風哭島奇譚

凡吉

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風哭島奇譚(下)

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 七穂から忘れ物の連絡が来ることも予想していたけれど、たわいもないメッセージのやり取りはしても、件の本については触れられることなく時間が流れ、翌月の満月の前日に七穂の携帯からメッセージではなく電話が来た。
『お前は馬鹿か』
 開口一番叱られるのも子供の頃以来だなとのんびり考えている千紘に、
『大事な本を忘れるんじゃない。何考えてるんだ』
 と凪は半ば呆れたように続けた。
『とにかく、七穂に持って帰らせるから、』
「いや、取りに行きます」
 と遮るように言えば、しばらく沈黙が流れる。
『……もう来るなって言っただろ』
「はい」
『分かってるなら、来るな』
「凪さんにお会いしたいんです」
 率直に言うと電話の向こうでため息が聞こえた。
『お前なあ、俺は見世物じゃないんだぞ』
「そういう意味じゃないです」
『じゃあどういう意味だ』
 確かに、もう一度凪に会いたかったから本をわざと置いて来たのだけれど、何故会いたいのかは自分でもはっきりとは分からない。ただ、前回“癒された”感覚を再び感じたいという思いはあった。
『……言っておくが、俺を医者扱いするなよ』
「……凪さんってどこまで人の思考読めるんですか?」
『簡単で明確に念が伝わる部分だけな。全部が分かるわけじゃない』
「すごいですね」
『いや、そんなことはどうでもいいんだ。危ないから来るなって言って、』
「来月取りに行けると思うんで、七穂さんに連絡しておきます」
『……お前ホントに人の話聞かないな』
 うんざりしたように言う凪に千紘は笑った。
「凪さんとお会いして癒されるのは本当です。でも、それだけじゃないって思ってるんです。ここは言語化出来ないんですけど」
 と言えば、再びため息が聞こえた。勝手にしろ、と呟いて電話は切れたが、千紘は拒絶されてはいないことを確信する。
 果たして七穂に連絡を入れようと思った矢先、彼女の方からメッセージが来た。
《絶対取りに来るって言うと思ってたわ~。また来月ね!》
 能天気なスタンプ付きのメッセージに千紘は苦笑する。何を以て“絶対”と思ったのか、七穂に聞いてみたい。
 夜、眠る前に七穂の携帯からメッセージが届く。
《風邪ひくなよ》
 一瞬あれ、と思い、ああ、これは七穂ではなくて凪が寄越したメッセージなのだと気付いた瞬間、純粋に嬉しくなる。ちょっと子供に戻ったような嬉しさ、強いて言うなら小学生の頃、好きだった女の子からバレンタインのチョコレートを貰った時のような喜びに近い。
 そんなことがばれようものならきっと凪に物凄く嫌な顔をされるんだろうなと思いながらベッドに潜り込む。心が温かくなったおかげか、その夜はぐっすり眠ることが出来た。



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 翌月、七穂と合流した時、千紘は彼女が何となく元気がないのが分かった。聞けば、恋人が入院中なのだと言う。
「こんな時はさすがに巫女であることを呪うわ」
 一番辛い時に傍にいてあげられない、と自嘲気味に言うのへ胸が痛む。幸い、命に別状はないのだが、手術が必要なのだと言う。
「……大変ですね」
「婦人科系の病気で手術になっちゃったのよね」
 音声として入ってきた内容を理解した瞬間あることに気付く。以前だったら多少驚きはしたかもしれないものの、今はそこに対しては何の違和感もなく、寧ろ普段は胆の据わっている七穂が憔悴していることが気の毒だった。
「どなたか、……ご家族が付き添ってらっしゃるんですか」
「元々ご両親が早くに亡くなっててね、歳の離れたお姉さんがいるんだけど、……私のせいで関係が拗れちゃった。だから、うちの人間を何人か付けてるけど、“家族”はいないね」
 私が家族になるって決めたのに、と呟くのへ、
「相手の方は、七穂さんの……神子家のことを知ってるんですか」
 と千紘は思わず聞いた。
「あなたと同じくらいは知ってるかな。凪にも会ったことあるし」
「それなら、理解されてると思います。七穂さんがどういう立場なのか、それによって起こることも含めて覚悟しておられんじゃないかなと」
 言ってしまってから明らかに差し出がましかったと後悔する。
「すみません、俺、何も知らないのに、……余計なことを」
「いいの。……あの人から言われてたの、覚悟してるんだって。それを私が信じないでどうするって話よ」
 と小さく笑った七穂からは自嘲の色は消えていた。
「……何か、素敵ですね」
「え?」
「俺は、七穂さんみたいに人を想えないから」
 そんなことを言うつもりなど少しも無かったのに、何故か自然と言葉が出てきた。自分が楽になりたいためにする元婚約者への懺悔のようだと、今度は千紘が自嘲気味になる。七穂はしばらく黙っていたが、やがて真っ直ぐにこちらを見た。
「いいんじゃない?それで何かあなた自身が問題ないのであれば、無理にどうこうしようとする方が苦しくなるでしょ。ただ、」
 と言葉を切り、しばらく考えてから、
「“自分は人を想えない”って固定しない方がいいかも。……もし、そう想える相手が出てきた時に気付けなくなるわよ。私がそうだったから」
 と言う。
「巫女が働けるだけでも有難いと思ってたから、恋愛なんて自分には縁がないと思ってた。正確には…縁があっちゃいけないと思ってた。そのせいで10年無駄にしたの」
 もったいないでしょ、と真面目な顔をして、七穂は何かに祈るように携帯を持った手を額に当てる。その姿に千紘はふと、以前凪が必死に父親を庇っていた姿を重ねていることに気付いた。
 あの時の凪は美しく、心が千切れるほど切なかった。



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「とにかく、忘れないように先に鞄に入れとけ」
 神子邸に着くなり現れた凪は、挨拶も抜きに千紘に件の本を差し出した。言い方は相変わらずつっけんどんだが、本を持つ手は壊れ物を扱うように優しい。
 俺の目の前でしまえ、という命令に大人しく従い、鞄に本を入れた千紘を見届けてから、凪は七穂に向き直った。
「……藍は大丈夫か」
「もうすぐ手術始まるところ。お医者さんにもそこまで状態が悪いわけじゃないし、難しい手術じゃないって言われてるし、あの人は気丈だから大丈夫」
 最後の方は自分に言い聞かすように言う七穂をじっと見て、凪はそっと七穂の腕に触れた。
「……辛いな。何もしてやれなくてすまん」
 自身が犯した罪ではない贖罪のために、時間も死も奪われて小さな島に閉じ込められている人間がどうしてここまで優しくなれるのだろうと千紘は思う。凪の仕草には、自分の存在のために巫女である七穂を縛り付けていることへのやるせなさと申し訳なさが滲み出ている。巫女が代わる度に凪はこの思いをしているのだろうか。

 解放してやりたい。

 それは自分でも驚くほど率直で強い感情だった。
「凪さん、還俗以外に普通の人間に戻れる方法ってないんですか?」
 凪も七穂も、完全に呆気に取られた顔で揃ってこちらを見るのへ、千紘は自分が人生で一番取り返しのつかない馬鹿なことをしたのだと悟った。そんな方法があればとうの昔に凪は自由になっているはずだ。
「申し訳ありません、変なこと言いました」
 とっさに深く頭を下げる、出来るものなら時間を巻き戻したいと眉間に縦皺を刻んだまま俯いている千紘の顔を、凪が覗き込む。
「……お前、何で俺を普通の人間に戻したいんだ?」
 その声も表情も決して不機嫌ではなく、寧ろ好奇心が浮かんでいると言っても良かった。
「来る時にお聞きしました。七穂さんがパートナーの方と一緒にいられればいいなと思って。それに、凪さんがさっきみたいな顔しないで済むようになって欲しいと思ったんです」
 言い訳も思いつかず、思ったことをそのまま口に出せば、凪は面白そうに笑った。
「お前が正臣に似てるのは顔だけじゃないんだな」
 とどこか揶揄うような、それでいて温かい口調で。
「本当に優しい、」
 と言いかけた凪の顔が一瞬引きつったようになり、次の瞬間、小さくくしゃみをした。
「凪?!」
 たかがくしゃみに何故、と思うような七穂の声、見る間に凪の白い肌が上った血で朱に染まっていく。理由より何より、御柱様としてではない、生きている人間としての凪の美しさに見とれている千紘を押し退けるようにして凪が走り去る、その後を七穂が物も言わずに追いかけて行った。
 訳も分からず一人取り残された千紘は、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。



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 ふ、と気が付けば今にもドアが閉まりそうになっていて、千紘は慌てて電車を降りた。今日は朝から会議なのだからしっかりしなければ、と自分に言い聞かせながら会社へ向かう。



 先月の風哭島で、千紘は神事に参加出来なかった。あの後凪に会うことも出来ず、戻ってきた七穂に聞いても何も教えてもらえなかった。
「ごめんなさい。……私が誘ってたのに」
 と深く頭を下げた七穂は、真っ直ぐに千紘の目を見て言った。
「詳しくは話せないの。宮谷さんは何も悪くない、でも、……もうこの島に来ない方がいい。あなたにとって、安全な所じゃなくなった。今回は緊急で今から船を出して帰ります」
「七穂様、支度が出来ました。お急ぎくださいませ」
 桐子がノックもせずにドアを開けて声をかける、普段は穏やかで柔らかな物腰の彼女とは思えない緊迫した口調に、千紘は今は何も言わずに従うしかないのだと思った。
「分かった。着替えは船でするわ。桐子さん、凪をよろしく。何かあったらすぐに連絡して」
 とんぼ返りとなった帰りの船の中で、千紘は文字通り一言も言葉を発することが出来なかった。巫女の姿のまま明らかに疲労の色を浮かべて、気を失うように眠っている七穂を見つめながら、一体何が起きたのか、分かるはずもない回答を探す。
 この島に来た時は何の異変も無かった。凪も寧ろ機嫌が良かったように思う。それがあのくしゃみから一変した。以前凪は“死なないんだから風邪なんて引かない”と言っていたが、急に体調が悪くなったのだろうか。そのことで島全体に異常が起きたのか。確かに七穂に庇われるように船に乗り込んだ時には、身の回りに感じる空気がどろりと重く、池に引きずり込まれた時と同じような気味の悪さがあった。



 これまでの日常に戻っただけ。
 頭ではもう何回も繰り返していても、気持ちが付いていかない。七穂からも何の連絡もないし、あの尋常ではなかった様子からこちらからも連絡してはいない。別れ際にようやく目覚めた七穂が、
『気を付けて帰ってね。……もし、変なことが起こるようだったら連絡して』
 と言ってくれたことと、回収されなかった水晶のブレスレットだけが凪と自分を繋ぐ細い糸のように感じる。この糸が切れないようにと願う心が“これまでの日常に戻っただけ”という現実を受け入れられないのだというところまで、千紘は理解していた。
 たった3回会っただけの、不思議な人。本来だったら交わらないはずの、父が遺した縁。生まれてこのかた感じたことのなかった強い感情――。
 あの時生まれた“解放してやりたい”という感情は、現実的な可不可を超えた自分の本物の気持ちだった。これまでどこか、人の正しさとは、幸せとはこうあるべきという世間が描いたぼんやりした絵姿に自分の感情をトレースすることで生きてきたけれど、あれは自分の中から出てきたものだと確信がある。
 切り替えは出来る方なのに今日は仕事に集中出来ない、とため息をついて手洗いに立った時、携帯にメッセージが届く。一瞬、七穂かと思って慌てて取り出してみれば、そこに表示されていたのは意外な名前だった。



