風哭島奇譚

凡吉

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風哭島奇譚(中)

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 早朝に浅い眠りから目が覚めた千紘は、静かな雨の音に気付いてカーテンを引いた。自分の中に溜まっている未消化な感情がこの雨で洗い流されればいいと思いながら、小さくため息をつく。
 眠気はすっかり飛んでおり、部屋の電気を付けて携帯を取り出す、日頃は誰かしらから届いているメッセージの類も全くないのは、それだけ周囲の人間に気を使わせている証拠だと千紘は思う。

 本当は新婚旅行のために取得した休暇だった。

 2年間付き合った同い年の彼女との結婚が決まった時、同僚や友人は皆一様に祝福してくれた。お似合いのカップルだと言うのが周囲の総評で、自分でも彼女を幸せにしたいと思っていたし、またそうする努力は怠らないつもりだった。未来に不足も不安もなかった。
 だから結婚の直前で彼女から婚約の解消と別れを切り出された時、何が原因でそうなってしまったのか理解出来なかった。何が至らなかったのか教えて欲しいと頼んでも、彼女は至らないところなんてない、と寂しそうに笑うだけだった――。


 ぼんやりしているうちに雨は小降りになり、外が白みかけてくる。明日は東渡良瀬島から船に乗るために早く出発しなければならないから、実質今日が滞在の最終日になる。七穂に世話になった挨拶にいかなければと思いながら、千紘は凪にもう一度会えるだろうかとも考える。会えたところで父のことを聞けるわけでもないけれど、自分でもはっきりしないこの島に来た理由が彼の中にあるような気がしてならない。
 短期間で随分と非科学的なことを考えるようになったものだと苦笑して身支度をする、階下に下りる頃には雨は止んで、薄日が差し込んできていた。



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 七穂から教えてもらった連絡先に挨拶に行くとメッセージを送ると、直ぐに折り返し返信が来て、時間は何時でも構わないという。
 ただ、さすがに今から直接行っては早過ぎてしまい、千紘はふとあの社にもう一度行ってみようと思い立った。恐らくこの島に戻ってくることはもうないだろうから、最後にきっかけとなった社を見ておきたかったのだ。
 雨で湿った道をゆっくりと歩く、ほんの短期間の滞在だったのに、この島の風景に奇妙な郷愁のようなものを感じる。当初ここに来れば父が遺した言葉の意味が分かるかもしれないと思っていたけれど、実際は想像をはるかに超えた事実に混乱しただけ、それでも不思議と来て良かったのだという感覚がある。そう思えただけでも意味はあったのだと自分に言い聞かせ、千紘は小さな社の前に立った。
 本当に何の変哲もない古い社、だがここには神秘と謎がひっそりと息づいているのだと考えた時、社の裏から風が流れてきた。そういえばこの社の裏からはあの神事の池に繋がる道があるのだと思い出し、千紘は社を回って例の柵の傍へ寄った。一昨日この場所に来た時には不気味なほど静まり返っていたのに、今日は柵の向こう側から弱い風が吹いてきている。突然、千紘の耳に神事の夜に聞いたような高い金属音が響いた。あの時のようにはっきりと澄んだ響きではなく、か細くやや濁って聞こえたけれど、まるで呼ばれているような気がする。
 自分でも気づかないうちに千紘は柵を乗り越えていた。風に誘われるように小道を進む、段々時間の感覚が無くなって夢の中を歩いているような不安定さがあるけれど、自分の意思ではない何かに引き寄せられるように足は止まらなかった。
 急な斜面をどうやって下りたかも分からないまま目の前に現れた池を見つめる、四阿も石の道もあり、神事の池であることに間違いはないが、何となく雰囲気が違う。霊感など全くないけれど、全身へ纏わりつくような重苦しい空気が心地悪く、引き返そうとするのに体は動かなかった。それどころか勝手に池に向かって歩いている自分に気付き、千紘はぞっとする。恐怖はあるのに抗おうとする気力を奪われており、次第に意識も朦朧として、膝まで水に浸かる頃には冷たいという感覚さえ失いかけていた。
 ふいにあの神事の時に聞いたのと同じ音が聞こえる、さっきとは違いクリアな高い音、ざわざわと嘲笑うような微風ではなく強い風が吹きつけてきたと思うと、次の瞬間ぴたりと止んだ。
「何やってんだ、馬鹿!」
 腕を掴んで引っ張られる、反射的に振り返った千紘はようやく自分の体が自分の意思で動くようになったことに気付いた。だが頭はまだぼんやりしており、忽然と現れた凪を見て、やっぱりこれは夢なのではないかと思ったりもする。
「千紘、俺を見ろ」
 手荒く手で顔を挟んで目を覗き込まれる、徐々に感覚も戻ってきて、水に浸かった足が冷たいと感じた瞬間、背中に氷のような冷たさと得体の知れない気持ち悪さが圧し掛かってきた。不可抗力で体がよろけるのを、凪の腕が抱き止める。
「いいか、目を開けて俺だけ見てろ、他のものは見るんじゃない」
 と短く言い、凪は千紘を支えたまま、背筋を伸ばして天を仰いだ。と、水が沸騰したかのように泡立ち始め、意思があるかのようにうねり出す。言われた通り凪を見ていても視界の端に入り込む異様な世界に思わず声が出そうになるのを必死に耐えていると、天を仰いでいた凪が池の中央を見据え、静かな、だが強い声で、
「還れ」
 と言い放った。その声に呼応するかのようにさあっと周囲が明るくなって白銀色の光が降り注ぐ、狂ったようにうねっていた水は光に包まれて落ち着きを取り戻し、やがて光が消えるのと同時に静寂な、元の池に戻った。
 しばらく動かずに池の中央を見据えたままでいた凪は、やがて黙って千紘の腕を掴むと池の畔まで引っ張っていき、水から上がったところでようやく手を離した。
「……俺が分かるか?」
 と聞かれるのへ頷くと、凪は真剣な表情で再び千紘の目を覗き込む。ああ、侵蝕されてはないな、と呟いてほっとしたように傍らの木に凭れかかるのを、千紘はぼんやり見守った。自分に何が起こったのか全く理解出来ていないけれど、凪が来てくれなかったら最悪溺死していたかもしれず、何はさておき礼を言わなければならないのは分かっていても、あることに目を奪われて言葉が出ない。
 束ねていない凪の髪が、半分白くなっていた。根本が白く、毛先が黒いのならまだしも、全く逆に肩の辺りまでは漆黒のまま、そこから下は神事の時のように銀色を帯びた白髪なのである。
 とっさに手が出てその髪に触れる、絹糸のような手触りが心地よく、もう少し触れていたいと思った瞬間我に返る。人生でこんな不躾なことをしたのは初めてで、呆気に取られた凪に向かい、失礼しました、と慌てて手を放す。
「あの、その髪……どうしたんですか」
「ああ、これか」
 と凪は指先で自分の髪をつまんだ。
「俺は満月の後4~5日しか起きていられないんだ。まあ……砂時計みたいなもんだな、根本まで白くなれば次の満月までは半強制的に休眠状態になる」
 と言いながらつまんだ髪を背に放り、凪はじっと千紘を見上げた。
「……話せるようにもなったな。間に合って良かった」
 独り言のように呟くのへ、
「今の……なんだったんでしょうか」
 と恐る恐る聞くと、凪は小さくため息をつく。
「神子以外の生身の人間が俺と関わると、たまにああいうことが起こる。異物とみなして排除しようとするんだ。この島自体が御柱様の檻みたいなもんだからな……俺が島外に出る可能性を僅かでも検知すると盲目的に妨害しようとする。お前は大丈夫かと思ったんだが、……発信器代わりにこれを着けておいて正解だったな」
 千紘の手首にはまっている水晶に指先で触れた瞬間、凪は崩れるように凭れていた木の根元へ座り込んだ。
「凪さん?!」
 慌てて傍へ膝を突いた千紘の目の前で、さっきまで肩までは黒かった凪の髪がみるみる白くなっていく。
「……久しぶりに、働いた……からな。大丈夫、……七穂を呼んだから、そのうち来る」
 と呟くように言い、凪は子供にするように千紘の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「悪かったな、怖い思いさせて。……お前の中にある、正臣の遺伝子に……島が、反応……して、でも、」
 潮が引くように黒髪からすっかり色が消える、がくりと力の抜けた凪の体を反射的に抱えた千紘の耳に、ごく細い声が掠めていった。

