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8 厩舎
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建物の外からどこか抑えたような、掠れた呼び声が聞こえる。
「ハリー! ハリー!」
カチャカチャと鍵を外す音。干し草の山積みされた薄暗い厩舎内倉庫の引き戸が開き、明るい光が差し込む。
「ハリー!」
フランクが広い倉庫の最奥まで駆けいると、崩れた干し草の陰に艶やかな長靴、見慣れた紺色の乗馬服が――。
転がりそうな勢いで走り寄ったフランクは、倒れているヘンリーを抱き起して揺すぶった。
「ハリー! きみ、とうとうアデル・マーレイなんかに犯られちゃったの!」
ヘンリーは蒼白な顔のまま、動かない。
フランクは滲んでくる涙を拭いながら、自分の膝の上にのせた彼の乱れた金髪についた干し草を丁寧に取りのぞく。
「必ずきみの敵はとってやるからね。安らかに――」
「おい、勝手に殺すなよ」
見るとヘンリ―は、身体を縮めて震えるほどに笑いを噛み殺しているではないか。
「ハリー!」
「きみには騙されっ放しだったからね。やっと鼻をあかせたよ!」
勢いつけて起きあがると片膝を立てて座り、ヘンリーは長い指先でさらりと金の髪をかき上げ、呆気に取られているフランクを見てクスクスと喉を鳴らして笑っている。フランクはきょとんとしたまま、そんな彼を見つめている。
「それにしても、ここにいるってよく判ったね」
「――馬術部の連中が教えてくれたんだよ。まだきみだけが戻ってこないからヤバイんじゃないかって」
あの姫の仮装以来、ヘンリーには強力なファンクラブが発足しているのだ。そのなかの誰かが、いつも彼の動向に目を配ってくれている。それはもちろん、本人には内緒で――。そうなることを目論んでの仮装だったなんて言ったら、ヘンリーはきっとこの綺麗な青紫の瞳で冷たく睨めつけて、しばらく口を利いてくれないに決まっているから。
「トニーみたいに?」
思いがけないヘンリーの問いに、フランクはむっとして口を結んだ。
「――彼のこと、知りもしないのに気安く口にするなよ」
「知っている。アーニーに聞いた」
「知っていても知らないよ! きみは彼の友人じゃないもの! どんな形だろうと、彼のことを侮辱するのは許さないよ!」
フランクは明るい、いつもは笑っている空色の瞳に怒りをたぎらせて、ヘンリーを睨めつけていた。ヘンリーは、彼のこんな顔を見たことがなかった。黙りこくりフランクを凝視する。
そんな気まずい沈黙の後、
「――きみが無事で良かったよ。てっきり睡眠薬入りの紅茶でも飲まされたかと……」
自分を見つめる深い青紫の双眸から目を逸らし、フランクは俯いて呟いた。トニーから話を逸らされ不満をくすぶらせるヘンリーだったが、それでもフランクの杞憂を払拭するために応えた。
「あんな得体の知れないもの、飲むわけないだろ」
苦々しげな、吐き捨てるような口調だ。
「じゃ、どうしてこんなところに閉じ込められているの? 僕は確かに鍵を開けてここに入ったよ」
「やられたらやり返せって、きみが言ったんじゃないか。それより、きみがここの鍵を持っていることの方が驚きだ!」
「あいつらが悪さする場所の合鍵くらい作っているよ」
当然のように呟かれたその言葉に二人は目と目を見合わせて、くすっと笑いあう。
ヘンリーはつんと顎を突きだして意味ありげに、にっと笑うと、立ちあがって乗馬服についた干し草を払う。
「僕だってね、きみが思っているような、王子さまの助けを待っているだけの眠り姫じゃないつもりだよ」
と、遠くでかすかに笑い声と、人の近づく気配がした。
「しっ!」
ヘンリーは急いで自分の長靴を脱ぐと、干し草の陰にわざと少しだけ覗くように置いた。
「こっちに来て」
声を潜めて顎をしゃくると、四角く固められ、うず高く積みあげられた干し草の山に登りだす。フランクも言われるまま、ヘンリーに続いた。今一つしかない入り口から出ていけば、奴らと鉢合わせになる。出るまでもなくこの場に踏み込まれたら、どう考えても自分たちの分が悪い。ここは隠れてやり過ごさなければ――、と一瞬のうちにさまざまな場面を想定して脳裏に描いていたのだ。
フランクと二人天井近くに渡された梁に移ると、ヘンリーは足場に使った干し草の塊を蹴倒した。塊はあっけなく転がり、ここまでの道はもうどこにもない。もし見つかっても、奴らに追いかけてくることはできない。けれど、ヘンリーたちとっても、それは脱出手段を狭めることなのだ。
そのまま梁を伝い、二人は出入り口の斜め横にある煉瓦壁の高窓まで移動した。窓から逃げるより他に仕方がないからだ。ヘンリーは背後に続くフランクを振り返り、片目を瞑って唇に人差し指を当てて囁いた。フランクに顔を寄せたヘンリーからは、香ばしくて甘い干し草の香りがする。
「ほら、ラスボスのご登場だよ」
「戸が開いているぞ!」
「誰か抜け駆けしやがったのか!」
開け放たれた引き戸の外で怒鳴り声がする。四、五人の上級生が倉庫内に入ってきた。その内の二人は灰色のスラックスだ。監督生なのだ。
「あそこだ!」
一人がヘンリーの長靴を見つけて声を荒げる。皆がバラバラと奥に駆け入ったところで、ヘンリーはひらりと窓から飛び降り、引き戸を閉めた。
ガチャリ!
