縁に降る雪

凡吉

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縁に降る雪

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「旦那、本当にあの妓でいいんで?他に良いのもおりますけんど……」
 と、新造が最後まで渋っていた、その理由が何となく分かったような気がした。

 ああ、これでは売れないな。

 思わず苦笑しそうになったのを呑み込んで、目の前の相手を眺める。
 柄が小さいのを除けば取り立てて見目形が悪いというわけではないけれど、指名してくれた客が来たというのに挨拶もなければ礼もなく、不機嫌そうに立てた膝を抱えているばかり、話しかける折すら与えないのには、さすがに呆れないわけにはいかなかった。
 とりあえず自分で上着を脱いで衣桁に掛ける、巻き煙草の箱を取り出したところで、ようやく煙草盆を膝前に押しやってくれたのが唯一の反応で。
「どうも」
 と口にしても返ってくるのは沈黙だけ、あしらいかねてこちらも黙ったまま燐寸マッチを擦れば、微かに目が動いたような気がして、咄嗟に、
「喫む?」
 と箱を差し出すと、一瞬躊躇った後、小さく頷いて中身を一つ取ったけれど、すぐには火を点けようともせず、じっとそれを見つめている。
「……これ、両切り?」
「そうだよ」
「あんた、金持ちなんだ」
「……ま、困ってはいない、ねえ」
「ふうん、……本当はうちの店に来る客じゃないってことか」
 やっと口を開いたと思えばなかなか鋭いことを言う。どうかな、と曖昧に暈せば、相手は薄く笑った。
「まあいいや。俺には関係ねえし、……ほら、やることやって帰れば」
 襦袢の膝で畳を摺って傍へ寄るのを見下ろせば、半襟の解れた長襦袢は先輩娼妓のお古か、身幅も丈も大き過ぎるのを新モスの腰紐で無理矢理に着ているのが、返って痩せた躰を浮き立たせることになっている。
 相手がよほど酷いというのでなければ所謂金で買った妓である、時間潰しに遊んでいっても良いとは考えていたのだけれど、何となく今はそういう気にならなかった。
「ああ、いや、……このままで」
「は?」
 肩を押し留めると相手は眉間に立皺を刻む。
「小さいからって馬鹿にしてんのか?これでも商売してんだよ、あんたより大きい相手にだってちゃんと使い物に、」
「いや、そういうことじゃないんだ」
「……俺じゃ気に入らないんだったら、今なら……まだ替えられるけど」
「ええと、それも違う。……君でいいから。一寸このまま俺に付き合って」
 被せるようにゆっくり言うのを呆気に取られて聞いていた相手は、こちらに目を当てたまましばらく何か考えている様子、やがてその唇に皮肉な笑いが刻まれた。
「あんた……、あの人が目的だろ」

 吐き出した煙越しに改めて相手をの顔を打ち眺める。
 どうやらこの妓は馬鹿ではないらしかった。


 この界隈では最も格の高い妓楼――とはいえ、もちろん女の花魁を扱っているわけではないから、表向きは地味な拵えで、それでも知るものには名の通った――に居る上妓、本当の目的はその人で。
 お職を張る花魁同様、この世界でも長年これだけの人気を誇れば我侭も自在、身分の上下に関わらず気に入らぬ人間の相手はしない、という客商売には最高の贅沢を公言して憚らない、その人に初めて会ったのはもう五年程前になるけれど、その時以来忘れられないようになった。容色が美いとか秘術があるとかそういうものに頼らぬ独特の存在、その魔性に取り憑かれたのだといっても良いかもしれない。

『お前、面白いな』
 最初に肌を重ねた晩、白い指で額に貼りついた髪を掻き上げつつ、その人は笑った。普段面白いと言われることもなければ、自分で意図したつもりもないから、
『そう?……自分じゃ分からないけど』
 と言えば、相手はまだ微かに笑いを含んだまま、分からないでいい、と呟いて煙管に火を点ける。しばらくぼんやりとその様子を眺めていると、目だけが気怠るそうにこちらを見る。
『……また、会ってやろうか』
 と低く言われた言葉に驚いて目を見張る、これはある種のお墨付き、まさか自分が彼から貰えるとは思ってもみなかった。直ぐには信じられず、茫然としているのへ、彼はただし、と言葉を継ぐ。
『条件があるけど』
『……条件?』
『俺の気が向いた時に会う。そんだけ』
『嬉しいけど、……一つだけ質問してもいいかな』
『何?』
『次はいつ気が向いてくれる?』
 そっと訊くと、彼は小さく笑って煙管を置き、腕を伸ばしてこちらの頬に触れた。腕の白さに行灯の炎が紅く、散る。
『……やっぱりお前、面白い』


