微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

6 一月 赤のネクタイ

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 過ぎてしまえばそんなもの
 大したことじゃない
 僕は、ここにいる



「僕、学年代表を下ろされたよ……」
 窓枠に腰かける僕にぼんやりとした瞳を向けると、鳥の巣頭は小さな声でそう呟いた。僕はちょっと小首を傾げた。

 新学期が始まったばかりだというのに、どういうことだ?

 無言でがっくりと肩を落としているこいつに、訝しげな視線を投げかける。

「つい今しがたまで、寮監に呼ばれていたんだ。大掃除の日、お酒の匂いをぷんぷんさせて真っ赤な顔で歩き回っていた、って言われて……。僕は誤解です、て言ったんだけれど。の、飲んだのは紅茶です、って。でも……寮長のこととか、言えなくて……。言ったら、きみが、その、傷つくんじゃないか、って……」
 とつとつと声を詰まらせて僕に告げながら、鳥の巣頭は自分の足先を見つめていた。

「代わりの学年代表はきみだって」
 最後にぽつりとそうつけ加えた。


 僕は窓の下を蛇行するテムズ川を見下ろした。暗闇に、悠々と横たわる蛇を。掌で口元を覆い、眉根を寄せた。どうしようもなく上がる口角を見られないように。

「夕食後、寮監室に来るように、って。学年代表のネクタイを渡すから、って」

 僕は立ち上がり、おもむろに鳥の巣頭を抱きしめた。
「ごめん。僕のために……。きみは何も恥ずべきことはしていないのに」
 背中にまわした腕に力を込める。
「僕、寮監に話すよ。きみは何も悪くないって」
「駄目だよ! きみまで飲酒を疑われてしまう……。それに、下手したら退学になってしまうもの。僕はいいんだ。もともと学年代表なんて器じゃないし。きみの方がずっと向いているよ」

 そうだよ。よく解っているじゃないか。

 僕に抱きしめられ、硬直して真っ赤になっているこいつの首筋に、僕は頬を擦りつける。びくりと身を縮こまらせるこいつが、心底おかしかった。

「ごめんね」
 囁いた僕を、鳥の巣頭がいきなり抱きしめる。
「きっと、謝罪のつもりなんだと思う。責任ある地位についてこの寮で頑張っていって欲しいって寮長だって反省しているんだよ」

 肩が小刻みに震える。

「ごめん。ごめんよ、思い出させてしまって」

 僕を抱きしめる腕に力が籠る。

 どこまでおめでたいんだ、こいつは――。

 この茶番に飽きて、僕は身をよじって身体を離した。


「夕食に行って。僕はいいから」
 心配そうに見つめる鳥の巣頭に、笑いかけた。
「まだ、みんなの中で食べるのはね……。辛いんだ。顔を合わすかもしれないし」
 悲痛な顔で頷いた鳥の巣頭は、「出来るだけ早く戻って来るから」と不安げな視線を残して部屋を出ていった。



 僕はいつものように引き出しを開けて、ビタミン剤を飲んだ。

 嬉しくて、胸がいっぱいで、豚の餌なんて食べられる訳ないだろ!

 窓枠に腰かけ、眼下の蛇を見下ろす。

 ほらみろ。僕はもういつもの僕だ。何も変わっちゃいない。ちょっと痛い目をみちゃったけれど、ちゃんと道が開けたじゃないか。

 お前なんかに、呑まれるはずがないんだ――。




 鳥の巣頭が戻って来たのと入れ違いに、寮監室に向かいノックする。足を踏み入れた室内で、執務机についていたのは寮長だった。

「やぁ、有意義な休暇をすごせたかい?」

 僕は正しく蛇に睨まれた蛙のよう。一歩も動けず、立ち尽くしていた。寮長は立ち上がり、ゆっくり僕に歩みよる。

「ガラハッド寮学年代表就任おめでとう」

 寮長の長い指先が僕の髪に差し込まれ、一本一本を撫でるようにゆっくりと梳いた。寮長の顔が近づいてくる。僕は身体を強ばらせたまま、顔を背けた。
「どうしたの、今更? 僕は約束を守る男だろう?」
 耳許に、ビロードのように柔らかな囁きと吐息がかかる。ぞわりと肌が泡立った。

 寮長が僕のネクタイを解いていく。僕は目をぎゅっと瞑り歯を食い縛った。抵抗なんて出来なかった。されるがままだ。

 不意に、寮長はクスクスと笑いだした。僕の首に、学年代表の赤いネクタイを回しかけ、首元で器用に手早く結んでいく。

「よく似合っているよ」
 僕の髪をさらりと撫でる。
「何かされると思ったの? そんなに怖がらなくても、何もしやしないよ。こんなところで」

 ふっと、気が抜けて脱力した僕の頬にふわりと唇が触れ、「きみ、本当に可愛いね」冷たい指先がうなじの生え際を擦り上げる。

 と、くるりと踵を返して寮長は執務机につくと、肘を付き指先で顎を支えて僕を見上げた。

「月末の模試が終わったら、集会があるからね、あそこで。きみの紹介はその時に。それまでは、引継ぎとして前任者と行動して構わないよ。以上。そのつもりで」
 寮長は、目を細めてにっこりと微笑んだ。


 僕は一瞬の躊躇ちゅうちょの後、「失礼します」と寮監室を後にした。後ろ手にドアを締めたとたん、どっと冷や汗をかいていることに、今更気づいた。


 赤のネクタイ――。

 一般生徒の青とは違う、ずっと欲しかった権威の証。僕はネクタイの上から、トクトクと早鐘のように脈打つ心臓を掌で押さえた。

 それなのに、寮長の結んだこのネクタイが、首輪をつけ、リードを結びつけでもしているかのように、僕を締めつけ闇に引きずる。



 余りの息苦しさに視界が霞み、僕は――、廊下の途中で意識を手放していた。




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