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 土曜日の昼過ぎ、指定されたカフェに行くと、テラス席で桜を撮っている女性がいた。千紘が近づくと、振り向きもしないで、
「見て、千紘。凄くない?」
 と言う。昔から、見なくても誰が近づいてきているのか解るという特技を持つ母親らしい、と千紘は苦笑する。耳が良く、足音で誰か分かるのだと言う。本人に言うと怒られるから言わないけれど、ほぼ動物レベルだと千紘は思っている。
「珍しいね、どうしたの」
「んー、何か急に会いたくなって」
 小学生の時に父母が離婚し、千紘は父と住むことになったけれど、母親との交流が途絶えたわけではなく、寧ろ父親が海外に行っている間は母の元にいることも多かった。一番最後に会ったのは約1年前、婚約破棄になったことを告げた時だった。
「少し前にね、あんたが黒い靄に飲み込まれる夢見て、ちょっと心配になったの。元気そうで良かったわ」
 と真面目な顔で言うのへ、耳だけではなく勘も良いのが彼女の特徴だと千紘は思う。
「で、最近どう?」
「どうって……普通だよ」
「ちょっと雰囲気変わった気がするけど」
「そう?」
「何て言うかな、お父さんに似てきた。元々顔はそっくりなんだけど……現実主義なとこは私に似てたはずなのに、それが薄まっちゃった感じ」
 何か寂しいじゃないと不貞腐れる母に苦笑する、その時ふと、何故この現実主義の母親が父と結婚したのかを知りたいと思った。
「母さんは、何で父さんと結婚したの」
「何よ急に。そうだなあ、まず見た目が好みだったのと、あの何となく寂しそうなところを癒してあげたかったのよね。ほぼ強引に結婚したけど、まあ、……癒せないのは分かってたのかもね、今思うと」
 とどこか遠くを見るように、しばらく考えてから、
「でも良く言うじゃない、やらない後悔よりもやった後悔のがいいって。少なくともその時の私はそう決断した。そのこと自体は今でも間違ってなかったって自分に正直に言える。あんたもいるしね」
 と笑い、
「そういえば、千紘の最初の決断はお父さんと一緒にいるって言った時ね」
 と再び不貞腐れた顔になった。
「え?」
「え、じゃないわよ、こっちは何の疑問もなく引き取る気で実家から何から全部バックアップ取り付けてたのに、引っ越し当日あんたが急にお父さんといるって言ったのよ。あんたが産まれた時でさえぼんやりしてたお父さんが、その時初めて夢から覚めたような顔してね、……泣いたの。良い夫にはなれなかったから、せめて父親としての役割を全うさせて欲しいって」
「……全然覚えてない」
「……嘘でしょ。私の方こそ何でお父さんと一緒にいるって言ったのか聞きたかったのに」
 父親と暮らし始めた頃の記憶は残っていても、それを言った記憶が綺麗に欠落している。それどころか、逆に両親が離婚したという友達は何人かいたけれど、全員母親と暮らしており、何故自分は父親と一緒にいるのだろうと考えたことさえある。勿論、それが嫌だということではなく、母もとんでもなく仕事が忙しい人だったし、家を行き来することも普通にあったから、大人同士の話し合いでそうなったのだろうくらいに千紘は考えていた。
「でもいいわ。お父さんにとっては千紘が救いだったんだろうし」
「……そう、だといいけど」
 風哭島での父の過去を知っている身としては、本当に自分が父の救いになっていたのかは自信がない。凪の代わりには誰もなれない、だが、父が不器用ながら自分に注いでくれた愛情は本物だと本能的に信じられる。
「千紘、後悔しない生き方をしなさいね」
 突然言われて母を見ると、さっきとは打って変わった真面目な顔をしていた。
「何、急に。……それ、父さんにも言われたことあるけど」
「私ね、お父さんに過去のこと聞いたことないの。結婚する時に家族がいないこととか、親戚と疎遠だっていうのは聞いたけど、それ以外は何も知らない。聞くこともしなかった。でもね、きっと……自分の意思ではどうにもならないことで傷付いてたのは分かる。それが生涯癒えなかったっていうのも。私も離婚は自分の意思ではどうにもならなかったけど、やれることはやったっていう受け止め方をした。だから傷にはなってもちゃんと癒してちゃんと過去に出来たの。で、今目の前にある世界を生きてる」
「強いね、さすが……現実主義」
「それをあんたも受け継いでるはずよ、ただ、あんたは現実を“世間の現実”に合わせすぎてるけど」
 思わず手にしたコーヒーカップを下に置く、まさにこれまでの自分を見透かされた鋭い指摘だった。
「現実は自分の視点で変わるの。だから親子でも、私の現実と千紘の現実は違う。私が親としてあんたに望むのは一つだけ、自分自身の現実を大切にして欲しいってこと。世間じゃなくて、自分の視点で生きて欲しい。それが自由で幸せにいるってことだと私は思う」
 自分がそうだからかな、と笑う母を眺めながら、千紘は改めて自分の現実で起こっている自分の気持ちを真正面から見た。
「母さん」
「んー?」
「ありがとう。何か、ちょっと近づいた気がする」
 唐突な言い方に困惑されるかもしれないと思いきや、母はただにっこり笑った。何も言わずに伝票をひょいと指で抓み、立ち上がったその姿は、母としてとか女性としてとか、そういう属性的な枠組みを超えて、ただ人間として凛々しかった。



