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一章
3 十二月 地下室
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運命の輪が動き出すのはいつも突然だ
ぎしり、と廻り出した時
気付くか、気付かないか、それが分かれ道
クリスマス休暇を前にした日の事だった。
土曜日午前中の課外授業を終え、これから寮の大掃除だ。昨日のうちに、お腹でも壊してしまえば良かった。
だいたいなんだって、僕たちが掃除なんてしなければならないんだ! そんなもの、清掃員の仕事じゃないか! そいつらに払われる給料だって、寮費の中に含まれているはずなのに!
腹が立ってしかたがない。他の寮ではこんなことはしないのに……。
寮長の話では、この歴史あるガラハッド寮のみに伝わる慣習で、普段下級生は入れない特別な部屋にある貴重な品々に触れ、寮への愛着を育むため、とよく解らない、とってつけたような理屈を並べていた。
納得はできないけれど、とにかく、この面倒な伝統を終わらせてしまわなければ家に帰れない――。
僕と鳥の巣頭の受け持ちは、寮の敷地の端っこにある空爆シェルターだ。
地面にある四角い蓋を開け、細長い穴を、ぎしぎしと軋む梯子をつたって地下に下りる。底冷えのする凍てついた空気にぶるりと身震いした。灰色のブロックで囲まれた狭い通路からドアのない部屋に入ると、籠った湿気になぜだか胸が高鳴った。電気の通っていないその薄暗い部屋の中を、持って来ていたランタンで照らし見る。
「今更なんだって、こんなところを掃除するんだろうね?」
鳥の巣頭が不思議そうに呟いた。
「ほら、今でも使っているんじゃないかな」
僕は壁際の書物机に置かれた燭台の蝋燭に、傍らに置いてあった銀のライターで火を灯した。ウイングクロスの細工の施されたこのライターはずしりと重く、ずいぶんと高価そうな品物だ。誰かの忘れ物だろうか。
机、ローテーブル、飾り棚、三方の壁の造り付け。全部で六個の燭台があった。
一本、また一本と蝋燭が灯るたび、徐々に広がる仄暗い輝きに照らしだされていくこの部屋は、僕を刺激し高揚させた。不思議に素敵な場所だったのだ。密閉された秘密の隠れ家。そんな匂いが漂っていた。
臙脂色のソファーに、肘掛け椅子。壁の片面には窓もないのに、ソファーと同色の、ドレープをたっぷり取った重厚なカーテンが掛かっている。絨毯の敷かれた床の上には、クッションや毛布が散乱している。足下に気を付けながら進んで、ひとつひとつの家具を見て回った。このシェルターが造られた時からあるのだろうか。それらはどれも古ぼけていた。だが、どれも不思議に艶やかで、使い込まれた風情があった。
鳥の巣頭と互いに顔を見合わせた。
「とりあえず、バケツに水を汲んでくるよ」
鳥の巣頭は、なんだかキョドキョドと落ち着かない。
「じゃあ、僕は掃除用具を用意しておくね」
にっこりと笑いかけると、彼は頷いて、鞠が跳ねるように慌てて部屋を駆け出した。
ここへ来る前に指示されたとおりに、ブロック壁の狭い通路の隅に置かれていた箒や羽はたきを部屋に移す。鳥の巣頭を待つ間、壁際に置かれたソファーに座った。カーテンの掛かる壁を正面に見据える。甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。この部屋に入った時に感じたのはこの匂いか、と僕は頭を背もたれに重ねる。甘い香りが強くなる。
「マシュー、どうしたの? 気分が良くないの? 顔色が悪いよ」
やっと戻った鳥の巣頭が心配そうに僕を見つめる。
「何でもないよ。ここ、暗いからだよ」
僕は慌てて頭をもたげた。じっとしていると寒いのだ。一人で凍えていたなんて、なんだか酷く惨めな気がした。
「さぁ、早く終わらせてしまおう」
蝋燭の仄暗い灯りでは判らなかったけれど、この部屋はずいぶんと汚れていて、バケツの水はすぐにどろどろになった。僕たちは何度も交代で梯子を上り水を汲み替えた。そうやって忙しく動いていると、芯から凍りつくような寒さも忘れた。テールコートをソファーに掛けて、袖をまくり上げ、丁寧に拭き掃除をやってのけた。
あんなに嫌だった掃除が楽しい。この空間に愛着が湧いていたのだ。湿った空気の中で微かに揺らめく蝋燭の炎。冷ややかなコンクリートの灰色に荘厳な赤。甘やかな香り――。
僕がいつもよりもずっと機嫌良くたくさん喋ったせいか、鳥の巣頭までが浮かれていた。本当に、おめでたい奴。
時間になったので、掃除用具を片付けバケツの水を捨て、手を洗った。何度も匂いを嗅ぎながら石鹸でしっかり擦ってもどこか埃臭くて、僕は一気に気持ちが沈んだ。冷たい水で擦り過ぎて赤くなった手を見て、眉根を寄せた。視線を感じて面を上げると、鳥の巣頭の、あの心配そうなおどおどした瞳があった。
「やはり寒いね。後始末して戻ろうか」
「これで手を温めるといいよ。真っ赤になっているもの」
鳥の巣頭は慌ててポケットから携帯カイロを取り出して貸してくれた。
こんなものを隠し持っていたなんて! もっと早くに、寒いって言えば良かった!
