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一章
9 三月 森小屋
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蛇のくれた林檎
それは蕩ける蜜の味
僕はそれを「嘘」と名付けた
燭台の炎がゆらゆらと震える。
僕はゆっくりと息を吐く。白煙を、その炎に向けて。吸い込み、立ち昇る。吐き出し、沈み込む。深淵に。誰も僕を傷つけない優しい闇に。この中では全てが溶け合い、混ざり合う。あの蛇でさえ。蛇に巻きつかれ、僕は快楽の海を揺蕩う。蝋燭の煌きと、しめやかな闇の交じり合う永遠――。
「マシュー」
未だ茫とする面を鳥の巣頭に向ける。
僕はいつもの部屋に戻ってくると、すぐに窓枠に腰かけた。ここからの景色が好きなんだ。暗闇にぽつぽつと浮かぶあの灯りが。こことそこを隔てる巨大な蛇を見下ろすのが――。
「平気? すごく顔色が悪いよ」
僕は鳥の巣頭ににっこりと笑いかける。今はとても気分がいいから。
「ありがとう。きみはいつも優しいよね」
僕がにこやかで機嫌がいいのを見てとると、同室の他の奴らまでが寄ってきた。
「マシュー、イースター休暇はどうするの?」
「クリスマスは彼の家に行ったんだろ? 今回は僕の家に来てよ」
僕は笑って小首を傾げる。だってすごく楽しいんだもの。
「うん。ありがとう。でも――」
ちらりと鳥の巣頭を見上げた。鳥の巣頭の目が嬉しそうに輝く。
「ごめんね。もう約束してしまったから」
とても、申し訳なさそうに謝ったよ。だって、僕はとても機嫌が良かったから。
「きみがまた来てくれるの、すごく嬉しいよ。でも、」
二人きりになった時、鳥の巣頭はそっと僕の腕に手をかけて、不安げな瞳を揺らして小声で囁いた。
「お兄さんの事? 大丈夫。もう平気だよ。僕ときみは仲良しなんだし、今みたいな状態はきみが辛いと思って。仲直りできたらその方がいいと思うんだ」
優しく笑い掛けてやったよ。
「きみは……、なんて心が広くて清らかな人なんだ!」
鳥の巣頭は涙を滲ませて呟いた。
僕は顔に笑みを張りつかせたよ。
そうだよ。あいつに用があるんだもの。あの、卑劣な男に――。
僕は何も知らなかった。生徒総監を下ろされたところで、あいつには痛くも痒くもなかった、ってこと。むしろラグビーに専念するために、生徒会を辞めたがっていた、ってこと。だって、もうオックスブリッジの面接は終り、生徒総監という肩書きは必要なかったんだもの。
茶番だ。何もかも。こいつらは、ただ僕をいたぶって楽しんでいるだけ。
「煙草をくれる?」
寮長は笑ってシガレットケースから煙草を取り出し銜えると、火を点けて僕に渡してくれた。僕はゆっくりとそれを吸い込んだ。
「これじゃなくて」
上目遣いにねだる僕の髪に、彼は指を絡ませる。
「駄目だよ、マシュー。あれは思考力を鈍らせるからね。あまり頻繁にやっていると学業に差し支える。きみは学年代表なのだからね。特別のご褒美にしかあげられないよ」
僕の髪を指先で弄ぶ。
僕はがっかりして頭を垂れた。
「これで我慢して」
僕の指から煙草を取り、もう一度、僕の唇に銜えさせる。
僕は首を振って煙草を灰皿で揉み消し、ソファーに横たわった。自分でネクタイを解き、白い喉を仰け反らせて目を瞑る。
ウロボロスの体内は心地よい闇。僕はこの中に横たわる。蛇の酸が僕をどろどろに溶かしていく。
でも足りない。こんなものでは足りない。すぐに明けてしまう闇なんかじゃ、僕は自分を見失ってしまう――。
漆喰天井の円型に装飾された葉の陰で、蛇がチロチロと僕を嗤う。
今回も同じ部屋に通された。勝手が解っている方がいいでしょ、って。
鳥の巣頭の母親は、明るく気のいい優しい美人だ。兄貴の方は母親似だな。嬉しそうに微笑んで、僕を抱きしめキスをくれた。心から歓迎してくれているのが伝わってくる。
「お世話になります」
僕はにっこりと笑った。
