盲目剣士と鍛冶見習い

陸亜

文字の大きさ
上 下
7 / 8

序(7)

しおりを挟む
翌朝。
自室の布団で熟睡していた八雲は、鍋をひっくり返したような重く騒々しい金属音によって眼を覚ました。窓を見やれば太陽はとうに高く、すっかり寝坊したことを知らしめている。
まどろみは瞬時に斬り伏せられ、師の雷を思い出した八雲の身体は文字通り飛び起きた。老齢であるからだけではなかろうが、師の朝はそれこそ日が昇るよりなお早い。それより早く目覚めることもまた、安吾に弟子入りして身に付けた習慣であったはず、だった。
慌てて身なりを整えると(人前に出るに足るだけの外見でなければ、師はそれこそ視界の端にすら入れようとしなかったものだ)小走りどころではない勢いで厨へと向かう。そのごく短い道中、はてあの音は何だったのかと、今更ながらに思い浮かべるのであった。

そして間もなく、その音源が比喩でなくひっくり返された鍋であったことを知ることとなる。







気になることがあり過ぎてとても眠れそうに無いと主張した八雲に対し、もう夜分も遅く慣れないことで疲れも出ているのだから休むべきだと、晄はそればかりを口にした。翌朝必ず説明するから、とも。
結局折れた八雲は、師の安否も起こったことの真相も気になりながら布団に入ることとなる。しかしながら本人の思惑とは裏腹に、ものの一瞬で眠りの淵へと引きずり込まれたのであった。

あれから数時間後。八雲の目の前では、いつも通り用意したふたりぶんの朝餉が、あたたかな湯気を立ち上らせていた。敢えて違いを挙げるのであれば、日の高さと卓を挟んだ向かいに居る人物くらいのものである。
その人物、すなわち晄は、寸分の隙も無い所作で座布団に座り、神妙な顔で卓を睨み付けていた。相変わらず目は開いていないが、つまりそんな面持ちであるように、八雲には思われた。ほんの数分前、朝餉が揃ったところでは、両手を合わせて歓声をあげていたのだが。目を開かずとも、意外にひとというものは表情豊かになるものだと感心する。
そんな八雲の心境なぞ露知らず、晄は今朝になって何度目かの謝罪を口にした。

「先程は僕のせいで、お手間を増やしてしまい申し訳ありませんでした」
「や、驚いたけど怒っちゃいない。鍋は壊れてないし、あんたに怪我も無かったんだから、それはもう良いって」
「ですが、そもそも僕が人様の厨に無断で踏み入れたことが原因ですし……」
「分かってんなら良いだろ、それこそ。そもそも、こんな時間まで寝こけてた俺にだって責任はある」

そう。今朝、八雲を微睡みから引きずり上げた、あの鍋をひっくり返した音は、他ならぬ晄によって引き起こされたものであった。
八雲を起こすためでは勿論なく、朝餉の準備をしようとしたのだとか。勝手も知らない人様の家で、と言えばその通りではあるが、今回に限っては状況が状況か。昨夜、夕食を下げるついで、簡単に片付けを手伝ってくれていたこともある。もとより、普段からそうした真似をする男ではないのだろう。
見ているこちらが申し訳なくなるほど落ち込んでいる晄に、八雲はすっかり感情を持て余していた。昨日から何かと、この来客には振り回されてばかりである。座り心地の悪さを直すように尻の位置を変えつつ、ひとまずはと目の前で頭を垂れ続ける男に声をかけた。

「つーか、あんたも料理出来るんだな」
「一応、簡単なものなら作れるのですが……物の在処が分からないと、何かと難しいものですね」
「分かっても大変だろ、師匠なんて分かろうともしないけどさ」
「ふふ、安吾どのは男子厨に立ち入るべからず、の人ですからね」

冗談めかして言えば、ようやっと気が紛れたのか、晄はちいさく笑って顔を上げる。切れ長の眉がやわらかに垂れて、その角度に八雲の肩も釣られて下がるのだった。

「僕も、作れるのはごく簡単なものだけですから……八雲どのほどの腕前ではありません」
「言うほど大したもんじゃない」
「いいえ。昨夜も、たいへんに美味でしたよ。今朝も、とても美味しそうですね」

