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50. 悪いオンナ

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「えぇぇ!? 咲坂さきさかさん、覚えてないんですかぁ?」

 週が明けた火曜日。
 納会で琴子ことこが倒れたあとの状況を確認しようと隣の席に座る鬼頭きとうに声をかけると、なぜか非常に驚かれた。声が大きいうえに裏返っていたせいか、半径五メートル以内にいた人たちから冷たい視線を向けられてしまう。

「……う、うん。ごめん。なんか頭がボーッとして、あのときの記憶が混乱してるんだよね」

 鬼頭の勢いに押されて、琴子はとりあえず頭を下げる。

 ――あの後。
 鴻上こうがみの家で発熱した琴子は病院に連れていかれた。これといった病名はつかなかったものの、貧血と睡眠不足、そしてストレスが重なったことが原因だろう……とのことで「要安静」を言い渡された。
 つまり「大人しく寝てろ」ということだ。
 琴子は医者の言いつけを守って、この週末ずっと寝ていた。久しぶりに何も考えず、ぐっすりと眠ることができた。おかげで日曜の夜にはほとんど回復していたのだが、心配した鴻上の指示により、大事をとって月曜日も休ませてもらったのだった。

「……で、咲坂さんが社長に向かって何か言いかけて、その途中でいきなり倒れましたよね、フラぁ~って。ここまでは覚えてます?」

「うん、なんとなく」

 琴子が相づちを打つと、鬼頭のほうも大きく頷いてから話を再開した。

「咲坂さんが倒れるのを見て、課長がものすっごい速さで飛んできたんです。あれ、たぶん五十メートル六秒台ぐらいでしたよ。それで咲坂さんのこと抱き上げたかと思ったら、社長と小田桐おだぎりさんに向かって、こう言ったんです」

 鬼頭はそこまで言うと、もったいつけるように息をついて琴子の目をジロリと見据えた。

「……なに? 課長、なんて言ったの?」

 責めるような鬼頭の視線にいたたまれなくなった琴子が先を促すと、



「え…………?」

 思いもよらない言葉に、琴子はしばし絶句した。

「課長のあのセリフ、みんな引っかかりましたよね。なんで咲坂さんのことを下の名前で呼ぶのか……と」

 鬼頭がまたジトっとした目を琴子に向けてくる。

「え、課長、そんなこと言ったの? やだぁ、咲坂さん、愛されてるじゃない!」

 そんなことを言いながら琴子の背中を叩いてきたのは同僚の中岡なかおかだ。中岡さんはお子さんを保育所に預けてから出勤するので朝は少し遅いのだが……いつのまに琴子の背後に立っていたのか。しかも普段はクールな彼女が、この話題に関してはめずらしく目をギラギラと輝かせているではないか。

「待って待って。課長、そんなこと言ってた? 私のおぼろげな記憶だと『ここは私にまかせてください』ぐらいのニュアンスだった気がするんだけど」

「いーえ。はっきり言ってました。『琴子さんのことは、私にまかせてください』って」

 鬼頭がふたたび例の発言を繰り返した。
 迂闊だった。てっきり「ここは私にまかせてください」という事務処理的なやりとりを想像していたのに。まさかの聞き間違いとは……。
 琴子は二十七年の人生で初めて「琴子」という「こ」の多い自分の名前を恨めしく思った。

「もしかしてそれが原因で、昨日、社長に呼ばれてたのかな? 鴻上課長」

 中岡が思いついたように口にした。

「え? それ、どういうことですか?」

 琴子は驚いて立ち上がると、中岡を問いつめた。

「昨日、専務がここまでやって来て、鴻上課長を連れていったのよ。社長が呼んでるから、って」

 中岡は昨日の様子を思い出すように斜め上を見やりながら答えた。
 
「そういえば、社長……すごい怒ってましたもんね」

 中岡につづき、鬼頭までが不穏なことを言い出す。

「怒る!? なんで……!?」

「さぁ。私にはよくわかりませんけど。でも納会のときは『なんで鴻上くんがあんな言い方するんだ? 彼は琴子ちゃんの何なんだ?』とか言って騒いでましたよ」

「マズイよ、それは。鴻上課長、転職してきたばっかりなのに……。もし社長の不興を買うようなことにでもなったら」

 琴子は頭を抱えた。
 自分のせいで鴻上の仕事がやりにくくなったりしたら、申し訳なさすぎる……!

「あーあ。咲坂さんのせいですよ?」

 落ち込む琴子に鬼頭はさらに追い討ちをかけてくる。

「私、怒ってるんです。咲坂さん、なんで黙ってたんですか? 去年の忘年会のときにも『彼氏はずっといない』とか言ってましたよね? あれもウソだったわけですよね」

「……いや、嘘じゃないけど」

「え? でも小田桐さんと婚約してて、さらに課長とも付き合ってたわけですよね。それ完全に悪いオンナじゃないですか」

 鬼頭の思いがけない指摘に、

「悪いオンナ……。え、私が?」

 琴子は自分の顔を指さして、目をぱちぱちと見開いた。
 直人なおととは婚約していたとは言え、結局一度も関係を持つには至らなかった。というか、なんなら男はサクちゃんしか知らないのだ。
 これのどこが悪いオンナ? むしろ今どきありえないほど貞淑じゃない? それもなぜか課長に対して。

「自覚のないトコロがいちばんタチ悪いです」

 呆れたように言い捨てた鬼頭がフイと顔をそらして仕事を始めた。その様子を見た中岡もそそくさと自分の席へと向かっていく。

 琴子も腰を下ろしてパソコンに向き直ったが、打ち込まなければいけない数字が頭の中でぐるぐると渦を巻いて、全然集中できない。

 ――鴻上は大丈夫だろうか?
 ――社長に何を言われたのだろう?

 気になって仕方なかったが、彼の予定を確認すると午前中は「外出」になっていて、すぐには確かめられない。

「午後には戻るんだよね」

 琴子はひとり呟くと、鴻上の帰りを待った。


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