母親の後ろには、あの男。平気な顔で笑っている。その顔に、昔、本の挿絵で見たアヌビスが重なった。鍛えられた逞しい身体にジャッカルの頭。僕を噛み砕き、骨の髄までしゃぶった。エジプト神話の死の番人。僕をこの闇へ突き落とした。
「お前、俺と仲良くなりたいんだって? なんだ、味を締めたのか?」
三日も経ってから、奴はやっと僕の部屋にやって来た。
勿体ぶって。ずっと物欲しそうに僕を見ていたくせに。
「煙草を持っているでしょう? 寮長と同じやつ」
あの時、同じ香りがしていたもの。こいつの身体からも――。
「煙草?」
怪訝そうに眉を寄せたけれど、すぐに納得して、ずる賢く唇を歪めた。
「ジョイントか?」
肩を震わせてくっくと嗤う。
「ここじゃ駄目だ。匂いが残る」
僕たちは庭に出た。白樺の林道を抜け、その奥の鬱蒼とした森に分けいった。
やっと辿り着いた板張りの粗末な森小屋の、玄関前の段差に腰を下ろした。僅かに切り開かれた空き地を芽吹き始めた落葉樹がくるりと囲み、その根元には一面黄水仙が咲き乱れていた。
「どうだ、綺麗だろう? 前のスノードロップも良かったがな」
僕はぼんやりと、目の前の景色を見つめる。
不意に、甘い香りが僕を呼んだ。
やっと、だ。
振り返ると、白煙を吹きかけられた。ジャッカルの頭が牙を剥き出して笑っている。
やっと手に入れたジョイントを、僕はゆっくりと、深く、深く吸い込んだ。
黄水仙が輝きを放つ。まるで雨上がりのようにキラキラと、空気の中に金の花粉を撒き散らす。僕を取り囲む大樹の枝に芽吹く新緑は、命の輝き。広がる青空はどこまでも透き通り僕の存在さえ透明に変える。僕は、この吐き出す煙と共に命を支える大地に溶ける。もう、一人ぼっちじゃない。世界はこんなにも優しくて、美しい。
この白く纏いつく煙の中で、僕はどうしようもなく自由だ。
声を立てて笑っていた。
この幸せを分かち合いたい。例えその相手が、死の番人のジャッカルであっても構うものか!
白い灰がポロポロと落ちる。僕の口許からポロポロと――。
全てが灰になって落ち切ったとき、死の番人は僕の手首を掴んで森小屋のドアを開け、引きずるようにして僕をその中に連れ込んだ。
僕は笑っていた。ただ、ただ可笑しくて。
それは蕩ける蜜の味
僕はそれを「嘘」と名付けた
燭台の炎がゆらゆらと震える。
僕はゆっくりと息を吐く。白煙を、その炎に向けて。吸い込み、立ち昇る。吐き出し、沈み込む。深淵に。誰も僕を傷つけない優しい闇に。この中では全てが溶け合い、混ざり合う。あの蛇でさえ。蛇に巻きつかれ、僕は快楽の海を揺蕩う。蝋燭の煌きと、しめやかな闇の交じり合う永遠――。
「マシュー」
未だ茫とする面を鳥の巣頭に向ける。
僕はいつもの部屋に戻ってくると、すぐに窓枠に腰かけた。ここからの景色が好きなんだ。暗闇にぽつぽつと浮かぶあの灯りが。こことそこを隔てる巨大な蛇を見下ろすのが――。
「平気? すごく顔色が悪いよ」
僕は鳥の巣頭ににっこりと笑いかける。今はとても気分がいいから。
「ありがとう。きみはいつも優しいよね」
僕がにこやかで機嫌がいいのを見てとると、同室の他の奴らまでが寄ってきた。
「マシュー、イースター休暇はどうするの?」
「クリスマスは彼の家に行ったんだろ? 今回は僕の家に来てよ」
僕は笑って小首を傾げる。だってすごく楽しいんだもの。
「うん。ありがとう。でも――」
ちらりと鳥の巣頭を見上げた。鳥の巣頭の目が嬉しそうに輝く。
「ごめんね。もう約束してしまったから」
とても、申し訳なさそうに謝ったよ。だって、僕はとても機嫌が良かったから。
「きみがまた来てくれるの、すごく嬉しいよ。でも、」
二人きりになった時、鳥の巣頭はそっと僕の腕に手をかけて、不安げな瞳を揺らして小声で囁いた。
「お兄さんの事? 大丈夫。もう平気だよ。僕ときみは仲良しなんだし、今みたいな状態はきみが辛いと思って。仲直りできたらその方がいいと思うんだ」
優しく笑い掛けてやったよ。
「きみは……、なんて心が広くて清らかな人なんだ!」
鳥の巣頭は涙を滲ませて呟いた。
僕は顔に笑みを張りつかせたよ。
そうだよ。あいつに用があるんだもの。あの、卑劣な男に――。
