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負けたことないから……
負けたことないから……(1)
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*****
火神が化学室へと続く階段を上っていると、前を行く女子三人組の後ろ姿が目に入った。
(えーと……真ん中の髪の長い子が山本で、右側のボブが高木……だっけ? で、左のショートカットが……)
これから授業を行う二年C組の生徒だったはずだ。
火神は三人の名前を思い出しながら、彼女たちの後をついていく。
記憶力は悪い方ではないが、この春に就職してからというもの、同じ年頃で同じ制服を身にまとった生徒たちの区別がつかず、個々の名前がなかなか覚えられないでいた。
「でも、火神先生、カッコいいよね~」
「うんうん、うちの学校では貴重な二十代の先生だし」
「もう私なんて、授業中、火神先生の顔しか見てないもん」
自分の噂話など聞きたくもなかったが、女子高生たちの姦しい声は嫌でも耳につく。火神は足を止めると、彼女たちに気づかれないように階段の陰へと身を隠した。
「先生の顔しか見てないって……それは授業がつまんないからでしょ?」
「そう! そもそも何言ってるかわかんないんだよね~」
「なんかブツブツ言ってるだけで全然聞こえないし……お経かよっ!」
高木の言葉に、他のふたりがキャハハハ、と甲高い声をあげて笑う。
――そんな風に思われていたのか。
自分でも気づいてはいたが、はっきり言われるとさすがに堪える。
火神はうつむいて小さく息を吐いた。
「……正直だな、子供は」
正直で残酷。
しかもそれほど悪意があるわけでもない。だからこそタチが悪い。
「やってけんのか、俺……」
これから先何十年も、この厄介な生き物たちの相手をしないといけないのかと思うと、火神の心は重くなった。
教師という仕事がしっくりこない。
サービス残業に、モンスターペアレント。
今どき教師なんてブラックな仕事に就こうなんて物好きは、よっぽど教育に対して熱い志を持った奴が多いものだが……火神の場合は違う。
生活のため、そして少しでも学生時代の専攻を活かして化学に関わっていたかったから……それ以上でも以下でもなかった。
だから生徒に期待なんかしない。信用もしない。
そうすれば失望させられることもないのだから。
火神がこの学校に新任教師として赴任してきてから、三か月が経っていた。
自分でも異性にウケる顔だという自覚はあったが、やたら纏わりついてくる女子たちには早くも辟易していた。
ただ、そうやって懐いてくる生徒たちが、自分を「教師」として見ていないであろうことも、うすうす感じてはいる。
――自分はまだ認められていない。
新人だから当たり前といえば当たり前だが、今までどこへ行ってもそれなりにソツなくマイペースにこなしてきた火神にとっては想像以上にきつかった。
*****
「あっついなぁ」
吐き出した白い煙が木立の隙間へと吸い込まれていくのをぼんやりと見つめながら、火神はぼやいた。
煙草の量が増えている。健康と節約のために止めていたはずなのに。
ストレスが原因だということはわかっていたが止められなかった。
校内はもちろん禁煙だったので、吸いたいときは、校庭の端にある屋外プールの裏まで足を運ぶ。
近くには更衣室があったが、運動部の連中はそれぞれの部室を使うため、放課後になるとこの辺りに立ち入る生徒もほとんどいない。
そこにはなぜか木製の古いベンチとテーブルが置いてあり、昔は生徒たちの憩いの場として賑わっていたのかもしれなかった。もっともここ数年は人が寄り付いた気配もなく、火神が初めてこの場所を見つけたときには乾いた泥と枯れ葉がこびりついていたのだが。
すぐ側には学校の敷地と外の世界を隔てるフェンスが設置されていた。
その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。フェンスを跨いで伸びた枝が陰を作り、この場所の気温を少しだけ下げてくれていた。
「それでも暑いけどな」
本格的な夏はまだ少し先だというのに、すでに蒸し暑い日がつづいている。
火神はテーブルの上に置いた携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付けると、重い腰を上げた。
今日のテストの採点、明日の授業の準備、その他もろもろの事務作業……やらなければならないことは山ほど残っている。
火神が校舎に向かって踵を返すと、
「ひぃ……っく、んぐ……く、そ……っ」
泣き声?
火神は嗚咽の主を捜して、プールの方へと足を向けた。
「そういえば、もう屋外プールも解放されたんだな。先週からだっけ……?」
朝のミーティングで体育担当の教師が言っていたことを思い出す。
自分にはまったく関係ない報告だったため、すっかり忘れていた。
この学校の水泳部は結構強くて、屋内プールも完備されているが、夏場には屋外プールも使われる。スポーツ推薦で入ってくる生徒なんかもいて、インターハイへ出場することも珍しくない。
水泳部の誰かか?
プールの四方を順番に回っていくと、二つ目の角を曲がったところで、それらしき人影が目に入った。火神は気づかれないように息をひそめて、耳をそばだてる。
「くそっ……なんで、俺……負けた、んだ……よ」
「りゅうちゃん……」
ふたり分の声が生温かい風に運ばれて、火神の耳にまで届いた。遠目に様子をうかがうと、水着姿の男子と制服姿の女子がプールの外壁にもたれるようにして、しゃがみこんでいる。
泣いているのは男の方か……?
