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45. かちょおー!

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咲坂さきさかさん。咲坂さん!」

 少し苛立ったような甲高い声に呼ばれて琴子ことこが振り返ると、後輩の鬼頭きとうが訝しげな目でこちらを見ていた。

「大丈夫ですかぁ? 最近ボーっとしてること多いですよ」

 そうだった。この、やる気はまったくなさそうなのに、やけに鋭いところがあるのだ。心配してくれるのは嬉しいが、あんまり観察しないでほしい……と琴子は思う。

「それで、次はなにをすればいいですか?」

 めんどくさそうに指示を仰ぐ鬼頭の前に、琴子は一枚の紙を差し出す。

「この辺の椅子は全部片付けて奥の倉庫に運んでもらえるかな。その後で机を並べるんだけど……こんな感じで」

 紙には今日の終業後に行われる年度末の「大納会」の会場配置図が書かれていた。琴子が勤める株式会社パウロでは年度末に三階の大会議室を解放しての納会が行われる。業務に余裕のある社員はひと足早く来て会場設営の準備を手伝う慣習になっており、琴子たちも早々に駆り出されていた。

 ちなみに社名の「パウロ」は社長の苗字――小田桐おだぎりの「桐」に由来する。たしか「桐」の学名がパウロウニアなんちゃら……とか言うらしく、そこから取ったらしい。知的なのか単純なのか微妙なところだが、琴子は気に入っている。機関車トーマスの友達にいそうだ。知らないけど。

「でも社内でやるなんてケチくさいですよね。どこかのホテルでも貸し切ってくれたらいいのに。私の友達の会社なんか……」

 鬼頭がぐちぐちと文句を垂れながら椅子を運んでいる。いちおう口だけでなく手も動かしているので、琴子も厳しく注意することなく適当に話に付き合うことにする。

「でもうちの場合、自社の取り扱い商品とかメーカーさんからの差し入れもあるから外の会場ではやりにくいんじゃない? 持ち込み禁止なところが多いだろうし」

 そうこうしているうちに定時が過ぎて、仕事を片付けた社員たちがぱらぱらと集まりだした。ただし営業は外に出ている人も多いため、サポートのメンバー以外はまだ来ていない。鴻上こうがみの姿もまだ見えない。

 あー、なんか頭イタイ。

 琴子は気が重かった。
 今日の納会は年度末ということもあって、基本的に「全員参加」である。もちろん家の事情や体調不良であれば抜けても構わないが、今日は社長も来るのだ。挨拶だけでもしておかないと。

 直人くんも当然参加するだろう。
 
 ――気まずい。非常に気まずい。

 直人くんとはあの日以来だ。
 あの昼のを思い出すと、琴子は頭が痛くなる。性別が逆なら、いや、逆じゃなくとも、れっきとした「強姦未遂」じゃないの、あれって……。いま思うと吐きそうなくらい恥ずかしい。

 琴子が頭を押さえて項垂れていると、

「咲坂さん、大丈夫ですか? なんか顔色悪いですよ」

 鬼頭が心配そうに琴子の顔を覗き込んでいる。

「うん、ごめん。……大丈夫だから」

 琴子はなんとかそう答えたが、実は本当に頭が痛かった。
 貧血? 寝不足?
 最近あまりうまく眠れていない。
 夜、ベッドで横になっていると、いろんな思い出や後悔が頭に浮かんできて、頭の中がちっとも休まらないのだ。もちろんその思い出や後悔の大部分を直人が占めている。ただし最近では鴻上課長、というか、サクちゃんが登場する回数も多くなってきた。

 やっぱり失恋のショックだろうか。
 なんせ二十年抱えつづけた想いである。自分でもそうとう自覚はある。

 もしかして欲求不満? ……まぁ、それもある。

「あ。かちょおー! お疲れさまです!」

 さっきまで琴子の身を案じていたはずの鬼頭が急にいきいきと声を張り上げた。
 その声につられて彼女の視線の先を追うと、入り口のところで佇む鴻上の姿が目に入った。薄いベージュのコートを羽織っている。外回りから戻ってきたばかりらしい。

 すでにセッティング済みのテーブルにはお酒やつまみが盛られているが、納会自体は始まっているのかいないのか、よくわからない。終業時間が社員によってまちまちなせいで、納会自体は毎年なんとなく始まるのが常なのだが、今回初めて参加する鴻上は様子がわからず戸惑っているようだ。

 鬼頭の呼びかけに反応した鴻上がこちらに顔を向けた。
 琴子に気づいたらしい鴻上が軽く笑ってみせる。

「お疲れさま。鬼頭さん、咲坂さん」

 鴻上が彼女たちの側へとやって来る。

「会場の準備? 俺もなんか手伝おうか?」

 鴻上は琴子の持っていた配置図をひょいと覗きこんだ。

「ありがとうございます。たぶん、椅子とか机とかはひと通り並べ終わったっぽいので、お酒運ぶの手伝ってきてもらえますか」

「わかった。……って、咲坂さん、大丈夫? なんか顔白くないか?」

「そうなんですよ。咲坂さんの顔色が悪いから、わたしもさっきから私も心配してたんです」

 鴻上の指摘にかぶせるように鬼頭が言い募る。
 鬼頭のみならず鴻上にまで指摘されるとあれば、自分はよっぽど酷い顔をしているのだろう、と琴子は思った。目の下のクマを隠そうとしてファンデーションを塗りすぎたのも良くなかったのかもしれない。

「無理するなよ。業務時間は終わってるんだし、帰ったほうがいいんじゃないのか」

 案じるようにそう言うと、鴻上は身をかがめて琴子の目線に合わせた。

「ありがとうございます。そうですね、社長の挨拶だけ聞いて、帰らせてもらおうかな……」

 琴子が小声で応えると、鴻上がホッと息をついて微笑んだ。
 自分の身を心配してくれる鴻上の気持ちがくすぐったくて、琴子は床に目を落とした。


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