大きな錠前を掛け終わると、ヘンリーはいまだに窓にしがみついて唖然としているフランクに、降りて来いと、大きく腕を振って身振りで合図する。
フランクはぱぁっと笑みを広げると、チラリと、遥か足の下で慌てふためき、半狂乱になってわめき散らしているアデル・マーレイに目をやり、一言呟いた。
「ざまあみろ」
「こっちだよ! ハリー、早く!」
歩きだしたヘンリーを呼び止め、フランクは手招きする。
「ハリーって呼ぶなよ!」
顔をしかめて振り返ると、フランクは厩舎の陰から自分の自転車を引っ張りだしてきて跨っている。
「乗って、ハリー!」
「ひゃっほーう!」
フランクはヘンリーを後部荷台に乗せると、勢いよく丘を駆けおりた。
「ハリー、ところでラスボスって何?」
「きみ、知らないの? ゲームの最後に登場する悪の親玉のことだよ!」
風に負けないように、ヘンリーも大声で応える。
「きみがゲームをすることの方が驚きだよ!」
「アーニーの弟がゲーマーなんだよ!」
「ゲーマーって?」
ケラケラと笑い声を風に乗せ、鮮やかに緑が輝く牧草地を自転車は駆けおりていく。道の傍には真っ白なナナカマドの花が風になびいている。汗ばむほどの陽光に、頬に当たる風が心地良い。
「きみ、干し草臭い!」
「気のせいさ!」
「お腹空いたな!」
「咽喉が乾いた!」
「じゃあ、このままジャックの店に行こう! 僕が美味しいコーヒーを淹れてあげるよ! 今度はウイスキーなしでね! ねぇ、ヘンリー、僕は、きみのことが、とても好きだよ!」
ふたりはフランクの真っ赤な自転車に乗って坂を下り、初夏の日差しを照り返し眩しく光を跳ねあげる川辺りを走りぬける。涼やかな風を受けながら、吸いこむ空気に芳香の交じり合うフェローガーデンを駆けぬけていく。
蕾だった薔薇の花は、今はもう色鮮やかな花びらを開き始めている。
「ジャック、コーヒーを」
ヘンリーはおもむろに煙草を取りだし、その先端でトントンと、慣れた手つきでカウンターを叩いた。
「珍しいな、三杯目か?」
ジャックは大きく目を見開いて訊き返す。
「いや、僕じゃなくて、彼らにアイリッシュ・コーヒーを」
窓の外は、いまだ降りやまない雨が激しく石畳を叩いている。色のついた窓ガラスを、大粒の滴がいくつもいくつも連なって伝い落ちている。まるで泣き濡れて頬を伝う涙のように。
ヘンリーはカウンターに置かれた自分のカップに続き、その傍らに置かれているフランクのためのコーヒーを、遠い記憶を再び沈み込めるように一気に飲み干した。
そして窓辺の席に座る友人と、友人の弟たちを振り返る。懐かしそうに、愛おしそうに。
運ばれてきた生クリームのたっぷりとのったコーヒーを一口飲んで、吉野は顔をしかめてヘンリーの背中を睨めつけた。
「おいヘンリー、これ、コーヒーっていうよりもカクテルだろ?」
「雨に濡れたときは、これが一番、身体が温まるんだよ」
ヘンリーは肩越しに振り返ると、文句をつける声の主に、上品で穏やかな笑みを返した。
了
「ハリー! ハリー!」
カチャカチャと鍵を外す音。干し草の山積みされた薄暗い厩舎内倉庫の引き戸が開き、明るい光が差し込む。
「ハリー!」
フランクが広い倉庫の最奥まで駆けいると、崩れた干し草の陰に艶やかな長靴、見慣れた紺色の乗馬服が――。
転がりそうな勢いで走り寄ったフランクは、倒れているヘンリーを抱き起して揺すぶった。
「ハリー! きみ、とうとうアデル・マーレイなんかに犯られちゃったの!」
ヘンリーは蒼白な顔のまま、動かない。
フランクは滲んでくる涙を拭いながら、自分の膝の上にのせた彼の乱れた金髪についた干し草を丁寧に取りのぞく。
「必ずきみの敵はとってやるからね。安らかに――」
「おい、勝手に殺すなよ」
見るとヘンリ―は、身体を縮めて震えるほどに笑いを噛み殺しているではないか。
「ハリー!」
「きみには騙されっ放しだったからね。やっと鼻をあかせたよ!」
