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イングリッシュ・ブルーベル

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「僕の大好きな友人は、このブルーベルの花の色の瞳をしているんだよ」
 教会の裏手にある雑木林の、足下を埋めつくす青紫の花の絨毯の間をぬうように歩いていた兄は、少し遅れてその背中を追っていた僕を振り返り、晴れやかな笑顔を向けた。
「お前にも彼を紹介してやりたいな」
 兄は少し残念そうに肩をすくめて、吐息を漏らす。
「僕、頑張って兄さんの学校に入るよ!」
「お前が入学する頃には、僕も、彼も卒業しているよ。――でもそうだな、一度くらい創立祭のクリケットOB対抗戦に出て、お前と戦おうかな?」
 兄は、朗らかな声を立てて笑った。
 クリケットは大の苦手のくせに――。


 大好きな兄と『ブルーベルの森』に行ったのは、その時が最後になってしまった。翌年、この花が咲く前に、兄は二度と帰ってくることのない場所に旅だってしまったから……。




 二年間に渡る受験期間を終え、僕は兄との約束を果たした。兄の通っていた超難関校に合格したのだ。兄はこの英国でも一、二を争う全寮制パブリックスクールの上位二十名に入る優秀な生徒だったのだ。
 そんな兄のお古の制服は、小柄な僕には少し大きい。けれど兄がそばにいてくれるみたいで、僕にはそれさえも誇らしい。


 僕の家はいわゆる没落貴族というやつだ。貴族といっても住まいは粗末なフラットだし、父が亡くなってから母は一日中働きづめだ。本当は、年間三万ポンドもの学費のかかるこんな学校に入れるような家計じゃない。裕福な遠い親戚が優秀だった兄に目をつけて、今後のコネ作りのためにエリオット校入学への援助を申しでてくれたから、兄はこの分不相応な学校へ入ることになったのだ。
 僕の家で誇れるものなんて、血筋と、称号と、それに兄の優秀な頭脳だけだった。
 そして今、僕の学費は兄の保険金で賄われている。僕の学校生活は、兄の場合とは違って、家族の犠牲の上に成り立っているのだ。僕は優秀な成績を収めて、上級生に上がるときには、今のように一部ではなく、全額奨学金を受けられるようにならなくてはならない。兄のように――。




「きみを学年代表に任命する。きみのお兄さんのフランク・キングスリーは本当に立派な方だった。きみも、キングスリー家の名に恥じない、新入生の規範になれる人物だと期待しているよ」

 入寮初日、寮長は微笑んで僕の肩を叩いた。空でも飛べそうに嬉しかった。それに続く言葉に叩き落されるまでは――。

「だからきみとソールスベリー先輩のご令弟を同室にしたんだ。きみのお兄さんは、ソールスベリー先輩と、とても親しかったからね」

 真っ直ぐに立っているはずなのに、床がくらりと揺れたように眩暈がした。寮長はまだ何か言っていたけれどまるで頭に届かない。


 続いて部屋に案内され、話にでた同室の子を紹介された。

「ブルーベルの瞳――」

 あまりにも神秘的で透明なその双眸に、吸い込まれそうだった。ブルーベルの花を照らす木漏れ日のような柔らかな金髪が額に落ちる白皙の面は、名工のビスクドールのように愛らしく整っている。だが惜しいことにその表情は生気がなく、感情も読めない。けれど――。

「きみは、お兄さんと似ている?」

 考える間もなく、口についてでていた。
 生身の人間とはとても思えない。
 天上の天使のような透明な空気を醸しだすその子は、ほんのわずか唇の端をあげて微笑んだ、みたいだ。

