微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

10 ナイルの庭

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 僕は光と闇の狭間を揺蕩う
 白い煙となって



 沈み込む、柔らかすぎる羽根枕から僕は天井を見上げた。今日も重なり合う葉の陰から、蛇が僕を見張っている。僕は蛇を見て嘲笑った。

 もうお前なんか怖くない。

「マシュー、おはよう。ほら、そろそろ起きなさいな」

 鳥の巣頭の母親だ。毎日、毎日、煩い女。

「おはようございます」
「今日も顔色が悪いわ。もっとしっかりと食べなくちゃ」

 あなたの息子がしつこいからだよ。

「ありがとうございます。でも、」
「本当に綺麗な髪ね。ムラがなくて羨ましいわ。まるでお日さまの光みたい」

 お節介夫人はうっとりと瞳を緩め、僕の髪を何度も撫でている。僕の言うことなんか聞いちゃいない。

「今日はテラスでお食事にしましょう。暖かいもの。いいお天気なの」

 僕はどんよりとした気分で頷いた。反論するのも面倒だった。起き上がるのさえ辛いのに……。

「マシュー」

 ほら、煩いのがもうひとり――。



 朝早くから起こされて、と思っていたのに、日は高く昇りきっていた。空気がやたらに黄色く眩しくて、目を開けていられない。テラスに置かれたラタンのソファーは、頭をもたれるには硬すぎる。僕は向かいに座る鳥の巣頭に声をかけた。

「ここ」僕の隣をパンパンと叩いた。鳥の巣頭がティーカップを持ったまま移動してくる。
「肩を貸して」
 返事を待たずに頭を傾げ、体重を預けた。あまりいい具合じゃない。気に入らない。

 なんとかしろよ――。

 鳥の巣頭の腕に額を擦りつけた。

 カチャッ、と音を立ててティーカップを戻し、鳥の巣頭は身を捩って身体をずらす。
「ほら、膝に頭を置くといいよ、ね、その方が楽だよ」
 上半身を横たえる。顔にかかる僕の髪を、鳥の巣頭は丁寧に避けている。僕の冷え切った頬に、こいつの体温はほんわりと温かい。返しそこねたカイロみたいだ。あのカイロ、どうしたんだろう? 落としたのだろうか――。あそこで。



「おい」
「駄目だよ、兄さん。マシューは今、寝ついたところなんだ。夜にあまり眠れていないみたいなんだよ。ほら、こんなに酷いクマが出来ている。顔色もずっと良くないし……」

 鳥の巣頭の押し殺したような声が聞こえる。僕の肩に置かれた手に僅かに力がこもる。

 けれど、そんな言葉にはお構いなしでアヌビスは僕を乱暴に揺すった。

「起きろ、お前が欲しがっていた菓子、わざわざ買ってきてやったんだ」

 僕の目はパチリと開いた。慌てて身体を起こすと目眩がした。ふわりと倒れそうになった僕を、大きなごつい手が支える。

「なんだ、具合が悪いのは本当なのか。部屋まで送っていってやるよ」

 アヌビスは僕の腕を引っ張り、脚に腕を掛けると軽々と抱き上げた。ついて来ようとする鳥の巣頭を一瞥し、傲慢な声音で制止する。

「二、三時間は寝かせてやれよ。ちゃんとベッドに放り込んでおいてやる」
「ありがとう、兄さん。マシュー、ゆっくり休んで」

 鳥の巣頭はホッとしたように言い、僕はそれに応えてニッコリと微笑んだ。




 でも、運ばれたのは僕の部屋じゃなくて、こいつの部屋だ。おまけに、ベッドではなく腰高窓の傍に下ろされた。クッションが、二つ、三つ投げてよこされる。
「それにでも持たれておけ」
 アヌビスは部屋の窓を次々と全開し、部屋中にシュッ、シュッと何か振りかけて廻っている。まるで何かの儀式みたいだ。

 死の番人が、僕を冥界に送る儀式?

 柑橘系のつんとした香りが鼻を刺す。僕の大嫌いなオレンジの香り。

「何をしているの?」
「こいつが欲しいんだろ? その様子じゃ、小屋まで行けそうにないからな。お前の客室じゃ匂いを誤魔化せない。これは俺の香りだからな、たっぷり撒いても変に思われないんだ」

 アヌビスは胸ポケットをパンッと大袈裟に叩いて、僕の横に腰を下ろす。

「匂いが染みつくのがこいつの欠点だな」
 煙草よりも少し細くて長さは半分ほどの、手巻きのジョイントに火を点ける。
「振りかけていたのはなんていうコロン?」
「ナイルの庭」

 死の番人アヌビスにナイルの庭? 何の冗談だ?

 僕は可笑しくて笑ってしまったよ。

「気に入ったのか?」
 アヌビスの口から白い煙が揺蕩う。
「そのコロン、欲しい」
 取り出した携帯用コロンを僕のポケットに入れ、アヌビスは僕の唇を噛みつくように貪った。

「まだだよ」

 僕は顔を背け、こいつの手首を掴んで僕の口元に引き寄せた。その指に挟まれたジョイントを唇に銜え、吸い込む。

 ゆっくり、ゆっくり、深く、深く――。

 ジャッカルいぬは、ジャッカルいぬらしく、大人しく待っていろ――。





「マシュー、おはよう! 今日でお別れなんて寂しくなるわ。二週間なんてあっという間ね」

 お節介夫人は今日もご機嫌だ。カーテンを引く音がする。目を瞑っていてさえ判る鮮やかな光。

 僕は寝たふりをしながらわざと寝返りをうってシーツをはだけ、腕を伸ばして背中を向けた。僕の大嫌いな柑橘系の香りがふわりと漂う。さすがに少し薄まっている。あいつが部屋を出た後、たっぷり振りかけておいたのに。

 ここはナイルの庭。青々しい透明な水面。僕の身体に瑞々しい果実を実らせ、風に煽られ、爽やかに波立つ。


 あっ、と息を呑む声が聞こえた。


 ほら、もっとよく見ろよ。お前の息子の性癖を。
 乱暴な上に馬鹿力。古いのから新しいのまで、僕の身体はキャンバスだ。

 僕の背に、打ち上げられた花火の華が咲く。

 やっと薄らいできた痣は黄色。昨夜掴まれた手首の痕は鮮やかな赤。腕や背中はまだ痛む紫だ。それに、さぞや沢山の紅の花が咲いていることだろう。昨夜は一晩中、僕の身体に色鮮やかな所有のしるしを刻みつけていたのだから――。


 
 押し殺すような嗚咽が聞こえる。
 僕は柔らかすぎる羽枕に顔を沈め、笑いを咬み殺す。

 走り去る足音。閉まるドア。

 久しぶりに気分がいいよ。
 白い煙にくるまれているみたいだ。




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