微睡む宵闇 揺蕩う薫香

萩尾雅縁

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一章

1 九月 入学

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 ここにいる。
 ここにいることだけが、僕の存在理由。



「おめでとう! 入学おめでとう!」
 温かい抱擁とキスの雨。胸を張り、にこやかな笑みを浮かべてお礼を言う。
 今日は人生最良の日。
 そしてそれは、終わりの始まりの日でもあった。



 黒いローブを翻して、奨学生キングス・スカラーたちが僕の脇を通り過ぎてゆく。堂々と胸を張り、頭を高く上げて。僕は顔に笑みを張り付かせ、かつての友人に会釈する。彼は僕を眼中に入れることもなく、通り過ぎて行った。



 僕に何が足りなかったのか……。何点、足りなかったのか……。

「運がなかったね」と、父は、言ってくれたけれど。通知を開いた瞬間、両親の瞳を掠めた失望の色に、僕は俯いて唇を噛んだ。

 奨学生に選ばれなかった。ただそれだけの事だったのに。

 母は直ぐに満面の笑みで取り繕い、「でも、あの学校に入学出来たのですもの。それだけで素晴らしいじゃないの。凄い競争率だったのですもの」そう言って僕を抱きしめキスしてくれた。

 たった、三倍じゃないか。
 奨学生はそこからもっと凄い倍率を勝ち抜いている。なんたって千三百名近い生徒の内のたった七十名だもの。一学年十四名の狭き門。僕はその門をくぐれなかった。


 秋晴れのこの日、僕は眩しさに顔を上げることすら出来なかった。だから、日溜まりの中に影を探した。



 街中に散らばるエリオット校十二の寮の内のひとつで、僕の入寮するガラハッド寮は、学舎からは一番遠い川縁にあった。この日のために仕立てたスーツを着て、ネクタイを締めた。父母と一緒に重々しい門を潜る。玄関前の中庭で、ウエルカム・ドリンクを渡された。父母にはシャンパンを。僕にはオレンジ・ジュースを。僕は柑橘類のつんとした匂いと、あの酸味が嫌いだ。だから笑って受け取ってお礼を言い、一口、唇を湿らせるフリをしてすぐに母に渡した。母は心得たもので、僕のグラスにチンッと手にした細長いシャンパングラスを打ち合わせると、一気にグラスを空け、立て続けに僕のグラスの方も飲み干してくれた。

 緑に苔むした煉瓦造りの高い塀。日当たりの悪いじめじめした中庭。踏み締められた芝生はそれでも青い。

 寮監の祝辞を聴き、他の保護者との軽い歓談が終わるのを待って、父母とはここでお別れする。

 寄宿学校はここが初めてという訳じゃない。この学校に入るために、僕は八歳からもう五年間も寮暮らしだ。そしてこれからの五年間も。ここが僕の終着点で始発点。この学校に入りさえすれば、人生の勝ち組。一生、困らない。別に、奨学生じゃなくたって……。

 内と外とを分ける、このどこか黴臭くて、陰気臭さい、重厚なオーク材に細かく隙間ないほどに落書きの刻まれた入口が、僕を天国へ導く扉なんだ。……奨学生じゃなくたって、まだチャンスはある。


 僕は手持ち無沙汰に開かれた扉の裏に周り、刻まれた文字を一つ一つ指でなぞった。

 B・R・Y・A・N ―― ブライアン ――

 何故だか、消えかかったこの名前だけがいつまでも記憶の片隅に残っていた。



 入寮初日は、学校案内と規則の説明。
 羊飼いに連れられた羊たちが牧草地を廻るように、従順に大人しく僕たちは列を作ってついて行く。羊飼いは寮監。そして列の最後には、選ばれた最上級生、寮長という名の番犬がいた。
 彼は背が高く上品な、でもどこか茫とした不思議な面差しをしていた。そっと盗み見たつもりだったのに目が合った。すっと細まった彼の青い瞳は爬虫類に似ている。蛇の持つチロチロとした赤い舌のような、青白い顔の中で異様に目立つ朧な唇の朱が笑みを作る。
 そしてそれは、
「よそ見しないで。遅れてしまうよ」
 と、歌うような猫撫で声で優しく告げた。



 寮の部屋は四人部屋だ。
 プレップの頃は八人だったから、少しマシだ。どいつもこいつも大人しい、つまらない奴らばかりだ。僕と同じただの子羊。毒にも薬にもなりはしない。
 窓枠に腰掛けると右手に雑木林が見渡せた。正面にはテムズ川。ボート部の掛け声が遠くに聞こえる。風が冷たい。

「綺麗な髪だね。日に透けてキラキラしている」
 誰かが呟いた。僕のプラチナ・ブロンドの髪に、素直な賞賛の視線が注がれる。
「ありがとう」
 そいつのくすんだ錆色の鳥の巣頭にちらりと眼を遣る。褒められる処が何もない。
 素敵な巻き毛だね? 個性的な髪色だね?
 こんな感じか?

 僕のスラブの血の混ざる色素の薄い容姿はいつでも注目の的になるけれど、こういう奴らは、どうやって記憶すればいいのだろう?

 そう思うと自然に顔がほころんだ。

「僕はマシュー・モーガン。これからよろしく」
 窓枠から下りて居住まいを正し、僕は青灰色の瞳に力を込め、慇懃に微笑んで右手を差し出した。




「マシュー、急がなきゃ。朝食の用意は僕たち新入生の役目だよ」
 薄暗い朝の日差しの中、とっくに着替え終わって窓の外を眺めていた僕を、鳥の巣頭が呼んだ。
 僕はゆっくりと振り返り、頷いた。


 燕尾服せいふくを翻し、共同部屋を後にする。
 全英一の名門、エリオット校一学年生フレッシュとして、栄えある初日を迎えるために。






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