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序
序(5)
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「それ」は確かに、其処に在った。
にも関わらず、この目に、耳に、掌に。認識するには能わなかった。暗闇と静寂と、無であるはずの空間。
けれど。ただ確かに、其処に在るという事実だけが、何の根拠も無しに八雲へと突き付けられていた。
「何だ……?」
何か、あるいは誰かが忍び込んでいたのならば、居場所を報せるような愚行は控えるべきだろう。けれど今の八雲にそこまでの思考は働かず、そもそもにして安吾の自室から転がり落ちてきたことを考えれば、今更のような話ではあった。
そうこうしているうち、気配は明らかに八雲へと近付きつつあった。あるいは、気配そのものが数を、質量を増したのかも。その詳細を探るだけの時間も能力も余裕も無く、八雲は半ば無意識に立ち上がると、背後へと――気配から離れるように後退った。
ほどなくして、背中がつめたい石の温度を伝えてくる。同時に、それ以上の後退を許されなくなった。
こめかみを汗が伝い、輪郭をなぞり、顎から弾け……虚空へと。あまりに幽かな音は、どこからか吹き込む風の音――そうあれかしと願ってやまない響き――によって掻き消される。
「嗚 、 呼――」
嗤ったような――哭いたような。
瞬間、目の前でひかりが弾けた。
それはまるで、流れ落ちる星の軌跡であるかのように。
漆黒に塗りつぶされた闇の中を、しろい光が駆け抜けていった。しゃん、と鈴を鋭く振ったような高い響き。消えていった虚空から、また光が生まれる。しゃん。次いで零れた光は、わずかに青みを帯びていた。しゃん。ほの赤いひかり。しゃん。しゃん。音と光が、暗闇と静寂に交叉してゆく。
八雲はそれを、ただ観ていた。わき目も振らず、まばたきもせず、ただひたすら、そのまなこに焼き付けていた。奇跡というものがあるのなら、神の所業というものがあるのなら、それはきっとこんなかたちをしているに違いない。
どうにかその音も聞き届けたいと思うものの、自身の裡から響く鼓動が大きくなるいっぽうで、ほとんど聞こえなくなりつつあった。つられるように呼吸も逼迫し、いっそどちらも止まってしまえば、とさえ思ってしまう。着物の胸を強く掴み、目を見開き、目の前で起こっている景色を自らに叩き込んでゆく。記憶に、意識に、そして心に。決して忘れまいと、大切な何かをそこに抱くように。
つい先刻、日が昇っている間にも同じように見つめた光があったことに――八雲が気付いたのは、すべてが終わり、そして始まった後のことであった。
*
そうして、いかばかりの時が経っただろうか。
その信じがたい一瞬は、始まったときと同じく、唐突に終わりを告げた。音が消え、光が消え、そこには元通りの光景が広がっていた。暗闇と、静寂。けれど、その中でふたつ、異なるものがあった。
ひとつ、先刻感じた「それ」――形容しがたい、何かの気配――が、すっかり消え失せているということ。そして、もうひとつは――代わりに、異なる気配が存在しているということ。
そのもうひとつ、新たに顕れた気配の正体は、八雲がそれを正しく認識するより早く、正解を知らしめた。
「そこにおられるのは、八雲どのでしょうか?」
警戒と緊張は、形になる前に安堵へと姿を変える。八雲は強張りかけた肩から力を抜くと、乾いた唇を開いて擦れた声を押し出した。
「ああ。晄どのだな?」
「はい。お怪我はございませんか?」
「大丈夫だ」
「良かった。安吾どのは……」
「……見付かってない。寝室にあったのは空っぽの布団だけで、開いてた押入れを覗こうとしたらここに落ちてきた」
「そう、ですか……」
沈黙。晄が考え込んでいる気配に、八雲の思考は少しずつ冷静さを取り戻してゆく。
晄が居所を尋ねている以上、彼もまた安吾を見付けてはいないだろう。そして、晄が土蔵を目指していたことから、ここは推測通り鍛冶場から繋がる土蔵であったことが確実となった。自室からここに降りてきただろう安吾の姿を見ていないということは、やはりあの音よりもずっと前に出て行ったということだろうか。
