42 / 43
月に視られながら……
月に視られながら……(1)
しおりを挟む
*****
部屋に入ると、壁沿いにずらっと並んだ黒い本棚が目に入った。火神の部屋は相変わらず本で溢れている。窓際に置かれた窮屈そうなベッドにも見覚えがあった。
自分の知っている火神の部屋とほとんど変わりがないことに、ひな子は安堵する。雑然としているところも相変わらずだ。前の部屋より少しだけ広くなったみたいだけど。
「ちょっと暑いな」
火神が窓を明けると、夕暮れの風がすうっと吹き込んできて、紺色のカーテンをふわりと揺らす。窓の隙間から流れ込んできた風は、夏のはじめの匂いがした。
「なぁ、羽澄」
「はい……? わっ!」
突然、ぎゅうっと骨が軋むくらい強く抱きしめられたかと思うと、そのままベッドの上に押し倒された。
「せ、せんせ……苦しい……」
「ん? あ、あぁ……ごめん」
平静を取り戻したらしい火神が身を起こして、ひな子の隣に仰向けになった。
「ごめん、我慢できなかった。久しぶりにお前を目の前にしたら……」
火神の率直な発言に、ひな子の顔が赤く染まる。嬉しい。嬉しい。火神に求められていることが、嬉しくてたまらない。
「ところで、家にまで連れ込んでおいて今さらなんだが……。お前、水島のことはいいのか?」
「え、龍ちゃん?」
「ああ。元気か? あいつは」
「…………たぶん」
「たぶん、って……。会ってないのか?」
火神の意外そうな声に、ひな子は小さく頷く。
龍一郎とは高校を卒業して以来、一度も会っていなかった。もう一年以上、顔を合わせてもいない。
こんなに長い間、ひな子と龍一郎が離れるのは生まれて初めてのことだった。
家が近くて、幼稚園の頃から一緒で……ずっと一緒だった。
――ずっと一緒で、ずっと大好きだった龍ちゃん。
「龍ちゃんのこと、ずっと好きだったはずなのに。いつから過去形になっちゃってたんだろう……?」
思わず口をついたひな子の自問に、火神は聞こえないフリをした。
龍一郎への想いが過去のものになったと確信した日。それはやっぱり、あの夜だったのかもしれない……。
ひな子は、火神に助けてもらった、あの冬の日を思い出す。
あの後、龍一郎は予定通りスポーツ推薦で水泳の強い大学へと進んだ。
「それで、実は、あの……火神先生には言いにくいんですけど……。私、その……M大には落ちてしまって……」
「なに!?」
それまで無言で天井を見つめていた火神が、ガバッと起きあがって、険しい表情を浮かべる。
「すいません! でも! 浪人して、今年なんとか合格できたから。だから、先生に会いに来たんです。……じゃないと、合わせる顔ないな、って思ってて」
ひと足先に大学生になった龍一郎と、浪人生のひな子。初めて違う立場になったふたりの距離が離れるのは仕方なかった。
――それに。
正直、それどころじゃなかった。
龍一郎のことを思い出すことなど、この一年間、ほとんどなかったのだ。
なぜなら、ひな子の頭の中にいたのは、別の男だったから。
そのひとに会うために、ひな子はひたすら勉強に打ち込んだ。次に会う時、恥ずかしくないように。胸を張って、会えるように。
「……先生に、会いたかったから。ちゃんと、明るいところで、誰に見られても何も言われないように……。そんな自分になって、火神先生に会いに来たかったんです」
ひな子の告白に、火神が目を伏せた。長い睫毛が白い頬に影をつくる。
「……合わせる顔がないのは、こっちのほうだ」
火神が申し訳なさそうに言った。
「卒業まで見届けてやれなかったこと、ずっと気がかりだった。途中で投げ出したのは俺だ。悪いのはいつも俺だった。お前は悪くない。お前は……頑張ったんだな」
火神が頬を緩めて、ひな子の頭を優しく撫でた。
――気持ちいい。
「……私、龍ちゃんのことなら何でもわかってると思ってたんです」
火神の体温を頭に感じながら、ひな子はぽつりと呟く。
「……だけど、そうじゃなかった。実際の龍ちゃんはとっくに私の知らない男になってたのに。私はそれに気づかないで、ずっと龍ちゃんの幻影を……私の中のイメージを追いかけてただけだったんだな、って……あの夜に、わかったんです。私の好きだった龍ちゃんは、もうとっくに、いなくなってたんだ、って……」
馴れ合いすぎたのだろうか……ひな子の龍一郎への感情は、もうただの恋心とは呼べないほど、形が変わっていたのかもしれない。
ひな子の初恋は、自分でも気づかないうちに、終わっていたのだ。
「私が会いたかったのは、先生だけです。私が好きなのは……火神先生だけ、です」
部屋に入ると、壁沿いにずらっと並んだ黒い本棚が目に入った。火神の部屋は相変わらず本で溢れている。窓際に置かれた窮屈そうなベッドにも見覚えがあった。
自分の知っている火神の部屋とほとんど変わりがないことに、ひな子は安堵する。雑然としているところも相変わらずだ。前の部屋より少しだけ広くなったみたいだけど。
「ちょっと暑いな」
火神が窓を明けると、夕暮れの風がすうっと吹き込んできて、紺色のカーテンをふわりと揺らす。窓の隙間から流れ込んできた風は、夏のはじめの匂いがした。
