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4. 縁談
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「珍しいですわね、皇太弟がお見えになるなんて」
久しぶりに館を訪れた大海人皇子を前に、額田王が皮肉っぽく笑ってみせた。紅く妖艶な唇が恨めし気に歪んでいる。
「そうだな、ずいぶん間が空いてしまった。いやぁ、すまんすまん」
かつての妻の皮肉を、大海人は泰然と受け流した。
そんな両親のやり取りを横目に、十市皇女は過去に想いを馳せる。
きっと十市が産まれる前は、父が足しげく母のもとに通っていたのだろう。
昔のことだ。
十市が物心ついた頃にはもう、父には若い妃が何人もいて、母のもとを訪ねてくることはほとんどなかったのだから。
何年か前、宴会の場で母はこんな歌を詠んだ。
『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』
君、とは父のことだ。
「君はいろんな場所で自分に向かって袖を振ってくるけれど、見張りの人たちに見つかったらどうするのよ」という元夫からの秘めやかな好意を詰る歌である。
父はこの歌に答えて、
『紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも』
と詠んだのだが、勿論これはただの余興だ。
「紫草のにほへる妹」とは母のことを指すのだろうが、今さら他人の、それも自分の兄の妻になってしまった母のことを恋しく想っているなんてこと……あるわけがない。
まぁ父は調子のいい人だから、本当のところはよくわからないけれど。
ただ、こういう戯れの歌を敢えて詠んで相手の気を引こうとするのは間違いなく母のほうだ、と十市は確信している。
その証拠に、今日の母はいつにも増して紅が濃い。そして何だか機嫌が良い。
十市はというと、父の久方ぶりの訪問の理由を考えていた。
親子三人で揃うのはあの花の宴以来だ。
すでに花の時期は過ぎ、夏の盛りも超え、秋の気配が色濃くなりはじめている。
彼と遭遇したあの秋の夜から、季節は早くもひと巡りしようとしていた。
「実は十市に縁談があるのだ」
「……縁談?」
父の言葉に十市は驚いて鸚鵡返しに呟いた。
「そう、ついに来たのね……。十市ももう十六歳。そろそろ、そういう話があると思っていたわ」
母は大きな溜め息をつくと、まるで痛ましいものを見るような目で十市を見やった。
十市はまさに母のこういう視線が苦手だった。目が合ってしまわないように下を向き、膝の上で握りしめた自分のこぶしに目を落とす。
「それで、お相手は何方なの?」
額田が尋ねると、大海人は一瞬ためらうように眉間に皴を寄せたが、すぐに気を取り直したように、相手の名を口にした。
「大友皇子だ」
「えっ……!」
十市は俯けていた顔を勢いよく上げた。頭の上で結っていたニ髻がふるりと揺れるほどに勢いよく。
十市の胸にあの秋の日の思い出がよみがえる。
あのあと、何度か遠くから見かけることはあったけれど、まともに話すこともできないまま、一年が過ぎてしまった。
まさか、こんな形でまた彼と見える機会が来るなんて……!
十市の胸が期待と緊張でズクズク、と音を立てた。
痛い。
この胸の痛みの正体に、十市は未だ名前を付けられていなかった。
「どうだ、十市? 悪い話ではないと思うが」
大海人が十市の様子をうかがうように云うと、額田が小さく鼻を鳴らす。
「嫌でも断ることなどできないんでしょう? あの方の思し召しとあれば」
あの方、が誰を指すのか――。
言わずもがな、この場にいる全員が理解している。
だが、十市の頭のなかに「断る」という選択肢はまったく浮かばなかった。
答えはすでに決まっている。
「お受けします」
十市がきっぱりと告げた。
普段はおとなしい娘の珍しい大声に、父と母が驚いたように目を見合わせた。
十市は急に恥ずかしくなって、慌てて顔を伏せる。
「ホホホ」
額田が口元に袖を当てて、ほくほくと微笑んだ。
「お前が大友皇子に気があるとは知りませんでしたよ」
「そういうことではありません」
「では、どういうことなの?」
額田は面白そうに十市の顔を見つめている。
母のこういうところが苦手なのだ、と十市はあらためて思った。
この世の何もかも、目に見えるものも見えぬものも……すべて見透かされているみたいで、気味が悪い。
「では、話を進めるぞ。十市、本当に良いのだな?」
父に念を押されて、十市はコクリ、と小さく、しかしハッキリと頷いてみせる。
「高市皇子が残念がるでしょうねぇ」
意味深に呟いた額田の言葉に、十市と大海人がきょとんと目を丸くした。
「あら嫌だ、いまの二人の表情、ソックリだったわよ。やっぱり父娘なのねぇ……揃いも揃って鈍感なこと」
そう云って、やけに愉しそうに笑う母の声を聴きながら、父と娘は「何故母が笑っているのかわからない」といった風に、同じ方向に首を傾けた。そんな二人の様子を見て、母がまた笑った。
ひとしきり笑い終わった母がぽつりと、
「それにしても、天皇は本当に大友皇子を買っていらっしゃるのね……」
何気なさそうに口にしたその言葉に、父の顔がわずかに曇ったような気がした。が、十市の気のせいだったかもしれない。
残念ながら、いまの十市に父や母の気持ちを慮るような余裕はなかった。
――大友皇子が自分の夫になるかもしれない。
