1 / 3
風哭島奇譚(上)
しおりを挟む
「兄ちゃん、東京から何しに来なさったね?こんな何もない島に……」
船に乗せてくれた漁師が呆れたように聞いてくるのへ、千紘は苦笑した。
「まあ、……何ってわけじゃないんですけど」
「隣の東渡良瀬島ならダイビングスポットやらなんやらで人気出てきたけど、こっちはほとんど無人島だと思われてる。特に時季外れに来る人間なんか見たことないわ」
と無遠慮に言い放った漁師は、あ、と閃いたような顔をした。
「兄ちゃん、ひょっとしてあれか、ユーチューバーってやつか?何か人が行かんようなとこ行って中継したりするやつ。うちの孫が好きでよう見てるけど」
「いえ、僕はただの会社員です。……あの、この島って古い神社があるんですよね?」
「神社?あー、何か古い社があるな、何でも江戸時代よりずっと前からあるっつう。でも特に何かの文化遺産とかなわけでもねえよ、おんぼろで幽霊でも出そうな……兄ちゃん、」
とここで漁師は再び閃いたような顔をした。
「オカルト系ユーチューバーか?」
秋のヨーロッパを満喫しよう、婚約者とそんな話をしていたのは1年近く前のこと、もし人生がその通りに進んでいれば今頃美しい古都を幸せな気分で歩いていたのかもしれない、と千紘はぼんやり考える。自然は濃いけれども美しいというよりはどこか荒涼とした、日の落ちかかった山並みを眺めながら、予め電話で教えられたとおりの一本道を30分も歩いただろうか、やがて一軒の古民家が見えてきた。
玄関にたどり着いても表札も呼び鈴も何も見当たらず、思案したのちガラスの嵌っている古い扉を遠慮がちに叩くと、はーい、と元気な声がして50代半ばくらいの女性が扉を開けてくれた。
「ああ、あなたが宮谷さんね?初めまして、大月さと子です」
「宮谷千紘です。本当にすみません、突然連絡させてもらって……」
と千紘は表情を改めて、
「宿を引き受けて頂いてありがとうございます。五日間お世話になります」
と頭を下げた。
「いいのいいの、こんな遠いところまでよく来たね。さ、上がって」
気さくな明るい態度は長旅をしてきた千紘の緊張を解いてくれ、言われるままに靴を脱いで上がると、囲炉裏のある広間に通された。
「東京からだとびっくりするほど遠かったでしょう」
お茶を淹れながらさっきの女性が労わるように声をかけてくれる。
「そうですね、ここへ向かう交通手段があまりなくて。……あの、こちらのお家、とても素敵ですね」
「最近古民家カフェっていうの?何かそんなのが流行ってるみたいで、たまに取材とか受けるのよ。この辺はもう完全に限界集落なんだけど、どの家も古い時代のものがそのまま温存されてるし、一般的な古民家とも間取りやデザインが違ってるところが多いのよね。一つの地域にこれだけバリエーションがあるのは珍しいらしくて、建築関係の人やデザイナーさん達が泊りに来ることもあるわ」
と言うのを聞きながら、千紘はなるほどと思った。宿泊施設も何もないこの島へ来るのに、何とか探し出した伝手を頼ってこの家に泊めてもらえないかと連絡した時、さして怪しまれることもなかったのはこういうことかとひとり胸の内で頷く。
「宮谷さんもそっち関係の方?調査のために滞在したいって言ってたけど」
「いえ、僕は……特にそういう業界とは関係のない会社員なんですけど、古い寺社やその土地の歴史に興味があって、色々調べたりしているんです。こちらにあまり知られてない小さな神社があると聞いて」
さっきの漁師に言ったのと同じ、何度も練習してきた通りの嘘を言えば、女性は何も疑わない様子で、
「そうなの。確かに小さな社があるけど……でも、ずっと昔からある何の変哲もないお社よ?東渡良瀬島にある渡良瀬神社の方がまだ見どころあるんじゃないかな」
とこれも似たような返事が返ってくる。
「あんた……何で戻ってきた?」
突然後ろで声がして、振り向くとひとりの老婆がこちらを凝視していた。もちろん初対面だけれど、相手は千紘のことをそうは思っていないらしい。
「おばあちゃん、この人はしばらくここで泊めてあげるお客さんよ」
慣れたものらしい、女性は何を咎めるわけでもなくのんびりと老婆に言い、千紘に向かってやや声を落とし、
「ごめんなさいね、うちのおばあちゃんなんだけど、認知症なの」
と告げ、
