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この笑顔こそ 〚茜〛
しおりを挟む産まれたときからそばにいたのに。
―――葵は、こんな目を、するのか。
どんなに踏みにじっても、傷つけても、ずっと諦めたように微笑んでいたのに。
「侑生には手を出すな。」
頬を涙で濡らしながらも、強い視線で俺を射抜いて。
はじめて見るそれに見惚れながら、心が軋んだ。
―――なんで、おれじゃないんだ。
遠目に見た心からの笑顔も。
この、強い決意を秘めた瞳も。
―――すべて、コイツに向いていて。
もう、駄目だ。
これ以上、俺にできることなんてない。
葵は、俺の手の届かないところへ、行ってしまった。
あんなにも傷つけて、傷つけて。
俺という存在を刻みつけていたのに。
ぜんぶ、こいつが、奪ってしまった。
俺の半身を。掌中の珠を。
泣き崩れた俺に、葵がやさしく話しかける。
「きっと、俺たちは、近くにいないほうがいいんだ。」
「遠くで、幸せを祈ってる。」
すこし眉を下げて微笑んで、けれど揺るがない強さで俺を射抜いて。
半身を引き剥がされる痛みに、苦しさに、縋り付いて泣いた。
✢
いつのまにか眠っていたらしい。
丁寧に掛けられた布団に、緩められたベルト。
―――本当に、馬鹿みたいに、優しい。
またじわっと涙が溢れてきて、震える拳を額にあてた。
長い髪が指に触れて、幼い頃を思い出す。
全然似てない。
そう言われるのが嫌だったのは葵だけではない。
よく見ると似てるのに、誰も俺たちをよく見てはくれないから、髪型だけは同じにしていた。
葵のことをいないものとする両親はもちろん散髪代なんて出さないから、じいちゃんが葵の髪を切って。
俺はそれを見ては美容院に同じ髪型をお願いして。
葵と同じ柔らかい髪をくしゃりと握る。
―――ああ、俺は、間違ったのか。
『葵はものじゃない。ひとりの人間だ。』
そんなこと、認めたくなかった。
葵と俺が、別の人間だなんて。
葵と、分かたれるなんて。
『大切なものを傷つけることしか出来ないガキが』
そう吐き捨てた、低い声。
あいつの言うとおり、―――俺はやり方を間違えた。
「はは、は………」
がらんとした小さな部屋に、嗤い声が響く。
空虚な部屋。からっぽな俺にお似合いだ。
半身を引き千切られて残ったのは、何も持たない無様な自分で。
今までの何もかも、俺が手にしていたものは葵のためにあったから。
両親の愛も、友人たちも、可愛がられる自分も、―――ぜんぶ葵に見せつけるためだったから。
そんな葵と、俺のすべてと、離れる?
遠くで幸せを祈るなんて、そんなの。
―――そんなの、地獄だ。
葵の居場所は俺の横で。
俺の居場所は葵の横で。
産まれる前からそうであったみたいに、ずっとずっとそうありたい。
―――それなら、やり方を変えよう。
憎いアイツがしたみたいに、優しく優しく葵を包んで。
1度目は負けたけど、今は全く隙もないけど、アイツだって完璧ではないはず。
尻尾は全然掴めなかったけれど、アイツもバカな男の勘違いを利用したことは確信している。
それなら、いつか、チャンスは来る。
それまでは、いい弟でいよう。
仲のいい兄弟として、葵の心をほぐして。
アイツがしたみたいに、優しい罠で絡め取って。
葵。
今度は、大事にだいじに、閉じ込めてあげる。
✢
放課後は、だいたい葵の横にいるようにしてる。
早苗とふたりきりの時間を削るために帰りも一緒に帰ってたら、変な6人組が出来上がった。
バカな志摩と、シオとナベ。腹黒の早苗。
そこに俺と葵の6人。
俺だって173cmはあるのに、この4人組はでかすぎる。
いちばん小さいシオでも180cmだと言うし、この中にいる葵はいつもより華奢に見えるから、心配だ。
ただでさえ葵は可愛いってバレてしまったのに。
「げ。アンタらだけかよ。」
補習やら告白の呼び出しやらで遅くなってしまって、走ってグラウンドに行けば葵はいなかった。
志摩と早苗がふたりで葵を待ってる。
この二人が大人しく待ってるってことは、たぶん暗室にいるんだろう。
「げ、とは随分だね?別に呼んでないんだけどね?」
「っはは!いつも思うけど、ほんと葵と性格違うなー!」
ほんと、嫌味な男だ。
完璧な美貌に、天才的な頭脳。運動もできて人あたりもいいけど、腹黒。
なんていう厄介なのに捕まっちゃったんだか。
バカな志摩を好きになるのもわからなかったけど、早苗についてはもっとわからない。