 ――お前は、正臣じゃないのに。

 一瞬、喉の奥から胸の中心にかけて灼けた鉄を押し当てられたような感覚がある、理屈で説明できない幾重にも折り重なった感情で息が苦しい。
「宮谷さん、無事?」
 その声に我に返る、石段を下りてくる七穂と、その後ろには神子家の男性が二人続いているのが見えた。
「俺は大丈夫です、でも凪さんが……」
 腕の中の凪は穏やかに眠っているように見えるけれど、これが本当に問題ないことなのか千紘には自信がない。だが、凪を覗き込んだ七穂はほっとしたような様子で肩の力を抜いた。
「ああ、大丈夫よ。休眠期間に入っただけ。久しぶりに神事以外で力を使ったから時期が早まったのね」
 と言いながら後ろの男性に合図をすると、心得たように千紘からそっと凪を受け取り、手早く持参の毛布に包んで抱え上げ、元来た道を引き返していく。
「さ、私達も戻ろう。このままじゃ風邪引くよ。歩ける?」
「はい。……申し訳ありません、こんなことになってしまって」
「いえ、巻き込んでしまったのはこっちよ。とにかく、詳細は家に戻ってからにしましょう」
 七穂に促されて立ち上がる、視界に広がる池はさっきまでの全てが幻だったかのように静まり返り、湧き水の音だけが規則正しく響いていた。



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「恵の服一式があって良かった。背格好同じくらいだもんね」
 それはあの運転手をしてくれた若い青年の名前で、七穂の従兄弟なのだという。水浸しになったズボンや靴下を着替えさせてもらい、食堂で淹れてもらった温かい生姜紅茶を飲み終えた千紘は、やっと人心地がついた。
「凪さんは……?」
「今、離れにいる。元々、神事の後短い期間しか起きていられないっていうのは聞いた?大半は眠ってるの。……今回は急に御柱様の能力フルで使用したから疲れたんだろうね。久しぶりに脳にメッセージ来てびっくりしたもの」
「脳?」
「御柱様と巫女は思念のやり取りが出来るから、デジタルデバイス要らないの。便利でしょ」
 と笑う七穂に千紘はようやく安心する。この様子では本当に凪は問題ないのだろう。力の抜けた千紘を労わるように七穂はその肩を叩いた。
「この島にいる間はオカルトを楽しんで、とは言ったけど、こんなハードなのは要らないわよね」
「ええ、でも、……裏付けが取れたと思います。俺が排除されそうになったのは、父と間違われたからだって凪さんが言ったんです。もし父が御柱様を島の外に連れ出そうとしていなかったら、例え間違われたとしても攻撃はされなかった。……やっぱり、父は凪さんを還俗させようとしたんじゃないでしょうか」
 自分に言い聞かすようにゆっくりと話す千紘をじっと見て、七穂はしばらく何かを考えていたが、やがてそっと口を開いた。
「不躾かもしれないけど。……それで、もしそれが事実だったとして、あなたはその先に何を見るの?」
 その質問が来ることは予期していた、というよりも、何度も自分に問いかけていたことだった。
「そうですね、正直……色々驚くことの方が多くて、何かが見えてるわけじゃないです。でも、きっと……父は真剣に考えた結果、行動したんだと思います」
 真面目で誠実だった父のことだから、そこに関しては疑いようはなかった。衝撃が強くて上手く消化出来ていないけれど、還俗させようと思うくらい凪を愛していたのだろうとぼんやり考えたところで、
「凪に会っていく?」
 と穏やかな七穂の声がした。
「……いいんですか」
「眠ってるだけだけど。……会ってやって」


 七穂に連れられ、敷地の奥にひっそりと佇む不思議な造りの小さな離れに足を踏み入れた時、千紘はまるで時間が止まっているかのような錯覚を覚えた。壁や床、柱の木肌以外は全てが白で統一された静謐な空間の中で、これも真っ白な寝具の中で眠っている凪は呼吸すらしているようには見えない。髪も眉も、睫さえ銀色を帯びた白に変わっており、滑らかな白い肌と同化して、美しくはあるけれども近寄るのが恐ろしいようにも思えてくる。
「これが、御柱様としての本来の凪の姿」
 そっと七穂が呟くのに頷くのが精一杯、本当にさっき自分を助けてくれた人と目の前で眠っている御柱様は同一人物なのだろうか。さっきは間違いなく生身の人間だったけれど、今は白蝋と化してしまったかのようにも見え、頭ではそんなことはないと理解しているのに奇妙な不安がある。
 自分でも何故そんなことをしたかは分からないけれど、枕元に膝を突き、子供にでもするように指先で静かに髪を梳く、仄かな体温を感じ取ってほっとするのと同時に、自分が取った行動にぎょっとする。
「すみません」
 凪の髪に触れるのは本日これで2回目、性懲りもなく、しかも御柱様の守護者である巫女の前で何をしているのだろうと自分に呆れながら謝ると、七穂は真面目な顔のまま、
「生きてるかどうか確かめたくなるでしょう」
 と言う。
「……ええ、あまりに……静かに眠っておられるので」
「次の満月が来ればまた目覚める。儀式が終われば眠る。……ずっとその繰り返し」
 この世が終わるまで、と独り言のように付け足す七穂の言葉に胸が痛んだ。
 輪廻転生という概念があるけれど、普通の人間が生まれ変わり死に変わりしている間にも、凪はずっと同じ体と心と記憶を持って生き続けているということで、それはとても残酷なことのように思える。例えば、巫女である七穂とは良好な関係のように見えるが、いずれ七穂が先に逝くのは決まっており、切れ目なく次の巫女が傅かしずくとはいえ、別離の悲しさや寂しさは蓄積されていくだけなのではないだろうか。それに父のことは――。
 ここまで考えた時、ふいに停滞していた空気が動いた気がする、隣にいた七穂が小さく息を呑んだ。
「……こんな所まで入ってこなくていい」
 凪の目が静かに開いてこちらを見る、驚くのと同時に何と返していいのか分からずすみません、と口ごもるのへ、
「あの後、具合悪くなってないか」
 と続けて訊かれる。
「大丈夫です。……あの、助けて頂いてありがとうございました」
 さっきは言えなかった礼を慌てて言うと、ほっとしたように、
「大丈夫なら、良かった」
 とだけ小さく言い、そのまま目を閉じた。再び眠りについた凪をぼんやり見守っていると七穂の手が腕に触れる、合図に従って無言のまま離れを出て母屋に辿り着いた時、七穂が大きく息を吐いた。
「……びっくりした。まさか凪が起きるなんて」
「今みたいに途中で目が覚めるっていうのは珍しいんですか」
「珍しいっていうか……私が巫女になってからは一回もないし、これまで聞いたこともないわね」
 としばらく千紘の顔を眺めていたが、七穂はふっと小さく笑った。
「きっと、あなたが心配なのね。お父様の足跡を辿りに来たら、とんでもないオカルトに巻き込まれて。おまけにオカルトだけじゃなくて、……色々驚くことが多かったと思うから。大切な人の子供なら尚更、ちゃんと元の世界に返してあげたいって、私でもそう思うもの」
 さらりと言われた言葉に先ほどの、神事の池での記憶が蘇る。お前は正臣じゃない、と呟いた凪の苦しそうな、切ない声が七穂の言葉に重なって、きっと本当に父と凪との間には双方向で想いが通っていたのだと、単なる情報としてではなく実感した。何らかの理由で凪を還俗させることに失敗したものの、もう一度あの人に会いたいと書いた父の、あれは心の叫びだったのだろうと理解するのと同時に、今まで自分が目を背けてきたあることが静かに胸に落ちる。

