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10. フッフッフ。実はね……
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*****
鴻上の歓迎会が開かれたのは二月に入ってからだった。
幹事を任されたのは鬼頭さんと柿澤くん。まだ二年目の二人が手配に手間取っていたのもあるけど、当初は二課のメンバーだけで小規模にやるつもりだったのが、なんだかんだと話が大きくなってしまい、結局、忘年会のときと同じように他の課も含めた営業部全体の飲み会になってしまった。
会社から十五分ほど歩いたところにある創作居酒屋だ。一番大きな部屋を押さえてもらったはずだが、五十人ほどの人間が集まるとやっぱり狭く感じる。
「あ、大川部長、鴻上課長! こちらにお願いしまーす!」
営業先から直接やって来た部長と課長を目ざとく見つけた鬼頭が上座へと呼び寄せた。
会場は大きなお座敷だったが、テーブルの島がいくつかある。琴子は出口に近いテーブルの、さらに端っこの席で身を隠すように息を潜めていた。
鴻上の座る上座のテーブルとは距離があるため、きっと彼からは琴子の姿すらろくに確認できないはずだ。
あー、はやく帰りたい。
「あれ? 小田桐さん、どうしたんですか」
近くに座っていた一課の男性社員の声に、琴子はつられて顔を上げた。
え? また?
姿を現したのは経営企画部の小田桐直人だ。
「大川部長に声かけてもらったんですよ」
なぜ営業部の飲み会に別の部の彼がいるのか、と常々疑問に思っていたのだけど。
なんだ、部長の仕業だったのか。
得心している琴子の隣の席に小田桐がさり気なく腰を下ろす。
「鴻上課長は? どこにいるの?」
小田桐が琴子のほうに顔を向けて尋ねてきたので、琴子は仕方なく大川と鴻上のいる方を指差して教える。
「あぁ、あの人が鴻上さんか。ちょっと挨拶しにいかないとな。咲坂さんは? もう挨拶に行った?」
「……まだです。でも私はもう鴻上課長と面識があるので、今日は行かなくてもいいかな、と思ってるんですけど」
「いや、でも一応行っておいたほうがいい。ついでに紹介してよ。鴻上さんに、僕のことを」
「えっ……」
小田桐の無邪気な申し出に、琴子は言葉を失う。
冗談じゃない。あの男に小田桐を引き合わせるなんて……さすがに悪趣味すぎる。
「ほら、行こう」
いつも穏やかな小田桐にしては少し強引なくらいの力で琴子の腕を掴むと、目的の人物たちのいる方へとずんずん進んでいく。
「大川部長、お疲れ様です」
部長の席へとたどり着くと、小田桐はいつも通りのさわやかな笑顔を作ってみせた。
「おぉ、直人くん。お疲れ様」
すでに酔っているのか、顔を赤らめた大川部長が身を寄せて、小田桐の座る場所を空けてくれる。琴子の入り込むスペースはなかったので、少し離れたところで正座して待つことにする。
「今日は声を掛けてくださってありがとうございます」
さっきのテーブルから持ってきた瓶ビールを掲げながら頭を下げる。
「待って待って。いま空けるから」
まだグラスの半分ほど残っていた琥珀色の液体をグイッと一気に飲み干すと、小田桐の前に空いたグラスを差し出した。それに小田桐が慣れた手つきでビールを注ぐ。
「そうだ、紹介しないとな。はい、こちらが鴻上くん。先月から営業二課の課長として新しくうちの部に入ってもらいましたぁ」
部長が楽しそうに鴻上の肩に手を置いた。
大川部長はあまりお酒に強くない。と言っても、別に酒グセが悪いわけではなく、酔うと多少いつもよりお喋りになるだけなので、特に害はない。陽気なおじさんになるだけだ。
「はじめまして、経営企画部の小田桐です。よろしくお願いします」
「鴻上です。こちらこそ、よろしくお願いします」
小田桐と鴻上が折り目正しく挨拶を交わす。
側から見ると、二人とも感じのいい好青年以外の何者でもない。
もちろん琴子が彼らに対して抱いている印象はだいぶ異なるわけだが。
小田桐が鴻上のグラスにもビールを注いでいると、何かに気づいたらしい鴻上がおずおずと口を開いた。
「あの、小田桐さんって……もしかして社長の」
「そう、息子さんだ。直人くんは次期社長だからね。鴻上くんも協力してこの会社を盛り立てていってくれよなぁ」
小田桐が社長のひとり息子であること。
これは公然の事実で、社員ならほとんどの人間が知っている。
「直人くんはいくつになったんだっけ?」
アルコールが回って、舌も回りだした大川部長が親しげに話しかける。実際、大川は小田桐が子供の頃から彼のことを知っているわけだから、「親戚のおじさん目線」になるのもしょうがない。
「今年で三十になります」
「じゃあ、そろそろ結婚話も具体的に進めないとねぇ。社長もずっと楽しみにしていらっしゃるし」
「はぁ、そうですね」
返事に困ったらしい小田桐がなんとも気の抜けた相づちを打つ。
「うちの部としては咲坂さんが抜けると困るんだけど……。でも、まぁ、社長の意向じゃ仕方ないよなぁ」
おい、部長!