勢いつけて起きあがると片膝を立てて座り、ヘンリーは長い指先でさらりと金の髪をかき上げ、呆気に取られているフランクを見てクスクスと喉を鳴らして笑っている。フランクはきょとんとしたまま、そんな彼を見つめている。
「それにしても、ここにいるってよく判ったね」
「――馬術部の連中が教えてくれたんだよ。まだきみだけが戻ってこないからヤバイんじゃないかって」
あの姫の仮装以来、ヘンリーには強力なファンクラブが発足しているのだ。そのなかの誰かが、いつも彼の動向に目を配ってくれている。それはもちろん、本人には内緒で――。そうなることを目論んでの仮装だったなんて言ったら、ヘンリーはきっとこの綺麗な青紫の瞳で冷たく睨めつけて、しばらく口を利いてくれないに決まっているから。
「トニーみたいに?」
思いがけないヘンリーの問いに、フランクはむっとして口を結んだ。
「――彼のこと、知りもしないのに気安く口にするなよ」
「知っている。アーニーに聞いた」
「知っていても知らないよ! きみは彼の友人じゃないもの! どんな形だろうと、彼のことを侮辱するのは許さないよ!」
フランクは明るい、いつもは笑っている空色の瞳に怒りをたぎらせて、ヘンリーを睨めつけていた。ヘンリーは、彼のこんな顔を見たことがなかった。黙りこくりフランクを凝視する。
そんな気まずい沈黙の後、
「――きみが無事で良かったよ。てっきり睡眠薬入りの紅茶でも飲まされたかと……」
自分を見つめる深い青紫の双眸から目を逸らし、フランクは俯いて呟いた。トニーから話を逸らされ不満をくすぶらせるヘンリーだったが、それでもフランクの杞憂を払拭するために応えた。
「あんな得体の知れないもの、飲むわけないだろ」
苦々しげな、吐き捨てるような口調だ。
「じゃ、どうしてこんなところに閉じ込められているの? 僕は確かに鍵を開けてここに入ったよ」
「やられたらやり返せって、きみが言ったんじゃないか。それより、きみがここの鍵を持っていることの方が驚きだ!」
「あいつらが悪さする場所の合鍵くらい作っているよ」
当然のように呟かれたその言葉に二人は目と目を見合わせて、くすっと笑いあう。
ヘンリーはつんと顎を突きだして意味ありげに、にっと笑うと、立ちあがって乗馬服についた干し草を払う。
「僕だってね、きみが思っているような、王子さまの助けを待っているだけの眠り姫じゃないつもりだよ」
と、遠くでかすかに笑い声と、人の近づく気配がした。
「しっ!」
ヘンリーは急いで自分の長靴を脱ぐと、干し草の陰にわざと少しだけ覗くように置いた。
「こっちに来て」
声を潜めて顎をしゃくると、四角く固められ、うず高く積みあげられた干し草の山に登りだす。フランクも言われるまま、ヘンリーに続いた。今一つしかない入り口から出ていけば、奴らと鉢合わせになる。出るまでもなくこの場に踏み込まれたら、どう考えても自分たちの分が悪い。ここは隠れてやり過ごさなければ――、と一瞬のうちにさまざまな場面を想定して脳裏に描いていたのだ。
フランクと二人天井近くに渡された梁に移ると、ヘンリーは足場に使った干し草の塊を蹴倒した。塊はあっけなく転がり、ここまでの道はもうどこにもない。もし見つかっても、奴らに追いかけてくることはできない。けれど、ヘンリーたちとっても、それは脱出手段を狭めることなのだ。
そのまま梁を伝い、二人は出入り口の斜め横にある煉瓦壁の高窓まで移動した。窓から逃げるより他に仕方がないからだ。ヘンリーは背後に続くフランクを振り返り、片目を瞑って唇に人差し指を当てて囁いた。フランクに顔を寄せたヘンリーからは、香ばしくて甘い干し草の香りがする。
「ほら、ラスボスのご登場だよ」
「戸が開いているぞ!」
「誰か抜け駆けしやがったのか!」
開け放たれた引き戸の外で怒鳴り声がする。四、五人の上級生が倉庫内に入ってきた。その内の二人は灰色のスラックスだ。監督生なのだ。
「あそこだ!」
一人がヘンリーの長靴を見つけて声を荒げる。皆がバラバラと奥に駆け入ったところで、ヘンリーはひらりと窓から飛び降り、引き戸を閉めた。
ガチャリ!
