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2 鼠取り
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にわか雨に降られた日に知り合った一学年上の少年は、とにかくよく喋る。機関銃のように喋り続けるのだ。
ヘンリーはうるさそうに眉を寄せ、面倒臭そうに顔を傾げながら、その少年の傍らを歩くことが多くなった。否、ヘンリーが彼の傍らを歩いているのではない。いつの間にか、フランクがヘンリーの横を歩いているのだ。どんなに嫌な顔をしてみせても、顔を背けて無視してみせても、彼は一向に気にしない。
ヘンリーには煩わしい相手でしかなかったのに、意外にもこのおしゃべりフランクは人気者だ。彼がいるといつの間にか人の輪ができる。そしてその輪の中からは、いつもあの機関銃のような喋りと、明るい笑い声が響いているのだ。
だがそんな彼のことを嫌う人間も確かにいるようで、フランクは同じ貴族階級からは疎まれているようだった。
ヘンリーはよくそんな連中から忠告を受けていた。
あんな貴族の誇りをかなぐり捨てた落ちぶれ者なんかと付き合うな、と。
その度にヘンリーは、「きみに指図される覚えはないよ」とその親切な忠告者から顔を背けた。別にフランクを庇ったわけではない。ただたんに、よけいなお世話だったのだ。
「きみ、教科書を置いていかないの?」
カレッジ・ホールでの昼食のために、廊下にずらりと立ち並ぶ賽の目状の棚の荷物置き場でうろうろとしていたフランクは、教科書を小脇に抱えたままホールへ向かうヘンリーを見つけると大声で呼び止めた。駆け寄って、眉をしかめて振り返ったヘンリーの脇から、するりと抜き取り自分の教科書の上にのせる。
「僕のと一緒に置いておけばいいよ」
返事も聞かずに、勝手に一番下の空いている棚のひとつに突っ込んでいる。
「さあ、これで良し! 行こうか!」
明るい空色の瞳が悪戯っ子のように笑っている。ヘンリーは小さく吐息を漏らし、フランクと並んでホールへ歩きだす。
ざわざわとしたホールでの昼食会も終わりに近づいた頃、デザートに出された三角形のチーズを膝の上でこっそりとハンカチに包んでいるフランクを、ヘンリーは訝しげに見つめていた。その視線に気がつくと、フランクは隣に座る彼に顔を寄せて囁いた。
「きみ、そのチーズ食べないの?」
ヘンリーは黙って自分のチーズをフランクの皿に載せる。
「きみっていい奴だねぇ」
フランクはそのチーズもハンカチに包みながら、にっこりと笑顔を向けた。
食事が終わり、ハチの巣をつついたような賑やかさで一群が出口から狭い廊下へ、そして荷物置きの棚へ向かい始めた頃だった。
「ぎゃあ!」
するどい叫び声が上がった。棚の前に人だかりができている。大声を上げたショーン・ヘンドリックスは、その指先に食いついている鼠取りを、ワックスで艶光りする廊下の床に叩きつけている。ガシャン、と鈍い音を立てて転がるそれを、フランクが嬉しそうに拾いあげた。
「ああ、こんなところにあったんだ! 探していたんだ!」
「お前が仕掛けたのか!」
黒いテールコートからはみ出ている揃いのウエストコートの、ボタンのはちきれそうな腹を突き出して、ショーンが掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつける。
「探していたんだよ、ねぇ、きみ、これ、どこで見つけたの?」
フランクは落ち着いた声で笑顔を絶やさずに訊ねた。
とたんに、ショーンの顔色が変わる。
「指を挟まれたの? 血が出ちゃった? ちゃんと消毒してもらった方がいいよ。これ、三日ほど前にこんな大きなドブネズミを捕まえたところでさ、どんな菌がついているか判らないから、ね? それでこれ、どこにあったの? ほら、これ、ここの部分の黒い染み、鼠の血がついたままなんだ。怖いだろ、変なばい菌がいたらさ。ほら、ペストだってさ、鼠が媒介して欧州全土に――」