 あれから五年、頻繁とは言えなかったけれど、その人との間が切れるということはなかった。
 が、ここ半年ばかりの間に、今までに無く会えるのが間遠になり、諸々不安になったところへ、彼が落籍ひかれるやもしれぬ、という噂を聞いたのだった。
 その人の魅力は誰にも靡かないところにあるような気がしていた。
 大見世の上妓ともなれば落籍ひきたいという客がつくのも当然で、かく言う自分にもその願望はあったけれど今まで言い出さなかったのは、下手な動きをして彼に疎まれるのを避けたいが為だった。実際彼にはこれまで幾度も落籍の噂があったけれど、どれほど良い条件を出されたとしても諾わなかったのを知っていたから、どこかで安心していたのかもしれない。
 彼がどういう経緯で苦界に身を落としたのかは知らないけれど、置かれた状況に縛られることのない魂の自由さに自分は惹かれていた、だからこそ今回の話は――あの人が”誰かひとりを選択した”という事実が――衝撃だったのである。話の出所が確かな筋なのと、会える回数が減ったのとを考え合わせれば、居ても立ってもいられぬほどの焦燥感に襲われてしまう。
 が、こちらとて目の前で獲物を攫って行かれるのを指を咥えて見ているような人間ではない。何らかの行動が必要なのは分かっており、それを対策と呼ぶか反撃と呼ぶかは分からないけれど、とにかくその一つが、今目の前に居る妓なのだった。
 どこの世界にも内情に詳しいものはいるけれど、ここにも単なる吉原雀とは異なり、普通外には漏れてこないような情報を職業的に扱うものも居たから、人脈と金を巧く使えば、欲しい情報が手に入るのは便利であった。
 この小柄な妓が、実はあの人のお気に入りで非常に可愛がられているのを知ったのもここからで。
 元々この妓はあの人と同じ妓楼に売られた娼妓だったそうだ。根は人懐こく相手の気持ちを読むのにも聡いから楼主や仲間とも上手くやっていたらしいが、その反面、気が強くて自分の気に入らない相手に対しては、それが朋輩だろうが客だろうが喧嘩して一歩も引かないところがあったようで、売れっ妓とはお世辞にも呼べなかったらしい。
 いつだったか、この辺では幅の利く客と喧嘩したのが問題になってしまい、懲罰として今の小見世に仕替えさせられたとは表向き、本当は自ら申し出て責任を取ったのだという。
 表面上の行き来は出来ないけれど、あの人は随分この妓を気にかけていて、その後も密かに面倒を見ているのだとか、そしてこの妓も以前と変わらずにあの人を慕っているとのこと、自分が目を付けたのはそこであった。


「……売れない俺を揚げてあの人に点稼ぎしようって?たまにいるんだよ、そういう頭の回る金持ち」
 ずばりと言い当てるのに、ゆったりと指先で灰を落としながら頷くと、呆れたような溜息が聞こえる。
「……無駄だと思うけど」
 と俯いて小さく呟くのへ、
「どうしてそう思う?」
 とさりげなく訊けば、
「こんなことくらいで、……あの人は変わらない」
 と言葉を選んで言うのが、逆に胸を衝いた。
「変わらないってのは、落籍かれることへの意思が、ってこと?」
 やや強めの口調になったのは内へ隠した焦りのせいか、相手は顔を上げて真っ直ぐにこちらを見たけれど、口は開かなかった。恩ある人のことを軽々しく喋ってはいけないと考えているのだろう、催促しても貝のように黙っているのへ、根負けして溜息を吐く。
「……分かった、もう訊かないよ」
 と言うとようやくほっとしたように肩の力を抜いたものの、まだ警戒しているのかぎこちない沈黙が流れる。さてどうしようか、と二本目の煙草に火を点けたところでふと思い立ち、
「じゃあ、君自身があの人をどう思ってるのか教えて。……言える範囲でいいから」
 と言ってみると、相手は驚いたような顔をした。
「それ聞いてどうすんの」
「ん、何となく……時間、あるしねえ」
 適当に笑って見せると、彼は再び溜息を吐き、それでも一寸考えてから、
「……俺にとっては、すごく……いい人」
 と真面目な口調で言う。
「そう」
「うん、面倒見てもらったし……」
 考えながら、ぽつりぽつりと語るのはどれも楽しそうなものばかり、素朴な挿話が多いのは仲が良いというのが決して嘘ではない証拠なのだろう。ふ、と話の途切れた時、そっと、
「君、あの人のこと大切なんだ」
 と言えば、これは躊躇いも無く頷く。
「……じゃあ、そういう人が遠くに行ってしまうっていうのは寂しくない?」
 と遠まわしに続けると、相手は一瞬呆気に取られたような表情で、次には無遠慮に笑い出した。
「あんた、優しそうな顔してるけど……結構狡いな」