お礼を言ってしばらく両手に握り締めると、そのままそれをトラウザーズのポケットに入れた。鳥の巣頭は文句も言わずに、かえってほっとしたように笑っている。
空のバケツを下げて梯子を下りた。あの部屋に入ると、寮長がポケットに手を突っ込んだまま、ゆったりと部屋の様子を見廻していた。
「やぁ、ご苦労様。綺麗になったね。見違えたよ」
確かに床の上は片付いている。
でも、こんな薄明かりの中で、僕らの苦労が判るわけがないだろ、と僕は心の中で毒突いた。
「ここは寒かっただろ? これを飲んで温まるといい」
寮長は肘掛け椅子に優雅に腰かけ、持参したらしいポットに入った紅茶を携帯カップに注いでくれた。
僕も、鳥の巣頭も慇懃にお礼を言い、カップを受け取りゴクリと飲んだ。ブランデーの芳香が鼻につき、喉を焼いて落ちて流れた。胃の中が急にかっと燃え上がったみたいだ。ちらりと鳥の巣頭を見ると、こいつも僕を困ったように見つめていた。
寮長はにこやかな笑みを湛え、目を細めて僕たちが飲み終わるのをじっと見ている。
「きみ、これを副寮長に届けてくれるかい。彼、ずっと探していたんだよ。急がないと、もうそろそろ出発してしまう。ここは僕が後始末しておくから」
寮長は、僕が見つけた銀のライターを鳥の巣頭に手渡した。
僕も鳥の巣頭に続いて部屋を出ようとすると、「あ、モーガンは残って。まだ用があるんだ」と柔らかな声音で呼び止められた。
視線で座るように促され、仕方なくソファーに座り直した。寮長が、僕の横に移動して座った。
******
トラウザーズ:燕尾服の上着と共生地仕立てのパンツ
ぎしり、と廻り出した時
気付くか、気付かないか、それが分かれ道
クリスマス休暇を前にした日の事だった。
土曜日午前中の課外授業を終え、これから寮の大掃除だ。昨日のうちに、お腹でも壊してしまえば良かった。
だいたいなんだって、僕たちが掃除なんてしなければならないんだ! そんなもの、清掃員の仕事じゃないか! そいつらに払われる給料だって、寮費の中に含まれているはずなのに!
腹が立ってしかたがない。他の寮ではこんなことはしないのに……。
寮長の話では、この歴史あるガラハッド寮のみに伝わる慣習で、普段下級生は入れない特別な部屋にある貴重な品々に触れ、寮への愛着を育むため、とよく解らない、とってつけたような理屈を並べていた。
納得はできないけれど、とにかく、この面倒な伝統を終わらせてしまわなければ家に帰れない――。
僕と鳥の巣頭の受け持ちは、寮の敷地の端っこにある空爆シェルターだ。
地面にある四角い蓋を開け、細長い穴を、ぎしぎしと軋む梯子をつたって地下に下りる。底冷えのする凍てついた空気にぶるりと身震いした。灰色のブロックで囲まれた狭い通路からドアのない部屋に入ると、籠った湿気になぜだか胸が高鳴った。電気の通っていないその薄暗い部屋の中を、持って来ていたランタンで照らし見る。
「今更なんだって、こんなところを掃除するんだろうね?」
鳥の巣頭が不思議そうに呟いた。
「ほら、今でも使っているんじゃないかな」
僕は壁際の書物机に置かれた燭台の蝋燭に、傍らに置いてあった銀のライターで火を灯した。ウイングクロスの細工の施されたこのライターはずしりと重く、ずいぶんと高価そうな品物だ。誰かの忘れ物だろうか。
机、ローテーブル、飾り棚、三方の壁の造り付け。全部で六個の燭台があった。
一本、また一本と蝋燭が灯るたび、徐々に広がる仄暗い輝きに照らしだされていくこの部屋は、僕を刺激し高揚させた。不思議に素敵な場所だったのだ。密閉された秘密の隠れ家。そんな匂いが漂っていた。
臙脂色のソファーに、肘掛け椅子。壁の片面には窓もないのに、ソファーと同色の、ドレープをたっぷり取った重厚なカーテンが掛かっている。絨毯の敷かれた床の上には、クッションや毛布が散乱している。足下に気を付けながら進んで、ひとつひとつの家具を見て回った。このシェルターが造られた時からあるのだろうか。それらはどれも古ぼけていた。だが、どれも不思議に艶やかで、使い込まれた風情があった。