火神が化学室へと続く階段を上っていると、前を行く女子三人組の後ろ姿が目に入った。
(えーと……真ん中の髪の長い子が山本で、右側のボブが高木……だっけ? で、左のショートカットが……)
これから授業を行う二年C組の生徒だったはずだ。
火神は三人の名前を思い出しながら、彼女たちの後をついていく。
記憶力は悪い方ではないが、この春に就職してからというもの、同じ年頃で同じ制服を身にまとった生徒たちの区別がつかず、個々の名前がなかなか覚えられないでいた。
「でも、火神先生、カッコいいよね~」
「うんうん、うちの学校では貴重な二十代の先生だし」
「もう私なんて、授業中、火神先生の顔しか見てないもん」
自分の噂話など聞きたくもなかったが、女子高生たちの姦しい声は嫌でも耳につく。火神は足を止めると、彼女たちに気づかれないように階段の陰へと身を隠した。
「先生の顔しか見てないって……それは授業がつまんないからでしょ?」
「そう! そもそも何言ってるかわかんないんだよね~」
「なんかブツブツ言ってるだけで全然聞こえないし……お経かよっ!」
高木の言葉に、他のふたりがキャハハハ、と甲高い声をあげて笑う。
――そんな風に思われていたのか。
自分でも気づいてはいたが、はっきり言われるとさすがに堪える。
火神はうつむいて小さく息を吐いた。
「……正直だな、子供は」
正直で残酷。
しかもそれほど悪意があるわけでもない。だからこそタチが悪い。
「やってけんのか、俺……」
これから先何十年も、この厄介な生き物たちの相手をしないといけないのかと思うと、火神の心は重くなった。
教師という仕事がしっくりこない。
サービス残業に、モンスターペアレント。
今どき教師なんてブラックな仕事に就こうなんて物好きは、よっぽど教育に対して熱い志を持った奴が多いものだが……火神の場合は違う。
生活のため、そして少しでも学生時代の専攻を活かして化学に関わっていたかったから……それ以上でも以下でもなかった。
だから生徒に期待なんかしない。信用もしない。
そうすれば失望させられることもないのだから。
火神がこの学校に新任教師として赴任してきてから、三か月が経っていた。
自分でも異性にウケる顔だという自覚はあったが、やたら纏わりついてくる女子たちには早くも辟易していた。
ただ、そうやって懐いてくる生徒たちが、自分を「教師」として見ていないであろうことも、うすうす感じてはいる。
――自分はまだ認められていない。
新人だから当たり前といえば当たり前だが、今までどこへ行ってもそれなりにソツなくマイペースにこなしてきた火神にとっては想像以上にきつかった。
*****
「あっついなぁ」
吐き出した白い煙が木立の隙間へと吸い込まれていくのをぼんやりと見つめながら、火神はぼやいた。
煙草の量が増えている。健康と節約のために止めていたはずなのに。
ストレスが原因だということはわかっていたが止められなかった。
校内はもちろん禁煙だったので、吸いたいときは、校庭の端にある屋外プールの裏まで足を運ぶ。
近くには更衣室があったが、運動部の連中はそれぞれの部室を使うため、放課後になるとこの辺りに立ち入る生徒もほとんどいない。
そこにはなぜか木製の古いベンチとテーブルが置いてあり、昔は生徒たちの憩いの場として賑わっていたのかもしれなかった。もっともここ数年は人が寄り付いた気配もなく、火神が初めてこの場所を見つけたときには乾いた泥と枯れ葉がこびりついていたのだが。
すぐ側には学校の敷地と外の世界を隔てるフェンスが設置されていた。
その向こうには鬱蒼とした雑木林が広がっている。フェンスを跨いで伸びた枝が陰を作り、この場所の気温を少しだけ下げてくれていた。
「それでも暑いけどな」
本格的な夏はまだ少し先だというのに、すでに蒸し暑い日がつづいている。
火神はテーブルの上に置いた携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付けると、重い腰を上げた。
今日のテストの採点、明日の授業の準備、その他もろもろの事務作業……やらなければならないことは山ほど残っている。
火神が校舎に向かって踵を返すと、
「ひぃ……っく、んぐ……く、そ……っ」
泣き声?
火神は嗚咽の主を捜して、プールの方へと足を向けた。
「そういえば、もう屋外プールも解放されたんだな。先週からだっけ……?」
朝のミーティングで体育担当の教師が言っていたことを思い出す。
自分にはまったく関係ない報告だったため、すっかり忘れていた。
この学校の水泳部は結構強くて、屋内プールも完備されているが、夏場には屋外プールも使われる。スポーツ推薦で入ってくる生徒なんかもいて、インターハイへ出場することも珍しくない。
水泳部の誰かか?
プールの四方を順番に回っていくと、二つ目の角を曲がったところで、それらしき人影が目に入った。火神は気づかれないように息をひそめて、耳をそばだてる。
「くそっ……なんで、俺……負けた、んだ……よ」
「りゅうちゃん……」
ふたり分の声が生温かい風に運ばれて、火神の耳にまで届いた。遠目に様子をうかがうと、水着姿の男子と制服姿の女子がプールの外壁にもたれるようにして、しゃがみこんでいる。
泣いているのは男の方か……?
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