12 / 200
一章
11 四月 罰
しおりを挟む
林檎を食べたイブは自ら楽園を捨てたんだ
蛇から自由になるために
寮長は僕の顔をちらと見るなり眉をひそめた。おもむろに歩みより、僕の顎をぐいっと上向かせる。
「本当にしょうがない子だね、きみは。ほら、脱いで」
僕は震える指先でネクタイを解いた。ボタンを一つ一つ外していく。ウエストコート、ウイングカラーシャツ……。
「おまけに誰にでも尻尾を振る。興ざめだね」
汚いものでも見るように僕を見て、呆れたように嘆息する。
「さて、どうするかな?」
寮長は、隣に座る副寮長を振り返る。僕は顔を伏せたまま、怖々と二人を盗み見ていた。
「服を着ろよ。風邪まで引かれちゃかなわない」
副寮長は、冷たい灰色の瞳でそう言い放つと、ローテーブルをトントンと煙草で叩き、火を点けた。カタン、と銀のライターが鈍く光る。ウイングクロスの細工が見えた。
「おい、ここで吸うなよ。仮にも寮長室だよ」
寮長が目を細めてくすくすと笑う。副寮長は、「香水でも撒いておけよ。『ナイルの庭』でもさ」とにやりと笑って、煙草を吸い続けている。
寮長は額に長い指を当て、笑っている。
僕は指が震えて上手くボタンが留まらない。
寮長が楽しそうに笑っている。
ぐずぐずとテールコートに袖を通している僕。
寮長はもう僕を見もしない。
「本当にソールスベリーに似ているな」
副寮長が僕を見ている。
「似ても似つかない。彼は誰にも踏み込めない雪原だよ。こんな手垢まみれの子とは違う」
「紛い物でも充分使えるさ。俺がしつけ直しても構わないか? こんな顔色じゃ、使えるものも使えない」
「構わないよ。きみの好きにするといい」
僕の目の前で、僕の受け渡しがされている。
僕は身を竦めて副寮長をそっと盗み見る。
訳が判らない人。
僕はこの人をあまり知らない。あの時だっていなかった。集会にも来ない。
闇のような人だと思った。
闇に溶け込む梟のような。
羽のようなこげ茶の髪。思慮深そうな瞳。底のない、淵のような瞳――。
寮長はまだ笑っている。とても楽しそうに。
共同部屋へ戻るなり、涙がぼろぼろと溢れてきた。
ベッドに転がって本を読んでいた鳥の巣頭がすっ飛んで来た。
「どうしたの、マシュー? また寮長に酷いことをされたの?」
心配そうに覗き込む。僕はただ頭を横に振って、鳥の巣頭の首筋に抱きついてぐずぐずと泣いた。涙が止まらなかった。
怖かったのだ。酷く怖かった。
学校から離れている時は、あの蛇から自由になれたことが嬉しくて堪らなかったのに。アヌビスは欲しいだけジョイントをくれるし、楽しくて仕方なかったのに。
寮に戻って来て、蛇の邪眼に睨まれた途端に、全ての恐怖が呼び覚まされた。
それなのに、僕を見ない蛇はもっともっと怖かった。心の底から怖かったんだ。あの蛇に見捨てられることが。
「もう嫌だ。消えてしまいたい」
僕は鳥の巣頭の耳許で囁いた。こいつは、ぎゅっと僕を抱きしめてくれ、優しく僕の背中を摩ってくれた。
「大丈夫だよ、マシュー。僕がついているからね」
キィ、パタンとドアが開いて、閉まった。他の奴らが気を利かして部屋を出たのだ。元学年代表の鳥の巣頭には、いろんな子が泣きついてきていたから。そんな時は、僕らは部屋を明け渡して談話室か自習室へ行っていた。
鳥の巣頭は、慣れたふうに僕をベッドに座らせた。ふわりと抱きしめ、僕の髪を撫でてくれた。
涙が止まらなかった。
「大丈夫だよ」
こいつはほんわりと温かくて、僕の心の苛立ちも、恐怖も、少しずつ凪いでいった。この心にぽっかりと灯った温もりに何だかほっとして、僕はこいつにキスをあげた。こいつはびくりと一瞬跳ね上がったけれど、僕にぎこちないキスを返してきた。
「マシュー、一体、何があったの?」
僕を抱きしめる腕に力を込め、耳許で絞り出されたその声に、僕は応えることができなかった。
そのうち消灯時間が近づいてきて、僕ははたと気がついた。
僕は何て愚かだったのだろう。
みんながいるのに、こんなところで着替えられる訳がないじゃないか……。もう着替えて、点呼の用意をしなきゃいけないのに。
仕方がないから、急いでシャワー室へ行く事にした。鳥の巣頭がついてくるという。また、倒れたらいけないからって。
どうしよう……。
着替えを個室に持って入ればいいか……。
ああ、面倒くさい。蛇なら僕に痕なんか残さなかったのに!