 確かに自分は父ではない。
 何故なら、そんな風に人を想うことが出来ないからだ。

「……少し、父が羨ましい気がします」
 知らないうちに言葉が零れる、黙ったままこちらを見つめる七穂に慌て、
「あ、ええと、……変な意味じゃないんですけど」
 と自分でも良く分からない言い訳をすると、七穂は真面目な顔のまま、
「この島に来た意味はあった?」
 と聞いた。
「ええ、ありました」
 とだけ答えると、七穂は静かに頷いて、しばらく何かを考えていたが、やがて顔を上げて微笑した。
「もし良かったら、そのブレスレット持ってて。この島に来た記念と、お父様の思い出に」
「え、でも……これ、何か貴重なものじゃないんですか」
「いいの。宮谷さんに持ってて欲しいと思って。……たまに、こういうオカルトな人たちがいたなっていうのを思い出してくれれば嬉しいかな」



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 夜明けの海は想像以上に冷たかった。
 寒いから気を付けて、と家を出る時にさと子が渡してくれたカイロで両手を温めながら、千紘は港から小船に乗り込んだ。ゆっくりと岸を離れる小船に揺られながら振り返る、朝靄の中に浮き上がる風哭島はどこか神秘的だが、この小さな、ほとんど人に知られていない島の奥に眠る生きた神秘には及びもつかないと千紘は思う。
 一枚の写真を見つけたことから始まってこの島に辿り着き、神秘の欠片と父の想いに触れて、今、本来の自分の世界に戻ろうとしている。
 父の遺した言葉に導かれるようにここへ来た時は、別に明確に意図していたわけではないけれど、どこか救いのようなものが見つかるのではないかと漠然と考えていたように今にして思う。が、実際は救いどころか直視出来ていなかった本当の自分、本気で他人を愛せないという性質を認識させられることになった。
 今まで、所謂“恋人”と呼べる関係になった人は何人かいた。その関係がつまらなかったわけではなく、自分ではきちんと恋愛しているつもりだったけれど、最後はいつも相手から別れを切り出されるか、いつの間にか疎遠になって自然消滅するかのどちらかだった。その度に寂しいと思い、次は失敗しないようにと心がけても、いつも結果は同じになる。
 婚約破棄された彼女と付き合うようになった時、今度こそ上手くいくような気がしていた。絵に描いたような”普通の家庭“が築けるのではないか、そう思っていた。実際にそれまで付き合ってきた誰よりも彼女といるのが楽しかったし、満たされた気持ちにもなった。お互い幸せになれると思っていた矢先に彼女が去り、今まで味わったことのない苦しさを味わうことになったけれど、その本当の理由は彼女がいなくなったことではなかった。
 婚約破棄という事実の前でも、恐ろしいほど冷めている自分にぞっとしたのだ。
 寂しいとか苦しいという感情は自分が失ったもの、”人として持たなければならないであろう関係性”に対してであって、その生身の相手にではない。懐かしさの欠片のようなものはあっても、父のように、許されなくてももう一度会いたいと願う心は自分にはなかった。
 元婚約者を含め、付き合ってきた人達は、そういう自分の化け物のような冷たさを本能的に察知していたのかもしれない。


 ふいに、今まで暗かった水面が明るくなる。顔を上げると雲が切れて昇ってきた太陽の光が広がっているのが見えた。その美しさに一瞬見とれ、思わず体を伸ばしたはずみに左手に着けていた水晶のブレスレットが光を受けて柔らかく輝いているのに気付く、説明は付かないけれど、海の底に沈んでいきそうだった心がほんの少しだけ軽くなったような気がした。



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「千紘」
 昼休憩に会社の近くのカフェでぼんやりしていると、突然肩を叩かれた。振り向くと大学の時からの友人で同期でもある松井が立っている。千紘が一番最初に婚約破棄の話を伝えた人間でもあった。
「まっちゃん」
「直接会うの、久しぶりだなあ」
 と言いながら、テイクアウトのコーヒーを片手によいしょ、と隣の椅子に座り込んで、真っ直ぐにこちらを見つめた。
「色々大変だったな。……落ち着いたか?」
 単刀直入に訊いてくるのは寧ろ有難い、と千紘は思う。結婚式の招待状を送った後で破談になったため仕方のないことだが、会社でも結婚が取り止めになった話を知っているものは多く、どこか腫れ物に触るような扱いをされるのが正直、やり辛いのである。
「うん、まあ落ち着いたかな」
「そっか、ならよかった。何かあったら遠慮なく言えよ、俺で良ければ相談乗るから」
 あれこれ問うのでもなく、押し付けるでもなく、シンプルに支えてくれようとするのが松井らしい。あまり自分のことを話すのが得意ではない千紘にとって、実直な、情の深い松井の存在は昔から有難く、数少ない貴重な友人なのだった。
「まっちゃん、いつもありがとう」
「いいよ、そういうの」
 と照れ屋の松井らしい、眉間に縦皺を刻んだが、ふと千紘の手元を見て表情を和らげた。
「これ、水晶?」
「そう。……旅行先で世話になった人からもらって」
「うちは母親が天然石好きだったから、昔からこういうの見てきてるけど、……飛び抜けて綺麗だな。何ていうの、神秘的な感じがする」
 と言ってから、松井は千紘の反応は待たずに慌てて椅子から降りた。
「やべ、時間ないんだった。またな、千紘、今度ちゃんと時間取ろう」
 カフェを出て行く松井を見送って、千紘は手首の水晶に目を落とす。風哭島から戻って以来、ずっとこのブレスレットを身に着けているのだった。涼やかな水晶のきらめきを眺めたり柔らかな冷たさに触れたりするだけで、何とはなしに気持ちが落ち着くのは、あの小船で経験してからずっと続いている。一種の自己暗示のようなものなのだろうとは思いつつも手放せないのは、落ち着くのと同時に不思議と守られているような感覚があるからだ。
 あれから一か月弱、今日は再び満月の日を迎える。
 凪はもう目覚めたのだろうか、と考えながら指先でブレスレットに触れる、ふと、脳裏に風哭島の風景が浮かんできた。記憶にある道を歩き、件の小さな社の前に立った自分を少し上から俯瞰しているような不思議な感覚に捕らわれる。初めてあの社の前に来た時には、その奥に信じられないような世界が息づいていたことなど知らなかった。
 社を眺めながらぼんやりしていると後ろで砂利を踏む音がする、振り返るといつの間にか凪が立っていた。着ている白大島の薄灰へ溶け込みそうな白肌に黒髪が映える、ああ、綺麗だなと思った瞬間、凪が声を立てて笑った。
『お前、分かりやすい』
 と心から可笑しそうに――。