そう言っては、改めてまじまじと卓の上を眺める晄に、それまでとはまた別の類いのおもばゆさを感じる。なら食えよ、と早口に告げれば、嬉しそうに微笑んで掌を合わせたのだった。
朝餉は晄が炊いた米に加え、八雲が作った野草の味噌汁と鯵の干物、そして蕪の漬物である。素朴ながらもそれなりにきちんとした献立は、食への拘りがあまり無い師に少しでもまともなものを食べさせようと奮闘した、八雲の努力の賜物である。料理の腕もまた、安吾に弟子入りしたことで身に付けた技術ではあった。

昨夜の夕餉でも見ていたが、晄の所作はすべてが完璧と言えるほどの精緻さである。姿勢、箸の扱い、食事の進め方……とても見えていないとは思えないが、そこを疑っても致し方あるまい。思わず観察し続けそうになった自分をいさめ、八雲もまた碗を取った。
食事の感想や食材についての質問などを時折口にするほかは、余計なお喋りをすることもなく各々箸を進めてゆく。聞きたいことは山ほどあれど、ひとまずは腹拵えだと米を掻き込んでいった。



「で、話すんだろうな?」
「はい。お約束ですから」

食後、晄に手伝ってもらいながら洗い物を済ませ、食後の茶を入れたところで、再びふたりは卓を挟んで相対した。
廊下に面した窓を、まばゆい陽光が容赦なく貫いている。うっすらと浮かび上がった埃がまたたき、そのまぶしさに目をすがめた。その光を背に、晄は居住いを正すと、口惜しさとも申し訳なさともつかない声音で話し始める。

「結論から申し上げますと、安吾どのの行方も、安否も分かりません。少なくとも、この付近には居られないようです」
「……まあ、そうだろうな」
「昨夜の音は、鍛冶場への入り口を破壊したもののようでした。今朝、ざっと確認した限りでも……」

そこで言葉を切った晄は、こちらの様子を伺うように意識を向けた。切れ長の眉をひそめ、奥歯を噛むように輪郭をこわばらせる。先とはまた違った意味で、口を開くことを躊躇っているようであった。
続きを話して良いか、と暗に問われ、八雲はひとつ頷く。

「話してくれるんだろ」
「……刀という刀が、手当たり次第に折られていました」
「――、」

続けられた言葉に、突き付けられた事実に、八雲の時が止まる。声も、呼吸も、鼓動も、思考も。そのすべてが、瞬時に燃え上がりそうになって――

「八雲どの」

――まっすぐ、こちらを見つめる意識に、呑まれる。
瞼が開くことはない。うすっぺらな皮膚の向こうにあるだろう、瞳孔の色を知る由もない。それでも、その先にある何色とも知れない光に、射貫かれた。
冷水を浴びせられたような感覚に、背筋が粟立つ。まるで喝を入れられているようだと思って、事実その通りであると気付いたのは、ほんの一呼吸置いた後のことであった。

「……それなら、何でその刀は無事だったんだ?」

叱られた後のような(ような、ではなく実質そうであるとは自分でも感じていたが)居心地の悪さを噛み潰しながら、それを隠すように問いかける。視線は晄ではなく、その傍らに置かれた刀――昨日見せられた、晄の祭刀へと向けられていた。
そういえば昨夜は、師が盗んだのではないかと語った晄に、同じように激情しそうになったのだと思い出して、なおさら臓腑がもやもやとする。しながらも、昨夜と同じように掴みかかることは無かった。いちいち騒ぐ自分がなんだか間抜けに思えてしまうし、あの時確かに、晄は安吾を盗人扱いしたわけではないと言ったはずなのだから。
八雲の視線を追うように、晄もまた刀へと意識を向ける。ほんの少し、逡巡するような沈黙を経て――

「――この刀に触れられなかったものが、犯人だからでしょう」

そう、答えたのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう死んでしまった私へ

ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。 幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか? 今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!! ゆるゆる設定です。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

[完結]思い出せませんので

シマ
恋愛
「早急にサインして返却する事」 父親から届いた手紙には婚約解消の書類と共に、その一言だけが書かれていた。 同じ学園で学び一年後には卒業早々、入籍し式を挙げるはずだったのに。急になぜ?訳が分からない。 直接会って訳を聞かねば 注)女性が怪我してます。苦手な方は回避でお願いします。 男性視点 四話完結済み。毎日、一話更新

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

処理中です...