微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

14 白い輝き

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 ウロボロスは捻れて閉じたメビウスの環
 僕が蛇の内にいるのか、蛇が僕の内にいるのか、
 僕にはもう判らない 




 僕は本当にラッキーだった。
 百足の男は、僕にジョイントをくれたんだ。
 おかげで痛みはなかったし、久しぶりにハイになれたよ。
 楽しくって仕方がない。


 梟が、ベンチに寝転がったまま宙を見つめる僕に近寄ってきた。そして、軽く眉を寄せて僕を見下ろした。
「ご苦労様」
 刹那、苦笑して僕の髪にコロンを振りかける。
「ミント――、寮長の香り――」
「鼻がいいな。『地中海の庭』、同じものを使っているだけだ」

 梟は普段コロンはつけないのに。

 それから梟は、僕の口に『アフターエイト』を咥えさせた。それは半分どろどろで、僕は上を向いて口内に落とし、唇の周りにべったりとついたチョコレートを、ゆっくりと舐めとった。ミントの香りと、白い甘味が僕をクリアにする。

 ミントと、カカオと、地中海の庭が交じり合う。
 ジョイントの匂いを覆い隠す地中海の庭はどこか刺激的だ。僕は内も外も清涼なミントで透明になる。磨硝子の窓を通り抜ける淡い光は、埃っぽいこの部屋の空気すらきらきらとした宝石に変える。僕はその中にこっそりと混ざり込むのだ。誰も僕に気がつかない。誰にも僕は見えない。僕がどこにもいないなんて、なんて気持ちがいいんだろう。

 おかしくて、たまらない――。

 梟は僕の口を濡れたタオルで拭き、身体を拭き、服を着せて、ネクタイを結び、おまけに髪に櫛まで入れてくれた。




 クリケット場に戻った時には、ずいぶん時間が経っていた。

 両親は梟に頼まれた誰かに案内されて特等席でボートの儀式を見学し、今はクリケットを観戦中だ。父はここで知己と再会して、懐かしそうに語り合い、母は母でその夫人と談笑していた。
「まぁ、もう平気なの? もっと休んでいらっしゃい」
 母が心配そうに僕を見る。

 梟が、僕はこの陽気のせいで暑さに倒れ医療棟で休んでいる、と伝えたからだ。しばらく休めばよくなるから、お二人は催しを楽しんでいて、と僕が言っていた、と。
 僕は梟に感謝した。お陰で父母に心配をかけずに済んだ。やはり、梟は優しいのだ。



「ソールスベリーだ」
 梟が呟いた。見あげた僕にちらと目をやり、「ストライカーが奴だよ」
 と軽く顎をしゃくる。

 フィールドは遠すぎて、それに彼はヘルメットを被っていて、僕からは、僕が似ているという彼の顔は見えなかった。

 ただ澄み渡る青空の、明る過ぎる陽光を恐れることもなくすっと佇む、全身白のユニフォームに身を包んだ彼の上品で清廉な姿態は、この距離からであっても他を圧倒し、抜きん出て人目を惹きつけ、鮮やかな芝の緑に浮き上がり輝いて見えた。

 彼は、陽の当たる場所に当たり前に立っている。


「また彼の一人勝ちだよ」
 いつの間にか横にいた蛇が苦笑いしている。

 カーンと、綺麗な打撃音と共に白球が空高く飛んだ。


「彼の打席で試合は終わりそうだな」
 梟は真剣に、ランをする打者を目で追っている。
「今年もハーフセンチュリー達成、間違いないね」
「カレッジ寮の運動音痴どもを率いての頭脳戦だろ? よくやるよ」
「相変わらず容赦ない試合運びだったよ。紳士面したラザフォードとは大違いだ」

 呆れたような口調で話しながらも、二人とも、視線はピッチに立つ彼に釘づけにされている。

 後ろから急に腕を掴まれた。
「マシュー」
 鳥の巣頭だ。

 僕の横に立つ寮長の事を気にしながら、鳥の巣頭は僕を人垣から外れたテントの下に引っ張っていった。
 寮長はちらと僕たちを見たけれど、何も言わなかった。

「大丈夫? また目の下が真っ黒になっている。酷いクマだよ」

 ああ、久しぶりにジョイントを吸ったからね。

「今日の準備で忙しかったからかな。緊張してあまり眠れなかったんだ」

 僕はこいつを安心させるために微笑む。

「顔色も悪いよ。座っておきなよ」
 こいつはいそいそとパイプ椅子を運んでくる。

「ありがとう」

 ああ、確かにそろそろ効き目が切れてきたところだよ。

 僕は倒れかかるように腰を下ろした。目を瞑ると、さっきの白い輝きが、残像のように残っていた。




 そうして僕はまた蛇の体内に戻ったのだ。冷たくて熱い。べたべたとしてねっとりして、そのくせ薄い皮膜のような蛇の腹に――。

 蛇の冷たい鱗が僕を刺激し、あの赤い舌が僕を這いずる。僕は蛇に巻きつかれたまま蛇を呑み込む。

 そう、僕は気づいたんだ。
 蛇が僕を呑み込んでいるんじゃない。
 僕が蛇を呑み込んでいるのだということに。

 ウロボロスの体内で僕は微睡み、僕の中で蛇が目覚める。白い輝きと共に――。






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