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悪魔祓いと復讐者(8)
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ラウルは反射的に、この男を殺す状況を思い浮かべようとした。
けれど、脳内でそれが果たされるよりも早く、それが不可能であることを理解した。
今のラウルでは、オースに触れることすら儘ならないだろう。ただでさえ戦いのひとつも知らない身体は、精神ともどもすっかり疲弊しきっている。感情の制御すら覚束ないというのに、悪魔を(そして母を)殺すことができるような男に敵うはずがない。殺すなどもっての他である。
そして、今の状況でオースを殺すことが正しいことかどうかは、既にさいぜん答を出していたはずだ。それを忘れてしまいかねないほど、絶妙にラウルを煽る誘いであった――当人がそれを意識しているかは兎も角として。うっかり飛びつこうものなら、良くて昨夜の二の舞、悪ければ教会から放り出されていただろう。
それでも憎悪と憤怒は抑えきれず、軋んだ歯のあいまから鈍い音が響く。張り詰めた弦のように震える空気を、シュウのかるい溜め息が和らげた。ほそめられた黄金瞳が、隣に立つ男をねめつける。
「人のことが言えた口か? お前も十分人が悪い」
「別に、おかしなことを言ったつもりは無いけれど」
いまいち判然としないものの、その言葉からして半分以上は本気のようであった。何をそんなに驚くのかと言わんばかりに広い肩をそびやかした男は、あおむけていた顎を引いて小首を傾げてみせる。
シュウはすっかりあきれ返った様子であったし、ラウルとしても同意したいところではあったが、どのみち当人にその理由は分かりそうもなかった。それが分かるような人物であったなら、そもそもあんな煽りが飛び出すはずもない。その証左と言わんばかりに、ゆるやかな口調に見合わぬ言葉が続けられる。
「母親の仇を討ちたいなら、その傍に居ることは間違いじゃない。いつでも仕掛けてきてくれて構わないよ。勿論、ただで死んであげるつもりは無いけれどね」
「……お前がそこまでマゾヒストだと知っていたらな」
「人聞きが悪い。それで、君は?」
唐突に話題と視線と意識を向けられて、ラウルの胃がひっくり返る。口の中に溜まっていた唾液が空気にからげて嚥下され、噎せ込みそうになるのを何とか耐えた。
不格好に呼吸を整えながら見上げれば、オースはやはり自分の言葉に何の疑問も持っていない様子で、ごく真面目にラウルの意見を求めているようであった。
「流石に本人が拒否するようなら、シュウも無理強いはしないだろうけど」
「とはいえ、俺の下に付いたところで学べるのは情報部隊としての仕事だからな」
「それはまあ、そうだろうね。実働部隊で他に手が空きそうな人とか居ないの?」
「居たらお前に仕事を回すと思うか?」
「それもそうか。それで、君は……ええと、」
こちらを見下ろす双眸、その瞳孔がいっとき窄まり、ラウルを捉えた。名前を問うているのだと気付き、答えるべきか思案する。ごく短いその一瞬、ふたりの視線は確かに絡み合った。相手を認識しようという意味では、おそらく初めて。
「……ラウル、」
「ラウル、か。君はどうしたい?」
「俺に、選択権は無いんじゃないか?」
「そんなことは無いよ。シュウはそもそも、君を無理に留め置こうとしたわけじゃあないし」
「そうだな。此処に留まるのであれば、この男に付けと言っただけだ」
「君がそれに、十分なメリットを感じられるなら」
「……そう、だな」
メリットはある。いくらでもある。悪魔狩りを目指すのならば、こんなチャンスは二度と訪れないだろう。そして、母の仇を討つとしても――それが本質的であれ、実質的であれ。
強いてデメリットを挙げるとするならば、その仇当人に師事することに対する抵抗感くらいのものだ。それが決して些細なものでないことは、ラウル自身理解している。それでも。それだからこそ。
顔を上げる。凪いだ灰の瞳は、変わらずラウルを見下ろしていた。
