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序
序(2)
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「はじめまして、安吾どののお弟子さん」
薄いくちびるからこぼれる音は、夜空に浮かび上がる月のように響き渡る。言葉にする傍から空気に溶け、波紋のように広がってゆくようだ。高くも低くもない不思議な調子に、八雲の意識はひといきに拐われてしまう。
彼は(声からも男性であろうことは想定できたが、それでもどこか世間離れしたうつくしさは、中性的と言えるものであった)瞳を閉じたままであったが、その意識はぴたりと八雲を捉えているように思われた。見えない視線に絡め取られているかのような感覚は、どうにも居心地が悪い。
「おい、お前も挨拶しねぇか」
「あ、はい」
そんな八雲の様子を知ってか知らずか、安吾がねめつけるような視線を向けてくる。いつもならば背筋が冷える鋭い眼光も、その光源が定かであるためか、逆に安心感をもたらすのだった。
いくぶんいつもの調子を取り戻した八雲は、安吾の促しにひとつ頷くと、客人へと向き直る。腰掛けている彼に失礼の無いよう地面に片膝を付き、見上げるかたちとなった。
客人は柔らかい笑みを口元に刻んだまま、目を開けているかのように八雲の仕草を追っていく。長いまつげの先が、木漏れ日をはねっ返してかすかに瞬いた。
「えっと……安吾に師事している、八雲です」
「はい、八雲どの。僕のことは、晄とお呼びください」
「晄……どの?」
「はい」
八雲に名を紡がれ、晄と名乗った男はひどく嬉しそうに微笑んだ。口許がほころび、柔らかな吐息がこぼれ落ちる。見たこともないのに、花が開く瞬間のようだと思っては、じわりと頬に熱が集まるのを感じる。
むず痒そうに視線を逸らせば、顰めっ面の安吾の顔が目に留まった。八雲の視線が移ったことを察したかのように、客人は目を閉じたまま、ひそめた笑い声をたてる。
「おや、安吾どのが照れておられるなんて、珍しい」
「照れてねえやい。やめてくんねえか、晄どのよ」
安吾をいじろうものなら、八雲であれば縁と命のどちらを切られるかといったところだろう。それを、この男は平然とやってのける。
それだけでも、晄という人物の底知れなさが伺えた。安吾と対峙してさえいなければ、どこか神秘的な雰囲気を称えながらも、穏やかで柔らかい印象の男だと思うばかりであったことだろう。
「八雲どの。安吾どのは、大陸でも有数の素晴らしい刀鍛冶です。僕が言わずとも、貴方は良くご存知でしょうが」
「はン、知るもんか。こいつはこの村から出たことも無ェんだぞ」
「であれば、どうぞ誇りに思われてくださいね。これほどの師、二度とは巡り遇えますまい」
真っ直ぐな目で(やはり瞳は閉じたままなのだが、それでも見詰められているとはっきり自覚できる)言われ、ほとんど反射的に頷く。その声音の真剣さにか、安吾さえも言葉を連ねることなくだんまりとなった。
ぴんと張られたような静寂は、けれどそれをもたらした晄自身によって、いともあっさりと断ち切られる。何てことはない、天気の話でもするような気軽さで、晄はこの地を訪れた理由を口にした。
「安吾どのには、ある刀の手入れをお願いするために参りました」
「刀の、手入れ……?」
晄は頷くと、八雲からは死角になる位置に立て掛けていた、一振りの刀を手に取った。途端、ざわりと臓腑が重みを増す。するどく駆け抜けた緊張は、ともすれば怯えにも似ていた。
柄と鞘を一目見るだけで、相当な年代物であることがわかる。故にこそ、長い年月を生き続けるに値する手入れを施されてきたことも。
金属製の鍔は丸みを帯びた六角形をしており、表面のみならず側面にさえも細やかな意匠が施されている。全体は深みのある涅色で、よく肥えた土壌を思わせる柔らかさを孕んでいた。