「さ、おばあちゃん、お薬飲んでないでしょう。お部屋に持って行ってあげるから、戻りましょうね」
千紘に目配せをすると女性はさっと立ち上がり、老婆を介添えして広間から出て行った。ひとり残された千紘は、湯呑を両手で囲いながらほっと溜息を吐く。昨日の昼過ぎに家を出て、この島に来るのにざっと24時間以上、さすがに多少の疲れは感じている。程よい濃さの茶を啜ってから、脇に置いたリュックの中から一枚の古い写真を取り出す、裏に小さく書かれた文字はとっくに暗記しているけれど、もう一度読み返してみる。
『風哭島。
もう一度行きたい。許されることではないが、あの人に会いたい』
これは5年前に事故で他界した父が遺した写真だ。見つけたのはつい最近、思い切って父の蔵書を処分しようとしていた時のことである。写っているのは鬱蒼とした森の中に佇む古い社、どこで写したものなのか画面には何の手掛かりもなく、ただその裏に父の筆跡でこの文言が書いてあったのだ。
風哭島など聞いたこともなく、それがどこにあるのかは分からなかったけれど、『許されることではないが、あの人に会いたい』という言葉が千紘を捕らえたのである。
写真に記されている日付からこれが撮影されたのは父が20歳くらいの頃のこと、もちろん自分は生まれていないし母とも出会っていないから不倫などではないだろうけれど、小学生の頃に母と離婚して以来、全く女性の影も無かった、どちらかといえば堅物の父がこんな言葉を遺していたのが、奇妙に胸に刺さったのだ。それは結婚直前で婚約者に棄てられた今だからなのかもしれない。
「ごめんなさいね、ほったらかしにしちゃって。お部屋に案内するわね」
ぱたぱたと軽い足音がしてさっきの女性が戻ってきた。慌てて三和土に置いたままだったキャリーケースとリュックを抱え、千紘は女性の後に続いて二階へ上がる。通されたのは和室を改築した8畳ほどのフローリングの部屋で、テレビこそないものの、エアコンにベッド、パソコン用の机、椅子まで置いてあった。
「宿屋じゃないけど、若い人が泊りにくる機会が増えたから、お仕事出来るようにしてみたの。うちの子たちが学生時代に使ってたものをリメイクして。今はみんな大人になって島の外に出て行っちゃったけど」
「すごいですね!これはデザイナーさん達にとっても有難いと思います」
「何ならwifiも使えるから。机の引き出しにパスワード入ってるからご自由にどうぞ。あと1時間半くらいで夕飯になるから、また呼びに来るわね」
「大月さん、色々ありがとうございます」
「どういたしまして。……あと、この辺の人は私をさと子さんって呼ぶからそう呼んでね。大月さんって言われると一瞬身構えちゃう。役所か病院じゃないと呼ばれないから」
と屈託なく笑うのに釣られて千紘も笑った。
「それじゃ、さと子さん、この島って正式には西渡良瀬島にしわたらせじまですよね。何で“風哭島”って呼ばれるようになったんですか?」
「うーん、逆かな。西渡良瀬島って名前がついたのが明治時代で、それより前はずっと風哭島って言われてたらしいよ。この島から流れてくる風は泣いているみたいな音がするって言われて。……正式な文献なんかは見つかってないんだけど、何でも元々は流刑地だったっていう話もあるのよね」
「流刑地……ですか」
「まあ、言い伝えレベルだけどね。じゃあ、ご飯までゆっくりしてて」
さっきまで薄日が差していた島は、夕食が終わる頃にはすっかり闇に包まれていた。風呂を借り、長い廊下を通って部屋に戻る途中、さっと月明かりが差し込んで来る。思わずガラス戸に寄って空を見上げると、いつの間にか雲が切れて月が顔を出していた。
(満月……かな。いや、少し欠けてるか)
都会と違い、辺りに灯がないせいか、非常に冴えて美しい。こんな月を見たのは生まれて初めてかもしれない、とぼんやり考えていると。
「明日は満月。……だから戻ってきたのか」
と後ろから声がして、振り向くとさっきの老婆が静かに立ってこちらを見ていた。
「あの、……僕はこちらに来たのは初めてで……」
「あの方はあんたを責めん。恨んでもおらん。だが、その代わりとして二度とは会えん。……いくら満月を待ったところであんたの望みは叶わん」
どこか哀れむような、教え諭すような口調で言い、現れた時と同じように静かに廊下の先の闇へ消えていくのを見送りながら、千紘はあることに気付く。