唐突に名前を出されて、琴子は顔色を失う。琴子のなかで大川の評価が「害のない陽気なおじさん」から一転、「酒を呑むと厄介な要注意人物」に上書きされる。
「あの、すみません。どうして咲坂さんが抜けることになるんですか?」
大川と小田桐のやり取りを黙って聞いていた鴻上がもっともな疑問を口にした。
「フッフッフ。実はね……直人くんと咲坂さん、ずっと婚約してるんだよ」
大川は悪代官のように笑うと、何やら疾しい密談でもするかのごとく、声のトーンを落として囁いた。
「あんまり広めないでくださいよ、大川部長。仕事がやりにくくなると困るんで」
直人がフォローしてくれたものの、もう手遅れだ。
顔が引きつりまくっているのが自分でもわかる。
幸い周囲はざわついていて、彼らの会話を耳にした人はいなさそうなことだけが救いだった。
「へぇ……。そうなんですか、お似合いですね」
鴻上は直人の顔をまっすぐに見据えると、にっこりと微笑んだ。
さわやかな笑顔を向けられた直人が照れたように頭を掻く。同性をも怯ませるほどの眩しい笑顔。
――しかし、琴子にとっては不気味でしかなかった。
鴻上の歓迎会が開かれたのは二月に入ってからだった。
幹事を任されたのは鬼頭さんと柿澤くん。まだ二年目の二人が手配に手間取っていたのもあるけど、当初は二課のメンバーだけで小規模にやるつもりだったのが、なんだかんだと話が大きくなってしまい、結局、忘年会のときと同じように他の課も含めた営業部全体の飲み会になってしまった。
会社から十五分ほど歩いたところにある創作居酒屋だ。一番大きな部屋を押さえてもらったはずだが、五十人ほどの人間が集まるとやっぱり狭く感じる。
「あ、大川部長、鴻上課長! こちらにお願いしまーす!」
営業先から直接やって来た部長と課長を目ざとく見つけた鬼頭が上座へと呼び寄せた。
会場は大きなお座敷だったが、テーブルの島がいくつかある。琴子は出口に近いテーブルの、さらに端っこの席で身を隠すように息を潜めていた。
鴻上の座る上座のテーブルとは距離があるため、きっと彼からは琴子の姿すらろくに確認できないはずだ。
あー、はやく帰りたい。
「あれ? 小田桐さん、どうしたんですか」
近くに座っていた一課の男性社員の声に、琴子はつられて顔を上げた。
え? また?
