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序
序(1)
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昼下がりの木漏れ日の中に、深く宵闇がひそやかにたゆたっていた。
射し入る光をはねっかえして瞬くさまは、一筋の流星にも似ている。その空間だけが夜に繋がった窓であるかのように、異質でありながら不思議と溶け込んで見えた。
八雲は無言で立ち尽くしたまま、そのありさまを見つめていた。木漏れ日の中に佇む宵闇と、それに向かい合うようにして腰掛ける一人の老人の姿を。
老人は体格こそ小柄であり、白いものが大半を占める頭と筋張った四肢からは相応の年齢を感じさせるものの、その威厳たるや働き盛りの男衆さえ目ではない。村の子どもたちはおろか、女も男も話しかけることを躊躇うほど、近付きがたい雰囲気を持つ人物。それが、八雲の師である安吾という男であった。
安吾は背中をやおら丸めると、暫く制止したのち、ゆっくりと身体を起こしていく。礼をしていたのだ、と気付き、その事実に目を瞬かせた。安吾があれほどの敬意を示す相手など、少なくともこの村には居るまい。よほどの人物なのだろう――そこで初めて、八雲は安吾の前に在る宵闇が、ひとの姿を象っていることに気が付いたのだった。
夜を映す窓に見えたのは、安吾の前に腰掛けた、ひとりの男の後頭部であった。男と判断したのは、身に纏う着物が男物であったことと、座っていても分かる上背の高さ、そして宵闇のような髪が短く切り揃えられていたことが所以である。それらを差し引けば、すらりと細い体躯は、女人のようにも見えただろう。
ぱっと見た限り、安吾がそれほど礼を尽くすような人物には思えない。安吾ほど歳を重ねているようには見えないし、高貴な血筋にしては、護衛のひとつも付けずにこんな辺境の村へ来るはずもあるまい。身形は小綺麗であっても、さほど高級なものを身に付けている様子でもない。そもそもにして、血を尊ぶような嗜みなど、刀鍛冶には不要だと断じそうな師である。
であればなおのこと、宵闇の男の正体が気になるというもの。とはいえ、それほどの人物と対面中に、よもや割って入ろうものなら、この先三日は飯抜きにされてもおかしくはあるまい。
八雲がここ、師の居室に面した裏庭を訪れたのも、大した用事からではない。普段、この時間であれば鉄床に向かい合っているだろう師の姿が見えないことを不思議に思い、居室に顔を出したところ、この奇妙な会合を目の当たりにしてしまったのである。
安吾に見付かれば、それだけで何を言われるか分かったものではない。刀鍛冶としては心から尊敬する師であろうとも、それを差し引けば偏屈きわまりない頑固爺なのである。触らぬ師に祟りなし、抜き足差し足でその場を後にしようとするも、
「八雲ォ! すっとぼけてる暇があったら、茶のひとつでも出さねェか!」
案の定と言うべきか。
落雷さながらの師の怒声が、穏やかな空間を一刀両断に引き裂いたのであった。
*
「安吾どののお声は、相変わらず良く通る」
「いやあ、恥ずかしいところを見せちまって」
「とんでもありません。壮健であられると分かって何よりです」
「呵々、まだ若造には負けんよ……ああ、お前さんのことじゃあなくてな」
「今の……八雲どのと、仰いましたか」
「ありゃあ、どのなんて付けるようなタマじゃあねェ。まだまだひよっこにもならねェ卵さね」
「卵、ですか。……ふふ」
「んン?」
「いえ、あれほど師になることを拒み続けた貴方が、どのような弟子を取ったのだろうと思いまして」
「言うじゃねェか。まあ、寄る年波にって奴だ」
「ご謙遜を」
「謙遜じゃあねェさ。実際、そろそろガタが来る頃さね」
「……、」
「だからよゥ、お前さん――」
*
安吾に弟子入りしてから、一番最初に覚えたことが、師好みの茶の淹れ方だった。
茶葉にはとんと疎いくせに、温度だけはやたらとこだわるのである。逆に言えば、温度さえ気を付けていれば、他のことは大抵目を瞑ってくれる。
そんな奇妙な好みの持ち主である安吾はともかく、彼が敬意を示していた相手にまで適当な茶を振る舞う訳にはいかないだろう。それこそ、一週間飯抜きになりかねない。
何も適当な茶の淹れ方しかできないわけではないので、いつもより高級な茶葉を、いつもより丁寧な淹れ方で、温度だけはいつも通りに淹れる。ふたつの茶器とささやかな茶菓子を乗せた盆を片手に顔を出せば、先とほとんど同じ光景が八雲を待っていた。
違いと言えば、先程は相手に頭を下げていた安吾が、今は対面になって談笑している点くらいだろうか。談笑、という言葉さえも師からは想像しにくいものであったが。
「おう、やーっと来やがったか。ほれ、八雲」
手招く安吾の声が、どこか吹っ切れたような清々しさで八雲を呼ぶ。躊躇しても致し方なし、大人しく進み出ると、盆を揺らさないよう注意しながらふたりへと歩み寄った。
夜の窓が、師が敬意を示すそのひとが、ゆっくりとこちらを振り返る。真っ直ぐに流れる宵闇の束が、ふうわりと浮かび上がってはびろうどのように揺れ、白い肌へと舞い降りてゆくさまを見た。
ほっそりとした体躯の上に、小降りな頭が乗せられている。眉も、鼻も、くちびるも、そのおもてを飾る部品のひとつひとつが、精巧につくられた硝子細工のように細やかで、うつくしい。長い睫毛にふちどられた瞼は閉じられており、その下にあるだろう瞬きの色は伺い知れなかった。