さと子から認知症だと聞いてはいたけれど、あの老婆の言った言葉には単なる病から来る妄言だとは思われない何かがあった。自分のことを誰かと勘違いしてはいるけれど、その誰かに対して真摯に物を言っているような気がしてならない。満月、戻ってきた、二度と会えない――幾つかの言葉が理屈でなしに千紘の胸に刻まれる。
ふ、と目の前が暗くなる、綺麗に見えていた月が再び分厚い雲に覆われていた。風がガラス戸をかたかたと鳴らし、心なしかぐっと気温が下がったような気がする。湯冷めをして風邪を引いてはいけないと自室に戻った千紘はベッドに腰かけ、先ほどの父親が遺した写真を取り出した。明日はこの社へ行ってみようと思いながら再び裏の文言を辿る。
あの人に会いたい。
その文字と、さっきの老婆が言った“二度とは会えん”という言葉が不思議と重なり、何とはなしに千紘は落ち着かない気分になる。ふいに強い風が窓に吹き付けてくる、遠くで誰かが泣いているような声が聞こえた気がしてとっさに立ち上がり、カーテンを引いてみると、外は完全に月の隠れた闇夜になっていた。
------------------------------------------
翌日は曇天で、昨日よりもだいぶ肌寒い気温になっており、少し厚めの上着を持ってきて良かったと千紘は思った。リュックの中には今朝さと子が作ってくれた昼食用のおにぎりと水筒が入っており、手には紙の地図が握られている。
「コンビニはないし、GoogleMapは途中から使えなくなるからね」
と出かける前に笑いながら手渡されたもので、この地図もさと子が作ったものだという。この集落のあちこちにある家の場所と家主の名前、おおまかな特徴を書いたもので、古民家を調べている人には重宝する仕上がりになっている。千紘が行きたい社は、予め印刷された紙の上にマジックで位置が書き足されてあった。
「宮谷さんが行きたい社はね、だいたいこの位置。ここから歩いて……そうね、1時間くらいかな」
と言ってから苦笑し、
「でもね、水を差すようで申し訳ないんだけど……本当に小さくて古いだけだから、見るものなくて時間持て余しちゃうかも」
「そうしたら、折角ですから見せて頂ける家があったら見せて頂いてきます」
「うん、それがいいわね。あ、でもそしたら一つ注意」
とさと子は社に一番近い家を指差した。
「このお家は声を掛けない方がいいと思う。何ていうのかな……島民以外の人を歓迎しない傾向があるから。このお社もね、本当はこのお家……神子さんっていう古い地主さんなんだけど、そこの私有地内にあるのよ。お社までは行っても怒られないけど、その後ろには柵がしてあって、そこから先は私たちでも立ち入り禁止になってるから、間違って入らないように気を付けて」
田舎だからそういうことあるのよ、とさと子は肩を竦めた。
「分かりました。それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。暗くなる前に戻ってきた方がいいわよ、この辺って街灯ないから」
歩いて10分も経った頃、さと子の言った通り携帯は圏外になった。道そのものは農作業用の車も通れる広い一本道で特に迷うことはなかったが、あちこちに散らばっている民家はどれも広くそれぞれに趣きもあり、遠目から見ていてもなかなか面白い。時折もらった地図で家の位置を照らし合わせながら道を進み、40分ほど歩いたところで急に民家は途絶え、平坦だった道がそこそこ傾斜のついた上り坂になった。
地図によれば社があるのはこの先、よし、と上り切ったところで目の前に現れたのは、今まで見てきたどの民家とも違う、石垣に囲まれた、もはや民家というよりは“屋敷”レベルで、千紘はこの屋敷が地主であるという神子家なのだと気付いた。とすれば目的の社もすぐ近くのはずで、千紘は屋敷の右手側の道へ入る。これまでと違い、やっと人がひとり通れるだけの細い砂利道で、伸び放題の草や木の根がさらに歩くのを阻むように足元へ絡みついてくる。
苦労して歩いてようやく辿り着いた社は本当に小さく、古く、何度か言われてはいたものの実際に拍子抜けするほど何の変哲もないものだった。だが、例の写真を取り出してみると、紛れもなく被写体はこの社だったことが分かる。