「似ているよ。髪も目の色も同じ。面差しもね。ただ彼の方がお兄さんよりも中性的かな。まぁ、まだ一学年だしね。成長すれば、きっともっと似てくるよ」

 彼の代わりに寮長が答えた。
 彼は嬉しそうに頷いて、花がほころぶように微笑んでいた。





「貧乏人」
「裏切り者」
 通りすがりに惨い言葉を浴びせかけられた。
 いつものことだ、と、僕は歯を食いしばって歩き続ける。真っすぐに前だけを見据えて――。

 寮の自室に戻って後ろ手にドアを閉めた。そのままドアにもたれてズルズルとしゃがみこむ。悔しくて、眉根を寄せてぎゅと目を瞑る。

「どうしたの?」

 初めは、聴き間違えかと思った。
 入学してもう一か月も経つのに、同室の彼が自分から声をかけてくれるなんて、初めてだったのだ。
 涙の滲む目を瞬かせて声の方に顔を向ける。彼はベッドに腰かけていて読みかけの本を膝に置いている。花びらのような紅い唇を少しだけ開けて、いぶかしそうに僕を見ている。

 僕は口角をあげて首を横に振る。
「なんでもない。ほら、やっぱり緊張しているんだよ」
 頑張れ、笑うんだ――。
 彼は黙ったまま小首を傾げたが、それ以上何も訊かなかった。

 それから時々、彼と話をするようになった。
 同じ選択授業がある時は一緒に行動するようにもなった。
 相変わらず彼は無口で無表情だったけれど、話しかければ応えてくれる。返ってくる彼の一言、二言が無性に嬉しかった。






 それからしばらく経ったある日のこと。
 彼と並んで次の授業へ向かう途中、知らない奴に声をかけられた。

「きみ、なんでそんな奴と一緒にいるの?」
「なぁ、こんな裏切り者の弟なんかといるのはよせよ!」

 彼はいつものように無視を決め込んでいる。飛び抜けた美貌と有名な兄を持つために、彼は見知らぬ生徒にからまれることが多いのだ。
 でもこれは違う。
 彼にではない、僕に絡んできているのだ。

 二人組のうちの一人が、ニヤニヤと嫌らしく嗤いながら、彼の前に立ちはだかって行く手を塞ぐ。

「きみ、もしかして知らないの? こいつの兄貴のこと」

 僕は唇を噛んだ。心臓がバクバクと脈打つのが自分でも判る。

 お願いだ、言わないで――!

「下層階級が気安く触るんじゃないよ!」

 彼は僕の肩を小突いたそいつの手をバシッと払いのけると、そんな自分に驚いたように目を瞠り、踵を返して近くの手洗いに駆けこんだ。
 僕は呆気に取られ、身じろぎもできずにその場に立ち尽くしていた。
 それから、慌てて彼のあとを追った。


 彼は洗面台で制服の袖が濡れるのもかまわずに、ゴシゴシと手を擦り洗っていた。

「きみ――、もしかして潔癖症?」
 僕は茫然と、美しい顔を歪ませている彼を見つめる。
「え?」

 彼はやっと我に返ったように僕を見つめ、自分の手を見つめ、もう一度僕の顔を見て、口許を強張らせて曖昧に笑った。

 僕はポケットからハンカチを取りだし、彼に差しだした。



 僕たちは次の授業に間に合わなかった。
 ラテン語のアントニオーニ先生はとても厳しい方で、一分でも遅れたら教室に入れてくれない。僕たちは反省文と罰の書き取りを覚悟するより仕方ない。互いの顔を見合わせて苦笑いだ。

 他に仕様もないので、次の授業のある音楽棟に向かった。
 僕の選択科目は、別の棟だけれど。
 彼に話さなければ。
 あんなふうに他人から聞かされるくらいなら、僕の口から伝えた方がずっとマシだ――。
 僕は、言わなければならない。言って、謝らなければ――。


「さっきの話だけどね、」

 彼は不快そうに眉根を寄せた。
 僕は、気づかぬふりをして話し続ける。

「僕の兄は、事故で亡くなったんだけどね。――その日、兄から電話を貰ったんだ」


 聖パトリックの日だった。
 電話の向こうで、パレードの音楽がかすかに聞こえていた。
 あの時演奏されていた曲は何だっただろう? 
 頭の中で何度も何度も繰り返されるのに、僕はこの曲の名前を知らない。威勢の良いかけ声や、ピーという警笛の音ばかり覚えている。
 騒音に紛れて、兄の言葉はよく聞き取れなかった。