表面にわずかな傷はいくつも認められるが、むしろこれだけの年代物で傷が無いはずもない。むしろ、この程度で済んでいるだけでも十分だろう。手入れもさることながら、使い手である晄が大切に扱っていることが、言わずとも知れた。
打刀と呼ぶには長い刀身はけれど、晄が長身であるためか然程気にならず、事実彼はこれを佩くのではなく帯びているようであった。また、刀身に比して柄も長めであることから、余計に長さの比を捉えにくい。けれど、それを違和感と呼ぶには、どうにもしくりと馴染みすぎているように思われた。
少なくとも、普通の手段に(すなわち、人や物を斬るために)使われる刀ではあるまい。
そんな八雲の思考を見透かしたように、晄がちいさく笑みを浮かべた。
「お察しの通り、これは通常の用途に用いられる刀ではありません。この刀は、奉納するための祭刀なのです」
「奉納……つまり、飾るってことですか?」
「確かに、飾って奉納する祭刀もある。だがこいつは、ちと違うな」
八雲の問いに応えたのは、晄ではなく師であった。いつになく師匠らしい物言いは、晄にからかわれたことが原因だろうか。勿論のこと、直接訊ねるような愚行は犯すまい。
安吾の言葉と八雲の視線に促されるように、晄はその鯉口を切ると、ごくゆっくり、注意深い手付きで刀を抜いてゆく。さらりと金属の擦れる音が、星の流れる音であるかのような錯覚を憶えた。
わずかに現れた刀身が、周囲の光を吸い込んでゆくように、きらきらと瞬きをこぼす。意図的にそう打たれているのだ、と悟る。光の当たり方で輝きを変えてゆく様は、さながら万華鏡のごときうつくしさであった。
好奇心を押さえきれず、見開いたまなこに刀のきらめきを映す八雲の様子に、晄はどこかくすぐったそうに首を竦めてみせる。片や安吾はどこか呆れたふうに、あるいは満足そうにも取れる溜め息をこぼすのだった。
六角の大地に立ち、天を貫くしろい柱を想う。太陽が月が巡れば、都度異なる景色をその刀身に映すことだろう。
それはまるで、小さくも確立された、一つの世界の在り方のようであった。
薄いくちびるからこぼれる音は、夜空に浮かび上がる月のように響き渡る。言葉にする傍から空気に溶け、波紋のように広がってゆくようだ。高くも低くもない不思議な調子に、八雲の意識はひといきに拐われてしまう。
彼は(声からも男性であろうことは想定できたが、それでもどこか世間離れしたうつくしさは、中性的と言えるものであった)瞳を閉じたままであったが、その意識はぴたりと八雲を捉えているように思われた。見えない視線に絡め取られているかのような感覚は、どうにも居心地が悪い。
「おい、お前も挨拶しねぇか」
「あ、はい」
そんな八雲の様子を知ってか知らずか、安吾がねめつけるような視線を向けてくる。いつもならば背筋が冷える鋭い眼光も、その光源が定かであるためか、逆に安心感をもたらすのだった。
いくぶんいつもの調子を取り戻した八雲は、安吾の促しにひとつ頷くと、客人へと向き直る。腰掛けている彼に失礼の無いよう地面に片膝を付き、見上げるかたちとなった。
客人は柔らかい笑みを口元に刻んだまま、目を開けているかのように八雲の仕草を追っていく。長いまつげの先が、木漏れ日をはねっ返してかすかに瞬いた。
「えっと……安吾に師事している、八雲です」
「はい、八雲どの。僕のことは、晄とお呼びください」
「晄……どの?」
「はい」
八雲に名を紡がれ、晄と名乗った男はひどく嬉しそうに微笑んだ。口許がほころび、柔らかな吐息がこぼれ落ちる。見たこともないのに、花が開く瞬間のようだと思っては、じわりと頬に熱が集まるのを感じる。
むず痒そうに視線を逸らせば、顰めっ面の安吾の顔が目に留まった。八雲の視線が移ったことを察したかのように、客人は目を閉じたまま、ひそめた笑い声をたてる。
「おや、安吾どのが照れておられるなんて、珍しい」
「照れてねえやい。やめてくんねえか、晄どのよ」
安吾をいじろうものなら、八雲であれば縁と命のどちらを切られるかといったところだろう。それを、この男は平然とやってのける。
それだけでも、晄という人物の底知れなさが伺えた。安吾と対峙してさえいなければ、どこか神秘的な雰囲気を称えながらも、穏やかで柔らかい印象の男だと思うばかりであったことだろう。
「八雲どの。安吾どのは、大陸でも有数の素晴らしい刀鍛冶です。僕が言わずとも、貴方は良くご存知でしょうが」
「はン、知るもんか。こいつはこの村から出たことも無ェんだぞ」
「であれば、どうぞ誇りに思われてくださいね。これほどの師、二度とは巡り遇えますまい」
真っ直ぐな目で(やはり瞳は閉じたままなのだが、それでも見詰められているとはっきり自覚できる)言われ、ほとんど反射的に頷く。その声音の真剣さにか、安吾さえも言葉を連ねることなくだんまりとなった。
ぴんと張られたような静寂は、けれどそれをもたらした晄自身によって、いともあっさりと断ち切られる。何てことはない、天気の話でもするような気軽さで、晄はこの地を訪れた理由を口にした。
「安吾どのには、ある刀の手入れをお願いするために参りました」
「刀の、手入れ……?」
晄は頷くと、八雲からは死角になる位置に立て掛けていた、一振りの刀を手に取った。途端、ざわりと臓腑が重みを増す。するどく駆け抜けた緊張は、ともすれば怯えにも似ていた。
柄と鞘を一目見るだけで、相当な年代物であることがわかる。故にこそ、長い年月を生き続けるに値する手入れを施されてきたことも。
金属製の鍔は丸みを帯びた六角形をしており、表面のみならず側面にさえも細やかな意匠が施されている。全体は深みのある涅色で、よく肥えた土壌を思わせる柔らかさを孕んでいた。
表面にわずかな傷はいくつも認められるが、むしろこれだけの年代物で傷が無いはずもない。むしろ、この程度で済んでいるだけでも十分だろう。手入れもさることながら、使い手である晄が大切に扱っていることが、言わずとも知れた。
打刀と呼ぶには長い刀身はけれど、晄が長身であるためか然程気にならず、事実彼はこれを佩くのではなく帯びているようであった。また、刀身に比して柄も長めであることから、余計に長さの比を捉えにくい。けれど、それを違和感と呼ぶには、どうにもしくりと馴染みすぎているように思われた。
少なくとも、普通の手段に(すなわち、人や物を斬るために)使われる刀ではあるまい。
そんな八雲の思考を見透かしたように、晄がちいさく笑みを浮かべた。
「お察しの通り、これは通常の用途に用いられる刀ではありません。この刀は、奉納するための祭刀なのです」
「奉納……つまり、飾るってことですか?」
「確かに、飾って奉納する祭刀もある。だがこいつは、ちと違うな」
八雲の問いに応えたのは、晄ではなく師であった。いつになく師匠らしい物言いは、晄にからかわれたことが原因だろうか。勿論のこと、直接訊ねるような愚行は犯すまい。
安吾の言葉と八雲の視線に促されるように、晄はその鯉口を切ると、ごくゆっくり、注意深い手付きで刀を抜いてゆく。さらりと金属の擦れる音が、星の流れる音であるかのような錯覚を憶えた。
わずかに現れた刀身が、周囲の光を吸い込んでゆくように、きらきらと瞬きをこぼす。意図的にそう打たれているのだ、と悟る。光の当たり方で輝きを変えてゆく様は、さながら万華鏡のごときうつくしさであった。
好奇心を押さえきれず、見開いたまなこに刀のきらめきを映す八雲の様子に、晄はどこかくすぐったそうに首を竦めてみせる。片や安吾はどこか呆れたふうに、あるいは満足そうにも取れる溜め息をこぼすのだった。
六角の大地に立ち、天を貫くしろい柱を想う。太陽が月が巡れば、都度異なる景色をその刀身に映すことだろう。
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