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悪魔祓いと復讐者(2)
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「大変だったな、少年」
覚醒して早々かけられたのは、そんなやすっぽい同情の文句であった。いかにも本気ではないと言わんばかり、箱に残された希望のような一握の礼儀が、かろうじて紡がせたような言葉。それでも、そうするだけの常識を持ち合わせている相手がおり、更には現状に少なからず余裕がある(それはあくまで相手目線の話ではあるものの)ということを知らしめるには十分であった。
相手が本気で心配しているかはさておき、会話を試みることができる状態で、会話に応じてくれそうな人物と出逢えたことは、実に幸運と言えよう。こと、事情を知っていそうな人物であればなおのこと。
知りたいことはあまりにも多い。されどもラウルが把握すべきことは、もっと単純なことであろう――自分が今、どのような状況に置かれているのか。鈍い思考を引きずるように、ラウルは意識を周囲へと向けた。かけられた声の主を探すために。
ラウルの視界に広がっているのは、くすんだ灰色をした、高い、およそ見慣れない天井であった。その端に、目当ての人物らしい人影が、こちらを見下ろしていることに気付く。陽光らしいやわらかな光が、そのおもてをゆっくりと露わにしていった。
褐色肌に艶やかな黒髪を持つ、ラウルの人生でこれまでついぞ触れることのなかった人種である。長い髪を一つに編み、ほっそりとした肩から垂らしている。輪郭がほそく玲瓏な顔立ちであることもあり、声を聞かなければ女性と見間違えた可能性すらあっただろう。そう、声の質はいくぶん高めといえども、紛うことなく男性のそれであった。
「気分はどうだ? 目立つ外傷は無いが、痛む場所はあるか?」
ラウルの状況を察しているのか、ゆっくりと落ち着いたトーンで、男は繰り返す。依然として淡々とした、あまり感情の込められていない口調ではあったものの、最低限ラウルの言葉を待とうとする姿勢が感じられた。
気配がより近付くことはなく、意識もまた。韜晦めいたしらじらしさはあれど、過剰に心配されたくないラウルにとっては心地好くさえ感じられる距離感であった。
かけられた言葉をゆっくりと咀嚼して、頭に染み渡らせる。視界も、思考も、少しずつ明瞭さを取り戻しつつあった。問の内容を認識し、ひとつずつ答を探してゆく。
「気分は……正直、悪い。頭が少し痛いけど、他は平気だ」
「それは何よりだ。何か口に入れられそうか?」
「……水なら」
男は小さくうなずいて、ラウルの頭上へと両手を伸ばした。浮かび上がった布地の服が陽光をさえぎって、月光のようなやわらかさを帯びる。手に取った水差しからグラスへと水を灌ぎ、水差しだけを同じ場所へと戻してゆく。一連の動作はかろやかでありながら無駄がなく、河を撫でる夜の風のようにひそやかであった。
起きられそうかとたずねる視線に、ラウルはゆっくりと身を起こす。傍らに手を付けば、思いのほかやわらかい寝台に面食らう。そう大した時間を生きてきたわけではないが、それでも生まれてこのかた出会ったことが無いような、端的に言えばぜいたくな品物であるようだった。少なくとも、ラウルが生まれ育ったあのちいさな村の中では、とうていお目にかかれなかっただろう。
ともあれ、差し出されたグラスを受け取る(硝子で出来た品物もまた、ラウルにとっては物語に聞くような存在であった)。半ばほどまで注がれた透明な液体がちゃぷんとうねり、木漏れ日のようにまたたいた。
「心配しなくても、毒なんか入っちゃいない」
じっと見下ろしていたさまが、疑わしそうに見えたのだろうか。男はおどけたように言って、ほそい肩をそびやかせる。「もちろん、急かしているわけでもない。ゆっくり飲め」と続けて言われ、お言葉に甘えてそろそろと口付けた。乾いた唇に冷たい水がすべりこんで、口の中がぴんと張り詰める。それでも久方ぶりの水分に全身がわっとふるえ、視界がみずみずしさを取り戻してゆくのを感じた。