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 それからどれくらい経っただろうか、まだあの人から面会許可は下りない。
 打つべき手は打ち尽くしたし、金離れの良い客を失いたくは無い店側がいくら画策しても、肝心の本人が会うと言わなければどうしようもないことを改めて感じさせられつつ、じりじりした思いを抱えるのはなかなか苦しいものがあった。

 そういう中で、時々件の小見世へ通うのは意外なことに気晴らしになった。
 もちろんあの小柄な妓ではあの人の代わりにはなるべくもないけれど、会いたい人のことを語れる唯一の仲間、という点において彼に会うのは何となく楽しかったのだ。初めは彼も呆れていたし身構えてもいたけれど、そのうちに段々慣れてきたようで、表情も解れてきたし、笑うようにもなった。気転も利くし言葉も知らなくはない妓だから、会話するのも面白く、友人の所へでも来たような錯覚に陥ることすらある。
 が、それが違うとはっきり思うのは、先客が居た時だ。こういう商売なのだから客がつかなければ話にはならないのは分かっていても、あまりいい気がしない。それは嫉妬などではなく、心配に近い感覚だった。珍しく流連いつづけの客でも居た後に会うと、元気そうにはしているものの、明らかに顔色が悪い。元々細身なのへ、ここの所さらに痩せたような気がして、ぼんやり相手を眺めていると、
「……何?」
 と不審そうな声、どうしようかと一瞬考えたものの、
「痩せたんじゃないかと思って」
 と正直に口にすると、彼はこともなげに笑う。
「暑いからちょっと食欲落ちてるだけだよ」
 そう言ってこちらの煙草入れからひょい、と一つ取っていく。ここへ来る毎に彼は一つだけ持っていくけれど、そういえば自分の前では吸わないな、と思いながら、
「これ好きなら全部持っていってもいいよ」
 と言ってみると、首を横に振る。
「いらない。贅沢に慣れちゃうと後で安い刻みなんか吸えなくなるもん。たまにで十分」
 と指先で取ったものを弄ぶ、その骨の浮いた手首を見た途端、
「……うちへ来る?」
 と考えるより先に言葉が出た。
「は?……俺を落籍くってことか?」
「まあ、……そうだね」
 頷くと相手は呆気に取られたように、
「俺なんか落籍いてどうすんだよ、何の役にも立たないのに。……あんたそれくらい分かってんだろ」
 と手厳しく、さすがに返答に困って苦笑すれば、
「考えてから物言え」
 とぴしゃりと釘を刺された。
「……ごめん」
 思わず謝るのへ、彼は一瞬躊躇ってから、
「あんたも、……これと一緒で、」
 と煙草を指し、
「たまに顔見せてくれるだけでいい」
 と呟くように、その後直ぐに表情をがらりと変えて屈託無く笑った。
「あんたは何もしないから躰楽だし、金も入るし。俺には勿体無いくらい良い客」