「なぁ、羽澄」
「はい……? わっ!」
突然、ぎゅうっと骨が軋むくらい強く抱きしめられたかと思うと、そのままベッドの上に押し倒された。
「せ、せんせ……苦しい……」
「ん? あ、あぁ……ごめん」
平静を取り戻したらしい火神が身を起こして、ひな子の隣に仰向けになった。
「ごめん、我慢できなかった。久しぶりにお前を目の前にしたら……」
火神の率直な発言に、ひな子の顔が赤く染まる。嬉しい。嬉しい。火神に求められていることが、嬉しくてたまらない。
「ところで、家にまで連れ込んでおいて今さらなんだが……。お前、水島のことはいいのか?」
「え、龍ちゃん?」
「ああ。元気か? あいつは」
「…………たぶん」
「たぶん、って……。会ってないのか?」
火神の意外そうな声に、ひな子は小さく頷く。
龍一郎とは高校を卒業して以来、一度も会っていなかった。もう一年以上、顔を合わせてもいない。
こんなに長い間、ひな子と龍一郎が離れるのは生まれて初めてのことだった。
家が近くて、幼稚園の頃から一緒で……ずっと一緒だった。
――ずっと一緒で、ずっと大好きだった龍ちゃん。
「龍ちゃんのこと、ずっと好きだったはずなのに。いつから過去形になっちゃってたんだろう……?」
思わず口をついたひな子の自問に、火神は聞こえないフリをした。
龍一郎への想いが過去のものになったと確信した日。それはやっぱり、あの夜だったのかもしれない……。
ひな子は、火神に助けてもらった、あの冬の日を思い出す。
あの後、龍一郎は予定通りスポーツ推薦で水泳の強い大学へと進んだ。
「それで、実は、あの……火神先生には言いにくいんですけど……。私、その……M大には落ちてしまって……」
「なに!?」
それまで無言で天井を見つめていた火神が、ガバッと起きあがって、険しい表情を浮かべる。
「すいません! でも! 浪人して、今年なんとか合格できたから。だから、先生に会いに来たんです。……じゃないと、合わせる顔ないな、って思ってて」
ひと足先に大学生になった龍一郎と、浪人生のひな子。初めて違う立場になったふたりの距離が離れるのは仕方なかった。
――それに。
正直、それどころじゃなかった。
龍一郎のことを思い出すことなど、この一年間、ほとんどなかったのだ。
なぜなら、ひな子の頭の中にいたのは、別の男だったから。
そのひとに会うために、ひな子はひたすら勉強に打ち込んだ。次に会う時、恥ずかしくないように。胸を張って、会えるように。
「……先生に、会いたかったから。ちゃんと、明るいところで、誰に見られても何も言われないように……。そんな自分になって、火神先生に会いに来たかったんです」
ひな子の告白に、火神が目を伏せた。長い睫毛が白い頬に影をつくる。
「……合わせる顔がないのは、こっちのほうだ」
火神が申し訳なさそうに言った。
「卒業まで見届けてやれなかったこと、ずっと気がかりだった。途中で投げ出したのは俺だ。悪いのはいつも俺だった。お前は悪くない。お前は……頑張ったんだな」
火神が頬を緩めて、ひな子の頭を優しく撫でた。
――気持ちいい。
「……私、龍ちゃんのことなら何でもわかってると思ってたんです」
火神の体温を頭に感じながら、ひな子はぽつりと呟く。
「……だけど、そうじゃなかった。実際の龍ちゃんはとっくに私の知らない男になってたのに。私はそれに気づかないで、ずっと龍ちゃんの幻影を……私の中のイメージを追いかけてただけだったんだな、って……あの夜に、わかったんです。私の好きだった龍ちゃんは、もうとっくに、いなくなってたんだ、って……」
馴れ合いすぎたのだろうか……ひな子の龍一郎への感情は、もうただの恋心とは呼べないほど、形が変わっていたのかもしれない。
ひな子の初恋は、自分でも気づかないうちに、終わっていたのだ。
「私が会いたかったのは、先生だけです。私が好きなのは……火神先生だけ、です」
0
お気に入りに追加
124
あなたにおすすめの小説
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
すべてフィクションです。読んでくだり感謝いたします。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。

冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話
水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。
相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。
義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。
陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。
しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる