三月の風と四月の雨が五月の花をつれてくる

萩尾雅縁

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5 シュールストレミング

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「上は大丈夫だろうな?」
「ドアノブを回したとたんに、また変な音が出たりは?」
「金属探知機には反応していません。上は、開けてみないことには……」

 真夜中に常夜灯がほのかに照らす薄暗がりの廊下に、ひそひそ声が囁かれている。

「お前、開けろ」

 自分はいつでも駆けだせるように足先を逆方向に向けたまま、三人のうちの一人がまるまると太った下級生の背中をドアの方へ押しやっている。別の一人は、もっと離れた場所で成行きを見守っているだけだ。

「早くしろ!」
 警戒しているのかなかなか動かない肉づきの良い丸い背中が、ドン、と乱暴に突き飛ばされた。

 仕方なく、恐るおそる、ドアノブが回される。そっと、ゆっくりと、静かにドアが押される。
 ――何も降ってこない。
 カーテンの閉められた暗い部屋に踏み込んだショーンは、ほっと吐息をついて振り返り、頷いた。
 離れて見ていた上級生二人も、ふんと鼻を鳴らしてショーンに続き、足音を忍ばせて部屋に忍び込んできた。

 ぐにゃ!

 何かを踏みつけたのは判ったのだが――。

 三人は、突然鼻を衝いた凄まじい異臭に両手で顔を覆い、「うげぇー!」と叫び声をあげた。そして獣のようなうめき声をあげ続けながら、部屋を転がでる。悪臭は開け放たれたドアから廊下へと広がっていく。走って逃げるだけの気力もわかずに廊下にへたりこみ、「うぇ、うぇ!」と吸い込んだ臭気と一緒に三人は苦しそうに嘔吐している。

 やがて狭い廊下から各部屋にまで汚染しだした臭気に耐えかねて、パジャマ姿の一学年生が涙を滲ませて、鼻と口を覆いバタバタとでてきた。

「窓! みんな、窓を開けて!」

 廊下から地鳴りのように響いてくる異様なうめき声に叫び声、そしてそこはかとない異臭――。
 廊下のはしからハンカチで鼻を覆ったアーネストが、くぐもった声を張りあげている。その後ろからフランクがひょっこりと顔をだす。やはりハンカチで顔半分を覆っている。

「いやー、やっぱりすごいね、シュールストレミングは! こんなに離れたところまで臭うなんて想定外! どうしてあの袋、開いちゃったのかなぁ? 厳重に密封していたのに! それにしても、やっぱり日本製の袋ってのは品質がいいんだねぇ! あの悪臭を完全密封してくれていたなんて! あれね、実はボランティア活動で貰った災害用ごみ袋で、最大二週間ものあいだ悪臭をシャットアウト、」
「きみ、もしかして、僕を悪臭で殺す気だった?」

 ヘンリーは、まずアーネストの部屋の窓を全開させ、次いでハンカチを当てたまま喋りだしたフランクを、じろりと睨んで大きく溜息を放つ。

「まさか! もしものことを考えて、ここにこうして避難――」
 慌てて顔の前で手を振り回すフランクに、ヘンリーはさらに冷たい視線を投げかけている。
「で、これから僕はどこで眠ればいいのかな? まさか、あの部屋へ戻れなんて言わないよね?」
「それよりフランク、きみのその素晴らしい日本製のごみ袋に、諸悪の元を始末してきてくれるかい? このままじゃ、どんどん汚染区域が広がってしまう」

 アーネストは蒼白な顔のまま、自室の前に集まる下級生を見渡し、最後に厳しい視線をフランクに向けた。
 フランクは申し訳なさそうに天井を見上げ、わけが判らずポカンと立ち尽くしている一学年生たちをそっと見渡し、肩をすくめて、「行ってきます」と呟くと自分の部屋へと向かった。

 優秀な日本製のごみ袋と、ゴム手袋、トング、防毒マスク、消臭スプレーを取りに行くために――。




 それから悪臭が完全に抜けきるまでの一週間、カレッジ寮の一学年生は大ホールでキャンプ用の寝袋を使い寝起きし、必要な荷物を取りに行く時だけ、マスクをして立ち入り禁止区域となった三階に、監督生の付き添いのもと、出入りせねばならなかった。