シャワー室は、五つの個室に分かれている。普通は服を脱いでから個室に入るけれど、中で着替えてしまえばいい。それが一番いい方法に思えた。
シャワー室に向かう廊下を塞ぐように、上級生が屯している。四、五人、いやもっとか。僕はぼんやりと彼らを見上げた。
「学年代表、この階のトイレに案内してくれるか?」
一人が僕の腕をぐいと引っ張った。
「先輩、ここは一学年専用で、」
鳥の巣頭が、緊張でぎくしゃくしながら抗議している。
「ああ、俺たちの棟は使用禁止なんだ。今日一日、ここの階を使えって」
「公衆トイレなんだから誰が使おうと構わないだろ?」
そいつは僕の肩に腕を廻して言った。周りの奴らが下卑た笑い声を立てる。
「お前、こいつの代わりに点呼についてくれるかい? 北側トイレ使用中は、こいつに番をして貰うから。他の下級生を驚かしちゃいけないものな」
「お前の兄貴に礼を言っておいてくれ」
別の一人が、鳥の巣頭の額を指でピンと弾いて、にたりと笑った。
鳥の巣頭の顔から血の気が引いていく。
僕は手首を掴まれ引きずられるように連れて行かれながら、これからされることをぼんやりと思い描いていた。
これは、罰だ。
ほら、やっぱりあの蛇が僕を自由にするはずがないんだ。
僕は、未だにウロボロスの腹の中。
また、あの酸でどろどろに溶かされるんだ。形がなくなるまで。
僕はどこか、安堵していたのだ。
蛇から自由になるために
寮長は僕の顔をちらと見るなり眉をひそめた。おもむろに歩みより、僕の顎をぐいっと上向かせる。
「本当にしょうがない子だね、きみは。ほら、脱いで」
僕は震える指先でネクタイを解いた。ボタンを一つ一つ外していく。ウエストコート、ウイングカラーシャツ……。
「おまけに誰にでも尻尾を振る。興ざめだね」
汚いものでも見るように僕を見て、呆れたように嘆息する。
「さて、どうするかな?」
寮長は、隣に座る副寮長を振り返る。僕は顔を伏せたまま、怖々と二人を盗み見ていた。
「服を着ろよ。風邪まで引かれちゃかなわない」
副寮長は、冷たい灰色の瞳でそう言い放つと、ローテーブルをトントンと煙草で叩き、火を点けた。カタン、と銀のライターが鈍く光る。ウイングクロスの細工が見えた。
「おい、ここで吸うなよ。仮にも寮長室だよ」
寮長が目を細めてくすくすと笑う。副寮長は、「香水でも撒いておけよ。『ナイルの庭』でもさ」とにやりと笑って、煙草を吸い続けている。
寮長は額に長い指を当て、笑っている。
僕は指が震えて上手くボタンが留まらない。
寮長が楽しそうに笑っている。
ぐずぐずとテールコートに袖を通している僕。
寮長はもう僕を見もしない。
「本当にソールスベリーに似ているな」
副寮長が僕を見ている。
「似ても似つかない。彼は誰にも踏み込めない雪原だよ。こんな手垢まみれの子とは違う」
「紛い物でも充分使えるさ。俺がしつけ直しても構わないか? こんな顔色じゃ、使えるものも使えない」
「構わないよ。きみの好きにするといい」
僕の目の前で、僕の受け渡しがされている。
僕は身を竦めて副寮長をそっと盗み見る。
訳が判らない人。
僕はこの人をあまり知らない。あの時だっていなかった。集会にも来ない。
闇のような人だと思った。
闇に溶け込む梟のような。
羽のようなこげ茶の髪。思慮深そうな瞳。底のない、淵のような瞳――。
寮長はまだ笑っている。とても楽しそうに。
共同部屋へ戻るなり、涙がぼろぼろと溢れてきた。
ベッドに転がって本を読んでいた鳥の巣頭がすっ飛んで来た。
「どうしたの、マシュー? また寮長に酷いことをされたの?」
心配そうに覗き込む。僕はただ頭を横に振って、鳥の巣頭の首筋に抱きついてぐずぐずと泣いた。涙が止まらなかった。
怖かったのだ。酷く怖かった。
学校から離れている時は、あの蛇から自由になれたことが嬉しくて堪らなかったのに。アヌビスは欲しいだけジョイントをくれるし、楽しくて仕方なかったのに。
寮に戻って来て、蛇の邪眼に睨まれた途端に、全ての恐怖が呼び覚まされた。
