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35. おっぱい好きですか?

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 琴子ことこは思わず地を這うような声で聞き返した。
 鴻上こうがみの言ったことの意味がわからない。いや、意味はわかるが、なぜいまこの場面でそういった質問が出てくるのか……がわからなかった。

「あの、どういうことですか? なんで、そんなことを……」

「俺の勘違いかもしれない。さすがに直接確かめる勇気はなかった。だけど、あの雰囲気は……たぶん、そうだと思う」

「そうだと思う、って……何をどう思ったんです?」

 琴子の質問には答えないで鴻上はおもむろに立ち上がるとキッチンへと向かい、追加のビールを持ってきた。二本目のビールをプシュってと開けて、またゴクゴクと勢いよく飲み干す。ひと口で結構な量を流し込んだせいか、口の中に収まりきらなかった液体が唇からタラリとひとすじ溢れた。

小田桐おだぎりさんと新堂しんどう…………デキてるな」

 口元をグイッと拭ってから鴻上が声を潜めて言った。

「………………は?」

 琴子は再び地を這うようなドスの効いた声を漏らした。
 何を言っているんだ、この人は……と思って鴻上の顔を見返すが、その目があまりにも真剣だったので琴子はそれが冗談ではないことを悟る。

「でも、まだ付き合うところまでいってるかどうかはわからないしな。しかし新堂が惚れてるのは間違いない。問題は小田桐さんがどう思っているかだ……」

 ブツブツと一人で喋りながら思案に暮れる鴻上に、琴子が口を挟む。

「それは、その……BLとか、そういう意味ですよね? 男性同士の……」

 琴子の声がしりつぼみに小さくなる。
 そんな彼女に向かって鴻上はためらいながらもはっきりと頷いてみせた。

「そうだ。だから聞いたんだ。咲坂さんと小田桐さんの関係を……」

「…………でも、」

 なにか反論しようと琴子は過去の記憶をたどった。しかし決定的な証拠を見つけられない。
 いや、待てよ。
 そういえば昔、小田桐のおばさんが「直人なおとはモテるのよねー」って自慢してたことなかったっけ? それを聞いてわかりやすく落ち込む琴子を見て親たちが笑っていたような気がするんだけど……。
 ダメだ、昔すぎる。

 それに、たとえ直人が他の女性と付き合っていたとしても、立場的に琴子の耳に届くはずがなかった。直人が彼女らしき女性と一緒にいる場面を目撃する……なんてドラマみたいな展開に遭遇したこともないし。

「あ――――――…………」

 琴子は両手で顔を覆うと下を向いて呻いた。反論できない。しょうがないから、これまでに自分が直人と過ごした何度かの夜を思い出してみる。

「あの、直人くんとは、その……」

 手で顔を隠したまま、琴子は言おうか言うまいか迷った。迷って迷って迷ったすえに――

「スミマセン。直人くんとは一度も最後までシたことがありません」

 ついに腹を括って打ち明けた。

「別に謝ることじゃないけど。でもそれじゃあ本当にただの幼なじみじゃないか」

 鴻上は顎をさすりながら、訝しげな目で琴子を見た。

「……何度か試してみたことはあります」

 痛いところを突かれた、とは思ったが、琴子はもはや恥を捨てて、今までの直人との関係についてぽつぽつと語り出した。

「初めて挑戦したのは私が二十歳のときでした」

 恥ずかしくていたたまれない話なので、あまり思い出さないようにしているのだけれど、思い出そうとすればいくらでも琴子はその日のことを事細かく思い出すことができた。

 その日は直人の誕生日だった。
 琴子がプレゼントを持って直人の部屋を訪れると、彼は快く(少なくとも琴子にはそう見えた)招き入れてくれた。当時ふたりは大学生で、直人はキャンパスが家から少し遠いという理由で大学近くのマンションでひとり暮らしをしていた。

 琴子がその部屋――実家ではない直人の部屋に入るのは初めてだった。
 琴子が二十歳、直人は二十二歳になったばかりで、部屋にはふたりしかいなかった。
 直人が紅茶を出してくれたけれど、琴子はひと口も飲むことができなかった……緊張して。

 そう、琴子は期待していたのだ。
 直人との進展を。

 琴子の気持ちに彼はとっくに気がついていたと思う。その想いを明確に拒否されたことはなかったし、むしろ受け入れてくれているものと琴子は感じていた。そうでなければ、今どき「親が決めた相手と結婚」なんて話、成立するわけがない。

 最初にキスを求めたのは琴子からだったと思う。違った。「思う」だなんて曖昧なものじゃなく、確実に琴子から

 そして直人は応じてくれた。

 最初は軽く触れ合っていただけの唇が、だんだんと湿り気を帯びていって、やがて直人くんの舌がおずおずと琴子の口内に差し込まれた。琴子も慣れないながら自分の舌を突き出して彼の動きに懸命に応じた。「やり方、ヘンじゃないかな?」と不安を感じながらも琴子は心の中で信じていた。

 ――直人くんも喜んでくれているに違いない、と。

 女から迫れば男のひとは無条件によろこぶものなのだろう……と、この時の琴子は無邪気に信じていたのだ。

 キスの最中、直人くんの手が服の上から琴子の胸を撫でた。その手つきは優しくて、優しすぎて……。琴子はもどかしさのあまり、「もっと強く触って」と口走ってしまいそうだったが、直人に引かれてしまうかもしれないと思うと、自分の願望を露骨に口にすることは憚られた。

 服を脱がされ、下着も外され、裸に剥かれた上半身が晒されると、琴子の胸の先端を直人が口に含んだ。
 ずっと「お兄さん的存在」だった彼が自分の胸をちゅうちゅうと赤ん坊みたいに吸っているのがなんとも可愛らしくて、琴子は思わず直人の頭をかき抱いた。すると、直人は弾かれたように頭を上げて琴子の胸から離れていったのだった。

 その時の……琴子を見下ろした直人くんの目が――ゾッとするほど冷静だったことを今でも鮮明に覚えている。

 琴子は自分が握りしめていたせいで少しぬるくなってしまったビールを開けると一気に喉の奥へと流し込んだ。この程度の量ではまだ酔えないが、素面しらふで続けるにはキツい思い出だった。

「課長は、おっぱい好きですか?」

 琴子の唐突な問いかけに、鴻上が目を丸くする。

「……なんだ、いきなり」

 しかし、すぐに調子を取り戻したのか、ニヤリと口角を引き上げて、

「好きに決まってるだろ。なんなら今すぐにでも揉みしだきたいし、しゃぶりつきたい」

 目尻を下げて軽口を叩いた。

「……ですよね」

 琴子は鴻上の冗談に特に反応することもなくチラリと一瞥してから目を伏せた。そして小さく溜め息をついてからゆっくりと口を開いた。

「……勃たなかったんです、直人くんは」



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