思わず一気に飲み干したラウルを見遣って、男は口の端を持ち上げる。機嫌の良い猫のような笑い方で。再び水差しを取ると、ラウルが持つグラスへおかわりを注ぎ、同じように元の場所へと戻した。
「さて、色々と聞きたいことはあるだろうが……俺の方からも二三、聞きたいことがある。協力して貰えるなら、此方からも出来る限りのことはしよう」
「分かりました」
「理解が早いな」
「それが、現状で最も妥当な行動でしょうから」
「……お前、何歳だ?」
「それは、お聞きしたいことのうちに入りますか?」
「必要かどうかという意味なら、否だ。単純に俺の興味だな」
「では、成人していないというところで」
「……流石に見りゃあ分かる」
渋みを帯びた声音に、ラウルは莞爾とわらって応える。だいぶ調子を取り戻してきたらしい己にこそりと胸を撫で下ろしたが、それもまた男のねらいであった。
「では始めよう。お前がこの教会に運ばれてから、およそ半日が経過した。意識を失う直前までのことを、覚えている範囲で、かつなるべく詳細に話してくれ」
「……貴方は、」
「ああ、名乗っていなかったな。俺はシュウ。それで?」
「シュウ。貴方、性格悪いって言われません?」
「歳のひとつも素直に明かさないお前には負けるよ」
すっかり面白がっているふうの男――シュウに、ラウルは早々と白旗を揚げる。敢えてやりこめさせた意図を知ったところで、踏み出してしまった足を今更引っ込むわけにはいくまい。もう少し可愛げのある、言ってしまえば見た目通りの子供らしい振る舞いをしたのであれば、この男も手心を加えただろうか。
ともあれ、所存のほぞを固める他なく、ラウルはひとつ息を吐く。思考はほとんど常通り、穏やかに流れる冷水のように静謐であった。凪いだ水面に浮かべるのは、シュウいわく半日前、ラウルからしてみればつい先刻の出来事である。さまざまな事象が重なり合うその一番下、事の発端へと巡らせた先に象られたのは、慕わしい彼女のすがたであった。
「俺は、母に――生母に、襲われました」
覚醒して早々かけられたのは、そんなやすっぽい同情の文句であった。いかにも本気ではないと言わんばかり、箱に残された希望のような一握の礼儀が、かろうじて紡がせたような言葉。それでも、そうするだけの常識を持ち合わせている相手がおり、更には現状に少なからず余裕がある(それはあくまで相手目線の話ではあるものの)ということを知らしめるには十分であった。
相手が本気で心配しているかはさておき、会話を試みることができる状態で、会話に応じてくれそうな人物と出逢えたことは、実に幸運と言えよう。こと、事情を知っていそうな人物であればなおのこと。
知りたいことはあまりにも多い。されどもラウルが把握すべきことは、もっと単純なことであろう――自分が今、どのような状況に置かれているのか。鈍い思考を引きずるように、ラウルは意識を周囲へと向けた。かけられた声の主を探すために。
ラウルの視界に広がっているのは、くすんだ灰色をした、高い、およそ見慣れない天井であった。その端に、目当ての人物らしい人影が、こちらを見下ろしていることに気付く。陽光らしいやわらかな光が、そのおもてをゆっくりと露わにしていった。
褐色肌に艶やかな黒髪を持つ、ラウルの人生でこれまでついぞ触れることのなかった人種である。長い髪を一つに編み、ほっそりとした肩から垂らしている。輪郭がほそく玲瓏な顔立ちであることもあり、声を聞かなければ女性と見間違えた可能性すらあっただろう。そう、声の質はいくぶん高めといえども、紛うことなく男性のそれであった。
「気分はどうだ? 目立つ外傷は無いが、痛む場所はあるか?」
ラウルの状況を察しているのか、ゆっくりと落ち着いたトーンで、男は繰り返す。依然として淡々とした、あまり感情の込められていない口調ではあったものの、最低限ラウルの言葉を待とうとする姿勢が感じられた。