それなのに、僕を見ない蛇はもっともっと怖かった。心の底から怖かったんだ。あの蛇に見捨てられることが。
「もう嫌だ。消えてしまいたい」
僕は鳥の巣頭の耳許で囁いた。こいつは、ぎゅっと僕を抱きしめてくれ、優しく僕の背中を摩ってくれた。
「大丈夫だよ、マシュー。僕がついているからね」
キィ、パタンとドアが開いて、閉まった。他の奴らが気を利かして部屋を出たのだ。元学年代表の鳥の巣頭には、いろんな子が泣きついてきていたから。そんな時は、僕らは部屋を明け渡して談話室か自習室へ行っていた。
鳥の巣頭は、慣れたふうに僕をベッドに座らせた。ふわりと抱きしめ、僕の髪を撫でてくれた。
涙が止まらなかった。
「大丈夫だよ」
こいつはほんわりと温かくて、僕の心の苛立ちも、恐怖も、少しずつ凪いでいった。この心にぽっかりと灯った温もりに何だかほっとして、僕はこいつにキスをあげた。こいつはびくりと一瞬跳ね上がったけれど、僕にぎこちないキスを返してきた。
「マシュー、一体、何があったの?」
僕を抱きしめる腕に力を込め、耳許で絞り出されたその声に、僕は応えることができなかった。
そのうち消灯時間が近づいてきて、僕ははたと気がついた。
僕は何て愚かだったのだろう。
みんながいるのに、こんなところで着替えられる訳がないじゃないか……。もう着替えて、点呼の用意をしなきゃいけないのに。
仕方がないから、急いでシャワー室へ行く事にした。鳥の巣頭がついてくるという。また、倒れたらいけないからって。
どうしよう……。
着替えを個室に持って入ればいいか……。
ああ、面倒くさい。蛇なら僕に痕なんか残さなかったのに!
シャワー室は、五つの個室に分かれている。普通は服を脱いでから個室に入るけれど、中で着替えてしまえばいい。それが一番いい方法に思えた。
シャワー室に向かう廊下を塞ぐように、上級生が屯している。四、五人、いやもっとか。僕はぼんやりと彼らを見上げた。
「学年代表、この階のトイレに案内してくれるか?」
一人が僕の腕をぐいと引っ張った。
「先輩、ここは一学年専用で、」
鳥の巣頭が、緊張でぎくしゃくしながら抗議している。
「ああ、俺たちの棟は使用禁止なんだ。今日一日、ここの階を使えって」
「公衆トイレなんだから誰が使おうと構わないだろ?」
そいつは僕の肩に腕を廻して言った。周りの奴らが下卑た笑い声を立てる。
「お前、こいつの代わりに点呼についてくれるかい? 北側トイレ使用中は、こいつに番をして貰うから。他の下級生を驚かしちゃいけないものな」
「お前の兄貴に礼を言っておいてくれ」
別の一人が、鳥の巣頭の額を指でピンと弾いて、にたりと笑った。
鳥の巣頭の顔から血の気が引いていく。
僕は手首を掴まれ引きずられるように連れて行かれながら、これからされることをぼんやりと思い描いていた。
これは、罰だ。
ほら、やっぱりあの蛇が僕を自由にするはずがないんだ。
僕は、未だにウロボロスの腹の中。
また、あの酸でどろどろに溶かされるんだ。形がなくなるまで。
僕はどこか、安堵していたのだ。
0
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説

そんなの真実じゃない
イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———?
彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。
==============
人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので芸風(?)が違うのですが、楽しんでいただければ嬉しいです!

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。



婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる