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一章
5 バスタブ
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これは出口のないウロボロスの環
僕はいまだ、蛇の体内に閉じ込められたまま――
ふわふわのベッドの上にいた。虚ろな瞳に、漆喰天井の円型にレリーフ装飾された葉が映る。灯りの消えたシャンデリアの周囲を囲む、重なり合う葉の陰から蛇が顔を覗かせて、チラチラと赤い舌を出して僕を嗤う。
「マシュー、目が覚めた?」
目を眇め、ゆっくりと声の方へ顔を向けた。身体がねっとりとして気持ちが悪い。
「お腹は空いていない? 食べられそうなら何か持ってくるよ」
「シャワー、」
「ああ! そうだね。浴室はこっちだよ」
駆け寄って差し伸べられた鳥の巣頭の手を、パシリッ、と払い除けた。
ベッドから脚を下ろし、立ち上がる。途端に膝が崩れた。鳥の巣頭が、僕を支えている。掴まれた腕から伝わる体温が気持ち悪い。でも、全身に力なんか入らなくて、僕は無様にこいつに身体を預けていた。
ギシギシと骨が軋む。内側に炎を抱えているみたいに、ジリジリと熱い。
「僕に掴まって」
鳥の巣頭は僕を支えて浴室に連れていってくれた。
湯を張る水音が耳につく。
僕はバスタブの縁に腰かけたまま。肩で荒く息をしていた。
「ボタン、外して」
馬鹿みたいに突っ立ったままでおろおろしている鳥の巣頭を見上げ、懇願するように首を傾けてみせた。
「手を放すと倒れそうなんだ」
バスタブの縁を握り締め、身体を支えている腕は棒きれのように感覚がなかった。
鳥の巣頭はおずおずと手を伸ばし、震える指先でパジャマのボタンを一つ一つ外していった。外し終わると、唇をへの字に曲げて奥歯を噛み締めて僕の背中を支え、袖を一本ずつ抜いてくれた。そのまま、縋りついている僕の腰を浮かさせて、ズボンを落とした。僕はまたバスタブに腰かけ、鳥の巣頭は跪いて僕の脚から絡みつく邪魔物を抜き取った。僕を見上げた暗い瞳は、なぜだか泣き出しそうに震えている。
滑り落ちるように湯船に浸かった。湯はまだ半分に満たなかったけれど。湯が傷口に沁みてひりひりと痛んだ。
出口に足を向けた鳥の巣頭に俯いたまま声をかけた。
「ここにいて。気を抜くと沈んでしまいそうなんだ。力が入らなくて」
鳥の巣頭も俯いたまま。
いつの間にかお湯は溜まり、静まり返った浴室で、湯の中の、自分の身体のあちこちについた痣を一つずつ数えていた。ふと横を見ると、バスタブのすぐ傍にある窓が湯気に白く染まっていた。パシャリ。お湯を跳ね上げ、窓ガラスを擦った。濡れて歪んだ窓越しに、冬枯れた白樺の林が広がっていた。
ふわりと、白金の髪から立ち込める湯気に蒸された甘い香りが纏いつくように漂って――。気持ち悪さに吐き気を覚えた。
「髪、洗って」
咽せ返る香りに、本当にずるずると湯船の中に沈んでしまいそうだったのだ。
僕はまた、ふわふわのベッドの中。石鹸の清潔な香りが僕を包む。
「まだ無理だよ」
「ちょっと顔を見るだけだ」
ぼそぼそとした話声に目を開けた。声の主は、キビキビとした動きで僕のいるベッドに歩み寄ると、ポケットに手を突っ込んだまま、僕の顔を興味深げに覗き込んだ。
「へぇー、本当だ。彼に、似ていなくもない」
「誰に似ているのですか?」
顔に似合わないハスキーな声に驚いたのか、彼はちょっと片眉を吊り上げた。金色の髪が額に零れる。
「三学年生のソールスベリー。言われたことないのか?」
霧のような記憶の中を掻き回した。あるような、ないような、だがその名前には覚えがある。
「ヴァイオリンのひとですね?」
青い瞳がそうだと告げた。
三学年にして、エリオットの伝説。ヴァイオリンの名手。全学年通じての憧れ。本人を見掛けたことはまだないけれど。金の髪に至高の空の色を宿した神秘の瞳の持ち主だという。
「お前、面差しが似ているよ。……綺麗な髪だな、絹糸みたいだ」
長い指がさらりと額の髪を摘んだ。
「まるでリヤドロの磁器人形だ」
指先が頬を撫でた。背筋に悪寒が走る。
「兄さん、彼はまだ熱があるんだよ!」
鳥の巣頭が横で叫んだ。
この男、兄なのか? ちっとも似ていないじゃないか。
――と、いうことは生徒総監? ラグビー部の花形選手だっけ?
僕は千切れて揺蕩う記憶の欠片を必死に集めて、僕を見下ろす傲慢な視線を見つめ返した。
「まぁ、災難だったな。さっさと忘れることだ」
生徒総監は、あっさりそう言うと直ぐに立ち去った。
災難――、災難だって?
意味を成さない単語が木霊する。
「家に連絡しなくちゃ」
迷い込んでいた霧の中から、やっとそこにたどり着けた。
ここは、鳥の巣頭の家だ。
「母が連絡しておいたから。心配しないで」
鳥の巣頭は、身体を起こした僕の背後にクッションを詰め込んで楽により掛かれるように整えて、脚付きトレーに載ったお茶と軽食を僕の膝に置いた。
「ゆっくりしていって。休暇中、ずっといてくれてもいいんだよ」
僕を見つめる鳥の巣頭の憐憫の瞳に、僕は込み上げて来る憎悪で激しく嘔吐いていた。
僕はいまだ、蛇の体内に閉じ込められたまま――
ふわふわのベッドの上にいた。虚ろな瞳に、漆喰天井の円型にレリーフ装飾された葉が映る。灯りの消えたシャンデリアの周囲を囲む、重なり合う葉の陰から蛇が顔を覗かせて、チラチラと赤い舌を出して僕を嗤う。
「マシュー、目が覚めた?」
目を眇め、ゆっくりと声の方へ顔を向けた。身体がねっとりとして気持ちが悪い。
「お腹は空いていない? 食べられそうなら何か持ってくるよ」
「シャワー、」
「ああ! そうだね。浴室はこっちだよ」
駆け寄って差し伸べられた鳥の巣頭の手を、パシリッ、と払い除けた。
ベッドから脚を下ろし、立ち上がる。途端に膝が崩れた。鳥の巣頭が、僕を支えている。掴まれた腕から伝わる体温が気持ち悪い。でも、全身に力なんか入らなくて、僕は無様にこいつに身体を預けていた。
ギシギシと骨が軋む。内側に炎を抱えているみたいに、ジリジリと熱い。
「僕に掴まって」
鳥の巣頭は僕を支えて浴室に連れていってくれた。
湯を張る水音が耳につく。
僕はバスタブの縁に腰かけたまま。肩で荒く息をしていた。
「ボタン、外して」
馬鹿みたいに突っ立ったままでおろおろしている鳥の巣頭を見上げ、懇願するように首を傾けてみせた。
「手を放すと倒れそうなんだ」
バスタブの縁を握り締め、身体を支えている腕は棒きれのように感覚がなかった。
鳥の巣頭はおずおずと手を伸ばし、震える指先でパジャマのボタンを一つ一つ外していった。外し終わると、唇をへの字に曲げて奥歯を噛み締めて僕の背中を支え、袖を一本ずつ抜いてくれた。そのまま、縋りついている僕の腰を浮かさせて、ズボンを落とした。僕はまたバスタブに腰かけ、鳥の巣頭は跪いて僕の脚から絡みつく邪魔物を抜き取った。僕を見上げた暗い瞳は、なぜだか泣き出しそうに震えている。
滑り落ちるように湯船に浸かった。湯はまだ半分に満たなかったけれど。湯が傷口に沁みてひりひりと痛んだ。
出口に足を向けた鳥の巣頭に俯いたまま声をかけた。
「ここにいて。気を抜くと沈んでしまいそうなんだ。力が入らなくて」
鳥の巣頭も俯いたまま。
いつの間にかお湯は溜まり、静まり返った浴室で、湯の中の、自分の身体のあちこちについた痣を一つずつ数えていた。ふと横を見ると、バスタブのすぐ傍にある窓が湯気に白く染まっていた。パシャリ。お湯を跳ね上げ、窓ガラスを擦った。濡れて歪んだ窓越しに、冬枯れた白樺の林が広がっていた。
ふわりと、白金の髪から立ち込める湯気に蒸された甘い香りが纏いつくように漂って――。気持ち悪さに吐き気を覚えた。
「髪、洗って」
咽せ返る香りに、本当にずるずると湯船の中に沈んでしまいそうだったのだ。
僕はまた、ふわふわのベッドの中。石鹸の清潔な香りが僕を包む。
「まだ無理だよ」
「ちょっと顔を見るだけだ」
ぼそぼそとした話声に目を開けた。声の主は、キビキビとした動きで僕のいるベッドに歩み寄ると、ポケットに手を突っ込んだまま、僕の顔を興味深げに覗き込んだ。
「へぇー、本当だ。彼に、似ていなくもない」
「誰に似ているのですか?」
顔に似合わないハスキーな声に驚いたのか、彼はちょっと片眉を吊り上げた。金色の髪が額に零れる。
「三学年生のソールスベリー。言われたことないのか?」
霧のような記憶の中を掻き回した。あるような、ないような、だがその名前には覚えがある。
「ヴァイオリンのひとですね?」
青い瞳がそうだと告げた。
三学年にして、エリオットの伝説。ヴァイオリンの名手。全学年通じての憧れ。本人を見掛けたことはまだないけれど。金の髪に至高の空の色を宿した神秘の瞳の持ち主だという。
「お前、面差しが似ているよ。……綺麗な髪だな、絹糸みたいだ」
長い指がさらりと額の髪を摘んだ。
「まるでリヤドロの磁器人形だ」
指先が頬を撫でた。背筋に悪寒が走る。
「兄さん、彼はまだ熱があるんだよ!」
鳥の巣頭が横で叫んだ。
この男、兄なのか? ちっとも似ていないじゃないか。
――と、いうことは生徒総監? ラグビー部の花形選手だっけ?
僕は千切れて揺蕩う記憶の欠片を必死に集めて、僕を見下ろす傲慢な視線を見つめ返した。
「まぁ、災難だったな。さっさと忘れることだ」
生徒総監は、あっさりそう言うと直ぐに立ち去った。
災難――、災難だって?
意味を成さない単語が木霊する。
「家に連絡しなくちゃ」
迷い込んでいた霧の中から、やっとそこにたどり着けた。
ここは、鳥の巣頭の家だ。
「母が連絡しておいたから。心配しないで」
鳥の巣頭は、身体を起こした僕の背後にクッションを詰め込んで楽により掛かれるように整えて、脚付きトレーに載ったお茶と軽食を僕の膝に置いた。
「ゆっくりしていって。休暇中、ずっといてくれてもいいんだよ」
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