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一章
8 供物
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ものごとには順序がある
願いを叶えるにも順序がある
やっぱりいりません、なんて、通らない――
真っ白な天井が視界に映る――。
目覚めた場所はベッドの上だった。あの男、僕を医療棟へ運ぶ程度の良心はあったのか。
誰かが僕の手を握り締めている。僕はこの手を知っている。だから、顔を向けることすらしなかった。その手の甲に添えられた柔らかな頬が、しとどに濡れていた。
「どうして……、どうしてきみばかりがこんな酷い目に遭うんだ」
――愚問だね。僕にそれだけの価値があるからさ。
心配要らない。錆色のきみがこんな思いをすることはないよ。
ゆっくりと視線を彷徨わせ、鳥の巣頭を探した。僕の瞳の焦点がやっと自分に向いたので、鳥の巣頭は慌てて何度も瞼を瞬かせて、拳で涙を拭っている。
「誰がこんな酷いことをしたの?」
鳥の巣頭の、兄貴と同じ形の双眼が珍しく怒りに燃えている。こいつのこんな顔は初めてだった。いつもビービー泣いているだけのくせに。
「それを、きみが、僕に訊くの?」
僕は冷たく言い放った。
兄貴に訊けよ――。
「もう黙っていられないよ。寮長なんだろう? 僕が寮監に話すから」
僕を見つめる真剣な目。これだから嫌なんだ、頭の悪い奴は。
「やめて。僕は、きみの為に耐えたんだから……」
眉根を寄せたこいつの頬に、僕はそっと手を添えた。
「きみのお兄さん、生徒総監を降りるそうだよ。脅迫されたんだ。きみのことで。シェルターでの写真を撮られていたんだ。きみと僕の。僕は服を着ていなかったし言い訳出来ない。同性愛行為は退学だからね」
そうだよ、お前だけじゃない。僕までとばっちりを食らうんだからな。
「そんな……、何もないのに!」
「誰も信じてくれないよ」
目を見開いて、信じられない、と小さく首を振る鳥の巣頭の震える拳を握ってやった。
「きみを庇うためにお兄さんは生徒総監を降りて、僕は見せしめと報復でこんな……」
さすがに、声が続かなかった。
冗談じゃない。冗談じゃない――。
僕は不本意なまま唇を噛み締めていた。
「――いいんだよ。きみのためだもの。お兄さんを恨まないであげて。全部、きみのためなんだ」
「兄が――? こんな……、こんな、――酷いことを」
鳥の巣頭は座っていたスツールから滑り落ちるように床に跪き、僕の手を両手で握りしめ唇を押し当てていた。
「僕が、兄の代わりにきみに償う」
「そんなこと、いいんだよ」
余計なお世話だ。
お前なんか、どうでもいい。
そんな想いでこいつを見下ろし、僕は、鳥の巣頭のくるくるの巻き毛を指に絡めて撫でていたんだ。
静まり返った夜の医療棟はがらんと広く、他に誰もいない病室でひとり目を瞑ると、無限の闇の中に放り出されたかのよう。
闇は僕を優しく包むのに、意識が眠りに落ちかけた途端、誰かの手が身体を弄る。僕はびくりと跳ね起きる。何度も、何度も。沢山の手が、僕を這いずり寝かせてくれない。こんなに疲れているのに――。僕は闇の中に逃げ込んだ。この手から逃れて。奥へ。奥へ。
やっと、うとうととしかけた頃、つんとした消毒液の清潔な匂いの中に、微かに甘やかな香りが交じり混んでいる気がして、僕はまた意識をもたげていた。
「マシュー、ああ、良かった。きみの顔に傷がつかなくて」
蛇が僕を覗き込んでいる。窓から差し込む月明かりが、薄闇の中、鈍く輝く金の鱗を照らし出していた。
僕は祭壇の子羊だ――。
僕が学年代表になるのは決まっていたのだ。
僕が学年代表になれなかったのは、決してあいつより劣っていたからじゃない。
あの男を引きずり下ろすための祈りに、生贄の供物が必要だったから。
この男は、僕を祭壇に捧げ、生徒総監の地位を得た。
闇の中に隠れていた、もうひとりの僕が、そう教えてくれた。
「二、三日で寮に戻れるそうだよ。彼ら、そんなに手荒な真似はしなかったろう? 慣れているからね」
蛇は、薄闇に透ける瞳を細め、身を屈め僕の唇を喰んだ。ちろちろとした赤い舌を差し入れゆっくりと這わせる。と、すっと顔を離して眉根を寄せた。
「口の中を切ったの? 血の味がする。可哀想に。大丈夫、もう何も心配要らないよ。これからは、僕の傍においてあげるからね」
僕の頬を、喉を、ゆっくりとなぞる指先。ひやりとした爬虫類の感触。
「権力は蜜の味だよ、マシュー。きみにも味あわせてあげる」