近くに寄ってみれば、欅と檜で出来た小さな社は古びてはいるものの清掃が行き届いており、蜘蛛の巣や泥のはね跡も見当たらない。正面にある二基の石灯篭も綺麗に拭き清められ、社の周囲だけは草木の手入れもされており、誰かが管理しているらしいと考えながら千紘は社の裏に回ってみた。
(ああ、これが柵か)
さと子に教えられた通り、社からさらに後ろに続く細い道には柵と簡単な木戸が取り付けられてあって、それ以上進めないようになっている。木戸には一応南京錠がかかってはいるものの、柵は低く乗り越えることも出来なくはないが、木戸の向こう側には、無遠慮に踏み込むことを怖気付かせるようなあまりにも静かな空気があった。
あきらかに木戸を境に世界が違っているような感覚に襲われ、所謂オカルト的なものを一切信じない千紘もさすがに薄気味悪く感じる。これ以上見るものはなし、木戸から離れて社の表へ戻ったところで、さあっと風が吹いてきて、千紘はあることに気付いた。
木戸の向こうには風がなかった。
分け入るのが怖いような静かな空気だと感じたのは風がなかったからだ。地形の影響なのか生い茂る木々が防風の役割を果たしているのかは分からなかったけれど、理屈が分かれば何ということはない、と千紘は苦笑する。本当にこれでは時間を持て余すな、と思いながらもと来た道を引き返す、神子邸の前に出た時、この辺には似つかわしくないエンジン音と共に一台の黒塗りの車が乗り入れてきた。
がらりと重い音を立てて玄関の扉が開き、中から男性が2人と女性が1人出てくる。若い方の男性が駆け寄って後部座席のドアを開けると、降り立ったのは質の良いスーツに身を包んだ女性、すらりと背筋を伸ばした立ち姿は、一瞬ここが辺境の島だったことを忘れるほどのインパクトがあり、千紘は思わず立ち止まった。
年の頃は自分とそんなに変わらないくらいだろうか、都会的な美しい人だけれど、どこか浮世離れした近寄りがたい雰囲気を持っているのは何故だろうと取り留めのないことをぼんやり考えていると、ふ、とその女性がこちらを振り向いた。正面から目が合い、しまったと思うより早く、
「……この島の人じゃないよね?」
と真っ直ぐにこちらへ声を掛けられ、千紘は内心慌てながらも、
「はい、東京から来てます」
と答えると、何を思ったのか彼女はそのまま千紘の傍まで近寄り、声をかけたのと同じように真っ直ぐに目を覗き込んだ。
「……何しにきたの?こんなところまで」
と尋ねる声は静かで、どこか冷たく透き通って聞こえた。
「え、……っと」
あの船に乗せてくれた漁師やさと子に対して言ったのと同じ回答をすればいいものを、とっさに言葉が出てこなかったのは、彼女の持つ独特の雰囲気に気圧されたからだけではない。
――本当の理由は自分でも分からないのだと千紘は思う。
「東京の喧騒を離れて自然にでも癒されに来たってとこかな」
言葉に詰まったままでいる千紘に、女性は突然表情を和らげてこう言った。
「それとも古民家の見学?……ここで会ったのも縁だから家へ寄っていけば?」
「いや、その、ご迷惑になりますし、」
「いいわよ。うちは私がいる時じゃないとお客さん中に入れないから。あなたラッキーよ」
と決まったもののように言い、ハイヒールで軽快に砂利を踏みしめながら先を歩きだす。
「うちは神子っていうの。私は神子七穂。あなた、お名前は?」
「僕は宮谷といいます。申し遅れてすみません」
遅れないように少し速足で後に続いていた千紘は、突然立ち止まった七穂にぶつかりそうになった。
「みやがい……?」
「はい、……あの?」
「じゃあ、宮谷さんね」
にっこり笑って再び歩き出すのへ、千紘は何となく不安になる。今、ほんの一瞬七穂が見せた動揺は何だったのだろうか、思い過ごしではないような気がする。
「お客さんよ、お茶の用意お願い」
七穂は先ほど玄関口に出てきた女性に声をかけ、少し声を落として、
「……離れは?」
と言う。
「……お目覚めになりました。お変わりありません」
とこれも小声で返した女性は千紘に向かって、いらっしゃいませと頭を下げた。たった今会ったばかりの明らかにのよそ者の自分を突然家に招いた七穂の行動にも、驚いた様子も困惑した様子もなく淡々と従うのへ、千紘は再び浮世離れした雰囲気を感じる。この家も、人も、どこか日常の世界と切り離されているような――。
