微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

20 にわか雨

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 友情は、喜びを二倍にし、悲しみを半分にしてくれる

 それよりも、もっと、いいものを教えてあげるよ
 二倍なんてケチな事はいわないやつさ




 部屋からつまみ出された鳥の巣頭が、ドアをドン、ドンと叩いて煩くて仕方がない。僕は持参していた携帯プレーヤーのイヤホンを耳に差し込んだ。
 鳥の巣頭が選曲してくれた、パイプオルガンのフーガばかりを集めた楽曲集。僕の大のお気に入り。スラブ系だからって、ストラヴィンスキーが好きって訳じゃない。僕が一番好きなのは、バッハだもの。

 バッハのフーガはウロボロスに似ている。
 重厚な鱗で包まれた、拡大と縮小が繰り返される蛇の腹。ジョイントを吸い込む。世界が広がる。吐き出す。世界は押しつぶされて、溶け出す。それは、僕を呑み込み、僕が呑み込んだ蛇。呼吸する蛇――。

 ウロボロスの体内は、死の番人アヌビスの闇の世界。でも蛇の酸はそれさえも溶かすんだ。


 僕は天井のシャンデリアを囲む円形の葉を眺めていた。ぐるぐると回り続けるウロボロス。自分の尻尾を咥えたまま。滑稽な蛇――。

 僕がクスクスと笑い出したので、アヌビスが怪訝な顔で頭をもたげた。

「なんだ?」
「あの天井の模様、滑稽だよ」

 アヌビスはどうでもよさそうに、姿勢を戻す。
 僕は目を瞑って、フーガの旋律に集中する。白い霧の中、波が押し寄せる。乳白色の、透けるような柔らかな波。真珠のように輝く。初めは緩やかに打ち寄せ、静かに引いていく。段々と、激しく荒く。そして僕は攫われる。闇の奥底に。深淵の底で微睡む僕。僕は束の間、僕に逢える。

 白い煙の細い細い糸を紡いで出来た繭の中で、僕は微睡む。誰にも邪魔されずに。





 ぐっすり眠っていたんだ。

 それなのに、ぐずぐずとしたすすり泣きで起こされた。

「マシュー、きみは僕にどうして欲しいの?」

 目を開けた僕に、鳥の巣頭は涙でぐしゃぐしゃの顔を向けた。昨夜、アヌビスにぶたれた頬が腫れあがっている。

 煩いな、今すぐ寝させて欲しいよ。

 面倒臭くて何も応えなかった。

「マシュー、」
「今、何時?」

 窓の外はどんよりと曇っていて、今が朝なのか、お昼なのかも判らない。

「十時半」

 鳥の巣頭の頬に、僕の冷たい指先をあてた。

「可哀想に。痛かったろう?」

 身体を起こして、その赤く腫れ上がった頬を思い切りよくバシッと叩いた。非力な僕では、こいつを倒れ込ませるなんて無理だったけれど。

「嬉しい? ほら、これでまた一歩、きみは僕に近づけたよ。僕はね、きみに僕の痛みを共有して欲しいんだ。だって、友達だもの。喜びは倍に。痛みは半分に、ていうものね」

 にっこりと微笑む僕を、鳥の巣頭は、目を見開いて見つめていた。

 僕は自分の足で浴室に行った。一人で。

 ほら、ジョイントさえあれば、そんな酷いことにはならないだろ?




 午後は僕の自由な時間。鳥の巣頭はピアノのレッスン。白樺の林でゆっくりとジョイントを吸える。あまり浮かれた様子で食事の席に出てくるな、とアヌビスには怒られたけれど、のんびり安心して吸えるのがこの時間のここか、浴室くらいしかないのだから仕方がない。 

 曇天っていうのも、綺麗なものだよ。
 重なる白がどんどんと黒ずんでいくみたいで。薄光と影の競艶。何層にも連なるフィルターを通して見る水分を含んだ空気は、それは煌びやかに輝くんだ。おまけにこんな日は、草いきれが網のように絡まりあって僕を包んでくれる。