こんな陰険野郎の何がいいんだ。
「狭量な男だなぁ?かわいい弟としては、オニイチャンが心配で心配で。」
「ど・こ・が、かわいい弟だって?」
「まーまー。ほんと仲良いな。………にしても、葵、遅くない?」
仲良くない!って言葉が重なって忌々しさに舌打ちをする。
にしても、遅いって、―――まさか何かあったんじゃ……。
皆考えたことは同じだったらしい。
ほとんど同時に、弾けるように駆け出していた。
✢
運動はそれなりに出来る方だけど、現役陸上部ふたりの前では分が悪い。
二人にやや遅れる形でたどり着いたそこには、おろおろする葵と笑顔でキレる早苗と志摩がいた。
二人の目の前には、三人の上級生。
うーん、近寄るのも憚られる迫力だ。
完全に上級生がたじろいでいる。
「ナニコレ、どうしたの?」
そっと葵に近づいて聞けば、ほっとしたように眉を下げた。
傷つけてたころはしなかった表情。
きっと今までは感情を抑えていたんだろう。
素直な表情が可愛くって仕方ない。
………この可愛さをアイツが引き出したと思うと忌々しいけれど。
「暗室を出たら先輩たちがいて、危ないから送ってくれるって言ってくれたんだけど大丈夫だって断ってたところに二人が来てね、」
―――このふたりのキレ具合からして、大方そんな生易しい誘い方じゃなかったんだろう。
葵がすこし手首をさすってるし、………よく見ればそこに指のあとがついて、すこし手が震えている。
ブチッとどこかが切れる音がしたけど、葵の目を見て我に返った。
「ここはふたりに任せて、保健室いこ?」
はやく冷やさないと、痕になるよ。
そう付け加えれば、逡巡した葵がひとつ頷いた。
きっと、その痕を早苗に見られない方がいいと思ったんだろう。
―――たぶんそれは間違いないけど、俺とふたりになるのも良くは思わないだろうね?
もちろんそんなことは教えてやらず、心配そうな表情を作って葵をそっと連れ去った。
✢
葵とふたりきりなんて、いつぶりだろうか?
いつもうっとおしいナイトがついているから、思い返せば襲った時以来ふたりきりになることはなかった。
よくサボりに来る保健室で、保冷剤を取り出して手首を冷やす。
―――しかし、いい弟って、ほんとに便利。
椅子があるのにベッドに座らせても、ぴったりと真横に座っても全く警戒されない。
「あおい。後は痛いとこない?」
優しく聞きながら柔らかい髪を撫でる。
小さな頭に、大きな瞳。控えめな笑顔。
この、押しに弱そうな見た目で、けれど意外と芯の強いところがあって。
ふるりと小さく首を振って、なんでもないと言うように微笑んで。
―――震えていたくせに。
ぐいっと手を引いて、華奢な身体を抱きしめた。
身を固くした葵の背中をとんとんと叩いて、力が抜けるのを待つ。
あんなに傷つけても泣かなかった葵が、こんなことで泣くはずもない。
だけど傷ついていないわけでも、怖くないわけでもないだろうから。
「あ、かね、………あの、」
間近に見える耳が赤い。
すぐに力を抜くかと思えばずっと身を固くしたままで―――それだけ意識してるんだろうか?
前に襲ったとき、俺の気持ちを理解したようだったし、それを忘れてはいないんだろう。
いや、忘れようとしていたけど思い出したという方が正しいか。
―――それでいい。ただの弟に成り下がるつもりはさらさらないし。
「葵。好きだよ。」
弾かれるように顔をあげた葵が、困ったように眉を下げる。
何かを呟きかけたくちびるにそっと人差し指を押し当てて、かわいいおでこにキスをひとつ。
「答えは、イエスしか聞きたくないな。………しょうがないから、早苗に飽きるまで待つよ。」
「そんなときは来ないけどね?」
チッ、ほんと早いな。
走って来たんだろう、すこしあがった息のまま俺を睨みつける琥珀色。
べりっと引き剥がすように葵を奪って、閉じ込めるみたいに抱きしめて。
安心するみたいに力を抜いた葵に、つきんと胸が痛む。
―――きっと、そんなときは本当に来ないんだろう。
そう思えるほど、ふたりはお似合いで。
とんでもない陰険野郎でも、こいつはちゃんと葵を大事にしていくんだろう。
俺の半身が、俺のもとに戻ることは、きっとない。
―――まぁ、それも、悪くない、か。
くしゃりと歪んだ顔よりも、萎れた花のような泣き顔よりも、
花がほころぶように笑う、この笑顔こそ。
俺も大事にしたいと、思えるから。
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