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千紘が七穂に会って話をしたいと申し入れたのはそれから約半年後のことだった。断られるかとも思ったけれど、七穂は了承してくれた。
 指定されたのは七穂の自宅、都内とは思えない閑静な住宅街にある、所謂豪邸とも呼べる家だった。風哭島の屋敷からある程度の予想はしていたが、都内でここまでとは、と千紘は正直玄関の呼び鈴を押すのも戸惑ってしまう。勇気を持ってボタンを押そうとした時、最先端のセキュリティシステムを入れた門扉がすっと開く。
「いらっしゃいませ」
 出迎えてくれたのは風哭島で七穂に仕えていた女性、桐子に面差しの良く似た人だった。恐らく親族なのだろう。こちらへ、と通された居間はシンプルで機能的だがどこか温かみのある部屋だった。
「久しぶり。元気だった?」
 最後に会った時の憔悴した表情ではない、落ち着いた美しい七穂を見て千紘は勝手に安心する。
「ご無沙汰してます」
 頭を下げる千紘をじっと見て、七穂は、
「……危ないことが起こってるわけじゃなさそうね」
 と言う。
「はい、おかげさまでそこは大丈夫です。今日は改めてお願いがあってお邪魔しました」
「……めちゃくちゃ面倒なこと言われそうな予感」
 とため息を吐く七穂に、千紘は苦笑した。
「そうかもしれません」
「じゃあちょっと待って、今コーヒー淹れてるから」
 ノックの音と共にコーヒーカップの盆を持った女性が入って来る、初めて見る人だった。あ、この人、と思った瞬間、七穂が頷く。
「そう、私のパートナー」
「初めまして、藍と申します」
 柔らかいけれども凛とした雰囲気が、何となく元婚約者に似ている。
「……宮谷です、七穂さんにお世話になっております」
「藍、これから面倒な話になるから休んでて」
 と労わる七穂の言葉に、半年前に手術をしたばかりだったはず、と気付く。一礼してゆっくり立ち上がり、部屋を出て行く藍に黙礼すると、七穂がコーヒーカップを手に取った。
「さて、本題に行く?」
「はい」
 と、千紘は一呼吸して七穂を真っ直ぐに見て言った。
「凪さんに会わせて頂きたくて」
「どうして?」
「還俗して欲しいんです。俺が七穂さんの代わりに傍にいます」
「……自分が言ってることの意味を分かってる?」
 と聞いた七穂は、ため息を吐いて呟いた。
「いや、分かって言ってるのよね。……だからこそ面倒なのか」
 あれから約半年、千紘は自分の感情の整理をし、一つの結論を出し、そして覚悟を決めた。並行して調べなければならないことを現実的に調べ、今、七穂の目の前にいる。
「俺は、情熱のない人間です。持っているように振る舞うことは出来ても中身は空っぽだったのだと、あの島で凪さんと七穂さんにお会いして気が付きました。本当に人を想うのがどういうことなのかと初めて知ったんです。空っぽだった人間にとって、それは凄いことで……俺は教えてくれたお二人に恩返ししたい」
「……恩返しで還俗させるって言うの?仮に凪が認めたとして、対価はあなたの一生よ」
 七穂の疑問は想定内だった。
「いえ、恩返しだけじゃありません。……それをお話する前に、一つ七穂さんにお聞きしたいことがあります」
「これもあんまり聞いてほしくないことな気がするけど、……どうぞ」
「凪さんがくしゃみをしたのは何故ですか?」
「ほら、やっぱり痛いとこついてくるじゃない。ていうか、もう何となく分かってるんじゃないの?」
 前回、島がおかしくなったのは凪がくしゃみをしてからだった。何をしても“死ねない”はずの凪は自分でも風邪なんか引かないと言っていた。それなのにくしゃみをしたというのは、一瞬凪が人間に戻りかけたのではないかと千紘は考えていた。千紘の中にある父親への想いが溢れたのだろうか、想う相手からの還俗の申し出さえ“認めなかった”のに、あの時の和やかな空気の中、凪の気が緩んでいたのかもしれない。直後から御柱様の檻の役目を果たす島が荒れだしたのも辻褄が合うように思える。
 千紘の推測を聞いた七穂は本日何度目か分からないため息を吐いて、コーヒーカップに口をつけた。
「……藍の淹れるコーヒー、美味しいわ」
「……美味しいです」
 七穂はコーヒーカップを持ったまま窓の外を眺める。しばらくの沈黙の後、何かを決意したように千紘の方へ向き直った。
「私の巫女としての感覚も、宮谷さんの推測と同じ。それは認める」
「じゃあ、凪さんの同意が得られれば、俺でも候補になりますか」
「……なる、かもしれない。でも凪が還俗を認める可能性は……低い」
 それは千紘も分かっていた。父でさえ認められなかったのだ。だから考えた。

 何故、凪は“認めない”のかを。

「俺が考えている理由なのであれば、説得します」
「本当に……本気ね。何があなたをそうさせるの」
「答えはシンプルなんですよ」
 そう言って千紘は、静かに笑った。



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 覚悟はしてきたけれど、ぴしゃりと拒絶されるのはなかなか辛いものだと千紘は思う。隣では七穂が苦笑して、ほらね、という顔でこちらを見る。

 久しぶりに訪れた風哭島は、いつもの荒涼とした感じに加え、どこかひり付くような空気があった。何となく監視されているような空気、少なくとも歓迎されてはいないのは肌で感じる。まあ、これに怯むようでは自分がここに来た目的は果たせない、と千紘は気を引き締める。
 会いたい、という千紘の申し出はあっさり断られ、神事の後すぐに離れに閉じこもった凪は声もかけてくれなかった。七穂の脳に直接“あいつをすぐにこの島から帰せ”とだけ来て、後は沈黙したままだと言う。
「百夜通いコースですかね」
 と笑う千紘に七穂は半分困ったような、半分感心したような顔をして、しばらく考えていたが、
「満月は土日とは限らないから、毎月通うのは難しいわよ」
 と現実的なことを言う。
「それは心配ないです。休職しましたから」
「は?!」
「証券会社ですからね、元々メンタル病んで休職する人は多いんです。俺は婚約が破談になったり、最近良く有給使ってたのもあって、それほど怪しまれませんでしたよ。産業医面談も上手くやりました。あとはきちんと凪さんを説得するのがミッションです」
 淡々と説明する千紘に七穂は絶句する。千紘が本気で凪を還俗させようとしているのは分かっていたけれど、ここまでするとは思っていなかった。はっきり年齢は聞いていないが恐らく30を超えたか超えないか辺り、金融関係だというなら今は踏ん張り時のはずだ。表向きは繕うけれど、休職等したら今後の査定にも響いていくのは人事である七穂には良く分かっている。
「大丈夫、結果で取り戻しますよ。こう見えて仕事出来ない方じゃないんです」
 とこちらの心配を見通したかのように言う千紘に七穂は思わず目を瞠る。
「……何か、今までと違う人みたい」
「こっちが元々の俺に近いです。現実的な方が動きやすいので」
「オカルトを浴びすぎた反動かな?」
「いえ、オカルトを現実で捉えたんでしょうね。自分の常識では分からないこともあるけど、凪さんも七穂さんも実在する。それがちゃんと理解出来たというか……そんな感じです」
 そう言って、千紘は離れの方を指差した。
「凪さんに会ってもらえなくても、外から声をかけることって出来ますか?」
「今、凪が結界貼ってるから襖の中までは入れないけど、外側からの声は届くはず」
「じゃあ、そのぎりぎりのところまで連れて行ってもらえますか。ちゃんと来た理由をお話しておきたいんです」