「……アンタに付いて行く。それなら、教会に居られるんだろ?」
「ああ。最低限でもその間は、オースもこの教会の所属として扱うからな」
「僕は構わないよ。最近は悪魔も活性化しているようだから、何処に行ってもやることは変わらないし」
「活性化……?」
「その辺りの講義については後日だな。一先ずはその流れで進めるぞ」
言うだけ言って、シュウはくるりと踵を返す。長い黒髪が、気まぐれな猫のようにゆらりと揺れた。
取り残されたふたりの間に、何とも言葉にしがたい沈黙が落ちる。もとい、言葉にできないが故の沈黙が。
ちらと視線を向けてみるものの、オースが同じような居心地の悪さを感じている様子は見受けられなかった。もとより、その眼差しや表情からは、あまり感情の起伏を感じられなかったが。
それがなんだか悔しくて、つい唇を尖らせてしまう。子どもみたいな仕草だと分かっていても、何かしらの形で不満を表さなければ気が済まなかった。果たしてそれは男にも届いた様子であったものの、それが自分の思惑通りなのかさえ分からない。
「まあ、やれる範囲で頑張ると良い。僕は誰かを教えることには向かないと思うけれど」
「随分余裕だな。隙を見せたら、本気で殺しにかかるぞ」
「それくらいじゃないと、張り合いが無いからね」
「……ふん」
穏やかな口調のまま、人の神経を逆撫でするような言葉を平気で吐く。どれほど意図しているのかすら掴めず、ラウルは鼻を鳴らすだけにとどめた。
シュウによって開かれたままの扉から、やわらかな風が吹き込んでくる。清潔感のある、けれど生活の色がありありと見て取れる香り。それでいて、ラウルがこれまで生きてきた中で嗅いだことのないものが、多分に含まれている。
扉の向こうに広がっているのは、ラウルの知らない世界だ。その陰に悪意がひそんでいるなんて思いもしない、爽やかで親しみのある気配。その前に立ちはだかるように――あるいは、その先へラウルを誘い出そうとするかのように。悪魔のような男が、立っていた。
神父らしからぬ悪魔祓いと、未熟な復讐者。
ふたりの奇妙な旅路は、此処から始まるのであった。
けれど、脳内でそれが果たされるよりも早く、それが不可能であることを理解した。
今のラウルでは、オースに触れることすら儘ならないだろう。ただでさえ戦いのひとつも知らない身体は、精神ともどもすっかり疲弊しきっている。感情の制御すら覚束ないというのに、悪魔を(そして母を)殺すことができるような男に敵うはずがない。殺すなどもっての他である。
そして、今の状況でオースを殺すことが正しいことかどうかは、既にさいぜん答を出していたはずだ。それを忘れてしまいかねないほど、絶妙にラウルを煽る誘いであった――当人がそれを意識しているかは兎も角として。うっかり飛びつこうものなら、良くて昨夜の二の舞、悪ければ教会から放り出されていただろう。
それでも憎悪と憤怒は抑えきれず、軋んだ歯のあいまから鈍い音が響く。張り詰めた弦のように震える空気を、シュウのかるい溜め息が和らげた。ほそめられた黄金瞳が、隣に立つ男をねめつける。
「人のことが言えた口か? お前も十分人が悪い」
「別に、おかしなことを言ったつもりは無いけれど」
いまいち判然としないものの、その言葉からして半分以上は本気のようであった。何をそんなに驚くのかと言わんばかりに広い肩をそびやかした男は、あおむけていた顎を引いて小首を傾げてみせる。
シュウはすっかりあきれ返った様子であったし、ラウルとしても同意したいところではあったが、どのみち当人にその理由は分かりそうもなかった。それが分かるような人物であったなら、そもそもあんな煽りが飛び出すはずもない。その証左と言わんばかりに、ゆるやかな口調に見合わぬ言葉が続けられる。
「母親の仇を討ちたいなら、その傍に居ることは間違いじゃない。いつでも仕掛けてきてくれて構わないよ。勿論、ただで死んであげるつもりは無いけれどね」
「……お前がそこまでマゾヒストだと知っていたらな」
「人聞きが悪い。それで、君は?」