 この十日後、ついにあの人から連絡が来たのである。


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 その日は朝から落ち着かなかった。
 久しぶりにあの人に会えるという喜びと、これが最後になるのではないかという不安、それらが入り混じって居ても立ってもいられない思いがする。夕刻になるのを待ちかねてすぐに外へ出たはいいものの、まだ陽も落ちきっていない花街にはさすがに人影もまばらであった。
 店はもう開いているけれどこれでは些か逸りすぎ、体裁を大事にする大見世の思惑を考えて、直ぐに登楼するのは止める。かといって茶屋も必要なければすっかり手持ち無沙汰となり、さてどうしようかと考えたところで、大回りではあるけれど、あの小見世へ寄って行こうと思いついた。
 揚げるわけではないけれど一寸用事があるから、というのも、諸式面倒な大見世とは違い、下級の店なら金の力があっさりと物を言うのは便利なもので、少し待たされた後、新造に連れられて例の妓がやって来た。
 綿の草臥れた単衣で目の前に立ち、じっとこちらを見上げているのが何だか不思議な気がするのは、普段着の姿を初めて見たからかもしれない。
「何か用?」
 新造に金を握らせて引き取らせた後も、周りを憚るように声を潜めて訊くのへ、
「あの人に会えることになったよ」
 と告げると、彼は一瞬目を見開いてから、見たことのない嬉しそうな顔でにっこり笑った。
「そか、良かったな」
「うん。ありがとう」
「別に、……結局、俺何も出来てないし」
 とこれは少し困ったように俯いて、しばらく無言でいたが、やがて顔を上げてこちらの腕をぽん、と叩いた。
「でも、本当に、……良かった」
ともう一度笑い、後ろへ回って両手で戸口の方へ押し出そうとする。
「ほら、早く行け馬鹿」
「ちょ、……っ」
「ここ出たら振り返らないで行けよ」
 といつもと変わらない口調、それでも手が離れる前に微かに背中へ額が触れた感覚があって。
 さよなら、と聞こえたのは気のせいだったのか、振り返っても既に戸は閉まり、彼の姿は見えなかった。

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 何を言おう、何を訊こう、頭の中で考えていた幾つかの言葉は本人を前に消えてしまい、残ったのはどこか劣情にも似た激しい感情だけ、無言のまま狂おしい時間が過ぎた後には、重く濡れた闇に包まれる。
 抱いた肩が滑るように抜け出て、月明かりを頼りに小窓の障子を開ける、そのまま壁に寄りかかった半身が蒼く染まるのを眺めていると、彼は目を外に向けたままで、
「……落籍かれることにした」
 と恐れていた言葉を口にした。
「……どうして?」
 硬く静かな自分の声が、他人のもののように聞こえる。
 視線を外からこちらに戻した彼は、しばらく黙っていたが、やがて問いに答えるのではなく、
「お前、……俺と心中出来る?」
 と唐突に別の奇妙な質問を投げかけてきた。その意図も掴めず、内容の激しさに本能的に言葉に詰まるのへ、彼は背を壁から離して傍へ寄り、上から見下ろして小さく笑う。
「ほら、な」
「……俺は、」
「それでいい。そういうお前が好きだったし」
 それは欲しいと望んでいながらこれまで一度も聞くことのなかった言葉だったけれど、今となっては聞いてしまったことが反って夢の終わりを強調しているようで胸が苦しい。沈黙にすら身を削がれるような錯覚に陥り、思わず胸に置かれた彼の手を取って、見飽きることの無かったその指をしっかりと握れば、こちらに指を預けたまま、彼は再び口を開いた。
「あっちは、……俺を落籍こうって人は、今の質問に頷くんだよ。……実際に訊いたことはないけど」
 と言う声はどこか愉しそうで、自分から言葉を奪う。
「実際には心中沙汰なんて馬鹿みたいだし、大嫌いだけど、でも、……どっちかがそういうことを言い出したとして、本当に死ななきゃなんないんだとしたら、……相手があの人なら”しょうがない”って思える。一生、そんな風に考えることはないと思ってたんだけどな」
「だから、その人の所に行くの?」
「そうだな」
「……俺じゃ駄目だった?」
 それは言っても詮無い事とは知りながら、そう言わずにはいられなかった。彼は真面目な顔で一寸考えてから、こちらの目を真正面から見る。
「お前は最終的に俺じゃなくてもいいんだ。俺もそう。だから……安心して好きでいられた。でも、あっちは駄目だ。俺じゃなきゃ、駄目。……理屈とかじゃ上手く説明出来ないけど」

 月が雲に隠れ、青白い光が闇に消える。

「もう会えないのかな」
 と最後の言葉を短く、決して叶うことのない祈りのように囁く。報われることのない返事は、それでもこれまでで一番優しかった。
「……いつか、また、どこかで」