気配がより近付くことはなく、意識もまた。韜晦めいたしらじらしさはあれど、過剰に心配されたくないラウルにとっては心地好くさえ感じられる距離感であった。
かけられた言葉をゆっくりと咀嚼して、頭に染み渡らせる。視界も、思考も、少しずつ明瞭さを取り戻しつつあった。問の内容を認識し、ひとつずつ答を探してゆく。
「気分は……正直、悪い。頭が少し痛いけど、他は平気だ」
「それは何よりだ。何か口に入れられそうか?」
「……水なら」
男は小さくうなずいて、ラウルの頭上へと両手を伸ばした。浮かび上がった布地の服が陽光をさえぎって、月光のようなやわらかさを帯びる。手に取った水差しからグラスへと水を灌ぎ、水差しだけを同じ場所へと戻してゆく。一連の動作はかろやかでありながら無駄がなく、河を撫でる夜の風のようにひそやかであった。
起きられそうかとたずねる視線に、ラウルはゆっくりと身を起こす。傍らに手を付けば、思いのほかやわらかい寝台に面食らう。そう大した時間を生きてきたわけではないが、それでも生まれてこのかた出会ったことが無いような、端的に言えばぜいたくな品物であるようだった。少なくとも、ラウルが生まれ育ったあのちいさな村の中では、とうていお目にかかれなかっただろう。
ともあれ、差し出されたグラスを受け取る(硝子で出来た品物もまた、ラウルにとっては物語に聞くような存在であった)。半ばほどまで注がれた透明な液体がちゃぷんとうねり、木漏れ日のようにまたたいた。
「心配しなくても、毒なんか入っちゃいない」
じっと見下ろしていたさまが、疑わしそうに見えたのだろうか。男はおどけたように言って、ほそい肩をそびやかせる。「もちろん、急かしているわけでもない。ゆっくり飲め」と続けて言われ、お言葉に甘えてそろそろと口付けた。乾いた唇に冷たい水がすべりこんで、口の中がぴんと張り詰める。それでも久方ぶりの水分に全身がわっとふるえ、視界がみずみずしさを取り戻してゆくのを感じた。
思わず一気に飲み干したラウルを見遣って、男は口の端を持ち上げる。機嫌の良い猫のような笑い方で。再び水差しを取ると、ラウルが持つグラスへおかわりを注ぎ、同じように元の場所へと戻した。
「さて、色々と聞きたいことはあるだろうが……俺の方からも二三、聞きたいことがある。協力して貰えるなら、此方からも出来る限りのことはしよう」
「分かりました」
「理解が早いな」
「それが、現状で最も妥当な行動でしょうから」
「……お前、何歳だ?」
「それは、お聞きしたいことのうちに入りますか?」
「必要かどうかという意味なら、否だ。単純に俺の興味だな」
「では、成人していないというところで」
「……流石に見りゃあ分かる」
渋みを帯びた声音に、ラウルは莞爾とわらって応える。だいぶ調子を取り戻してきたらしい己にこそりと胸を撫で下ろしたが、それもまた男のねらいであった。
「では始めよう。お前がこの教会に運ばれてから、およそ半日が経過した。意識を失う直前までのことを、覚えている範囲で、かつなるべく詳細に話してくれ」
「……貴方は、」
「ああ、名乗っていなかったな。俺はシュウ。それで?」
「シュウ。貴方、性格悪いって言われません?」
「歳のひとつも素直に明かさないお前には負けるよ」
すっかり面白がっているふうの男――シュウに、ラウルは早々と白旗を揚げる。敢えてやりこめさせた意図を知ったところで、踏み出してしまった足を今更引っ込むわけにはいくまい。もう少し可愛げのある、言ってしまえば見た目通りの子供らしい振る舞いをしたのであれば、この男も手心を加えただろうか。
ともあれ、所存のほぞを固める他なく、ラウルはひとつ息を吐く。思考はほとんど常通り、穏やかに流れる冷水のように静謐であった。凪いだ水面に浮かべるのは、シュウいわく半日前、ラウルからしてみればつい先刻の出来事である。さまざまな事象が重なり合うその一番下、事の発端へと巡らせた先に象られたのは、慕わしい彼女のすがたであった。
「俺は、母に――生母に、襲われました」
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