。
僕は水曜日はうなされない。
子爵さまの笑顔はとても温かくて、僕は陽だまりの中にいるようで、その日一日凍えたりしない。
鳥の巣頭は、僕が馬術部に入ってから明るくなったと喜んでいる。
梟が言っていた通り、薄いジョイントはその後何日かは辛いけれど、前のジョイントが切れた後ほど辛くはなかった。微睡む僕には逢えないけれど――。薄い薄い白い彼は、かき消えてしまいそうだったけれど――。
僕はジョイントの作る煙幕の中で、白い彼と束の間の逢瀬を楽しむんだ。
薄い薄い夢のような――。
月に一、二度の彼との逢瀬。
僕を掴む腕は毎回変わる。顔なんていちいち覚えていない。
僕が逢うのは白い彼。ふわふわと優しくて、掴みどころのない彼。
彼はもう、僕の顔をしていない。僕とは違う。
それはどこか、子爵さまに似ていた。
霧雨に濡れた子爵さまに――。
その日はボート小屋に行かなかった。
梟は僕を厩舎に連れてきた。誰もいない馬場の柵に腰かけて、梟は煙草を取り出した。
「ラグビー部の奴ら、ボート部のテリトリーは嫌だなんてぬかしやがる」
煙草を銜えたまま、梟は、ずいぶんと汚い言葉でラグビー部を罵った。
「一人じゃ何も出来ない臆病者の集まりのくせに!」
言いながら、僕にジョイントを銜えさせた。僕の肩に腕を廻し、長い指を丸めて風避けにして、銀のライターで火を点けてくれた。
「今日は人数が多いからな、上等な奴を吸わせてやる」
煙水晶の瞳がすっと笑う。
一本吸いきった後、厩舎の端にある倉庫に連れていかれた。天井高くまでキューブ状の干し草が堆く積まれている。小さな明り取りの窓があるだけの薄暗い庫内は、干し草の香ばしい匂いが充満している。乾いた、甘い香り。それがとても可笑しかった。
けらけらと声を立てて笑っている僕の髪を、梟がくしゃっと撫でてくれた。
「大物が来るんだ。しっかりサービスしてやれ」
僕は梟に抱きついて頷いた。
梟はもう一度、僕をわしわしと撫でてくれた。
久しぶりの本物のジョイントで、僕は浮かれ飛んでいた。
だから、倉庫に入って来たラグビーの連中の中に子爵さまを見つけた時も、ただ、笑っていた。
子爵さまは、僕をちらと見て、眉根を寄せた。
そして、子爵さまより一回り大きい周りの連中と二言、三言、言葉を交わし、そのまま踵を返した。
木製の大きな引き戸が、ギ、ギィ、と軋んで閉まった。
金色の干し草は、お日さまの香りがした。
子爵さまの髪みたいにきらきら光る。
僕はずっと笑っていた。身体を痙攣させながら。
いや、泣いていたのかもしれない。よく判らない。
白い彼は、どこにもいなかった。
踵を返して行ってしまった。どこかへ。どこへ?
僕はまた、白い彼を探さなければ――。
微睡む僕が泣いている。
眠ったまま、泣いている。きっと夢を見ているんだ。
金色の干し草の夢を――。
いつの間にか、子爵さまがいた。開いた戸口から差し込む光の中に。逆光で顔が見えない。コツコツと、冷たい靴音が響く。
僕の近くで立ち止まった彼は、ぴっと片眉を上げて、さげずむように僕を見下ろした。
「合意の上なの?」
汚いものでも見るような、そんな眼つきだった。
僕の目から涙が溢れてきた。
抵抗したら、殴られるじゃないか。そうしたら、痣が残るじゃないか。
そうしたら、蛇に、怒られるじゃないか。蛇に、見捨てられるじゃないか。
もうこの学校にはいない蛇のことを考えていた。あの、冷たい青い瞳を。すっと細められた三日月のような目を……。
唇を噛んだまま、大きく見開いた両眼から零れ落ちる涙を止めることができない僕から、子爵さまは目を逸らした。
「服を着て」
ため息交じりの声だった。
僕は起きあがろうと腕に力を入れた。まだ無理だ。無様に干し草の上に突っ伏した。
早く、立ち去ってくれればいいのに。
この干し草の中に潜り込んでしまいたい――。
ふわりと、何かで覆われた。
手首がそっと持ちあげられた。赤い指痕のついた手首が。
「すまない。酷いことを言った」
静かな、囁くような声がした。
子爵さまは僕に服を着せてくれた。
それから、携帯で車を呼んで、僕を医療棟へ運んでくれた。僕は梟が迎えにきてくれると思っていたから、無駄足になるに違いない梟に、心の中で謝った。
目を覚ました時横にいてくれた梟に、僕はにっこりと微笑みかけた。
「寮長、僕、上手くやれましたか?」
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