----------------


 失ったものの大きさは、時と共に身に沁みて。
 盛夏の熱に溶けるように消えてしまったあの人の幻影は、涼風が立つ頃になっても消えることはなく、何に対しても無感動になった心を引きずったまま、気がつけば冬が訪れようとしていた。

 最後に交わした言葉の一つ一つをどれだけ反芻してみても、あの人が去った真意を理解することは難しかった。こちらに何らかの理由で愛想を尽かしたのではないことは分かっていても、それは救いだけではなく、それなら何故という疑問にも繋がって、いつまでも心を波立たせる。
 人の心は計り知れぬもの、未練はまだ断ち切れずにはいるものの、自分との今生の縁は無かったものと得心させねば先へは進めず、磨耗した胸の内でようやくこの心境に辿り着いた朝、庭に初霜を見た。
 冷たく強張った小さな葉を眺めていると、ふいにあの小見世の妓の姿が思い浮かぶ。あれ以来思い出すことすら無かったけれど、彼は今どうしているのだろうか。そう考えた時、何となく停滞していた部分が緩んだような感覚があって、気晴らしのために会いにいってみようか、と思いついた。花街へ足を向ければ痛みがあるのは予測出来たが、あの妓に会うのがどこか懐かしいような気がするのも不思議なものだった。
 車は使わずに通い慣れた道を徒歩でゆっくりと歩く、件の店を訪うと、番頭も新造もこちらの顔を覚えていた。が、どちらにも妙な表情が浮かんだのに気付いて不審が募る、まさか落籍かと考えた瞬間、知らされた事実は全く別のものだった。

 あの妓は、秋の終わり頃亡くなったのだという。

 驚きに呆然としつつも委細を問えば、店先では憚りのあることとて裏の小座敷へ通される。そこで新造が語ってくれたところに由ると、元々胸が悪かったのへ、客から流行り風邪をもらい、結局はそれがもとで敢え無くなったらしい。この店の朋輩達とはかなり仲良くやっていたようで、未だ彼の死を悼む妓も多く、遺品の処分も出来ていないのだと新造は言った。
「その遺品……見せてもらえませんか」
 思わず言うと、新造はやや当惑した顔で、
「これといって何もありゃしませんけどねえ」
 と言いつつも、隣の布団部屋らしいところから小さな木箱を持ってきてくれた。
 中を覗くと細々した日用品が僅かに入っているきりで、彼を偲べるようなものは何もなかったけれど、ふとその隅に古びた小函があるのに気付く。朽ちて壊れそうな蓋をそっと開けた途端、言葉を失った。
 中に入っていたのは煙草、もう湿気が来てとても使えるものではないが、これは自分が渡したものに違いない。彼は仕事が終わったら吸うと言っていたけれど、会ったのと同じ数の煙草が残っているのを見れば、結局一度もそう出来なかったのだろう。
 自分では吸えないと分かっていながら、誰かにやるでもなく、捨てるでもなく、こうして取っておいたその心根が何とも言えずに哀れで胸が痛む、黙って小函を元に戻すと新造に礼を言い、彼が葬られた場所だけ聞いて店を辞した。


 早朝の墓所には人影はなく、明け方に降った雪が地にも墓石にもうっすらと積もっている。教えてもらった場所は日の当たらない一角にあり、崩れかけている灰色の墓石と土饅頭からなる侘しげな、所謂下級の妓が眠る共同墓地だった。

 愛していたのではない。
 ほんの短い期間に数えるほど、それも手段として会っていただけだった。
 それでも今、胸の中にある上手く言い表すことの出来ない切ない感情は嘘ではないのだと思う。自分の前で笑っていた顔とあの遺品の煙草とが脳裏に浮かんで胸が絞られる、個人の名前すらない、その墓石を見つめ続けながら自分でも知らないうちに涙が零れた。
 心血を注いで愛したと思った人は去り、苦しい時に傍にいてくれた人とももう会えぬ。
 人の縁とはこんなにも儚いものなのだろうか、と寒空に膝を折り、手のひらで雪を拭って、墓石に新しい煙草を供えた時、奇しくもあの人の最後の言葉が耳に蘇る。それは失いたくないものを全て失った今の自分には、救いのようにも聞こえた。
 静かに黙祷を捧げてから立ち上がり、墓石に向かって独り話しかける。

「いつか、また、どこかで」
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