 突然携帯にメッセージが入り、その振動音で現実に引き戻される。途中まで自分の記憶を辿っていたつもりだったけれど、これは自分の記憶ではなくて白昼夢、踏み込んでしまえば父の記憶だったのではないかとすら思う。何故なら実際に凪がこんな風に笑うのを見たことはないからだ。直接見てみたかったと考えたところで、何故そう思ったのか自分でも不思議に思いながら携帯に目を戻すと、入っていたのは七穂からのメッセージだった。
 神事のために風哭島に戻っているらしく、その後の体調を尋ねられた後、
『突然だけど、明日の夜空いてる?』
 と書いてある。一瞬戸惑ったものの、特に予定があるわけではなし、恐る恐る空いていますと返事をしたところ、直ぐに折り返し、
『じゃあ、明日連絡するね!よろしく』
 とだけ能天気なスタンプ付きのメッセージが届いた。呆気に取られながらも休憩時間を過ぎているのに気付いて、千紘は慌てて店を出た。



 翌日、夜に連絡するとは言われたものの、それが何時頃なのかさっぱり分からないまま普通に仕事から家に戻り、千紘は簡単な食事を摂りながらテレビのニュースを眺めていた。これが本来の自分が生きる世界の話だと分かっていながら、あの島から戻って以来、どこか現実味の無い空虚なもののように思えることが多い。
 ふいに携帯にメッセージが入る、七穂から今から連絡してもいいかという確認だった。承諾を送ると、電話ではなくビデオ通話が着信した。
『突然ごめんなさいね、元気だった?』
 ひらひらと手を振る七穂は相変わらず美しく、その背景には神子家の食堂が映っている。
「お久しぶりです」
 と挨拶しながら、この食堂に実際自分がいたことが遠い昔のように感じられた。
『あのね、少し待っててもらえる?……ちょっと、繋がってるから早くこっち来て』
 あからさまに画面の向こうで揉めている気配があって、やがて仏頂面の凪が七穂に引き据えられるように画面に現れた。
『ほら、便利でしょこれ。心配してたんだから、自分でちゃんと確認しなさいよ』
『いちいち煩いんだ、お前は』
 自分そっちのけで繰り広げられるやり取りを眺めながら、凪の髪が黒髪に戻っているのに改めてはっとする、最後に見た真っ白な状態の時は生きているか疑うほどだったけれど、黒髪で肌にも赤みが差しているのを見ると、ちゃんと生きている人間なのだと実感する。
 凪に名前を呼ばれて我に返り、慌てて返事をすると、
『戻ってから何かおかしいことないか?……変なものが見えたりとか、気味の悪い気配があったりとか』
 とつっけんどんに訊かれた。
「いえ、特にはありません」
『ならいい。……もし何かあれば、遠慮なく七穂に言え。必ず対処する』
 と言い、凪はほんの少し安堵したように表情を和らげた。
「すみません、ご心配おかけして」
『……いや、お前はちょっと……何だ、特殊だったから。初めての事例で島の影響がどう出るか、俺も分からないからな』
「ありがとうございます。……あの、また会いに行っていいですか」
 とっさに出た言葉に自分でも驚いたけれど、画面の向こうの凪はさらに呆気に取られた顔をした。
『は?……何しに来るんだ、何もないのは分かっただろ』
「いや、えっと、」
 思わず言いよどむのへ、横から七穂が画面に入り込んで来る。
『あ、来る?いつがいい?どの満月でも死ぬほど暇だから毎回でもいいわよ』
『ちょ、お前何余計なこと、……おい七穂、聞いてんのか』
『送迎は自宅から現地直通、往復で全部うちがやるから、土日絡む満月だったら有給二日くらいで済むかな。今は凪がうるさいから後でスケジュール送るね!』
『七穂、お前ホントに……っ、千紘、こいつに騙されて来なくていいからな!』
 画面の向こうがまるで姉弟喧嘩でもしているかのように賑やかになったかと思うと、突然画像が乱れ、ぷつりと通信が切れた。時間にして5分ほどだったけれど、再び凪と七穂のやり取りを見ることが出来たのが嬉しく、何となくほっとする。不思議な縁でほんの短い期間だけ出会った人達にこういう感情を抱くのはおかしいと自覚しながら、それでも彼らに会いたかった。そういう傾向は自分にはないと思っていたけれど、やはり血のつながった父親と同じように神秘的なものに惹かれる部分があるのかもしれない、と考えていると、七穂からメールが届く。添付されていた資料には年間の神事のスケジュール表が綺麗にまとめられており、”全通も含めて検討して”とまるでライブツアーにでも誘うかのようなコメントが本文に書かれていた。
 そのメールを眺めているうちにふと、千紘は自分が笑っていることに気が付く。そういえば長いことこんな風に笑えていなかったな、と思いながらスケジューラーを開いて仕事の予定を確認する。来月は難しそうだけれど、再来月なら行けるかもしれない、と考えたところでふとあることを思いついて立ち上がった。
 棚から取り出したのは父親が一度だけ出した写真集、今は絶版になって手に入らないものだけれど、これを凪に見せてやれたら、と思う。それがあの島へ再び行く理由にもなる、と考えてから、千紘は苦笑した。別に理由がないといけないわけでもないのに無意識にそれを探すのは昔からの癖、それほど構えなくてもいいはずなのに、とため息をついて、久しぶりに手にした本を開く。
 Hidden place、隠された場所と名付けられたその本に収められている写真は美しいけれども儚げで、どこか現実と非現実の境界のような揺らぎがある。以前はこれが父の求めていた風景の美なのだと漠然と考えていたけれど、今はこれを撮った父の胸の内には風哭島での思い出がずっと残っていたのだろうと感じることが出来る。不思議な懐かしさと共に頁を繰り、最後の写真に小さくキャプションが入っていたのを見つけた。

『隠された場所にある、魂へ』

 ああ、これは凪に向けての父からのメッセージだったのか、と腑に落ちるのと同時に、やはりこの本を凪に届けてやりたいと素直に思う。
 再来月伺いたいので同行させて下さい、と七穂にメールを送ると、待ち構えていたように了承の返信が来て、末尾に
『再来月と言わず、その後のスケジュールも確認しておいて。この件私はぐいぐい行くので引かないでね』
 と書かれており、千紘は思わず声に出して笑った。