テールコートをはためかせ、バタバタと走りさっていくショーンの背中に、フランクは大声で叫んだ。
「お大事にねー!」
自分とショーンのやり取りを固唾を飲んで見守り、今は怖々と自分の手にある鼠取りを見つめている周囲を取り巻く生徒たちに、フランクは反対の手の人差し指を口に当てて声を潜めて言った。
「今のは冗談だからね! 僕が捕まえたかったのは、教科書に悪さをする黒いまるまるとした鼠だからね! あいつには内緒だよ」
周囲から失笑が漏れ、ついで爆笑の渦に変わる。この日からしばらくショーンは、「ドブネズミ」と命名されて揶揄われ嗤われることとなった。
ホールから中庭に出、周囲に人がきれたところで、しかめっ面のヘンリーがフランクに訊ねている。
「その鼠捕り、本当に安全なの?」
「ちゃんと洗っているよ。鼠一匹捕まえる度に、二十ペンスで用務員のジャイルさんが買い取ってくれるんだ。僕たちの寮は建物が古いからね。ずいぶんいるんだよ! あちこち齧られて大変なんだって! ここの高級チーズで仕掛けるとね、やっぱり餌がいいからかな、食いつきもいいんだ!」
ヘンリーはなんとも複雑な表情を浮かべ、歪んだ笑みを唇に刷く。
「きみ、何回教科書を買い替えたの?」
フランクは唐突に話題を変え、屈託のない笑顔を向けた。
「馬鹿だなぁ。そんなふうに無視しているだけじゃ、嫌がらせは終わらないよ。やられたらやり返さなきゃ」
驚いて目を瞠っているヘンリーを見つめ返し、フランクはクスリと笑った。
「きみって見た目そのままだね! 大切に育てられてきたお坊ちゃん! 僕は公立校の出身だからね。こういう事には慣れてるんだよ。いいよ、任せてくれて。僕がいろいろ教えてあげるよ!」
学舎に囲まれた常緑の芝生の上を、疾風が駆け抜ける。
散らばる漆黒のさらさらとした髪を押さえて身を縮こまらせたフランクを、ヘンリーは、その輝く金髪を向かい風に晒し煽られるまま、ただ茫然と見つめていた。
ヘンリーはうるさそうに眉を寄せ、面倒臭そうに顔を傾げながら、その少年の傍らを歩くことが多くなった。否、ヘンリーが彼の傍らを歩いているのではない。いつの間にか、フランクがヘンリーの横を歩いているのだ。どんなに嫌な顔をしてみせても、顔を背けて無視してみせても、彼は一向に気にしない。
ヘンリーには煩わしい相手でしかなかったのに、意外にもこのおしゃべりフランクは人気者だ。彼がいるといつの間にか人の輪ができる。そしてその輪の中からは、いつもあの機関銃のような喋りと、明るい笑い声が響いているのだ。
だがそんな彼のことを嫌う人間も確かにいるようで、フランクは同じ貴族階級からは疎まれているようだった。
ヘンリーはよくそんな連中から忠告を受けていた。
あんな貴族の誇りをかなぐり捨てた落ちぶれ者なんかと付き合うな、と。
その度にヘンリーは、「きみに指図される覚えはないよ」とその親切な忠告者から顔を背けた。別にフランクを庇ったわけではない。ただたんに、よけいなお世話だったのだ。
「きみ、教科書を置いていかないの?」
カレッジ・ホールでの昼食のために、廊下にずらりと立ち並ぶ賽の目状の棚の荷物置き場でうろうろとしていたフランクは、教科書を小脇に抱えたままホールへ向かうヘンリーを見つけると大声で呼び止めた。駆け寄って、眉をしかめて振り返ったヘンリーの脇から、するりと抜き取り自分の教科書の上にのせる。
「僕のと一緒に置いておけばいいよ」
返事も聞かずに、勝手に一番下の空いている棚のひとつに突っ込んでいる。
「さあ、これで良し! 行こうか!」
明るい空色の瞳が悪戯っ子のように笑っている。ヘンリーは小さく吐息を漏らし、フランクと並んでホールへ歩きだす。
ざわざわとしたホールでの昼食会も終わりに近づいた頃、デザートに出された三角形のチーズを膝の上でこっそりとハンカチに包んでいるフランクを、ヘンリーは訝しげに見つめていた。その視線に気がつくと、フランクは隣に座る彼に顔を寄せて囁いた。
「きみ、そのチーズ食べないの?」
ヘンリーは黙って自分のチーズをフランクの皿に載せる。
「きみっていい奴だねぇ」
フランクはそのチーズもハンカチに包みながら、にっこりと笑顔を向けた。
食事が終わり、ハチの巣をつついたような賑やかさで一群が出口から狭い廊下へ、そして荷物置きの棚へ向かい始めた頃だった。
「ぎゃあ!」
するどい叫び声が上がった。棚の前に人だかりができている。大声を上げたショーン・ヘンドリックスは、その指先に食いついている鼠取りを、ワックスで艶光りする廊下の床に叩きつけている。ガシャン、と鈍い音を立てて転がるそれを、フランクが嬉しそうに拾いあげた。
「ああ、こんなところにあったんだ! 探していたんだ!」
「お前が仕掛けたのか!」
黒いテールコートからはみ出ている揃いのウエストコートの、ボタンのはちきれそうな腹を突き出して、ショーンが掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつける。
「探していたんだよ、ねぇ、きみ、これ、どこで見つけたの?」
フランクは落ち着いた声で笑顔を絶やさずに訊ねた。
とたんに、ショーンの顔色が変わる。
「指を挟まれたの? 血が出ちゃった? ちゃんと消毒してもらった方がいいよ。これ、三日ほど前にこんな大きなドブネズミを捕まえたところでさ、どんな菌がついているか判らないから、ね? それでこれ、どこにあったの? ほら、これ、ここの部分の黒い染み、鼠の血がついたままなんだ。怖いだろ、変なばい菌がいたらさ。ほら、ペストだってさ、鼠が媒介して欧州全土に――」
テールコートをはためかせ、バタバタと走りさっていくショーンの背中に、フランクは大声で叫んだ。
「お大事にねー!」
自分とショーンのやり取りを固唾を飲んで見守り、今は怖々と自分の手にある鼠取りを見つめている周囲を取り巻く生徒たちに、フランクは反対の手の人差し指を口に当てて声を潜めて言った。
「今のは冗談だからね! 僕が捕まえたかったのは、教科書に悪さをする黒いまるまるとした鼠だからね! あいつには内緒だよ」
周囲から失笑が漏れ、ついで爆笑の渦に変わる。この日からしばらくショーンは、「ドブネズミ」と命名されて揶揄われ嗤われることとなった。
ホールから中庭に出、周囲に人がきれたところで、しかめっ面のヘンリーがフランクに訊ねている。
「その鼠捕り、本当に安全なの?」
「ちゃんと洗っているよ。鼠一匹捕まえる度に、二十ペンスで用務員のジャイルさんが買い取ってくれるんだ。僕たちの寮は建物が古いからね。ずいぶんいるんだよ! あちこち齧られて大変なんだって! ここの高級チーズで仕掛けるとね、やっぱり餌がいいからかな、食いつきもいいんだ!」
ヘンリーはなんとも複雑な表情を浮かべ、歪んだ笑みを唇に刷く。
「きみ、何回教科書を買い替えたの?」
フランクは唐突に話題を変え、屈託のない笑顔を向けた。
「馬鹿だなぁ。そんなふうに無視しているだけじゃ、嫌がらせは終わらないよ。やられたらやり返さなきゃ」
驚いて目を瞠っているヘンリーを見つめ返し、フランクはクスリと笑った。
「きみって見た目そのままだね! 大切に育てられてきたお坊ちゃん! 僕は公立校の出身だからね。こういう事には慣れてるんだよ。いいよ、任せてくれて。僕がいろいろ教えてあげるよ!」
学舎に囲まれた常緑の芝生の上を、疾風が駆け抜ける。
散らばる漆黒のさらさらとした髪を押さえて身を縮こまらせたフランクを、ヘンリーは、その輝く金髪を向かい風に晒し煽られるまま、ただ茫然と見つめていた。
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