「入らないの?」
七穂の声に我に返る、現実に戻ったはずなのに、やはりこの家の扉がどこか別の世界へ繋がっているような気がして、千紘は再び返事に詰まった。七穂は千紘の様子に薄く笑い、怖いのかな、とまるで千紘の胸の内を見透かしたように呟いたが、これもさっきと同じようにがらりと表情を変え、
「ねえ、カミコホールディングスって聞いたことある?東証プライムに上場してるんだけど」
と突然現実的なことを聞いてきた。もちろん、日本有数の大企業を傘下に持つ持株会社であることは社会人なら誰でも知っていることではある、が。
「え、……あの、ひょっとして、」
「ここがカミコグループの創業者、神子一族の本家。……公式ホームページとウィキペディアには違うこと書いてあるけどね。ちなみに私も直系のひとりなの。普段は東京の神子電子で人事部長やってます」
「え、すげっ……じゃなくて、凄いですね」
思わず大声を出したのを慌てて取り繕えば、七穂は笑った。
「やっぱりこういう方が食いつくんだ。ね、面白いでしょ」
通された部屋は檜のフローリングに採光を考えた大きな窓ガラス、木とガラスを組み合わせたローテーブルや革張りのソファなどが置いてある、屋敷の外観からは想像もつかない現代風の、所謂和モダン調の居間だった。
「帰ってきてる時はここで仕事してるの。東京の人なら畳の広間よりこっちの方が肩凝らないでしょ」
と七穂は笑うが、置いてある家具やファブリックの類全て素人目にもハイブランドのものであると分かり、千紘は運ばれてきたコーヒーを飲むのにも緊張する。
「……で?改めて聞くけど、こんな何もない島に何しに来たの?古民家見学でもバードウォッチングでもないよね」
今度の尋ね方には先ほどの冷たさはないけれど、それでも有無を言わさぬ何かがあって、千紘はコーヒーカップを下に置いた。
「5年前に亡くなった父が遺した写真に、この島の社が写っていたんです。父にとって、……僕も良くは分からないんですけど、多分、……その、若い頃に大切な思い出があったみたいで」
と件の写真を手渡すと、七穂は確かにうちの社ね、と小さく頷いてそのまま写真を裏に返し、手書きの文字を黙ったまま見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「これは、お父様が書いた……?」
「ええ、父の筆跡です」
「……そう」
と呟くように言い、しばらく窓の外に目を遣っていたが、
「お父様から何か……この島に関することを聞いたことはある?」
「いえ、何も。この写真を見つけたのもつい最近なんです」
「立ち入ったことだけど、この写真だけでこの島に来ようと思ったのはどうして?東渡良瀬島に来るのだって一週間に一回しかフェリー出てないし、長期のお休み取らないと来られないでしょう」
「本当は……別の予定があって、この時期に休みを取っていたんです。それが無くなってしまって」
と言いかけて千紘は言葉を切る。先ほども答えられなかった通り、この島に来た本当の理由は自分でも分からない。ただ、この写真を見つけた時、まるで何かに引き寄せられるようにこの島にいかなければと思ったのだ。
この島に来ることで、自分は何を――。
「宮谷正臣さん」
ふいに言われた名前に唖然とする、文字通りぽかんと口の開いた千紘を見て七穂は笑った。
「……まあ、そういう顔になるよね」
「何で……父の名前を……」
「ねえ、運命とか……呪いとかって信じる?」
「や、……えーとですね、あの、」
人生で初めてというくらい混乱する千紘に、そりゃあ信じないわよねえ、と一人合点したように頷き、七穂は残りのコーヒーを飲み干して立ち上がると、そのまま千紘の座っているすぐ後ろへ来て、ふわりと肩に手を掛けた。
「お父様にこの島で何があったのか、自分の目で確かめなさい」
静かな声は最初に感じた時のように冷たく透き通り、この世のものではないような錯覚に捕らわれる。返事も出来ないでいる千紘の耳に、七穂は唇を近づけて囁いた。
「神子の巫女が招きである、そなたに神事を拝することを許す」
------------------------------------------
「上手くいけば玉の輿よ?あ、逆玉っていうのかしら」
どこか楽しそうに言うさと子に千紘は苦笑する。
