微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

11 四月 罰

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 林檎を食べたイブは自ら楽園を捨てたんだ
 蛇から自由になるために



 寮長は僕の顔をちらと見るなり眉をひそめた。おもむろに歩みより、僕の顎をぐいっと上向かせる。
「本当にしょうがない子だね、きみは。ほら、脱いで」
 僕は震える指先でネクタイを解いた。ボタンを一つ一つ外していく。ウエストコート、ウイングカラーシャツ……。

「おまけに誰にでも尻尾を振る。興ざめだね」
 汚いものでも見るように僕を見て、呆れたように嘆息する。


「さて、どうするかな?」
 寮長は、隣に座る副寮長を振り返る。僕は顔を伏せたまま、怖々と二人を盗み見ていた。
「服を着ろよ。風邪まで引かれちゃかなわない」
 副寮長は、冷たい灰色の瞳でそう言い放つと、ローテーブルをトントンと煙草で叩き、火を点けた。カタン、と銀のライターが鈍く光る。ウイングクロスの細工が見えた。

「おい、ここで吸うなよ。仮にも寮長室だよ」
 寮長が目を細めてくすくすと笑う。副寮長は、「香水でも撒いておけよ。『ナイルの庭』でもさ」とにやりと笑って、煙草を吸い続けている。


 寮長は額に長い指を当て、笑っている。
 僕は指が震えて上手くボタンが留まらない。
 寮長が楽しそうに笑っている。

 ぐずぐずとテールコートに袖を通している僕。
 寮長はもう僕を見もしない。


「本当にソールスベリーに似ているな」
 副寮長が僕を見ている。
「似ても似つかない。彼は誰にも踏み込めない雪原だよ。こんな手垢まみれの子とは違う」
「紛い物でも充分使えるさ。俺がしつけ直しても構わないか? こんな顔色じゃ、使えるものも使えない」
「構わないよ。きみの好きにするといい」

 僕の目の前で、僕の受け渡しがされている。
 僕は身を竦めて副寮長をそっと盗み見る。

 訳が判らない人。
 僕はこの人をあまり知らない。あの時だっていなかった。集会にも来ない。
 闇のような人だと思った。
 闇に溶け込むふくろうのような。
 羽のようなこげ茶の髪。思慮深そうな瞳。底のない、淵のような瞳――。

 寮長はまだ笑っている。とても楽しそうに。




 共同部屋へ戻るなり、涙がぼろぼろと溢れてきた。

 ベッドに転がって本を読んでいた鳥の巣頭がすっ飛んで来た。
「どうしたの、マシュー? また寮長に酷いことをされたの?」
 心配そうに覗き込む。僕はただ頭を横に振って、鳥の巣頭の首筋に抱きついてぐずぐずと泣いた。涙が止まらなかった。


 怖かったのだ。酷く怖かった。

 学校から離れている時は、あの蛇から自由になれたことが嬉しくて堪らなかったのに。アヌビスは欲しいだけジョイントをくれるし、楽しくて仕方なかったのに。

 寮に戻って来て、蛇の邪眼に睨まれた途端に、全ての恐怖が呼び覚まされた。

 それなのに、僕を見ない蛇はもっともっと怖かった。心の底から怖かったんだ。あの蛇に見捨てられることが。


「もう嫌だ。消えてしまいたい」

 僕は鳥の巣頭の耳許で囁いた。こいつは、ぎゅっと僕を抱きしめてくれ、優しく僕の背中を摩ってくれた。

「大丈夫だよ、マシュー。僕がついているからね」

 キィ、パタンとドアが開いて、閉まった。他の奴らが気を利かして部屋を出たのだ。元学年代表の鳥の巣頭には、いろんな子が泣きついてきていたから。そんな時は、僕らは部屋を明け渡して談話室か自習室へ行っていた。

 鳥の巣頭は、慣れたふうに僕をベッドに座らせた。ふわりと抱きしめ、僕の髪を撫でてくれた。
 涙が止まらなかった。

「大丈夫だよ」

 こいつはほんわりと温かくて、僕の心の苛立ちも、恐怖も、少しずつ凪いでいった。この心にぽっかりと灯った温もりに何だかほっとして、僕はこいつにキスをあげた。こいつはびくりと一瞬跳ね上がったけれど、僕にぎこちないキスを返してきた。

「マシュー、一体、何があったの?」
 僕を抱きしめる腕に力を込め、耳許で絞り出されたその声に、僕は応えることができなかった。


 そのうち消灯時間が近づいてきて、僕ははたと気がついた。
 僕は何て愚かだったのだろう。
 みんながいるのに、こんなところで着替えられる訳がないじゃないか……。もう着替えて、点呼の用意をしなきゃいけないのに。
 仕方がないから、急いでシャワー室へ行く事にした。鳥の巣頭がついてくるという。また、倒れたらいけないからって。

 どうしよう……。
 着替えを個室に持って入ればいいか……。
 ああ、面倒くさい。蛇なら僕に痕なんか残さなかったのに!

 シャワー室は、五つの個室に分かれている。普通は服を脱いでから個室に入るけれど、中で着替えてしまえばいい。それが一番いい方法に思えた。



 シャワー室に向かう廊下を塞ぐように、上級生がたむろしている。四、五人、いやもっとか。僕はぼんやりと彼らを見上げた。

「学年代表、この階のトイレに案内してくれるか?」
 一人が僕の腕をぐいと引っ張った。
「先輩、ここは一学年専用で、」
 鳥の巣頭が、緊張でぎくしゃくしながら抗議している。

「ああ、俺たちの棟は使用禁止なんだ。今日一日、ここの階を使えって」
「公衆トイレなんだから誰が使おうと構わないだろ?」
 そいつは僕の肩に腕を廻して言った。周りの奴らが下卑た笑い声を立てる。
「お前、こいつの代わりに点呼についてくれるかい? 北側トイレ使用中は、こいつに番をして貰うから。他の下級生を驚かしちゃいけないものな」

「お前の兄貴に礼を言っておいてくれ」

 別の一人が、鳥の巣頭の額を指でピンと弾いて、にたりと笑った。
 鳥の巣頭の顔から血の気が引いていく。



 僕は手首を掴まれ引きずられるように連れて行かれながら、これからされることをぼんやりと思い描いていた。

 これは、罰だ。

 ほら、やっぱりあの蛇が僕を自由にするはずがないんだ。
 僕は、未だにウロボロスの腹の中。
 また、あの酸でどろどろに溶かされるんだ。形がなくなるまで。


 僕はどこか、安堵していたのだ。






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