月と秘密とプールサイド

スケキヨ

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放課後の化学室で……

放課後の化学室で……(1)

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*****

 机に立てた教科書に顔を隠しながら、ひな子はちらちらと教室の前方に目をやった。
 新学期が始まって一週間。
 火神かがみの授業はすでに三回目だったが、彼の態度は夏休み前と何ひとつ変わらなかった。今も淡々とした様子でホワイトボードに化学式を書きつけている。
 ひな子は白衣に包まれたその背中を見つめた。

 ――夢だったのかもしれない。

 ひな子はそう思った。そうであってほしかった。

 板書を終えた火神が生徒たちのほうに向きなおる。白衣の裾がはらりと揺れた。
 相変わらずの綺麗な顔。おそらく二十代の後半だろうが、色白の滑らかな肌は大人の男のものとは思えなかった。
 夏だというのに、全然日焼けしていない。あまり日に当たらないのかもしれない。
 そういえばあの夜も――火神を照らしていたのは太陽ではなく、月の光だった。
 そんなことを考えながら火神の姿を観察していると、ふいに火神が首を振って、ひな子の座る廊下側の席を見渡した。

 ――目が合った……?

 ひな子は慌てて下を向くと、机の上に広げていた白紙のノートに必死で書き込むフリをする。

 しばらくして、ひな子がそっと目を上げてみると――火神はもうこちらを向いてはいなかった。
 彼の視線を感じた気がしたけれど、勘違いだったみたいだ。
 火神は相変わらず涼しげな顔をして教卓に置かれた資料に目を落としながら、ホワイトボードに書かれた化学式について説明している。心地よい低音の声は教室の後ろまでよく通った。
 それは夏休み前と何も変わらない、いつも通りの化学の授業。

 ――やっぱりあの夜のコトは夢だったのかもしれない。






*****

「ひな子! 今日、練習来ないか?」
りゅうちゃん」

 放課後。
 ひな子が声のした方に顔を向けると、廊下側の窓から身を乗り出した龍一郎りゅういちろうが満面の笑みを浮かべていた。日焼けした浅黒い肌に、白い歯がよく映えている。どうやら彼のクラスはひと足先にホームルームが終わったらしい。

水島みずしまくん、今日もお迎え? 相変わらず仲良しだねぇ」

 果穂かほがニヤニヤと笑いながら、ひな子と龍一郎の顔を見比べている。

「もう、からかわないでよ。そんなんじゃないんだから」

 水島龍一郎はひな子の幼馴染だ。家が近所で幼稚園から高校までずっと一緒の腐れ縁。
 果穂はひな子と龍一郎が恋人同士だと勘違いしているみたいだけど、そんなんじゃない。そんな関係ではないのだ。

 ――そんなんだったら、いいんだけど……。

 ひな子は心の中で呟いた。
 果穂の見立ては間違っていない。

 ――ひな子はずっと龍一郎のことが好きだった。

 水泳を始めたのも、龍一郎に誘われたから。大したセンスもないのに十年以上続けてきたのも、龍一郎の近くにいたかったからだ。
 県大会入賞が精一杯のひな子と違って、龍一郎は一年生の頃からインターハイに出場するくらい有望な選手で、すでに大学もスポーツ推薦で内定している。他の三年生が引退した後も部活の練習に顔を出しているようだった。

「私はいいよ。もう引退したし」

 苦笑いを浮かべながら、ひな子が断ると、

「えぇ~……いいじゃん、ちょっとくらい」

 龍一郎が拗ねたように唇をとがらせた。こういったところは子供の頃とちっとも変わらない。身体だけ見れば、そこら辺の大人の男の人よりもよっぽど筋肉質で立派な体格をしているというのに。
 だけどひな子は龍一郎のこうした無邪気で子供っぽい仕草が昔から大好きだった。大人になっても、ずっと、変わらないでほしかった。