 夜中に下級生ヘンリーの部屋に忍び込んで、怖ろしい悪臭を放つシュールストレミングを放置し、嫌がらせしようとしたショーンと二名の上級生は、寮監にも学校長からも、こってりと絞られた。(三人はあくまでも、あの悪臭と自分たちは無関係だと言い張っていたが)
 可哀想なことに革靴ではなく薄い室内履きでもってあれを踏んづけて潰してしまったショーンの足からは、洗っても洗っても、例の臭いが抜けきるまで数日間を要した。そのせいで、この学校を卒業するまで、彼はショーン・ストレミングと呼ばれることとなった。だが、そのあまりの悪臭のおかげで食欲が落ち、ダイエットの助けになったというから、それはそれで良かったのかも……。



「いいわけないだろ!」
 カレッジ寮に面した中庭で、フランクの膝に頭をのっけてベンチに横たわっていたヘンリーは、腹立たしげに呟いた。
「どうして? あれからさすがに夜中に悪さしに来る奴はいなくなっただろう? それにきみ、寝袋暮らしのあいだにすっかり同級生とも仲良くなれたじゃないか。いいことづくめだよ!」
 頭上から落ちる明るい声に、ヘンリーは反抗的に目を細め、眉を潜める。
「まだ臭く感じる、あの部屋――」
「えー? そうかなぁ? 気のせいだよ! 神経質だなぁ、きみって」
「きみのその神経の図太さには呆れ返るよ! あれからあの部屋じゃ、ちっとも寝た気がしない!」

 唇を尖らせて目を瞑り、再びぷいっと横を向いたヘンリーの柔らかな髪をフランクは優しく梳いてやりながら、すっと玄関の扉から出てきたひとを目で追った。

「じゃ、一番安全な部屋へ移る?」
 身を屈めヘンリーの耳元で囁くフランクに、ヘンリーは不審げな瞳を返すだけで、応えなかった。
「このまま、ここでしばらく寝ていて」

 フランクはそっとヘンリーの頭から膝を抜いて立ちあがった。足早に芝生を抜けていく寮監を追いかけ、呼び止める。


「寮監、ちょっとお話が。ヘンリーがまた、貧血で倒れてしまって!」

 ぼんやりと薄目を開けてフランクの後を目で追っていたヘンリーは、ぎょっとして身体を跳ね起こす。

「ダメだよ、ハリー、急に頭を起こしたりしちゃ! またくらくらしてしまうよ!」
 フランクはさも心配そうな顔して彼を見つめている。
「寮監、彼、繊細だから、あんな酷い目に遭わされて、あれからちっとも眠られなくなったみたいで……」

 立て板に水を流すように垂れ流される大嘘に、ヘンリーは呆気に取られ、否定することもできずに聴き入ってしまっていた。呆れ返って顔を伏せ、大きくため息を漏らすしかなかった。まさか寮監に面と向かってに、それは嘘です、などと言えるはずがないのだから。

「可哀想に……」
 フランクの大仰なため息と懇願するような口ぶりに、寮監はヘンリーの横に腰を下ろして優しく彼の肩を抱いた。
「そんな辛い想いをしていたのなら、もっと早くに私のところへ相談にくれば良かったのに。もう、思い煩う必要はないからね。こちらで対処するから心配いらないよ」

 思い遣り深い寮監の親切な言葉に、ヘンリーはぎゅっと顔をしかめていた。それをまた彼の慎み深さだと受け取った寮監は、さらに言葉を重ねて彼を慰めてくれるのだった。


 その日のうちに、アーネストの部屋のソファーセットが取り除かれ、ベッドと机が入れられた。ヘンリーは付き添いの必要な病弱な生徒として、下級生代表で親戚でもあるアーネストの同室にされた。
 代わりにヘンリーのもといた部屋が、下級生代表の執務室として使われることとなる。


 さらには夏の間に全面改装が行われ、翌年度から上級生の下級生への過度の干渉を防ぐために、一学年生の間は一人部屋から二人部屋に、またその翌年からは一、二学年生の二年間が二人部屋になることとなったのだ。


 


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