 七穂と一緒にこの離れにくるのは二回目だったが、千紘はどこか懐かしい気がした。ここに凪がいる、と思うと、最近ようやく慣れてきた自分だけが感じる心の波が揺らぐ。七穂に指示された結界の外側に座り、千紘は閉ざされた襖に向かって口を開く。
「凪さん」
 返事はない。それでも存在だけは何故かしっかりと感じられた。
「千紘です。俺がここに来たのは、凪さんに還俗してもらいたいからです。俺が責任持って、一生面倒みます」
 覚悟を伝えるのには稚拙な言葉だと千紘は思う。だが下手なレトリックは使いたくなかった。はっきりした思念ならば読めてしまうという凪には愚直な言葉の方がいいと判断した。
「3回会っただけの若造が何を言ってる、と思うかもしれません。でもその3回が、通常の何年分に相当する場合もあります。俺はその3回で、初めて人を想うということを知りました。俺が想えるのは凪さんだけ、あなたのことが好きです。今日は……俺が本気だってことを言いにきました。また、来月来ます」
 そう言って静かに頭を下げると、千紘は音を立てないように下がり、七穂が待っている玄関口の小部屋へ向かった。
「……ちゃんと言えた?」
「ええ。言葉はもらえませんでしたけど、とりあえず俺がこの島に通う目的は伝えたつもりです」
 緊張しました、と苦笑する千紘へ、七穂は一瞬躊躇った後、
「強いわね」
 と呟く。
「強いっていうのかな。腹は括りましたけど……俺から見れば七穂さんの方がよっぽど強いと思いますけど」
「見掛け倒しよ。私は、……」
 と言いかけて止め、七穂は真っ直ぐに千紘を見て言った。
「……出来る限りの協力はする。私も腹括ったわ」



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「お前、もう来るな」
 千紘がやっと襖越しに凪に声をかけてもらったのは月1で通い始めてから9か月後のことだった。
「……こんな毎月来るなんておかしいと思って七穂に吐かせた。休職してるって何でもっと早く言わなかったんだ」
「言ったら凪さん、来るなって言うでしょう」
 と言いながら千紘は、久しぶりに聞く凪の声にああ、この人は今生きている人間なんだと改めて思う。
「言うに決まってる」
 呆れたように呟いた凪の声が少し強くなる。
「千紘、俺は還俗はしない。どんなに説得に来ても無駄だから、早く復職して普通に生活しろ」
「凪さんが還俗して俺のとこに来てくれたら復職して普通に生活します」
「……本当に諦めが悪いな」
 とため息を吐く凪に千紘は笑った。
「初めてですね、こんなに人間関係で諦めが悪いのって。案外しつこい人間だったんだなって自分でも呆れてます」
「どうしたら諦めてくれるんだ」
 半ば独り言のように、凪が再びため息を吐く。
「……分かった。年に一回とか何かの……今は何て言うんだ、イベントっていうのか、そういう感覚でこの島に来てもらってもいい。だから復職して、……普通に結婚でもして平和に過ごせ」
「父が凪さんを諦めて結婚した結果がどうなったか知ってますよね」
 我ながら残酷なことを言っている自覚が千紘にはあった。だが、言える時に言わないと伝わらない、という直感に従った。
「全て不幸だったとは思いません。でも心に穴が開いた状態は子供である俺でも塞げなかった。俺がこの島に来たのも、父の縁です。……父は、どうしても凪さんを人間に戻したかった」
「仮に正臣がそうだったとしても、お前がその意思を継がなきゃいけない義理はない」
「縁は父ですけど、今、還俗して欲しいと思っているのは俺です。俺の意思です」
「お前、自分が何を言ってるのか分かってんのか」
 今まで聞いたことのない本気の怒りを含んだ声が言う。
「還俗ってのは、還俗させた人間の一生を奪うんだ。生身の人間に戻ったら普通の人間と同じように衣食住が必要になる。戸籍だってない、制限だらけの御柱様の為に自由を奪われて死ぬまで養わないといけない。男のままで人間になるから、同性のお前との間に子供も出来ない。自分のしたいことが出来なくなるっていう犠牲を払わせるなんて、そんなのは、」
 と声を詰まらせ、凪はしばらく沈黙した後絞り出すように、絶対に嫌だ、と呟いた。
 ああ、やっぱりこれだ、と千紘は思う。これが凪が“還俗を認めない理由”、予測はしていても直接彼の口から聞くと切なかった。凪の本質は優しさだ。人を思いやれる心がある。生まれつきなのか、神饌として御柱様に成った時の諦念からそうなったのかはどちらでもいい、千紘が凪に惹かれる理由だった。もちろんこれまでの人生の中で縁があった友達や恋人は優しい人が多かった。だが、誰かを失っても深い意味で悲しむことの出来なかった千紘にそれを感じさせることが出来たのは凪だけである。
「凪さんが還俗したくない理由はそれですか」
「……そうだ。言ったろ、俺の問題だって」
「その問題、俺には枷にならないんです。父のように感性に従って自由に海外に行く仕事をしているわけじゃないですし、凪さんを養えるだけの収入も資産もあります。子供はどうしても欲しいタイプではないです。色々な事情で無国籍の人は凪さん以外にもいるんですよ。そういう人たちが日常生活送るための支援団体もちゃんと調べましたし、自治体によっては国籍は難しくても健康保険証や住民票を発行するところもあります」
 現実的に淡々と説明していく。追い詰める気はないけれど、外堀は徹底的に埋めるつもりだった。だが、決定権が自分にないことも千紘は良く分かっていた。
「千紘、もういい」
 と凪が疲れたように言う。
「……お前が優しいのは知ってる。お前自身はそう思ってないようだけどな。でもお前なりの優しさがあるんだ。それはきっと正臣だけじゃなくて、母親からも受け継いでるんだろう。その大切なものを……俺以外に使え。俺より良い縁なんて外の世界にはいくらでもあるだろう」
 良い縁などいらない、と千紘は思う。
「俺が欲しいのは凪さんとの縁です。……俺言いましたよね、凪さんが好きだって。先に言っておきますけど、婚約破棄された翌日に出社するような人間は誰かのために休職なんかしませんよ。それだけ本気で言ってます」
 凪からの返事は返ってこない。今までであれば、今日はこれだけ話してくれたのだから出直そうと思うのだが、千紘は何故かそこから動かなかった。今、離れてはいけないという奇妙な感覚だった。そして巫女の禁を破ってまで七穂が教えてくれた情報を元に、賭けに出る覚悟を決める。
「……凪さん、俺が迷惑ですか」
「迷惑だ」
 これには即答された。
「分かりました。じゃあ、俺が嫌いですか」