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 七穂と共に風哭島の神子邸に到着した千紘は、用意された部屋に荷物を下ろしてほっとした。七穂が言った通り、退勤後の会社の前からこの屋敷に着くまで、全ての移送が神子家所有の車と船舶によってなされたのだけれども、前回とは比べ物にならないレベルの最短ルート、しかも道中何一つ不自由しないようにと最上の設備が整っていた。
 毎月のことだから移動にストレス感じたくない、とこともなげに七穂は言うが、それを実現させるだけの資力とコネクションを持つ神子家に一般人である千紘は呆気に取られるばかりだった。
 荷物を置いたらお茶にしましょう、と言われていた通り食堂に行くと、七穂が側卓で紅茶を淹れている。
「はい、どうぞ。長旅お疲れ様」
「ありがとうございます。……でも丸一日かかっていた前回に比べたらあまりにも短時間で着いたんで、びっくりしてるんですよ」
「電車の乗り継ぎとか港で待機とかないからね。東渡良瀬島経由でもないし、……まあ、それでも15時間以上はかかるから、遠いことには変わりないんだけど」
 と七穂がため息をついたところで、食堂の入り口に例の年配の女性が現れた。
「桐子(とうこ)さん、凪は?」
「お目覚めになりました。ご挨拶なさいますか」
「そうね。……宮谷さんは適当に寛いでて」
 と言うなり、七穂は食堂を出て行った。残された千紘は紅茶のカップを持ったまま、改めてこの美しい食堂を眺める。2か月前は二度と来ることはないと思っていた場所に再び座っているのが不思議だけれど、それよりも奇妙な懐かしさを感じることの方がもっと不思議だった。
 しばらくぼんやりしていると、ふいに軽い足音がして人が入って来る、七穂が戻ってきたのかと思って振り向いた途端、
「来るなって言ったのに、何でまた来たんだ」
 と不機嫌な声を浴びせられる。
「すみません」
 と反射的に謝ってから、千紘は目の前に現れた凪をしげしげと見つめた。身に纏っている正絹の襦袢から覗く肌も肩から背中に零れている髪も全てが透き通るように白く、近寄り難い霊異のもののように思えるけれど、表情と声は間違いなく生身の人間のものであり、それがあの世とこの世の境に生きる凪の存在を表しているように感じられた。
 眉間に縦皺を刻んでいた凪はふと何かに気が付いたように表情を和らげ、千紘の傍へ寄って指先で袖を引く、白魚のような指とはこういうことを言うのだろうなと思った瞬間、
「お前、……ひょっとして七穂に気があるのか」
 と真顔で尋ねられ、千紘はぽかんとした。それをどう受け取ったのか、凪は気の毒そうな顔になり、
「あのな、残念だが……、あいつは恋人いるぞ」
 と言い難そうに言う。そうでしょうね、という感想しか出てこないが、それを言うのはおかしな気もして返答に困っている千紘を慰めるように、
「見た目は綺麗だけどな、中身はだいぶ難があるぞ。気は強いし、何かの選手権に出られるほど食うから食費も馬鹿にならないだろうし、ドーベルマンと戦って勝つし、何もしていないのに猫に威嚇されるし、よく分からんゲームに重課金してるし、酒が入ると息をするように下ネタ言うし、それに、」
 と続ける凪を、途中からはらはらして見守っていた千紘の目の前で、後ろから忍び寄ってきた七穂は仔猫にでもするように首根っこを掴んだ。
「……離れにいないから心配して探してみたら、何してるの」
「……いや、別に……」
「下ネタは良いけど、課金についてはお客様に話すことじゃないよね?ていうか別に重課金じゃないからね?」
「月に2桁使ってるのは十分重課金だろ。ダメな大人の典型例以外の何物でもない」
 神子家の秘匿の優先順位がさっぱり分からない千紘は、姉弟喧嘩にしか見えない御柱様と巫女のやりとりをしばらく黙って見ていたが、そのうち思わず笑ってしまった。
「すみません、あの……、本当に仲良いんですね。つい微笑ましくて」
 言葉を選びながら言い訳すると、七穂は肩を竦めた。
「一緒にいる時間が長いからね、楽しい方がいいじゃない。……ていうか、何で私の課金話になったの?」
「いや、こいつがお前の見た目に騙されてるんじゃないかと思ってな。面白半分に伽にされてたら気の毒だろ」
 と凪は無遠慮に千紘を指差して言う。
「失礼ね、そんなことしないわよ。まあ、綺麗なのは認めるけど」
 とあっさり頷く七穂に、凪はため息をついた。
「まあ、神子の女だからな。それに……公平に言えば歴代巫女の中でも、七穂は群を抜いて綺麗だ。巫女になったばかりのこいつに初めて会った時に、よくもこんな綺麗なのが生まれたもんだと感心した」
「でも、凪さんも綺麗ですよね」
 と言ってしまってから、千紘は後悔した。普段の自分なら言うべき内容もタイミングも精査して発言するはずなのに、何故思ったことをそのまま口にしてしまったのか。男性で、それ以上に御柱様である凪にこういうことを言うのは失礼だったのかもしれない、と繕う言葉も見つからないでいるのへ、呆気に取られた顔をしていた凪は、ふと小さく笑った。
「お前、……本当に正臣に似てるな。あいつもそんな馬鹿みたいなこと言ってた」
 と懐かしそうに言うのにはどこか寂しさが混ざっていて、胸が痛くなる。やはり凪と父との間には通じた想いがあったのに、何故凪は還俗出来なかったのだろうかとそんな思いが過ぎった時、凪は七穂に向かって、
「……戻る。どうせこいつ神事に来るんだろ」
 とつっけんどんに言い、そのままするりと部屋を出ていった。それを見送った七穂は苦笑して千紘を見る。
「ごめんなさいね、ぶっきらぼうなのは凪の癖だから」
「いえ、……それよりお邪魔してしまったのがご迷惑になっていなければいいんですけど」
「迷惑なんてないわよ、ああ見えて嬉しいのよ、あなたのこと気に入ってるの。そうじゃなきゃ、神事の前にあんなに動かないから」
 と言ってから、七穂は急に真顔になった。
「あ、でも、課金の件はとりあえず記憶から消してね」