唐突に話題と視線と意識を向けられて、ラウルの胃がひっくり返る。口の中に溜まっていた唾液が空気にからげて嚥下され、噎せ込みそうになるのを何とか耐えた。
不格好に呼吸を整えながら見上げれば、オースはやはり自分の言葉に何の疑問も持っていない様子で、ごく真面目にラウルの意見を求めているようであった。
「流石に本人が拒否するようなら、シュウも無理強いはしないだろうけど」
「とはいえ、俺の下に付いたところで学べるのは情報部隊としての仕事だからな」
「それはまあ、そうだろうね。実働部隊で他に手が空きそうな人とか居ないの?」
「居たらお前に仕事を回すと思うか?」
「それもそうか。それで、君は……ええと、」
こちらを見下ろす双眸、その瞳孔がいっとき窄まり、ラウルを捉えた。名前を問うているのだと気付き、答えるべきか思案する。ごく短いその一瞬、ふたりの視線は確かに絡み合った。相手を認識しようという意味では、おそらく初めて。
「……ラウル、」
「ラウル、か。君はどうしたい?」
「俺に、選択権は無いんじゃないか?」
「そんなことは無いよ。シュウはそもそも、君を無理に留め置こうとしたわけじゃあないし」
「そうだな。此処に留まるのであれば、この男に付けと言っただけだ」
「君がそれに、十分なメリットを感じられるなら」
「……そう、だな」
メリットはある。いくらでもある。悪魔狩りを目指すのならば、こんなチャンスは二度と訪れないだろう。そして、母の仇を討つとしても――それが本質的であれ、実質的であれ。
強いてデメリットを挙げるとするならば、その仇当人に師事することに対する抵抗感くらいのものだ。それが決して些細なものでないことは、ラウル自身理解している。それでも。それだからこそ。
顔を上げる。凪いだ灰の瞳は、変わらずラウルを見下ろしていた。
「……アンタに付いて行く。それなら、教会に居られるんだろ?」
「ああ。最低限でもその間は、オースもこの教会の所属として扱うからな」
「僕は構わないよ。最近は悪魔も活性化しているようだから、何処に行ってもやることは変わらないし」
「活性化……?」
「その辺りの講義については後日だな。一先ずはその流れで進めるぞ」
言うだけ言って、シュウはくるりと踵を返す。長い黒髪が、気まぐれな猫のようにゆらりと揺れた。
取り残されたふたりの間に、何とも言葉にしがたい沈黙が落ちる。もとい、言葉にできないが故の沈黙が。
ちらと視線を向けてみるものの、オースが同じような居心地の悪さを感じている様子は見受けられなかった。もとより、その眼差しや表情からは、あまり感情の起伏を感じられなかったが。
それがなんだか悔しくて、つい唇を尖らせてしまう。子どもみたいな仕草だと分かっていても、何かしらの形で不満を表さなければ気が済まなかった。果たしてそれは男にも届いた様子であったものの、それが自分の思惑通りなのかさえ分からない。
「まあ、やれる範囲で頑張ると良い。僕は誰かを教えることには向かないと思うけれど」
「随分余裕だな。隙を見せたら、本気で殺しにかかるぞ」
「それくらいじゃないと、張り合いが無いからね」
「……ふん」
穏やかな口調のまま、人の神経を逆撫でするような言葉を平気で吐く。どれほど意図しているのかすら掴めず、ラウルは鼻を鳴らすだけにとどめた。
シュウによって開かれたままの扉から、やわらかな風が吹き込んでくる。清潔感のある、けれど生活の色がありありと見て取れる香り。それでいて、ラウルがこれまで生きてきた中で嗅いだことのないものが、多分に含まれている。
扉の向こうに広がっているのは、ラウルの知らない世界だ。その陰に悪意がひそんでいるなんて思いもしない、爽やかで親しみのある気配。その前に立ちはだかるように――あるいは、その先へラウルを誘い出そうとするかのように。悪魔のような男が、立っていた。
神父らしからぬ悪魔祓いと、未熟な復讐者。
ふたりの奇妙な旅路は、此処から始まるのであった。
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