偶然七穂と出会って家を見学させてもらううち、東京で似たような仕事をしていることが判明し、意気投合して、神子家の夕食に招かれた――という七穂が3秒で思いついた適当な話を恐る恐るさと子に話したところ、疑わないばかりかさらに都合よく解釈してくれたのは、この場合有難いというべきなのだろうか。
「実はうちのおばあちゃん、元々は神子家から大月家に嫁いできた人なの。何かの縁があるのかもね。普通は島の外の人とは交流しないお家だから」
と屈託の無いさと子の気を損ねないように相槌を打ちながら、千紘は七穂に言われたことを考えていた。
――お父様にこの島で何があったのか、自分の目で確かめなさい
何故父の名を知っているのか七穂は何も教えてはくれなかったけれど、この島に来てたった二日目でこんな言葉を聞くとは思いもよらなかった。子供の頃から自他ともに認める徹底した現実主義者で、神秘や宗教の類を信じることも興味を引かれることも一切なかったけれど、さすがに運命という言葉が頭をちらつく。
いつもなら明確な目的や自分で認識出来る情熱や嗜好がなければ行動しないはずなのに、たった一枚の古い写真をきっかけにこんなところまで来てしまったこと自体が通常の自分の行動パターンとは逸脱しており、その結果初対面の女性から何の情報もない『神事』に参列するようにと言われてしまった。
「あ、お迎えが来たみたいよ」
車の音にさと子は玄関の扉を開けた。先ほど七穂が乗っていた車が玄関の前に停まり、運転席からこれも先ほど神子家で見た若い男性が降りてきて、さと子と並んで立っていた千紘に丁寧に頭を下げた。
「宮谷様、七穂様の命によりお迎えに上がりました」
まだ大学生くらいの若さでありながら声音も立ち居振る舞いも落ち着いており、やや古風な言葉遣いにも少しも違和感がなく、それが何となくこれから非日常の空間に誘われるのだという印のようにも感じられて、千紘は一瞬怯む。
「どうぞ」
と青年が開けてくれた後部座席のドアを見つめるうちに、ふと千紘は本来のリアリストとしての自分の感覚が戻ってくるのに気付いた。まずは自分の目で見て情報収集、それから神子家と父との関係を調べれば良い、と肚を決め、千紘は思い切って車に乗り込んだ。
昼間は随分歩いたけれど、さすがに車だと10分もかからないうちに神子家の屋敷が見えてきた。が、車は玄関を通り過ぎ、そのまま石垣をぐるりと迂回して屋敷の裏側に停まる。車を降りると、目の前には小さいながらしっかりした門があって、左右の石灯篭の灯が周囲を仄かに照らしており、門から出てきた人影が千紘に向かって頭を下げた。
「よくお越しくださいました。ここからは私がご案内します」
見れば昼間に七穂と言葉を交わしていた年配の女性で、全身黒の和装に、手には白い提灯を下げている。
「あの、七穂さんは……?」
「巫女の務めがございますので、先に清め場におります。万事申し付かっておりますのでご心配なきよう」
言われたことの半分も理解出来なかったけれど、こちらへ、と促されるのに従って千紘は大人しく彼女の後に続く。15分ほども歩いた頃だろうか、斜め前方に小さな灯が見え、千紘はそれが件の社の灯籠の灯なのだと気付いた。とすれば、おそらく今自分がいるのはあの柵の向こう側、そういえばさっきまで感じていた風がない。
さすがにぞくりとするのを見透かしたように、女性は立ち止まってこちらを振り向いた。
「もう少しでございます。宮谷様に害のあるようなことは起こりませんから、お案じあそばしますな」
穏やかに言われるのへ何となく心が落ち着き、はい、と返事をして千紘は再び女性について歩き出す。しばらくすると緩やかだけれども長い石段があり、降り切ったところで女性は再び足を止めた。周囲には幾つか灯が見え、おそらく参列者か関係者か、ともかく人がいるのだろう。
「もう間もなく神事が始まりますので、こちらでお待ち下さい。半時間ほどで終わりますが、私がお声がけするまで決してこの場から離れたり声を出したりなさいませぬよう、お願い申し上げます」
千尋が頷くと、女性は黙って離れていった。辺りは月の隠れた深い闇、ところどころに揺れるか細い灯ではほとんど何も見えず、人の気配はあっても声は聞こえない。ただ、小さく水の湧くような音が聞こえており、近くに川でも流れてるのかとぼんやり考えていると、一筋の金属を打つような鋭く高い音が闇夜を裂く。次の瞬間、さあっと強い風が吹き、今まで分厚い雲に隠れていた満月が現れて、さっきよりも周囲がはっきりと見えるようになった。