僕は何も知らなかった。生徒総監を下ろされたところで、あいつには痛くも痒くもなかった、ってこと。むしろラグビーに専念するために、生徒会を辞めたがっていた、ってこと。だって、もうオックスブリッジの面接は終り、生徒総監という肩書きは必要なかったんだもの。
茶番だ。何もかも。こいつらは、ただ僕をいたぶって楽しんでいるだけ。
「煙草をくれる?」
寮長は笑ってシガレットケースから煙草を取り出し銜えると、火を点けて僕に渡してくれた。僕はゆっくりとそれを吸い込んだ。
「これじゃなくて」
上目遣いにねだる僕の髪に、彼は指を絡ませる。
「駄目だよ、マシュー。あれは思考力を鈍らせるからね。あまり頻繁にやっていると学業に差し支える。きみは学年代表なのだからね。特別のご褒美にしかあげられないよ」
僕の髪を指先で弄ぶ。
僕はがっかりして頭を垂れた。
「これで我慢して」
僕の指から煙草を取り、もう一度、僕の唇に銜えさせる。
僕は首を振って煙草を灰皿で揉み消し、ソファーに横たわった。自分でネクタイを解き、白い喉を仰け反らせて目を瞑る。
ウロボロスの体内は心地よい闇。僕はこの中に横たわる。蛇の酸が僕をどろどろに溶かしていく。
でも足りない。こんなものでは足りない。すぐに明けてしまう闇なんかじゃ、僕は自分を見失ってしまう――。
漆喰天井の円型に装飾された葉の陰で、蛇がチロチロと僕を嗤う。
今回も同じ部屋に通された。勝手が解っている方がいいでしょ、って。
鳥の巣頭の母親は、明るく気のいい優しい美人だ。兄貴の方は母親似だな。嬉しそうに微笑んで、僕を抱きしめキスをくれた。心から歓迎してくれているのが伝わってくる。
「お世話になります」
僕はにっこりと笑った。
母親の後ろには、あの男。平気な顔で笑っている。その顔に、昔、本の挿絵で見たアヌビスが重なった。鍛えられた逞しい身体にジャッカルの頭。僕を噛み砕き、骨の髄までしゃぶった。エジプト神話の死の番人。僕をこの闇へ突き落とした。
「お前、俺と仲良くなりたいんだって? なんだ、味を締めたのか?」
三日も経ってから、奴はやっと僕の部屋にやって来た。
勿体ぶって。ずっと物欲しそうに僕を見ていたくせに。
「煙草を持っているでしょう? 寮長と同じやつ」
あの時、同じ香りがしていたもの。こいつの身体からも――。
「煙草?」
怪訝そうに眉を寄せたけれど、すぐに納得して、ずる賢く唇を歪めた。
「ジョイントか?」
肩を震わせてくっくと嗤う。
「ここじゃ駄目だ。匂いが残る」
僕たちは庭に出た。白樺の林道を抜け、その奥の鬱蒼とした森に分けいった。
やっと辿り着いた板張りの粗末な森小屋の、玄関前の段差に腰を下ろした。僅かに切り開かれた空き地を芽吹き始めた落葉樹がくるりと囲み、その根元には一面黄水仙が咲き乱れていた。
「どうだ、綺麗だろう? 前のスノードロップも良かったがな」
僕はぼんやりと、目の前の景色を見つめる。
不意に、甘い香りが僕を呼んだ。
やっと、だ。
振り返ると、白煙を吹きかけられた。ジャッカルの頭が牙を剥き出して笑っている。
やっと手に入れたジョイントを、僕はゆっくりと、深く、深く吸い込んだ。
黄水仙が輝きを放つ。まるで雨上がりのようにキラキラと、空気の中に金の花粉を撒き散らす。僕を取り囲む大樹の枝に芽吹く新緑は、命の輝き。広がる青空はどこまでも透き通り僕の存在さえ透明に変える。僕は、この吐き出す煙と共に命を支える大地に溶ける。もう、一人ぼっちじゃない。世界はこんなにも優しくて、美しい。
この白く纏いつく煙の中で、僕はどうしようもなく自由だ。
声を立てて笑っていた。
この幸せを分かち合いたい。例えその相手が、死の番人のジャッカルであっても構うものか!
白い灰がポロポロと落ちる。僕の口許からポロポロと――。
全てが灰になって落ち切ったとき、死の番人は僕の手首を掴んで森小屋のドアを開け、引きずるようにして僕をその中に連れ込んだ。
僕は笑っていた。ただ、ただ可笑しくて。
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