月と秘密とプールサイド

スケキヨ

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強かな女、鈍感な男

強かな女(1)

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*****

「あれ、校長は……?」

 職員室に戻った火神かがみは、がらんとした室内を見渡した。
 部活やら補習やらで出払っている人が多いらしく、職員室に残っているのは、英語の真山まやまや化学の須藤すどうをはじめ、数えるほどしかいない。

「校長先生なら、もう帰られましたよ」

 火神の姿を認めて立ち上がった真山が、彼の元へと近寄ってくる。

「え、でも……校長が私を呼んでたんですよね?」

 先ほどの内線で、真山から言われたのだ。
『校長先生が火神先生を捜している。なかなか捕まらなくて機嫌が悪いから、早く来てほしい』と――。

「そうでしたっけ? 火神先生が遅いから、待ちきれなくて帰られたんじゃないですか」
「は?」

 何ら悪びれることなく、そらとぼける真山の顔を、火神はまじまじと見返した。
 そんな火神の視線に気づいているのかいないのか……真山は涼しい顔で続ける。

「なかなか電話に出られないので、化学室にはいらっしゃらないのかと思いました」

(その割には、ずいぶんしつこかったが……)

「何してらしたんです?」

 薄く笑みを浮かべながら、真山が火神を見上げてくる。

「……三年生の補習です」
「あぁ……羽澄はすみさんですか?」
「え? えぇ……まあ」

(どうして知ってるんだ?)

 火神は不審に思いながら、曖昧に頷く。

「ずいぶん親身なんですねぇ……担任でもないのに」

(今日はやけに突っかかってくるな)

 火神は真山の態度に違和感を覚えながらも、最後に付け加えられた嫌味には気づかないフリをして、

「ええ。あいつはM大の医療科学を目指してるみたいですし。あそこは化学必須だから、せめて人並みの成績には引き上げてやりたいと思いまして……」

 当たり障りのない答えを返した。

「さっすが火神先生! 生徒思いなんですねぇ」

 真山はパチンと手を合わせて大袈裟に誉め称えると、上目遣いに媚びるような視線を火神に投げかけた。あからさまな世辞に、火神は顔を引きつらせて苦笑いするしかない。

「でも、彼女……」

 赤く塗られた唇を三日月の形に歪めながら、真山が意味深に呟く。
 そのまま口をつぐんで、なかなか続きを言おうとしない真山に、

「……羽澄が、どうかしましたか?」

 苛立ちを抑えきれなくなった火神が先を促す。

「いえ……。彼女、大人しそうな顔して……けっこうらしいですもんね」
「はぁ?」

 教え子であるひな子をどこか馬鹿にしたような言い回しに、火神の口から思わず不機嫌丸出しの声が漏れる。

「気になります? ……羽澄さんのこと」

 口元に笑みをたたえたまま、真山が意味ありげに火神の顔を見つめた。
 火神は無言で真山を見返した。込み上げる不快感を抑えようとして、表情がなくなる。

(この女、誰にでも愛想がいいけど……。いつも目の奥が笑ってないんだよな)

 火神は自分より三歳ほど年下のこの同僚を、そんなふうに評価していた。
 真山が自分を狙っているらしいことはとっくに承知していたが、残念ながら、ウラオモテのある女は好きじゃない。一緒にいても気が休まらないし、言葉の裏にある本心をいちいち探らなきゃいけないのも面倒だ。

(羽澄くらいわかりやすいほうが、よっぽど可愛いらしいな)

 火神はついさっきまで自分の腕の中にいたひな子の素直な反応を思い出して、思わず頬をほころばせた。口では嫌だと言いながら、火神の触れた先からすぐに熱を帯びる肌と、潤んだ瞳……。

「どうされました、火神先生? なんだか嬉しそうですけど」

 だしぬけに表情を緩めた火神を、真山が訝しんだ。
 真山の指摘に、火神の緩んだ口元が再び引き結ばれる。ひな子との睦事むつごとをこの女に邪魔されたのかと思うと、真山に対する苛立ちがますます募った。
 険しい表情を浮かべる火神の顔に影が差す。
 室内を淡く照らしていた夕暮れの光が翳って、人気のない職員室が重苦しい空気に覆われる。

「きゃ……っ」

 いつのまにか分厚い雲に覆われていた空がピカっと光ったかと思うと、校舎を震わすほどの雷鳴が轟いた。
 真山が小さく悲鳴を上げて、火神の胸元に寄りかかってくる。

(雷ごときにビビるタマじゃねえだろ)

 火神は雷を怖がってみせる真山を冷めた目で見下ろしながら、意地悪くそんなことを思った。

「そういえば……火神先生、車通勤でしたよね? 送ってもらえます?」

 小首をかしげながら微笑む真山を見て、

(図々しい女だ……)

 火神は気付かれないように小さく舌打ちした。

 自分が誘えば、男は誰でも喜んで尻尾を振ると思っている。
 己の美しさを自覚していて、その使いどころも熟知しているしたたかな女――。
 真山みたいな女は、火神が一番苦手とするタイプだった。

「やあやあ、ちょうどいいじゃないですか。なんだか季節外れの台風が近づいてるみたいだし。火神先生、送っていってあげなさいよ」

 ふたりのやり取りと見ていたらしい須藤先生が、真山の提案を後押しするように口を添えた。

「はぁ」

 余計なことを……とは思ったものの、同じ科の先輩教師に言われて、火神はしぶしぶ頷くしかなかった。そもそも須藤は火神の父親とも親交があり、昔から知っていることもあって頭が上がらないのだ。

「わぁ、助かりますー。須藤先生、ありがとうございます!」

 真山は須藤に向かって、ニコリと微笑んだ。
 若くて美しい女に笑いかけられた須藤がデレデレと嬉しそうに目尻を下げている。

「火神先生も……ありがとうございます」

 火神にも礼を言った真山がペロリと自分の唇をひと舐めしてから、少し背伸びをして火神の耳元に顔を寄せる。

「実は、ちょっとお話したいこともあるんです。……羽澄さんのことで」
「……え?」

 火神が聞き返すと、ヌラヌラと濡れた真山の赤い唇がすぐ近くにあった。ふわりと鼻をついた口紅の匂いに、火神は思わず眉をしかめる。

 ――ピカッ……!

 もう一度雷鳴が轟いたかと思うと、黒い雲から勢いよく降り出した雨が地面を激しく叩きつけた。風になぶられた大粒の雨が、職員室の窓をガタガタと揺らす。

「キャア……っ!」

 大袈裟なくらいに怯えた様子の真山が火神にしがみついた。白衣をぎゅっと握りしめて、身体をすり寄せてくる。ピッタリとフィットしたV字ニットの襟ぐりから、程よく盛り上がった胸の谷間が覗いていた。彼女より頭ひとつ背の高い火神の顔の位置からは嫌でも目に入ってしまう。
 火神の視線がに注がれているのを確認した真山が、満足そうに口角を引き上げる。

「……じゃあ、行きましょうか」


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