「友人じゃないって、そう言われたって。きみのお兄さんに――」

 息が詰まりそうだ――。

「僕の兄は、この学校で伝説的な人気を勝ち得ていたきみのお兄さんの動画を、勝手に動画サイトに上げて、お金を稼いでいたんだって。――僕の、学費にするために」

 圧し潰し、喉から押しだすようにして、言葉を絞りだす。何とか、最後まで告げることができた。

「お兄さんがそうおっしゃったの?」

 彼は真っ直ぐ前を向いたまま、とても静かな声で訊ねた。
 僕は首を大きく横に振る。

「寮長はきみのこと、僕の兄の親しくしていた友人の弟だから信頼できる子だよ、っておっしゃっていた。僕はあんな下衆な奴らの言うことよりも、寮長を信じるよ。寮長は、きみのお兄さんのこと、兄の一番の親友だった、てはっきりおっしゃっていたもの」

 そして、不愉快そうに形のよい眉を寄せ、立ち止まる。

「ねぇ、きみ、僕の兄を侮辱するの? 僕の兄が、信頼していた友人に騙されて裏切られるような、そんな間抜けだっていうの? 僕の尊敬する兄を侮辱するなら、きみだって許さないよ」

 彼はあのブルーベルの瞳で僕を睨めつけ、怒りを含んだ声音で続けて言う。

「あんな下衆な奴らの、つまらない噂話になんて耳を貸すなよ」


 僕は、我慢できずにとうとう泣いてしまった。

 ずっと誰かに、そう言ってもらいたかった。
 それは違う、って。
 兄は、友人を裏切るような人なんかじゃないって――。

 信じたいのに信じられなかった僕よりも、目の前の彼は、ずっと二人の兄のことを信じてくれていたのだ。

 彼は泣きだしてしまった僕を見て、困惑してその場に立ち尽くしていた。

 僕が泣き止むまで、ただ、じっと、黙ったまま――。




 翌春のハーフタームに、教会の裏手にある雑木林に広がる『ブルーベルの森』を訪れた。あれ以来、ここに来るのは初めてだ。
 兄の葬式で酷い噂を聞かされてから、僕は想い出深いこの場所へやってくるだけの勇気を失ってしまっていたから――。
 
 小さな壺を胸元で抱え、ブルーベルの絨毯から中糸を数本抜き取ってできたような細い砂利交じりの道を進んだ。
 あちらこちらで、家族連れや老夫婦が腰を下ろし、この控えめで愛らしい青紫の花を楽しんでいる。
 他の人たちの邪魔にならないところまで来て、僕たちは立ち止まった。そして、ゆっくりと辺りを見回す。

 僕たちが通り過ぎた道すがら出会った人たちが、立ち上がり、帽子を脱いで胸に当てて頭を垂れてくれている。僕の手にしていた壺に気がついて、僕たちがなぜここにいるのかわかってしまったらしい。
 僕は彼らに一礼して、手にした壺から兄の遺灰をこのブルーベルの地に撒いた。

 暗く冷たい納骨堂なんかより、ここの方がずっといい。
 だって兄はああ見えて、とても寂しがり屋だったもの――。
 楽しげな家族の笑い声が、恋人たちの囁きが、子どもたちのはしゃぐ声が、きっと兄を慰めてくれる。
 それに兄の大好きだった友人の持つ瞳と同じ青紫のこの花が、ずっと傍にいてくれるもの――。 


 遺灰をすべて撒き終え、僕たちは手を組み合わせて頭を垂れる。
 僕の横で顔を伏せている彼の透き通る金髪に、木漏れ日が落ち煌めいていた。その静謐な天使のような横顔に目を瞬かせ、僕もまた瞼を閉じる。


 ――兄さん、僕の大好きな友人を紹介するよ。彼は、ブルーベルの花の色の瞳をしているんだ。
 彼、兄さんにお会いしたかったって――。
 彼のお兄さんも、もう一度兄さんに会いたかったに違いないって――、そう言ってくれているよ。


 爽やかな風が樹々の狭間を通り抜け、いくつも連なる青紫の釣鐘型の小さな花々ブルーベルが、兄のための鎮魂の鐘を鳴らしているかのように揺れていた。






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