十市の胸は痛いほど、大きな音で鳴りつづけている。
「珍しいですわね、皇太弟がお見えになるなんて」
久しぶりに館を訪れた大海人皇子を前に、額田王が皮肉っぽく笑ってみせた。紅く妖艶な唇が恨めし気に歪んでいる。
「そうだな、ずいぶん間が空いてしまった。いやぁ、すまんすまん」
かつての妻の皮肉を、大海人は泰然と受け流した。
そんな両親のやり取りを横目に、十市皇女は過去に想いを馳せる。
きっと十市が産まれる前は、父が足しげく母のもとに通っていたのだろう。
昔のことだ。
十市が物心ついた頃にはもう、父には若い妃が何人もいて、母のもとを訪ねてくることはほとんどなかったのだから。
何年か前、宴会の場で母はこんな歌を詠んだ。
『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』
君、とは父のことだ。
「君はいろんな場所で自分に向かって袖を振ってくるけれど、見張りの人たちに見つかったらどうするのよ」という元夫からの秘めやかな好意を詰る歌である。
父はこの歌に答えて、
『紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも』
と詠んだのだが、勿論これはただの余興だ。
「紫草のにほへる妹」とは母のことを指すのだろうが、今さら他人の、それも自分の兄の妻になってしまった母のことを恋しく想っているなんてこと……あるわけがない。
まぁ父は調子のいい人だから、本当のところはよくわからないけれど。
ただ、こういう戯れの歌を敢えて詠んで相手の気を引こうとするのは間違いなく母のほうだ、と十市は確信している。
その証拠に、今日の母はいつにも増して紅が濃い。そして何だか機嫌が良い。
十市はというと、父の久方ぶりの訪問の理由を考えていた。
親子三人で揃うのはあの花の宴以来だ。
すでに花の時期は過ぎ、夏の盛りも超え、秋の気配が色濃くなりはじめている。
彼と遭遇したあの秋の夜から、季節は早くもひと巡りしようとしていた。
「実は十市に縁談があるのだ」
「……縁談?」
父の言葉に十市は驚いて鸚鵡返しに呟いた。
「そう、ついに来たのね……。十市ももう十六歳。そろそろ、そういう話があると思っていたわ」
母は大きな溜め息をつくと、まるで痛ましいものを見るような目で十市を見やった。
十市はまさに母のこういう視線が苦手だった。目が合ってしまわないように下を向き、膝の上で握りしめた自分のこぶしに目を落とす。
「それで、お相手は何方なの?」
額田が尋ねると、大海人は一瞬ためらうように眉間に皴を寄せたが、すぐに気を取り直したように、相手の名を口にした。
「大友皇子だ」
「えっ……!」
十市は俯けていた顔を勢いよく上げた。頭の上で結っていたニ髻がふるりと揺れるほどに勢いよく。
十市の胸にあの秋の日の思い出がよみがえる。
あのあと、何度か遠くから見かけることはあったけれど、まともに話すこともできないまま、一年が過ぎてしまった。
まさか、こんな形でまた彼と見える機会が来るなんて……!
十市の胸が期待と緊張でズクズク、と音を立てた。
痛い。
この胸の痛みの正体に、十市は未だ名前を付けられていなかった。
「どうだ、十市? 悪い話ではないと思うが」
大海人が十市の様子をうかがうように云うと、額田が小さく鼻を鳴らす。
「嫌でも断ることなどできないんでしょう? あの方の思し召しとあれば」
あの方、が誰を指すのか――。
言わずもがな、この場にいる全員が理解している。
だが、十市の頭のなかに「断る」という選択肢はまったく浮かばなかった。
答えはすでに決まっている。
「お受けします」
十市がきっぱりと告げた。
普段はおとなしい娘の珍しい大声に、父と母が驚いたように目を見合わせた。
十市は急に恥ずかしくなって、慌てて顔を伏せる。
「ホホホ」
額田が口元に袖を当てて、ほくほくと微笑んだ。
「お前が大友皇子に気があるとは知りませんでしたよ」
「そういうことではありません」
「では、どういうことなの?」
額田は面白そうに十市の顔を見つめている。
母のこういうところが苦手なのだ、と十市はあらためて思った。
この世の何もかも、目に見えるものも見えぬものも……すべて見透かされているみたいで、気味が悪い。
「では、話を進めるぞ。十市、本当に良いのだな?」
父に念を押されて、十市はコクリ、と小さく、しかしハッキリと頷いてみせる。
「高市皇子が残念がるでしょうねぇ」
意味深に呟いた額田の言葉に、十市と大海人がきょとんと目を丸くした。
「あら嫌だ、いまの二人の表情、ソックリだったわよ。やっぱり父娘なのねぇ……揃いも揃って鈍感なこと」
そう云って、やけに愉しそうに笑う母の声を聴きながら、父と娘は「何故母が笑っているのかわからない」といった風に、同じ方向に首を傾けた。そんな二人の様子を見て、母がまた笑った。
ひとしきり笑い終わった母がぽつりと、
「それにしても、天皇は本当に大友皇子を買っていらっしゃるのね……」
何気なさそうに口にしたその言葉に、父の顔がわずかに曇ったような気がした。が、十市の気のせいだったかもしれない。
残念ながら、いまの十市に父や母の気持ちを慮るような余裕はなかった。
――大友皇子が自分の夫になるかもしれない。
十市の胸は痛いほど、大きな音で鳴りつづけている。
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