 目を細め、ジョイントを燻らせながらこの美しい世界を眺める。
 僕はこの世界をこんなにも愛している。



 小径から逸れた林の中にいた僕の前に、黒のロングブーツが立ち止まった。
 顔を上げる。子爵さまだ。何か言っている。
 イヤホンを耳から片方引き抜いた。

「失礼しました。何か、おっしゃいましたか?」
 せいぜい無礼のないよう訊ねてみた。子爵さまは片眉を上げて苦笑している。
「何を聴いているの?」

 驚いたことに、子爵さまは僕の横に腰を下ろした。
 僕はイヤホンの片方を差し出した。もう片方は耳に付けたまま。僕のこの貴重な時間を邪魔されるのが嫌だった。

「バッハの平均律?」

 子爵さまは、ずいぶんと驚いた顔で僕を見た。
「きみも何か演奏するの?」
 首を横に振る。
「プレップでは聖歌隊にいたのですが、声変わりが早かったので今は何も」
「それは残念だったね」

 それから子爵さまはもう何も訊ねなかった。だから、二人でそのまま片方の耳に流れてくるハープシコードの音色に埋没していた。


「あ、」
 子爵さまが空を見上げた。

 薄明を透かす雲からきらきらと輝くビーズ。ぼんやりと見とれている内に、それは大粒の礫となって叩きつけてきた。

「こっちに。ここからなら小屋の方が近い」
 立ちあがった子爵さまの耳からイヤホンのコードが抜けて落ちた。僕は耳に差したまま、彼に続いて森に向かって走った。



 ほんのわずかな距離だったのに、僕たちはびしょ濡れになっていた。

 乗馬服姿の子爵さまは、ジャケットを脱いで長い前髪を掬い上げて水気を払っている。
「やれやれ、とんだ目にあったね」
 言葉とは裏腹に、にっこりと笑っておっしゃった。


 僕は、それどころじゃなかった。僕は、濡れた服が大嫌いなんだ。確か、確か――。

「着替えてもいいですか?」

 ジョイントの匂いがつくのを嫌って、アヌビスが着替えを何着か置いていたはず。もう何ヶ月も前になるけれど――。

 籠の中に無造作に置かれたそれを見つけて、ほっと安堵のため息を吐いていた。早く着替えたい。濡れた衣服を剥ぎ取りたい。

 おそらく真っ青になっているであろう僕を見て、子爵さまは軽く目を瞠ったようだった。
 子爵さまに背を向けて、急いでシャツも、トラウザーズも脱ぎ捨てた。そこにあった、埃臭いタオルで身体を拭いた。蔦のように絡みついていた恐怖心が少し薄らいでくる。

 吐息が漏れる。

 アヌビスのシャツは大き過ぎ、剥き出しの脚は細く、青白く、みっともない。やっと少しだけ冷静さを取り戻せたのか、ふと背中の痕のことを思い出した。

 見られた!

 血の気が引く思いだった。

 怖々と後ろを振り返ると、子爵さまはお行儀よく背を向けてくれていた。

 また、ほっと息を継いだ。

 子爵さまは、そのまま顔を窓に向け外を眺めていた。

 濡れたシャツから携帯プレーヤーを取り出してイヤホンを片耳に差し込むと、壁の傍にしゃがみ込んだ。

 立て続けにくしゃみが出た。かじかんで小刻みに震え出した身体を自分自身で抱き締めた。
 ポケットのジョイントは、きっと湿気てしまっている。ケースに入れておけばよかった……。

 ジョイントさえあれば、こんな寒さ――。


「小ぶりになったから、先に戻るよ。誰かに着替えと傘を持ってこさせるから、きみはここで待っているといい」

 子爵さまは急に振り返ってそう言うと、きちんと水分を拭き取ってあるジャケットを僕の剥き出しの脚に掛けて、小屋を出て駆けっていった。



 雨音がフーガの旋律のように切れ目なく屋根を叩く。雨だれがガラスを伝う。雨はちっとも小雨じゃなかった。






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