姿を現したのは経営企画部の小田桐直人だ。
「大川部長に声かけてもらったんですよ」
なぜ営業部の飲み会に別の部の彼がいるのか、と常々疑問に思っていたのだけど。
なんだ、部長の仕業だったのか。
得心している琴子の隣の席に小田桐がさり気なく腰を下ろす。
「鴻上課長は? どこにいるの?」
小田桐が琴子のほうに顔を向けて尋ねてきたので、琴子は仕方なく大川と鴻上のいる方を指差して教える。
「あぁ、あの人が鴻上さんか。ちょっと挨拶しにいかないとな。咲坂さんは? もう挨拶に行った?」
「……まだです。でも私はもう鴻上課長と面識があるので、今日は行かなくてもいいかな、と思ってるんですけど」
「いや、でも一応行っておいたほうがいい。ついでに紹介してよ。鴻上さんに、僕のことを」
「えっ……」
小田桐の無邪気な申し出に、琴子は言葉を失う。
冗談じゃない。あの男に小田桐を引き合わせるなんて……さすがに悪趣味すぎる。
「ほら、行こう」
いつも穏やかな小田桐にしては少し強引なくらいの力で琴子の腕を掴むと、目的の人物たちのいる方へとずんずん進んでいく。
「大川部長、お疲れ様です」
部長の席へとたどり着くと、小田桐はいつも通りのさわやかな笑顔を作ってみせた。
「おぉ、直人くん。お疲れ様」
すでに酔っているのか、顔を赤らめた大川部長が身を寄せて、小田桐の座る場所を空けてくれる。琴子の入り込むスペースはなかったので、少し離れたところで正座して待つことにする。
「今日は声を掛けてくださってありがとうございます」
さっきのテーブルから持ってきた瓶ビールを掲げながら頭を下げる。
「待って待って。いま空けるから」
まだグラスの半分ほど残っていた琥珀色の液体をグイッと一気に飲み干すと、小田桐の前に空いたグラスを差し出した。それに小田桐が慣れた手つきでビールを注ぐ。
「そうだ、紹介しないとな。はい、こちらが鴻上くん。先月から営業二課の課長として新しくうちの部に入ってもらいましたぁ」
部長が楽しそうに鴻上の肩に手を置いた。
大川部長はあまりお酒に強くない。と言っても、別に酒グセが悪いわけではなく、酔うと多少いつもよりお喋りになるだけなので、特に害はない。陽気なおじさんになるだけだ。
「はじめまして、経営企画部の小田桐です。よろしくお願いします」
「鴻上です。こちらこそ、よろしくお願いします」
小田桐と鴻上が折り目正しく挨拶を交わす。
側から見ると、二人とも感じのいい好青年以外の何者でもない。
もちろん琴子が彼らに対して抱いている印象はだいぶ異なるわけだが。
小田桐が鴻上のグラスにもビールを注いでいると、何かに気づいたらしい鴻上がおずおずと口を開いた。
「あの、小田桐さんって……もしかして社長の」
「そう、息子さんだ。直人くんは次期社長だからね。鴻上くんも協力してこの会社を盛り立てていってくれよなぁ」
小田桐が社長のひとり息子であること。
これは公然の事実で、社員ならほとんどの人間が知っている。
「直人くんはいくつになったんだっけ?」
アルコールが回って、舌も回りだした大川部長が親しげに話しかける。実際、大川は小田桐が子供の頃から彼のことを知っているわけだから、「親戚のおじさん目線」になるのもしょうがない。
「今年で三十になります」
「じゃあ、そろそろ結婚話も具体的に進めないとねぇ。社長もずっと楽しみにしていらっしゃるし」
「はぁ、そうですね」
返事に困ったらしい小田桐がなんとも気の抜けた相づちを打つ。
「うちの部としては咲坂さんが抜けると困るんだけど……。でも、まぁ、社長の意向じゃ仕方ないよなぁ」
おい、部長!
唐突に名前を出されて、琴子は顔色を失う。琴子のなかで大川の評価が「害のない陽気なおじさん」から一転、「酒を呑むと厄介な要注意人物」に上書きされる。
「あの、すみません。どうして咲坂さんが抜けることになるんですか?」
大川と小田桐のやり取りを黙って聞いていた鴻上がもっともな疑問を口にした。
「フッフッフ。実はね……直人くんと咲坂さん、ずっと婚約してるんだよ」
大川は悪代官のように笑うと、何やら疾しい密談でもするかのごとく、声のトーンを落として囁いた。
「あんまり広めないでくださいよ、大川部長。仕事がやりにくくなると困るんで」
直人がフォローしてくれたものの、もう手遅れだ。
顔が引きつりまくっているのが自分でもわかる。
幸い周囲はざわついていて、彼らの会話を耳にした人はいなさそうなことだけが救いだった。
「へぇ……。そうなんですか、お似合いですね」
鴻上は直人の顔をまっすぐに見据えると、にっこりと微笑んだ。
さわやかな笑顔を向けられた直人が照れたように頭を掻く。同性をも怯ませるほどの眩しい笑顔。
――しかし、琴子にとっては不気味でしかなかった。
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