 神事に参加するのは二度目のはずなのに、その不思議と美しさに千紘はやはり圧倒されていた。
 現代社会の常識と方程式から外れた奇跡を目の当たりにすると、夢でも見ているかのような気がするけれど、戻ってきた御柱様と巫女がこちらに近づくにつれ、凪と七穂という名前を持ったひとりの人間として認識されるのも面白いものだと千紘は思う。
 ぼんやり二人を眺めていると、突然凪も七穂も鋭い表情で同じ方向を見た。何事かと千紘もその方向へ目を遣ると、ざわざわと人の話し声が聞こえ、提灯を下げた桐子が暗がりから出てきて二人の前に身を屈め、小声で何か囁く。
 慌ただしく歩き出した三人の後を追った千紘は、石階段の下に人が倒れているのを見た。驚いたことに、それはさと子の家にいたあの老婆だったのである。さと子曰く認知症で足取りも覚束なかった彼女が、大月の家からここまで街灯もない長い道のりをどうやって辿り着いたのか、唖然とした千紘の耳に七穂が小さくため息を吐いたのが聞こえた。
「半巫女の業か」
 と微かに呟いた七穂は老婆の傍らに控えていた男性に向かって頷くと、彼はそっと老婆の体を抱え上げる、と、凪がつと彼らの方に歩み寄った。
「麻」
 と静かに呼ぶと、老婆の目が薄く開いて凪を見た。
「……御柱様、忌人に近づけば……禍が、」
「大丈夫だ、忌人なんかいない。……もう40年前に終わったことだ。絹きぬもお前も良く頑張ったな、何も心配することはない」
 と優しく言い、凪は子供にするように老婆の頭を撫でる。安心したように目を閉じた老婆は、そのまま男性に抱えられて運び去られていった。それを見送った凪は七穂や千紘の方を一顧だにせず、無言でその横を通り過ぎ、桐子が慌ててその後を追った。
「宮谷さん、あの方を知ってるでしょう」
 そっと七穂に尋ねられて千紘は我に返る。
「ええ、……さと子さんの家の方ですよね」
「そう。元は神子家の生まれで、大月家に嫁いだ人なの。大月麻さん」
 と言い、ゆっくり歩き出した七穂の横顔が憂いを含んでいるのが月明かりで見て取れた。
「麻さんはね、双子だったの。彼女のお姉さんが私の二代前の神子の巫女、絹さんよ」
 二代前と聞いて千紘はあっと思った。父を助けたのは七穂の二代前の巫女だと凪が言っていたのを思い出したのである。
「巫女が双子として生まれた場合、何故か体が弱いことが多くてね。その代わり、巫女でない方の姉妹が半巫女としてサポートの役割を持つの。麻さんもこの島に残るために大月家に嫁いで、陰でずっと絹さんを支えてきた。絹さんの次の巫女もあまり丈夫な質ではなくて、絹さんが亡くなった後も麻さんが何かとサポートを続けてきたの。私が巫女になってからはようやく普通の人として生活出来るようになってたと思うんだけど……任に就くわけではないから解かれることもない半巫女の業ね、御柱様に少しでも異変が起これば感応してしまう」
 異変、という言葉に千紘はどきりとする。前回、この池で溺死しそうになったのと同じ理由に紐づいていることは間違いないように思えるからだ。自分はこの島に来てはいけなかったのではないかという不安が頭を掠めた時、まるでそれを読み取ったかのように七穂が首を横に振った。
「いくら似ていても、あなたとお父様は別の人だから」
 そう言って満月を仰いだ七穂の横顔は妖しく美しく、ただ、これまで見せたことのない怒りのようなものを含んでいた。
「……一体、いつまで続くのかな」
 独り言というよりは見えない何かへ感情をぶつけるような言い方、声もかけられずに棒立ちになっている千紘に向かって、表情を解いた七穂は悲しそうな笑顔を見せた。
「どんな時でもお腹は空くよね。帰りましょう」



------------------------------------------



 長旅の疲れで直ぐに眠れると思っていたのに、千紘はなかなか寝付けなかった。やはり神事での出来事がずっと心に引っかかっている。
 最後に見た凪の表情はまるで氷のようだった。神事の前、七穂と言い合いをしていた時の彼は楽しそうにさえ見えたことを考えると胸が痛む。七穂の言う通り父と自分は別人だけれども、やはり自分がこの島に来たことで結果的に凪にああいう表情をさせることになったのだと、それは動かせない事実なのだった。
 ため息をついて寝返りを打った時、何となく喉の渇きを覚えて千紘は起き上がる。食堂にある飲み物はいつでも勝手に利用してね、と七穂に言われていた通り、スウェットの上に部屋においてあった丹前を引っ掛け、そっと部屋を出た。食堂に設置してあるウォーターサーバーからコップに水を注ぎ、中庭に面した窓から外を眺める、冴えた満月の光は点在している常夜灯よりも明るく、庭全体が見渡せた。
 ふと視界の端に何か動くものを捉える、こんな夜中に何だろうと目を凝らした千紘は、次の瞬間何も考えずに勝手口のドアを開けて庭に下りた。
「凪さん!」
 真冬の凍てつくような寒さの中、やはり薄い襦袢姿の凪は、驚いたようにこちらを向いた。
「……夜中に何やってんだお前は。風邪引くぞ」
「いや、凪さんこそめちゃくちゃ薄着じゃないですか」
 とっさに丹前を脱いで凪を包むと、凪は呆れたような顔をする。
「あのな、俺は風邪引かないぞ?……つか、どうやったって死ねないのに風邪なんか引くわけないだろ」
「それにしたって、寒くはないんですか?」
 言いながら千紘は身震いした。雪でも降りそうな寒さに、スウェット一枚に素足に適当に突っかけたサンダルだけではさすがに厳しい。
「何となく寒いのは分かるんだが……、今は生身の時ほどきちんと感じられない」
 と呟いて、凪は千紘を見て苦笑した。
「ほら、さっさと戻れ。お前は風邪やら肺炎やらで下手したら死ぬんだからな」
「いやでも、凪さんは?」
「俺はまだ散歩中……」
 と言いかけた凪は、急に屋敷の後ろに続く森の方を振り向いた。その時、濁ったような不快な金属音が微かに聞こえ、千紘はぎょっとする。あの溺死しかけた時に聞いた音と同じだったからだ。凪は何も言わず、千紘の肩に手をかけて母屋へ連れて行くと、勝手口から先に千紘を押し込むようにして自分も入り、中からかちりと鍵をかけた。その簡素な鍵に指で触れながら小さく何か呟くと、凪はしばらくじっと動かずに外の音に耳をすませばいたが、やがて肩の力を抜いてほっとした様子を見せた。
「……神経質になり過ぎだ、どこにも行きゃしないのに」
 とうんざりしたように呟いた凪に、
「今のって……この間と同じ現象ですか」
 と千紘がそっと尋ねると、凪は小さく頷いた。
「俺がこの島に来たせいですよね」
 麻の件から頭を離れなかった不安が思わず口をついて出る、しまったと思うより先に凪はあっさり頷いた。
「そうだな、完全に島から敵視されてるな。……お前、七穂に気が無いなら本当に何で来たんだ?」
「えっと、……あの、凪さんに見せたいものがあって持ってきたんです。明日お見せしようと思ってたんですけど、もしよければ今、持ってきます」
 と言えば、凪は時計を指差した。
「それよりお前、寝ないのか。2時過ぎてるぞ」
「何か眠れなくて、……今も全然眠くないんです」
 と返した千紘を眺めていたが、やがて凪はため息をついた。
「ここじゃお前は寒いだろ。俺がお前の部屋行ってやる」