僕の胸元に差し込まれた手を、僕はもう冷たいとも、嫌だとも感じなかった。
もう、何も、感じなかった。
願いを叶えるにも順序がある
やっぱりいりません、なんて、通らない――
真っ白な天井が視界に映る――。
目覚めた場所はベッドの上だった。あの男、僕を医療棟へ運ぶ程度の良心はあったのか。
誰かが僕の手を握り締めている。僕はこの手を知っている。だから、顔を向けることすらしなかった。その手の甲に添えられた柔らかな頬が、しとどに濡れていた。
「どうして……、どうしてきみばかりがこんな酷い目に遭うんだ」
――愚問だね。僕にそれだけの価値があるからさ。
心配要らない。錆色のきみがこんな思いをすることはないよ。
ゆっくりと視線を彷徨わせ、鳥の巣頭を探した。僕の瞳の焦点がやっと自分に向いたので、鳥の巣頭は慌てて何度も瞼を瞬かせて、拳で涙を拭っている。
「誰がこんな酷いことをしたの?」
鳥の巣頭の、兄貴と同じ形の双眼が珍しく怒りに燃えている。こいつのこんな顔は初めてだった。いつもビービー泣いているだけのくせに。
「それを、きみが、僕に訊くの?」
僕は冷たく言い放った。
兄貴に訊けよ――。
「もう黙っていられないよ。寮長なんだろう? 僕が寮監に話すから」
僕を見つめる真剣な目。これだから嫌なんだ、頭の悪い奴は。
「やめて。僕は、きみの為に耐えたんだから……」
眉根を寄せたこいつの頬に、僕はそっと手を添えた。
「きみのお兄さん、生徒総監を降りるそうだよ。脅迫されたんだ。きみのことで。シェルターでの写真を撮られていたんだ。きみと僕の。僕は服を着ていなかったし言い訳出来ない。同性愛行為は退学だからね」
そうだよ、お前だけじゃない。僕までとばっちりを食らうんだからな。
「そんな……、何もないのに!」
「誰も信じてくれないよ」
目を見開いて、信じられない、と小さく首を振る鳥の巣頭の震える拳を握ってやった。
「きみを庇うためにお兄さんは生徒総監を降りて、僕は見せしめと報復でこんな……」
さすがに、声が続かなかった。
冗談じゃない。冗談じゃない――。
僕は不本意なまま唇を噛み締めていた。
「――いいんだよ。きみのためだもの。お兄さんを恨まないであげて。全部、きみのためなんだ」
「兄が――? こんな……、こんな、――酷いことを」
鳥の巣頭は座っていたスツールから滑り落ちるように床に跪き、僕の手を両手で握りしめ唇を押し当てていた。
「僕が、兄の代わりにきみに償う」
「そんなこと、いいんだよ」
余計なお世話だ。
お前なんか、どうでもいい。
そんな想いでこいつを見下ろし、僕は、鳥の巣頭のくるくるの巻き毛を指に絡めて撫でていたんだ。
静まり返った夜の医療棟はがらんと広く、他に誰もいない病室でひとり目を瞑ると、無限の闇の中に放り出されたかのよう。
闇は僕を優しく包むのに、意識が眠りに落ちかけた途端、誰かの手が身体を弄る。僕はびくりと跳ね起きる。何度も、何度も。沢山の手が、僕を這いずり寝かせてくれない。こんなに疲れているのに――。僕は闇の中に逃げ込んだ。この手から逃れて。奥へ。奥へ。
やっと、うとうととしかけた頃、つんとした消毒液の清潔な匂いの中に、微かに甘やかな香りが交じり混んでいる気がして、僕はまた意識をもたげていた。
「マシュー、ああ、良かった。きみの顔に傷がつかなくて」
蛇が僕を覗き込んでいる。窓から差し込む月明かりが、薄闇の中、鈍く輝く金の鱗を照らし出していた。
僕は祭壇の子羊だ――。
僕が学年代表になるのは決まっていたのだ。
僕が学年代表になれなかったのは、決してあいつより劣っていたからじゃない。
あの男を引きずり下ろすための祈りに、生贄の供物が必要だったから。
この男は、僕を祭壇に捧げ、生徒総監の地位を得た。
闇の中に隠れていた、もうひとりの僕が、そう教えてくれた。
「二、三日で寮に戻れるそうだよ。彼ら、そんなに手荒な真似はしなかったろう? 慣れているからね」
蛇は、薄闇に透ける瞳を細め、身を屈め僕の唇を喰んだ。ちろちろとした赤い舌を差し入れゆっくりと這わせる。と、すっと顔を離して眉根を寄せた。
「口の中を切ったの? 血の味がする。可哀想に。大丈夫、もう何も心配要らないよ。これからは、僕の傍においてあげるからね」
僕の頬を、喉を、ゆっくりとなぞる指先。ひやりとした爬虫類の感触。
「権力は蜜の味だよ、マシュー。きみにも味あわせてあげる」
僕の胸元に差し込まれた手を、僕はもう冷たいとも、嫌だとも感じなかった。
もう、何も、感じなかった。
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