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憑依
憑依④
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『この男が憎くはないか?』
俺の本心を炙り出すかのように『声』は問いかけてくる。
――憎くないといえば……嘘になる。
『このまま、この男を殺すこともできるぞ』
――まさか。
『お前の気持ち次第だ。さて……どうする?』
足下に横たわる徳堂直之の顔に目を落とした。大量の出血のせいか、彼の顔色はすでに死人のように蒼白い。このまま何もせずここに放置すれば、この男は死ぬだろうと思われた。
原因は突発的に巻き起こった強風による倒木。徳堂はたまたま木の近くにいたせいでその下敷きになった。
……これは不運な事故だ。
俺も楠ノ瀬も、罪に問われることはないだろう。
「貴方は、神様……なのか?」
俺は先ほどから自分の頭の中で語りかけてくる『声』の主に、おずおずと尋ねた。
『……さて』
主は、はぐらかすように空っ惚けた。
この『声』は神のものなのか?
それとも、俺の本音……なのだろうか?
俺は上を向いた。
藍色の空の低いところに、今にも落っこちそうなほど大きな満月が浮かんでいた。
白く煌々と降り注ぐ月の光が、俺を照らしている。
俺は自分の意志で目を閉じた。
……この月に魅入られてしまう前に。
夜風にそよいだ山の草木が、さらさら、と幽かな音を立てた。
傍らの泉からは、相変わらず甘い香気が漂っている。
俺は甘い蜜に誘われる蜂のように、ふらふら、とそちらへ行きたくなる衝動を必死に抑えた。
極楽のように美しいこの幽玄の景色に魅入られたら――
惑わされてしまう。
目も、耳も、鼻も……すべての感覚を閉ざしてしまわなければならない、と思った。
――自分の意志において。
『お前の気持ち次第だ。……どうする?』
『声』が再び同じ問いを発した。
俺の答え一つで、一人の人間の命を生かすことも奪うこともできた。
『一人ではない。もっと多くの命を左右することもできるぞ』
俺を惑わす、甘い言葉。
――試されている。
自分を律する強い心。
――俺は今、それを試されている。
「許さない」
「え……?」
ふいに。
泉の中で俺の頬を抓りながら、まっすぐに俺の目を射抜いた楠ノ瀬の視線が蘇った。
「許さない」と言った、彼女の芯の通った強い言葉も……。
「ふっ……」
俺は口元を緩めた。
そうだった。考えるまでもなかった。
「この男を、助ける」
俺は答えを口に出した。
風の音にかき消されないように、一言一句、はっきりと。
『……いいのか?』
「いいんだ」
念を押すように響いた『声』の問いかけに、
「だって、助けられる命を見捨てたりなんかしたら……」
俺は大きく笑って答えた。
「楠ノ瀬が怒るだろう?」
俺の本心を炙り出すかのように『声』は問いかけてくる。
――憎くないといえば……嘘になる。
『このまま、この男を殺すこともできるぞ』
――まさか。
『お前の気持ち次第だ。さて……どうする?』
足下に横たわる徳堂直之の顔に目を落とした。大量の出血のせいか、彼の顔色はすでに死人のように蒼白い。このまま何もせずここに放置すれば、この男は死ぬだろうと思われた。
原因は突発的に巻き起こった強風による倒木。徳堂はたまたま木の近くにいたせいでその下敷きになった。
……これは不運な事故だ。
俺も楠ノ瀬も、罪に問われることはないだろう。
「貴方は、神様……なのか?」
俺は先ほどから自分の頭の中で語りかけてくる『声』の主に、おずおずと尋ねた。
『……さて』
主は、はぐらかすように空っ惚けた。
この『声』は神のものなのか?
それとも、俺の本音……なのだろうか?
俺は上を向いた。
藍色の空の低いところに、今にも落っこちそうなほど大きな満月が浮かんでいた。
白く煌々と降り注ぐ月の光が、俺を照らしている。
俺は自分の意志で目を閉じた。
……この月に魅入られてしまう前に。
夜風にそよいだ山の草木が、さらさら、と幽かな音を立てた。
傍らの泉からは、相変わらず甘い香気が漂っている。
俺は甘い蜜に誘われる蜂のように、ふらふら、とそちらへ行きたくなる衝動を必死に抑えた。
極楽のように美しいこの幽玄の景色に魅入られたら――
惑わされてしまう。
目も、耳も、鼻も……すべての感覚を閉ざしてしまわなければならない、と思った。
――自分の意志において。
『お前の気持ち次第だ。……どうする?』
『声』が再び同じ問いを発した。
俺の答え一つで、一人の人間の命を生かすことも奪うこともできた。
『一人ではない。もっと多くの命を左右することもできるぞ』
俺を惑わす、甘い言葉。
――試されている。
自分を律する強い心。
――俺は今、それを試されている。
「許さない」
「え……?」
ふいに。
泉の中で俺の頬を抓りながら、まっすぐに俺の目を射抜いた楠ノ瀬の視線が蘇った。
「許さない」と言った、彼女の芯の通った強い言葉も……。
「ふっ……」
俺は口元を緩めた。
そうだった。考えるまでもなかった。
「この男を、助ける」
俺は答えを口に出した。
風の音にかき消されないように、一言一句、はっきりと。
『……いいのか?』
「いいんだ」
念を押すように響いた『声』の問いかけに、
「だって、助けられる命を見捨てたりなんかしたら……」
俺は大きく笑って答えた。
「楠ノ瀬が怒るだろう?」
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