先刻の晄とのやり取りを思い出しながら、今の状況を分析しようとする。ふと、浮かび上がった疑問をそのまま、晄へと問うた。
「そういや、刀は?」
「残されていました。安吾どのがおられないから、てっきり……」
「てっきり?」
「刀を持ち、何処へと行方を眩ませたのかと」
「なっ……」
晄の口から放たれた言葉に、八雲の思考は一瞬で沸騰する。それまで何をしていたかも、今置かれている状況も、すべてが呆気なく蒸発した。
晄との位置関係は今一つ掴めずにいたが、声の位置からしてそこまで近くはないだろう。思わず踏み出した一歩は深めであったものの、晄とぶつかることはなかったようだ――今の八雲はそれどころではなく、むしろ胸倉を掴まんばかりに右手を突き出したのだが。それが果たされることはなく、虚空を薙いだ右手を固く、爪を突き立てる勢いで握り締める。
「手前、師匠を盗人呼ばわりする気か?!」
「え? ち、違います。そうではなくて……」
「だったら何だって言うんだ?!」
「ええと……八雲さん、一先ず場所を変えましょう」
「ああ?!」
あくまで冷静さを、というかそれを通り越してどこか間が抜けたふうにさえ聞こえる晄の言葉に、なおも八雲の熱は収まらない。それどころか、火に油を注ぐようなものだ。
どんなに厳しくされようとも、むしろ厳しくしてくれるからこそ、八雲にとって安吾はかけがえのないたったひとりの師であり、尊敬すべき人間である。それこそ、晄に言われるまでもなく知っていた。そんな師に謂れも無い疑いをかけられれば、大人しくしていられるはずもない。
一発ぶん殴ってやりでもしなければ気が済まないと、更にもう一歩踏み出そうとする。相変わらずの暗闇ではあったが、構うことなく文字通り闇雲に拳を振り上げようとして――
「――止まりなさい!」
鋭く、居合いのごとく放たれた叫びに、質量さえ伴いそうな気迫に。八雲の全身はぴたりと硬直した。その言の葉こそが何かの呪であるかのような、圧倒的な強制力でもって。
(何を、)
考えるよりも早く。速く――八雲は、それを認識する。
しゃん。
あの音が、あの光が、あの軌跡が。
今ひとたび、かたちを成して八雲の眼前に顕れた。
にも関わらず、この目に、耳に、掌に。認識するには能わなかった。暗闇と静寂と、無であるはずの空間。
けれど。ただ確かに、其処に在るという事実だけが、何の根拠も無しに八雲へと突き付けられていた。
「何だ……?」
何か、あるいは誰かが忍び込んでいたのならば、居場所を報せるような愚行は控えるべきだろう。けれど今の八雲にそこまでの思考は働かず、そもそもにして安吾の自室から転がり落ちてきたことを考えれば、今更のような話ではあった。
そうこうしているうち、気配は明らかに八雲へと近付きつつあった。あるいは、気配そのものが数を、質量を増したのかも。その詳細を探るだけの時間も能力も余裕も無く、八雲は半ば無意識に立ち上がると、背後へと――気配から離れるように後退った。
ほどなくして、背中がつめたい石の温度を伝えてくる。同時に、それ以上の後退を許されなくなった。
こめかみを汗が伝い、輪郭をなぞり、顎から弾け……虚空へと。あまりに幽かな音は、どこからか吹き込む風の音――そうあれかしと願ってやまない響き――によって掻き消される。
「嗚 、 呼――」
嗤ったような――哭いたような。
瞬間、目の前でひかりが弾けた。
それはまるで、流れ落ちる星の軌跡であるかのように。
漆黒に塗りつぶされた闇の中を、しろい光が駆け抜けていった。しゃん、と鈴を鋭く振ったような高い響き。消えていった虚空から、また光が生まれる。しゃん。次いで零れた光は、わずかに青みを帯びていた。しゃん。ほの赤いひかり。しゃん。しゃん。音と光が、暗闇と静寂に交叉してゆく。
八雲はそれを、ただ観ていた。わき目も振らず、まばたきもせず、ただひたすら、そのまなこに焼き付けていた。奇跡というものがあるのなら、神の所業というものがあるのなら、それはきっとこんなかたちをしているに違いない。