 御柱様は嘘をつけない。だからぎりぎりではあるがクローズドクエスチョンを投げた。

 案の定、凪は押し黙る。自惚れなのかもしれないが千紘は凪に嫌われていないと感じていた。外見的には父の生き写しであるおかげで障壁になり得る性別や見た目はクリアされているはずで、後は自分自身の中身だ。自分としては最も問題のあるところだけれど、凪が“優しい”と言ってくれるのであれば、少なくとも毛嫌いはされていない。
「嫌いって言われれば、……方法は全く思いつきませんけど、諦めます。答えてもらえなければ一生通います」
 我ながらこれは最早脅しだと思う。このやり方は本当に凪に嫌われる可能性がある諸刃の刃だ。それでも千紘は、自分にはこの手札しかないことが痛いほど分かっていた。今までの自分ならこんなリスクは取らない。取る必要もなかったからだが、仮にそういう場面にあったとしても取らないであろう。しかし今回は違う、それだけ千紘は必死だった。
 どれだけ沈黙の時間が流れただろうか、いっそ時間が凍ってしまってこのまま凪の傍にいられたらいいのにと千紘がぼんやり考えた時、か細い声が聞こえた。
「辛いんだ。……さすがに、俺でも」
「……凪さん?」
「……40年前、死ねないのに死にたいと思った。それでも、……自分の選択は間違ってなかった、そう思ってたのに、……繰り返したくない……」
 今まで聞いたことのない声、自分が追い詰めたせいで凪の心が壊れる一歩手前なのではないかと思った瞬間、千紘の体が動いていた。
 七穂から絶対に触れてはいけないと言われていた結界が張ってある襖に手をかける、激痛が走ったのも何かが焦げる匂いがしたのも構わずにそのまま開くと、まだ神事が終わったばかりだというのに髪がほとんど白くなった凪が、血の気の無い頬に涙を零したまま唖然としたようにこちらを見つめる。
「お前、腕……っ、結界に手を突っ込むなんて、」
 とっさに伸ばされた白い指を掴もうとして、千紘は右手が動かないことに気が付いた。何故動かないかはどうでもよく、左手で指を掴む。
「すみません、凪さん、辛い思いさせてごめんなさい」
「分かってる、千紘、腕を、」
「……でも俺、これで還俗失敗したら、もう凪さんに会えないですよね。それだけは、嫌で…」
 やっと凪に会えたのに、何故こんなに頭が回らないんだろう。さっきまで激痛だった右腕の痛みが消えていくのと意識が遠のくような感覚の中、絶対に伝えたいことだけは言わなければ、と千紘はぼんやり思う。
「お願いです。凪さん、傍にいて下さい……」
 他にもある、と思いながらも落下するように意識が落ちていく。凪が自分の名前を呼ぶ声が微かに聞こえたのが千紘の意識の最後だった。



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 まるでドラマで見るような天井が見える。周囲においてある医療機器の音、ここが病室であることは分かった。ベッド周りにカーテンはなく、個室のようだ。右腕は肩から包帯が巻かれ、ギプスで固定されている。鎮痛剤が効いているのか、痛みは我慢できる程度に抑えられてはいるけれど、軽傷ではないことは素人目にも見て取れた。
 ドアが開いて入って来た看護師は、千紘を見て驚くでもなく微笑した。
「良かった、目が覚めましたね」
 その声と顔に千紘は見覚えがあった。
「……あの、七穂さんの……?」
「はい。一度お目にかかってますね。ご気分はどうですか?」
「……右腕が痛い以外は大丈夫なんですが、ここは……?」
 まだ思考が上手く働かない。身動きすると眩暈が襲ってくる。
「先生を呼んできます」
 それだけ言うと藍は静かに出て行った。2~3分後、藍ともう一人別の看護師を従えて直ぐに表れた医師のIDプレートに神子の名前があるのが見え、恐らくここは神子一族が経営しているか、それに準ずる病院なのだろうと千紘はぼんやり考える。
「全治2~3か月ですね」
 診察を終えて医師は千紘に告げた。
「ちゃんと治療を受ければ治ります。火傷痕は多少残るでしょうが、腕も元通り動かせますよ」
 と言ってから医師は小さく笑った。
「……本当は右腕は切断するところだったんですけどね。炭化してましたから。神経まで焼け落ちてましたので、途中から痛みは無かったでしょう。それなのに目の前で熱傷Ⅱ度にまで回復した時は僕もびっくりしましたよ。神子の人間ですけど、実際に御柱様の奇跡を見たのは初めてです」
 その言葉に千紘は思わず体を起こしそうになり、痛みで呻く。
「先生、……御柱様は、凪さんはどうなったんですか」
 眩暈が酷く、目を開けていられない。神子の人間とはいえ、この医師がどこまで状況を把握しているかは分からない、それでも何かに縋るように千紘は訊かずにいられなかった。
「それは、ご本人から直接聞いて下さい」
 言われた意味が分からず混乱し、そっと目を開けた千紘の視界の端に、藍とは別の看護師だと思っていた人物が映り、ため息を吐いてつっけんどんに言った。
「……御柱様は無国籍で無職の推定18歳にさせられた。七穂は後処理で多分一週間くらい寝てない。藍もずっとお前に付き添ってる。お前は起きられるようになったら、まず藍に土下座しろ」
 左手に触れる白い指が見る間にぼやける、ぎゅっと握りしめるとそれはちゃんと血の通った人間のものだった。
 長かった髪を切った凪は、着ている白いシャツのせいか、本当に高校生のように見えた。そして相変わらず、非常に美しかった。