「今日は脇田わきたさんが来て練習見てくれるんだよ。だから、ひな子も行こうぜ!」

 脇田というのは水泳部のOBだ。今はそうでもないけど、数年前までは世界選手権の日本代表候補にもなるくらいのすごい選手だった。

「いいって、私は……。あんたと違って、勉強しないといけないんだからね」

 突き放すように言って教室を後にするひな子を、龍一郎が追いかけてくる。

「待てよ! なぁ、行こうぜ一緒に。なぁなぁ、ひな子ぉ~」

 ひな子に付きまといながら、甘えた声を出す龍一郎。

 ――もう、ズルいなぁ……。

 龍一郎はこうして甘えてみせれば、最後にはひな子が折れるものだとわかっている。
 実際、ひな子は龍一郎に甘えられると弱い。何でも言うことを聞いてしまう。
 ひな子が困って足を止めると、龍一郎も彼女に張り付くようにぴたっと身を寄せた。

「お。ひな子、行く気になった?」

 嬉しそうな声を上げると、ポニーテールに束ねたひな子の髪の毛をくるくると指に巻きつけて遊びだした。

「なんか、いい匂いするな。ひな子の髪って」
「ちょっ……匂い嗅がないで!」

 髪の毛に神経は通ってないはずなのに。
 龍一郎の触れた髪の毛の先から電流が走ったみたいに……顔が、熱い。

「ははは、ひな子、真っ赤になってる」
「!!」

 龍一郎に指摘されて、ひな子は慌てて顔を両手で覆った。

「あ。真山先生♪」

 ひな子があたふたと赤面している横で、龍一郎の浮かれた声がした。ひな子が顔を上げると、眼前に一組の男女が立っている。
 英語の真山まやま先生と、化学の火神かがみ先生。
 真山は昨年教師になったばかりの若い女の先生だ。すらっとした体型にぱっちりとした大きな目が印象的な美女で、男子からは絶大な人気を誇っている。龍一郎も例に漏れず、彼女に憧れている……らしい。
 真山先生はぴったりと寄り添うようにして火神先生の隣に並んでいる。
 美男美女のふたりが並ぶと、教師というより、結婚式場のパンフレットにでも載っているモデルのカップルみたいだ。

 ――このひと、いつも女の人と一緒にいるな。

 ひな子は意地悪くそんなことを思った。

「水島くんは、これから練習?」
「はい!」

 ひな子の思惑をよそに、龍一郎と真山が親しそうに話している。
 真山は龍一郎の所属する三年B組の副担任だった。
 ふたりの親しそうな様子に、何となく面白くないひな子が目を逸らすと……。
 ひな子の方を見ていた火神先生と目が合ってしまった。
 今度は勘違いじゃない。
 ひな子と火神の視線がガチっと絡み合った。火神は間違いなく、ひな子を見つめていた。
 火神の視線から逃れるように慌てて下を向いたひな子はそのまま早足で行き過ぎようとしたが――

羽澄はすみさん」

 艶のある低い声に呼び止められて、ひな子の肩がびくりと震えた。
 恐る恐る振り返ると、

「ちょうどよかった。A組に運んでほしいものがあるんですよ。ちょっと化学室まで寄ってもらえるかな?」

 火神が薄く笑みをたたえながら言った。
 いや、笑っているのは口元だけで、目は全く笑っていない。

「え……はい。あの、え……?」

 ひな子がドギマギと要領を得ない返事をすると、

「じゃ、一緒に来てくれるか? 真山先生、ではこれで失礼します。また明日」
「え、あの……」

 火神は有無を言わさぬ調子でそう言い抜けると、何か言いかけた真山を放置して、スタスタと歩いて行ってしまう。

「あ、えっと……そういうことだから。龍ちゃん、ごめん。今日やっぱり練習行けない」
「俺も手伝おうか?」
「えっ、あ……ううん! 大丈夫だから」

 ついてこようとする龍一郎を何とか押しとどめて、ひな子はひとりで火神の後を追った。

 ――あのひと、何を考えているの……?

 ひな子の頭に、あの夜の……プールサイドでの情事が蘇った。

 ――やっぱり夢じゃなかった。

 一旦思い出してしまうと、先生のごつごつとした長い指が今も胸の上を這いまわっているような気がした。

 ――もしかして、また……?

 そう思うと、身体の奥のほうがジワリと疼いた。


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