鳥の巣頭と互いに顔を見合わせた。
「とりあえず、バケツに水を汲んでくるよ」
鳥の巣頭は、なんだかキョドキョドと落ち着かない。
「じゃあ、僕は掃除用具を用意しておくね」
にっこりと笑いかけると、彼は頷いて、鞠が跳ねるように慌てて部屋を駆け出した。
ここへ来る前に指示されたとおりに、ブロック壁の狭い通路の隅に置かれていた箒や羽はたきを部屋に移す。鳥の巣頭を待つ間、壁際に置かれたソファーに座った。カーテンの掛かる壁を正面に見据える。甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。この部屋に入った時に感じたのはこの匂いか、と僕は頭を背もたれに重ねる。甘い香りが強くなる。
「マシュー、どうしたの? 気分が良くないの? 顔色が悪いよ」
やっと戻った鳥の巣頭が心配そうに僕を見つめる。
「何でもないよ。ここ、暗いからだよ」
僕は慌てて頭をもたげた。じっとしていると寒いのだ。一人で凍えていたなんて、なんだか酷く惨めな気がした。
「さぁ、早く終わらせてしまおう」
蝋燭の仄暗い灯りでは判らなかったけれど、この部屋はずいぶんと汚れていて、バケツの水はすぐにどろどろになった。僕たちは何度も交代で梯子を上り水を汲み替えた。そうやって忙しく動いていると、芯から凍りつくような寒さも忘れた。テールコートをソファーに掛けて、袖をまくり上げ、丁寧に拭き掃除をやってのけた。
あんなに嫌だった掃除が楽しい。この空間に愛着が湧いていたのだ。湿った空気の中で微かに揺らめく蝋燭の炎。冷ややかなコンクリートの灰色に荘厳な赤。甘やかな香り――。
僕がいつもよりもずっと機嫌良くたくさん喋ったせいか、鳥の巣頭までが浮かれていた。本当に、おめでたい奴。
時間になったので、掃除用具を片付けバケツの水を捨て、手を洗った。何度も匂いを嗅ぎながら石鹸でしっかり擦ってもどこか埃臭くて、僕は一気に気持ちが沈んだ。冷たい水で擦り過ぎて赤くなった手を見て、眉根を寄せた。視線を感じて面を上げると、鳥の巣頭の、あの心配そうなおどおどした瞳があった。
「やはり寒いね。後始末して戻ろうか」
「これで手を温めるといいよ。真っ赤になっているもの」
鳥の巣頭は慌ててポケットから携帯カイロを取り出して貸してくれた。
こんなものを隠し持っていたなんて! もっと早くに、寒いって言えば良かった!
お礼を言ってしばらく両手に握り締めると、そのままそれをトラウザーズのポケットに入れた。鳥の巣頭は文句も言わずに、かえってほっとしたように笑っている。
空のバケツを下げて梯子を下りた。あの部屋に入ると、寮長がポケットに手を突っ込んだまま、ゆったりと部屋の様子を見廻していた。
「やぁ、ご苦労様。綺麗になったね。見違えたよ」
確かに床の上は片付いている。
でも、こんな薄明かりの中で、僕らの苦労が判るわけがないだろ、と僕は心の中で毒突いた。
「ここは寒かっただろ? これを飲んで温まるといい」
寮長は肘掛け椅子に優雅に腰かけ、持参したらしいポットに入った紅茶を携帯カップに注いでくれた。
僕も、鳥の巣頭も慇懃にお礼を言い、カップを受け取りゴクリと飲んだ。ブランデーの芳香が鼻につき、喉を焼いて落ちて流れた。胃の中が急にかっと燃え上がったみたいだ。ちらりと鳥の巣頭を見ると、こいつも僕を困ったように見つめていた。
寮長はにこやかな笑みを湛え、目を細めて僕たちが飲み終わるのをじっと見ている。
「きみ、これを副寮長に届けてくれるかい。彼、ずっと探していたんだよ。急がないと、もうそろそろ出発してしまう。ここは僕が後始末しておくから」
寮長は、僕が見つけた銀のライターを鳥の巣頭に手渡した。
僕も鳥の巣頭に続いて部屋を出ようとすると、「あ、モーガンは残って。まだ用があるんだ」と柔らかな声音で呼び止められた。
視線で座るように促され、仕方なくソファーに座り直した。寮長が、僕の横に移動して座った。
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