「はじめまして、安吾どののお弟子さん」
凛、と響き渡る声。
それはどこか、刀が抜かれる金属音にも似ていた。
射し入る光をはねっかえして瞬くさまは、一筋の流星にも似ている。その空間だけが夜に繋がった窓であるかのように、異質でありながら不思議と溶け込んで見えた。
八雲は無言で立ち尽くしたまま、そのありさまを見つめていた。木漏れ日の中に佇む宵闇と、それに向かい合うようにして腰掛ける一人の老人の姿を。
老人は体格こそ小柄であり、白いものが大半を占める頭と筋張った四肢からは相応の年齢を感じさせるものの、その威厳たるや働き盛りの男衆さえ目ではない。村の子どもたちはおろか、女も男も話しかけることを躊躇うほど、近付きがたい雰囲気を持つ人物。それが、八雲の師である安吾という男であった。
安吾は背中をやおら丸めると、暫く制止したのち、ゆっくりと身体を起こしていく。礼をしていたのだ、と気付き、その事実に目を瞬かせた。安吾があれほどの敬意を示す相手など、少なくともこの村には居るまい。よほどの人物なのだろう――そこで初めて、八雲は安吾の前に在る宵闇が、ひとの姿を象っていることに気が付いたのだった。
夜を映す窓に見えたのは、安吾の前に腰掛けた、ひとりの男の後頭部であった。男と判断したのは、身に纏う着物が男物であったことと、座っていても分かる上背の高さ、そして宵闇のような髪が短く切り揃えられていたことが所以である。それらを差し引けば、すらりと細い体躯は、女人のようにも見えただろう。
ぱっと見た限り、安吾がそれほど礼を尽くすような人物には思えない。安吾ほど歳を重ねているようには見えないし、高貴な血筋にしては、護衛のひとつも付けずにこんな辺境の村へ来るはずもあるまい。身形は小綺麗であっても、さほど高級なものを身に付けている様子でもない。そもそもにして、血を尊ぶような嗜みなど、刀鍛冶には不要だと断じそうな師である。
であればなおのこと、宵闇の男の正体が気になるというもの。とはいえ、それほどの人物と対面中に、よもや割って入ろうものなら、この先三日は飯抜きにされてもおかしくはあるまい。
八雲がここ、師の居室に面した裏庭を訪れたのも、大した用事からではない。普段、この時間であれば鉄床に向かい合っているだろう師の姿が見えないことを不思議に思い、居室に顔を出したところ、この奇妙な会合を目の当たりにしてしまったのである。
安吾に見付かれば、それだけで何を言われるか分かったものではない。刀鍛冶としては心から尊敬する師であろうとも、それを差し引けば偏屈きわまりない頑固爺なのである。触らぬ師に祟りなし、抜き足差し足でその場を後にしようとするも、
「八雲ォ! すっとぼけてる暇があったら、茶のひとつでも出さねェか!」
案の定と言うべきか。
落雷さながらの師の怒声が、穏やかな空間を一刀両断に引き裂いたのであった。
*
「安吾どののお声は、相変わらず良く通る」
「いやあ、恥ずかしいところを見せちまって」
「とんでもありません。壮健であられると分かって何よりです」
「呵々、まだ若造には負けんよ……ああ、お前さんのことじゃあなくてな」
「今の……八雲どのと、仰いましたか」
「ありゃあ、どのなんて付けるようなタマじゃあねェ。まだまだひよっこにもならねェ卵さね」
「卵、ですか。……ふふ」
「んン?」
「いえ、あれほど師になることを拒み続けた貴方が、どのような弟子を取ったのだろうと思いまして」
「言うじゃねェか。まあ、寄る年波にって奴だ」
「ご謙遜を」
「謙遜じゃあねェさ。実際、そろそろガタが来る頃さね」
「……、」
「だからよゥ、お前さん――」
*
安吾に弟子入りしてから、一番最初に覚えたことが、師好みの茶の淹れ方だった。
茶葉にはとんと疎いくせに、温度だけはやたらとこだわるのである。逆に言えば、温度さえ気を付けていれば、他のことは大抵目を瞑ってくれる。
そんな奇妙な好みの持ち主である安吾はともかく、彼が敬意を示していた相手にまで適当な茶を振る舞う訳にはいかないだろう。それこそ、一週間飯抜きになりかねない。
何も適当な茶の淹れ方しかできないわけではないので、いつもより高級な茶葉を、いつもより丁寧な淹れ方で、温度だけはいつも通りに淹れる。ふたつの茶器とささやかな茶菓子を乗せた盆を片手に顔を出せば、先とほとんど同じ光景が八雲を待っていた。
違いと言えば、先程は相手に頭を下げていた安吾が、今は対面になって談笑している点くらいだろうか。談笑、という言葉さえも師からは想像しにくいものであったが。
「おう、やーっと来やがったか。ほれ、八雲」
手招く安吾の声が、どこか吹っ切れたような清々しさで八雲を呼ぶ。躊躇しても致し方なし、大人しく進み出ると、盆を揺らさないよう注意しながらふたりへと歩み寄った。
夜の窓が、師が敬意を示すそのひとが、ゆっくりとこちらを振り返る。真っ直ぐに流れる宵闇の束が、ふうわりと浮かび上がってはびろうどのように揺れ、白い肌へと舞い降りてゆくさまを見た。
ほっそりとした体躯の上に、小降りな頭が乗せられている。眉も、鼻も、くちびるも、そのおもてを飾る部品のひとつひとつが、精巧につくられた硝子細工のように細やかで、うつくしい。長い睫毛にふちどられた瞼は閉じられており、その下にあるだろう瞬きの色は伺い知れなかった。
「はじめまして、安吾どののお弟子さん」
凛、と響き渡る声。
それはどこか、刀が抜かれる金属音にも似ていた。
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