「感謝と殺意が湧いてる」
 病室に現れて開口一番言い放った七穂に、千紘は苦笑する。目の下に深い隈を作った七穂を見れば、殺意を持たれても仕方ないのかもしれない。
「400年ぶりの還俗がまさかのイレギュラーとは思わないじゃない。いや、おめでたいのよ?私も巫女じゃなくなるし、有難いんだけど……正当な手続き踏んで欲しかったなあ」
 病室のソファにピンヒールのまま寝転んだ七穂は、いや、贅沢な悩みか、と自分に言い聞かせるようにぶつぶつ言う。
「あの、……状況何も分かってませんけど、すみません」
 とりあえず謝ったところでコンビニのビニール袋を提げた凪が入って来た。
「飲み物買ってきたぞ」
 と相変わらずぶっきらぼうに言い、七穂の腹の上に置く。
「ごふっ、何で机に置かないのよ!」
「お前がみっともない恰好してるからだ。藍が泣くぞ」
 傍から見ると少し歳の離れた姉弟に見えるこの二人が、つい先日までは神への生贄である御柱様と、それに使える巫女だったとは誰も思うまい。神子一族が経営している病院の特別病棟、つまり神子の中でも神職を知る上層部しか入れない場所に千紘はいる。通常の病院なら大物政治家や芸能人でないと入れないような造りの個室に、差額ベッド代が払えるだろうかとぼんやり考えている千紘をじっと見て、凪が小さく笑った。
「……本当に生身に戻ったんだな。考えてることが分からない」
「思念での通信も出来なくなったしね」
 と七穂もしみじみ言う。言語、生活習慣、価値観等は代々の巫女によってブラッシュアップしていたらしいが、実際に島の外に出て生活となると慣れるのには相当な実地訓練が必要になる。凪は今、七穂の家でスパルタ式に訓練を受けているらしい。
「ちなみに差額ベッド代と治療費は神子持ちだから気にしないでね。多分宮谷さんが考えてたのそれでしょ」
 と七穂が現実的なことを言う。
「……正解です」
「あー、なんたって還俗成功させた人だから大切にしなくちゃ。これであとは正式に、」
 と言いかけたところで凪が七穂の顔へクッションを押し付ける。
「……今は言わなくていい」
「何でよ、ちゃんと知っておいた方がいいでしょう。踏まなきゃいけない手順なんだから」
「こいつの腕が治ったら俺が言う」
 と低い声で言う凪の耳が真っ赤なのを見て、千紘は何となく察した。
「ちなみに凪さんって御柱様に成った時っていくつだったんですか」
「……数え年で17よ」
「じゃあ、16歳ですね」
「そう、色々面倒だから18歳にした。まあ、本当は400歳超えてるし、……16歳ってメンタルに来ない?」
「ああ、やっぱりそういうことですよね。理解しました」
 仕事の話でもするかのような千紘と七穂を見て、凪は眉間に皺を寄せる。
「……何を理解してるんだ」
 と不機嫌そうな凪に、七穂は笑う。
「思考が読めなくなったんだから、そういうのを鍛錬していかないといけないのよ」