 食堂と違い、空調の整った部屋は暖かく、だいぶ冷たくなっていた千紘はほっとした。
「で、見せたいものってなんだ」
 怪訝そうに言う凪へ、持ってきた書籍を手渡す。
「これ、父が生前一度だけ出した写真集なんです」
 と言ってからはっとする、そういえば今まで凪に対して父親が亡くなったことは言っていなかったかもしれないと思った時、
「亡くなったのは知ってるぞ?5年前だろ」
 と凪は千紘の思考を読み取ったかのように言う。
「……七穂さんから聞いたんですか」
「いや、……魂が去ったのが分かったからな」
 と呟き、手近な座布団に座った凪は静かに本を開いた。
 ゆっくりと時が流れる中で、頁を繰る微かな音だけが聞こえる、髪に隠れて表情の見えない凪を見守りながら、彼は今何を考えているのだろうと千紘は思う。この本が凪にとって何らかのプラスの作用をもたらせばいいと漠然と思っていたけれど、はっきりした確証があったわけではなく、寧ろこれを見せることで辛い思いをさせてしまうかもしれないと今更気付いたのだ。
 ふと凪の指が紙を辿る、あの最後の写真にあった小さなキャプションにそっと触れるのを見て、千紘は何とも言えぬ胸の苦しさを感じた。それは二度と触れることの出来ないものに触れようとしているかのようで、父と凪の間には死ですら繋がることの出来ない隔たりがあるのだと改めて気付かされたのだ。
「……こういうのが撮りたかったんだな。あいつらしい」
 独り言のように呟く、これまで凪の愛想のない、つっけんどんな物言いに慣れかけていた千紘は、その柔らかな声音と言い方に驚く。
 その時一番最後の頁に挟んであった、あの社の写っている写真が、まるで意思を持っているかのように文字のある裏側を上にして畳の上に落ちた。それを拾い上げた凪は、しばらく黙って見つめていたが、静かに本に戻してそのまま閉じた。
「あいつ……幸せだったか?」
 ふいに訊かれて千紘は思わず真っ直ぐに凪を見る、言い方は所作と同じように穏やかだったけれど、その声には何か胸を衝かれるものがあった。
 ここはもちろん、はい、と答えるのが無難だと分かっていても、千紘には躊躇いがあった。別に父が不幸だったとは思わない、好きな仕事をして、短い間だったとはいえ一度は家族も持った。父子家庭になってからも、子供の自分に対しては不器用ながら愛情を注いでくれたけれど、いつもどこか父の心の中には埋められない空洞があるのではないかと漠然とした感覚があったのだ。今にして思えば、きっとそれは凪に関わることなのだろうと察しは付く。
 言葉に詰まるのへ、凪は少し慌てたように、
「変なこと訊いて悪かった」
 と言い、本をこちらの膝の上に返して立ち上がろうとする、とっさに千紘はその手を掴んだ。
「父は凪さんを還俗させるつもりだったんですよね。それでも凪さんが還俗出来なかったのは……父に何か問題があったからですか」
 父が遺したもの、七穂から得た情報、そして実際に目の前で見る凪の反応が一つになって、どこかでずっと疑問に思っていたことが溢れて零れ落ちた形だった。もちろん不躾に尋ねていいものではないことくらい分かっていたけれど、時間は巻き戻せなかった。
 怒りを買うか無視されるか、いずれにしても答えがもらえるとは思わなかったけれど、一瞬の沈黙の後、凪は静かに首を振った。
「……そうじゃない。あいつに問題があったんじゃなくて……俺が認めなかった」
 率直な言葉の後ろで、千紘は自分の中に出来上がっていた仮説が正しかったのを知る。ただ、それはゴールでも何でもなく、より大きな疑問が湧いてくるきっかけになった。
 押し黙っている千紘をどう思ったのか、凪は困ったように苦笑して、
「まあ、……俺が女だったらもう少し流せたか」
 と呟くように言う。
「七穂から色々聞いてるかもしれないけどな、……ずっと昔、お前の父親は偶然この島に漂着して、怪我のせいでしばらくうちに滞在してた。元々こういう俺らみたいな生きたオカルトに惹かれる感性を持ってたんだ、その中であいつは“御柱様”に、……同情した。もう一度普通の人間として生きさせてやりたいと思ったんだろう。何て言うんだろうな、純粋で……本当に優しい奴だったから」
 と言葉を切り、凪は何かを思い出したようにふっと笑った。そして表情を改めると、向き直って千紘の目を見る。
「いいか、これだけは聞け。俺が還俗しなかったのは俺の問題であって、正臣には何の落ち度もなかった。だからお前は、自分の父親に疑問とか不信感は持たなくていい。俺なんかのことで父親との思い出を汚すな。……そんなことになったら、あいつが……あまりにも哀れだ」
 その真剣な声と表情は、死ですら繋がれない相手をそれでも必死に守ろうとしているかのようだった。

 これが、本当に人を想うということなのだろう。

 自分からは抜け落ちているものを目の当たりにして、千紘は胸が苦しくなった。それは予想以上の苦しさで思わずきつく目を閉じる。
「おい、大丈夫か」
 凪の手が膝に触れる、目を開けると心配そうな顔が覗き込んでいて、千紘は突然泣きたくなった。子供の頃からほとんど泣かない質で、大人になってからは父の葬儀ですら泣かなかったのに、何故こんな気持ちになるのか全く理解出来ない。悲しいからとか嬉しいからとか、何か裏付けになる感情があって初めて泣くものだと思うのに、今はそれすら分からないまま、ただ泣きたかった。
「すみません、大丈夫です」
 何とか取り繕おうと絞り出した声が無様に躓く、頬に涙が零れた時、ふいに凪が動いたと思うと千紘はそのまま抱きしめられた。華奢な手が背中をそっとゆっくりと叩くのへ、千紘は幼子に戻ってあやされているような錯覚に陥っていく。
 電池が切れるように論理的な思考回路が停止していく中、癒されるというのはこういうことなのだろうか、と千紘はぼんやり考えた。



------------------------------------------



 どれだけそうしていただろうか、ふ、と周囲が明るくなった気がして千紘が目を開けると、窓から光が差し込んできており、自分は布団の上に横になっていることに気付いた。
 さっきまで凪の腕の中にいたはずで、体感時間はほんの1~2分程度だったのに、時計を見ると午前7時を少し過ぎている。混乱しながら起き上がると腹の上に凪を包んでいた丹前がかけられているのに気が付いた。
 決して夢などではないと思いながら部屋を見回しても凪はおらず、座布団の上に件の本が乗せられている。急に凪が消えてしまったのではないかという奇妙な焦りを覚え、千紘は急いで身支度をして部屋を出た。
 とりあえず誰かいるかと食堂に向かうと、食卓に向かってタブレットを見ながら珈琲を飲んでいる七穂がおり、驚いたことに窓際には凪が立っていて、庭を眺めていた。もう襦袢姿ではなく、スウェットの上下を着ていたが、束ねた髪が下から半分ほど白くなっている。
「あら、おはよう」
 と目を上げてにっこり笑う七穂に、
「おはようございます」
 と挨拶をする間にも、千紘はちらりともこちらを見ない凪から目が離せなかった。聞きたいことはたくさんあり、思わず傍へ寄ると、
「……落ち着いたか」
 と相変わらず窓の外を見ながらそっと言う。
「はい。……あの、」
 と言いかける千紘を見上げ、凪は真面目な顔で遮った。
「お前、もうここへは来るな。ろくなことにならない」
 その言葉が胸に刺さる、だが同時に尤もだと千紘は思う。前回といい今回といい、凪には迷惑をかけてばかりなのだ。
「申し訳ないです、いつもご迷惑をかけてしまって」
「違う、そういうことを言ってるんじゃない。……お前は色んな意味でこの島と相性が悪いんだ。島というか……神子の近くにいると平穏でいられない。俺が守ってやれればいいが、……万が一対処出来なかった場合が心配なんだ」
 それだけ言うと凪は後も見ずに食堂を出て行った。
「……何かあったの?」
 今まで黙っていた七穂が珈琲カップを両手で囲みながら尋ねる。
「ええ、昨夜……寝付けなかった時に凪さんに偶然お会いして、父の本をお見せしたんです。その時に、……上手く言えないんですけど、自分の感情がかなり大きく揺れてしまって。それを凪さんが宥めて下さったんです」
「ああ、そういうことだったの」
 と納得したように頷き、七穂はカップを置いた。
「何か力使ったのかなとは思ってたんだけど。御柱様のヒーリングね」
 と呟いてから、七穂はしばらく黙って千紘を見つめていた。
「それで、どうだった?」
 唐突に聞かれるのへ、千紘は何故かどきりとした。
「どう、っていうのは?」
「その大きく揺れた感情が宥められたって言ってたけど、根本的に解決したのか、そうでないのか」
 と答えてから、七穂は小さく笑った。
「ごめんなさい、完全に私の好奇心なんだけど。もちろん言わなくてもいいのよ」
「……解決ではないです。でも、……あんな風に感情が揺れること自体がほとんど無かったので、自分にもそういうところがあるというのは分かりました。その、……不快とかそういう感じでは決してないです」
「じゃあ、マイナスにはならなかったのね」
「はい」
 と頷く千紘に、七穂は微笑して立ち上がった。
「それなら良かった。今回は私の仕事の都合でとんぼ帰りになっちゃって申し訳ないけど、船の用意が出来るまであと2時間くらいかな、のんびりしてて」