大きな錠前を掛け終わると、ヘンリーはいまだに窓にしがみついて唖然としているフランクに、降りて来いと、大きく腕を振って身振りで合図する。
フランクはぱぁっと笑みを広げると、チラリと、遥か足の下で慌てふためき、半狂乱になってわめき散らしているアデル・マーレイに目をやり、一言呟いた。
「ざまあみろ」
「こっちだよ! ハリー、早く!」
歩きだしたヘンリーを呼び止め、フランクは手招きする。
「ハリーって呼ぶなよ!」
顔をしかめて振り返ると、フランクは厩舎の陰から自分の自転車を引っ張りだしてきて跨っている。
「乗って、ハリー!」
「ひゃっほーう!」
フランクはヘンリーを後部荷台に乗せると、勢いよく丘を駆けおりた。
「ハリー、ところでラスボスって何?」
「きみ、知らないの? ゲームの最後に登場する悪の親玉のことだよ!」
風に負けないように、ヘンリーも大声で応える。
「きみがゲームをすることの方が驚きだよ!」
「アーニーの弟がゲーマーなんだよ!」
「ゲーマーって?」
ケラケラと笑い声を風に乗せ、鮮やかに緑が輝く牧草地を自転車は駆けおりていく。道の傍には真っ白なナナカマドの花が風になびいている。汗ばむほどの陽光に、頬に当たる風が心地良い。
「きみ、干し草臭い!」
「気のせいさ!」
「お腹空いたな!」
「咽喉が乾いた!」
「じゃあ、このままジャックの店に行こう! 僕が美味しいコーヒーを淹れてあげるよ! 今度はウイスキーなしでね! ねぇ、ヘンリー、僕は、きみのことが、とても好きだよ!」
ふたりはフランクの真っ赤な自転車に乗って坂を下り、初夏の日差しを照り返し眩しく光を跳ねあげる川辺りを走りぬける。涼やかな風を受けながら、吸いこむ空気に芳香の交じり合うフェローガーデンを駆けぬけていく。
蕾だった薔薇の花は、今はもう色鮮やかな花びらを開き始めている。
「ジャック、コーヒーを」
ヘンリーはおもむろに煙草を取りだし、その先端でトントンと、慣れた手つきでカウンターを叩いた。
「珍しいな、三杯目か?」
ジャックは大きく目を見開いて訊き返す。
「いや、僕じゃなくて、彼らにアイリッシュ・コーヒーを」
窓の外は、いまだ降りやまない雨が激しく石畳を叩いている。色のついた窓ガラスを、大粒の滴がいくつもいくつも連なって伝い落ちている。まるで泣き濡れて頬を伝う涙のように。
ヘンリーはカウンターに置かれた自分のカップに続き、その傍らに置かれているフランクのためのコーヒーを、遠い記憶を再び沈み込めるように一気に飲み干した。
そして窓辺の席に座る友人と、友人の弟たちを振り返る。懐かしそうに、愛おしそうに。
運ばれてきた生クリームのたっぷりとのったコーヒーを一口飲んで、吉野は顔をしかめてヘンリーの背中を睨めつけた。
「おいヘンリー、これ、コーヒーっていうよりもカクテルだろ?」
「雨に濡れたときは、これが一番、身体が温まるんだよ」
ヘンリーは肩越しに振り返ると、文句をつける声の主に、上品で穏やかな笑みを返した。
了
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