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 本来なら通院でいいはずなのだが、火傷をした理由が理由なだけに万が一を考え、千紘は結局腕が完治するまで入院させられた。退院してからは復職の手続き、凪を迎えるための住居の整理などで相当忙しく、ようやく準備が整ったのはそれから約一か月後のことだった。
 七穂に付き添われて小さなキャリーケース一つでやってきた凪は、少し改まった表情で頭を下げた。
「……よろしく」
 言葉は短いが凪にしては丁寧な言い方で、緊張が伝わってくる。
「こちらこそよろしくお願いします。お二人共、暑いので上がって下さい」
 二人をリビングに通して七穂にはアイスコーヒーを、凪にはリンゴジュースを出す。
「良い部屋ね、何か宮谷さんっぽい。機能的で清潔」
「ありがとうございます。神子家と比べたら凪さんには窮屈で申し訳ないんですけど」
「……いや、落ち着く」
 リンゴジュースを一口飲んで凪が呟いた。
「ここ、元々は俺の実家なんです。父が亡くなってから戻ってきて住んでました。本当は……売却して別の場所に移ろうかと思ってたんですけど、凪さんと一緒に住むならここの方が良いかなと思いまして」
「環境もいいもんね。治安もいいしアクセスも便利だし」
 と七穂が頷く。
「もう築年数はそれなりに経ってるんですけど結構しっかりしたマンションなんです。分譲なんでリフォームも出来ますし。今回は業者にクリーニング頼んだくらいで弄ってはいないんですけど」
「このリビング、日当たりいいから気持ちいいわね。ベランダの窓、開けてみてもいい?」
 とまるで自分が内見に来たかのような七穂に千紘は笑う。
「どうぞ、……凪さんもベランダ見てきてください」
 冷房の効いた部屋に暑い空気が吹き込んで来る、だがそれも、
「あ、広い!これはいいわ、外観からじゃ分からなかった」
「目の前が公園なんだな」
 とちょっと楽しいことを見つけたように話す二人を見ていると、気にならない。ああ、穏やかな幸せだなと千紘は思う。
 一通り家を案内してリビングに戻った時、七穂が書類を取り出し、千紘の前に押しやった。
「凪の戸籍よ」
 無国籍の凪を生活させるために色々調べていた千紘は驚いた。
「え、どうやって……」
「16歳の時に私が未婚で産んだってことになってる。恋人に居場所を知られるのが怖くて出生届を出せませんでした、と」
 あっさり言う七穂に千紘は開いた口が塞がらない。
「いや、……いやいや設定も何もかも無理があるでしょう!神子家のお嬢様ですよ?!16でDVって何それ!高校の時のお友達もいるだろうし、そんな、え、……そもそもその方法は出生時の医師の、」
 と言いかけて千紘は口を噤む。
「一応ね、上級国民やらせてもらってるんでね……学校も巫女だったからあまり行ってないし、周囲も神子の人間で固めてたからね……」
 とにやりと笑う七穂に、一か月前までいた病室が目に浮かんだ。恐らく千紘が考えるよりも広いコネクションと権力がある、それが神子一族なのだと改めて思い知る。
「このとんでもないのが俺の母親になった」
 うんざりしたようにため息を吐いた凪にお母さまと呼びなさいと言い捨てた七穂は、急に真面目な顔をして千紘を見た。
「……神子の贖罪はあなたが御柱様を還俗させたことで終わりました。感謝しています。ただ、神子一族が出来るのはここまでです。神子凪という人間、あなたと血縁でも何でもない人間と一生添い遂げてもらうんです。ここからはあなたの命と人生が対価になります。覚悟は出来ていますか?」
「もちろんです」
 即答した千紘を見つめていた凪はふいと目を逸らし、本当に馬鹿だと小さく呟いた。
「で、後は正式な手順踏んでくれればいいから。まあ、宮谷さんなら問題ないでしょ。凪をよろしく」
 後でまた連絡するね、と立ち上がった七穂をゲスト用の駐車場まで送り届けてから戻った千紘は、さっきと同じ姿勢で微動だにしない凪を見た。
「凪さん?」
「……千紘、あのな、七穂の言ってた正式な手順って奴について話がある」
「はい」
 大人しく横に座って待つが、凪はやはり固まったままだった。いや、察してるから大丈夫ですと声をかけた方が良いのか迷うこと5分、凪は決死の覚悟という様子で、
「お前、俺と寝れるか?」
 と小声で呟いた。
「はい」
 とさっきと同じように即答すると、凪は唖然とした顔をする。
「……俺の言ってる意味分かるか?」
「はい。俺は凪さん抱けます」
「抱っ、……」
「勉強しましたしシュミレーションもしました。男性は凪さんが初めてになるので至らないことが多々あるとは思いますがよろしくお願いします」
 七穂さんが18歳の設定にしたのってそこら辺だと思うんですよね、と淡々と付け加えると凪は力なくため息をついた。
「……何でそこまで出来るんだ。お前、女としか寝たことないだろう」
「そうですけど、好きな人には性欲出るんで」
「あと、何で俺が抱かれる前提なんだ」
「すみません、その仮説以外を一ミリも考えてませんでした。そこは申し訳ないですが、崩せないです」
 真顔で言う千紘に凪は再びため息を吐いて、それでも自分に言い聞かすように言う。
「……まあ、いいのか。還俗させた奴なんだから。良くない気もするが、まあ、うん」
「あの、一つ聞いても良いですか。……俺、あの時気絶してたんで、どうやって還俗されたんだか知らないんです。ほとんど脅迫してた記憶しかなくて、何で凪さんが許可してくれたのか……」
「脅迫してた自覚はあるんだな」
 と苦笑した凪は、温くなったリンゴジュースを一口飲んだ。
「“御柱様”はな、所謂霊能力みたいなものを持ってはいるが、使えるのは神事に関することに限られる。簡単な思考を読むくらいは出来るけれど生身の人間に使える能力はほとんどない。お前が池に引きずり込まれた時も、霊異に対する力を使っただけだ。ただ、還俗する時に一つだけ願いが叶うんだ。それは自分に使ってもいいし、誰か他の人間に対して使うことも出来る。あの時はとにかく結界で焼け焦げたお前の腕を治すことしか考えてなかった。還俗?ああ、するする、だから治療させてくれ、みたいな」
 と言い、凪は指先で千紘の右手に触れた。
「……治って良かった」
「ありがとうございます」
 そのまま抱きしめた凪の体はきちんと人の温もりがあって、そして想像以上に華奢で。
「ちゃんと責任持って守ります。凪さん、俺のところに来てくれて本当にありがとう」
「……もの好きだな」
 と呟く凪の声が僅かに震える、千紘はようやく自分から欠落していたものが埋まった気がした。心からの幸せとは用意された鋳型を追いかけることではなく、自分で感じるものなのだと。



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『で、やった?』
 2週間後、21時頃にビデオ通話が来た七穂の第一声はそれだった。
「お前、本当に下衆過ぎて引く」
 汚いものを見るような目になった凪に怯むことなく、
『だってやんなきゃ正式に還俗完了しないじゃない。まあ、やったわよね、おめでとう』
 と七穂は凪の横にいる千紘に親指を立てて祝福する。
「ありがとうございます」
「お前も礼とか言わなくていい」
 振り向いた凪の白い肌が僅かに赤いのを見て、千紘はにっこりした。
「頑張りましたよね」
「だから、……何でお前らはそうなんだ」
 うんざりしたような凪に、七穂は急に真面目な調子で言った。
『実は今、船の中なの。明日満月だから島に戻る。麻さんの様子も見てきたいし……異変の情報も入ってきてないから大丈夫だと思うけど、正式に完了の神託だけ受けてくる。巫女の最後の仕事。万が一にも次の“御柱様”が生まれてないかを確認したい』
「……そうだな。俺が400年償ったんだ、勘弁してもらいたい。あれをまた誰かにやらせるのは辛すぎる」
 電波状況が悪くなってきたらしい、また連絡する、と通話が終了する、凪はしばらくじっと何かを考えていたが、つと立ってベランダに出ると、少しだけ欠けている月を見上げた。
「凪さん?」
「不思議なもんだな。……数週間前までは数えきれないくらいの満月の下で、朽ちるまでこのままだと諦めてたんだ。何の選択肢も持っていなかったはずなのに、……今はあの島に戻りたくない」
「戻しません。絶対に」
 と強く言う千紘に、凪は真顔で正臣のおかげだな、と呟く。複雑なのが顔に出ていたらしい、凪は小さく笑って千紘の胸を軽く叩いた。
「あいつのおかげでお前に出会ったんだ。感謝するだろうが」
「いや、もちろんそうなんですけど……、うん、分かってるんですけどね」
「父親に妬くなよ?」
「……妬いてませんよ」
 言い返しながらも声が不貞腐れているなと我ながら呆れた千紘の横を通り越して部屋に入り、振り向きもしないで言う。
「来い千紘、お前にしかしないことしてやる」
 それが癖の愛想のないつっけんどんな言い方、それでも今の千紘にはそこに照れが含まれているのははっきり分かる。

 父が遺した不思議な縁と、不思議な美しい人。

 還俗の対価は一人の人間の一生の時間だが、千紘は喜んで払おうと思う。何があってもこの人の手を離すつもりはない。追いついて抱きしめた凪の体温が、千紘の心に広がっていく。還俗して人間に戻ったのは凪ではなくて自分なのかもしれない、と千紘は頭の片隅で考えた。
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