------------------------------------------



 のんびり、と言ってもこの島では何もすることはなく、千紘は宿泊していた部屋を簡単に片づけてから思い立って、以前七穂に教えてもらった小さな入江まで来た。神子一族がこの島に上陸し、父が漂着したという砂浜と青い海を眺めながら、昨晩のことに思いを馳せる。
 父に落ち度はなかったのだ、という凪の言葉は真剣そのものだった。二度と会えないと分かっていても凪は還俗しなかった。自分の問題だと彼は言っていたけれど、その問題とは何なのだろうかと考えた時、千紘は何故自分がそこが気になるのかと不思議に思った。元々、松井のようなごく少数の気の置けない友人を除いては人に興味を持つこと自体がほとんど無いのに、出会ってほんの数か月、対面では2回しか会っていない人のことが何故こんなに気にかかるのか。何となく父と同じく不思議なものに惹かれる気質があったのだと以前気づきはしたものの、それにしても良く分からないとぼんやり考えていると、
「お待たせ。船の用意が出来たわよ」
 と思ったよりも早く、七穂自身が迎えに来てくれた。
「……よくここにいるって分かりましたね」
「巫女だからね」
 まるでそれが当たり前かのように言うのへ思わず笑う、その時ふと千紘には一つの疑問が浮かんだ。
 そういえば以前七穂から、神子一族は経済活動を行うグループと神職のグループに分けられたと聞かされたけれど、七穂は巫女でありながら東京で仕事もしている。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ?」
 不躾にならないように今浮かんだ疑問を口にしてみると、七穂はああ、と真面目な顔で頷いた。
「凪が許可してくれたの。巫女職を解くことは凪には出来ないけど、神事以外は好きなことしていいって。昔と今じゃ時代も違うからってね」
 と言って、七穂は小さく笑った。
「子供の頃に……、私が正式に巫女に着任する時ね、初めて御柱様と顔合わせがあったの。その時将来何したいのかって聞かれたんだよね。いや、巫女になるしかないでしょって思ってたら、もし巫女じゃなかったらどうするって言われて、……サラリーマンって答えたのよね」
「なかなか……現実的なお子さんですね」
「実家は神職のグループじゃなくて、両親共にバリバリ働いている経済活動グループの一員だったから、元々仕事して自立してる人ってカッコいいと思ってたの。私には巫女になるルートしかない、普通の仕事なんて出来ないんだろうなって解ってたから……逆にそれが変なコンプレックスになってて。不貞腐れてたら凪が笑ったの。巫女の役目があるから時間的に拘束されるし、それが許される神子関連企業へのコネ入社以外の何物でもなくなるけど、それでもいいなら仕事していいって言ってくれた。嬉しかったな」
 と懐かしそうな目をする七穂は本当に嬉しそうだった。
 もちろん能力や環境等によって誰もが自由な選択肢を持っているわけではないけれど、七穂は明らかに特殊な例だ。短い周期での定期的な時間の拘束、それがほぼ一生涯、次の巫女が職に就けるまで続く。その中でも自分がしたいと思うことへの選択肢を貰えたことは何よりも喜びだったのだろうと察しは付く。
「凪さん、優しいんですね」
 ふいに口を衝いて出た言葉に自分で驚いていると、七穂は真剣な顔で頷いた。
「そうなのよね。ぶっきらぼうで愛想もないけど……本当の凪はきっと凄く優しい。自分のことより相手のことを考えられる人」
 その言葉を聞いた瞬間、千紘は突然あることに気付く。凪が還俗しなかった理由、それは彼の問題ではなく父の為だったのではないだろうか。昨晩、“こういうのが撮りたかったんだな。あいつらしい”と呟いた凪の様子からして、おそらく彼は父がカメラマンを目指していたことを知っていた。七穂から聞いた限り、御柱様が還俗出来る条件は神子以外の人間からその一生を捧げられることだけ、それがどういった形態でどの程度のものなのか具体的には分からないけれど、凪は自身が父の障害になる可能性を理解していて、それを避けようとしたのではないか。
 もちろん全て憶測にすぎないけれど、千紘の中に確信めいたものが生まれた。昨晩の凪の様子と今の七穂からの話が一つになって、彼が持っている本物の――少なくとも自分にとっては――優しさや愛情がはっきりと流れ込んで来る。

 再び胸が苦しくなった。

 ただ今回は、以前、自分に欠落しているものに直面した苦しさとも違う、何とも経験したことのない奇妙な苦しさで、苦しい最中にもいったいこれは何だろうかと千紘は現実的に考える。
「大丈夫?」
 と七穂に声をかけられて我に返る、
「大丈夫です」
 反射的に返事をすると、七穂が静かに笑った。
「大丈夫じゃないって認めるのも大事よ。正確には大丈夫じゃない自分を認めてあげるってことかな」
 とだけ言い、行きましょう、と歩き出す。その後を追いながら、千紘は確かに大丈夫とは何を指すのだろうと考えた。原因不明だけれども胸が苦しい、それを耐えられるかと言われれば今の段階では耐えられる。耐えられることを大丈夫と言っているのだと俯瞰しながら、同時に耐えられなくなった自分というのはどうなるのだろうかと思う。


 一旦部屋に戻り、キャリーケースを持って部屋を出ようとした千紘はふと立ち止まる。
 キャリーケースに入れていた父親の本を取り出し、それを畳んでおいた布団の上に置く。自分がしていることは分かっていても、何故そうしているのかはまるで別の自分に言われるように動いているような奇妙な感覚、それでも千紘はそのままキャリーケースを閉じて部屋を出た。 
 七穂と共に船に乗り込み、ほっと溜息を吐く、その時千紘は自分がしたことの意味がようやく意識に降りてきた。
 それは、もう一度この島に戻って来るための動機付けだった。
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