どうにかその音も聞き届けたいと思うものの、自身の裡から響く鼓動が大きくなるいっぽうで、ほとんど聞こえなくなりつつあった。つられるように呼吸も逼迫し、いっそどちらも止まってしまえば、とさえ思ってしまう。着物の胸を強く掴み、目を見開き、目の前で起こっている景色を自らに叩き込んでゆく。記憶に、意識に、そして心に。決して忘れまいと、大切な何かをそこに抱くように。
つい先刻、日が昇っている間にも同じように見つめた光があったことに――八雲が気付いたのは、すべてが終わり、そして始まった後のことであった。
*
そうして、いかばかりの時が経っただろうか。
その信じがたい一瞬は、始まったときと同じく、唐突に終わりを告げた。音が消え、光が消え、そこには元通りの光景が広がっていた。暗闇と、静寂。けれど、その中でふたつ、異なるものがあった。
ひとつ、先刻感じた「それ」――形容しがたい、何かの気配――が、すっかり消え失せているということ。そして、もうひとつは――代わりに、異なる気配が存在しているということ。
そのもうひとつ、新たに顕れた気配の正体は、八雲がそれを正しく認識するより早く、正解を知らしめた。
「そこにおられるのは、八雲どのでしょうか?」
警戒と緊張は、形になる前に安堵へと姿を変える。八雲は強張りかけた肩から力を抜くと、乾いた唇を開いて擦れた声を押し出した。
「ああ。晄どのだな?」
「はい。お怪我はございませんか?」
「大丈夫だ」
「良かった。安吾どのは……」
「……見付かってない。寝室にあったのは空っぽの布団だけで、開いてた押入れを覗こうとしたらここに落ちてきた」
「そう、ですか……」
沈黙。晄が考え込んでいる気配に、八雲の思考は少しずつ冷静さを取り戻してゆく。
晄が居所を尋ねている以上、彼もまた安吾を見付けてはいないだろう。そして、晄が土蔵を目指していたことから、ここは推測通り鍛冶場から繋がる土蔵であったことが確実となった。自室からここに降りてきただろう安吾の姿を見ていないということは、やはりあの音よりもずっと前に出て行ったということだろうか。
先刻の晄とのやり取りを思い出しながら、今の状況を分析しようとする。ふと、浮かび上がった疑問をそのまま、晄へと問うた。
「そういや、刀は?」
「残されていました。安吾どのがおられないから、てっきり……」
「てっきり?」
「刀を持ち、何処へと行方を眩ませたのかと」
「なっ……」
晄の口から放たれた言葉に、八雲の思考は一瞬で沸騰する。それまで何をしていたかも、今置かれている状況も、すべてが呆気なく蒸発した。
晄との位置関係は今一つ掴めずにいたが、声の位置からしてそこまで近くはないだろう。思わず踏み出した一歩は深めであったものの、晄とぶつかることはなかったようだ――今の八雲はそれどころではなく、むしろ胸倉を掴まんばかりに右手を突き出したのだが。それが果たされることはなく、虚空を薙いだ右手を固く、爪を突き立てる勢いで握り締める。
「手前、師匠を盗人呼ばわりする気か?!」
「え? ち、違います。そうではなくて……」
「だったら何だって言うんだ?!」
「ええと……八雲さん、一先ず場所を変えましょう」
「ああ?!」
あくまで冷静さを、というかそれを通り越してどこか間が抜けたふうにさえ聞こえる晄の言葉に、なおも八雲の熱は収まらない。それどころか、火に油を注ぐようなものだ。
どんなに厳しくされようとも、むしろ厳しくしてくれるからこそ、八雲にとって安吾はかけがえのないたったひとりの師であり、尊敬すべき人間である。それこそ、晄に言われるまでもなく知っていた。そんな師に謂れも無い疑いをかけられれば、大人しくしていられるはずもない。
一発ぶん殴ってやりでもしなければ気が済まないと、更にもう一歩踏み出そうとする。相変わらずの暗闇ではあったが、構うことなく文字通り闇雲に拳を振り上げようとして――
「――止まりなさい!」
鋭く、居合いのごとく放たれた叫びに、質量さえ伴いそうな気迫に。八雲の全身はぴたりと硬直した。その言の葉こそが何かの呪であるかのような、圧倒的な強制力でもって。
(何を、)
考えるよりも早く。速く――八雲は、それを認識する。
しゃん。
あの音が、あの光が、あの軌跡が。
今ひとたび、かたちを成して八雲の眼前に顕れた。
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