目の前には澄んだ水を湛えた小さな池があって、どうやら中央付近から地下水が湧いているらしく、絶えず波紋が広がっている。左手には四阿のような建物があり、そこから石の道が池の中央にまで延びていた。冴えた月の光を反射した水が仄白く輝き、その幻想的な美しさに千紘は呆然とする。
と、再び先ほどと同じ音がして、四阿から人影が出てきた。白装束に黒髪を束ねているのは七穂だと直ぐに気付いたが、七穂の後ろから歩く人影に千紘は息を呑んだ。七穂のような白装束に、銀色を帯びた長く白い髪――。
呆気に取られる千紘の視線の先で、七穂は水際に立ち止まり、一旦石の道を降りて後続の人影に向かって一礼した。その人は正面を見据えたまま池の中央まで進み、最後の敷石の上で静かに満月を仰ぐ、それが合図にでもなったかのように吹いていた風がぴたりと止み、さらなる静寂が訪れる。
ますます冴えた月の光が水面をさらに明るく輝かせ、池全体が白銀の光に包まれる、と、月を仰いでいた人が石に膝をついた。すうっとその光が中央に集まったと思うと、周囲は再び闇に包まれ、その人だけがまるで自身が発光しているかのように見える。
それだけでも信じがたい光景なのに、千紘はあることに気付いて愕然とした。
少しずつ、少しずつ――白い髪が黒髪へと変化していったのである。
まるで時間が巻き戻されていくのを眺めているような感覚、これは夢に違いないと思い始めた千紘の耳に再びあの高い音が聞こえ、現実に引き戻される。穏やかな月明かりの中、今や完全な黒髪となったその人物は石の上に立ち上がり、僅かに月を仰いだが、やがて踵を返して石の道を戻り始める。水際で待っていた七穂は先ほどと同じように一礼し、今度はその人の後ろから続く形で、二人で池から離れていった。
「……以上でございます。宮谷様、一旦こちらへ」
いつの間にか案内してくれた女性が傍に立っており、促されるままに石段の近くまで移動する。
「御柱様が通ります」
と囁かれるのへ顔を上げると、いつの間にか散らばっていた灯が列を作り、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。その後ろから、七穂と、彼女に介添えされた先ほどの黒髪の人が続いて歩いてくる、未だ夢か現か分からないでいた千紘は、ふとこちらを向いたその黒髪の人と目が合った。
一瞬の出来事だった。
こちらが驚くより早く、その人の切れ長の目が大きく見開かれた。ほんの僅かに唇が動くのへ胸を衝かれ、とっさにその人の言葉を聞かなければと足が前に出る、するりと割って入ったのは七穂だった。
微かに笑みを浮かべてこちらの頬に触れ、後で、と囁いてその人を庇うように歩み去っていくのを見送った千紘は、今のが夢ではなく現実なのだと認識した。何故なら神事の時は神か魔か、とにかくこの世のものではないように思っていたその人は、間違いなく人間だった。
こちらの胸が苦しくなるような、切なげな表情を浮かべた生身の人間に違いなかった。
------------------------------------------------
「あー、もう無理。辛すぎる」
神子邸の美しい食堂で、千紘は七穂の食欲の前に圧倒されていた。ああいう儀式の後だから精進料理でも出てくるのだろうという予測に反し、夜遅くに摂るには重すぎる洋食のフルコースを次々に完食していく七穂は、その間中ひたすら千紘相手にぼやき続ける。
「これがほぼ毎月だからね。年によっては満月って13回あるのよ、学生時代ならまだしも、こっちは仕事してるっつーの」
肉をフォークで突き刺すその権幕に怯え、聞きたいことは山ほどあるのに、千紘はただ黙って頷くしかなかった。
「11歳から巫女やってるから修学旅行も行けたことないのよ?修学旅行どころかほとんど行けてないし、高校の時にいたっては卒業式も出られなかった。酷くない?」
とここでワインを一気飲みしてようやく一息つくのへ、
「あの、」
と千紘は恐る恐る声をかけた。
「……父も同じ儀式を見たっていうことですか」
「そういうこと。……まあ、お父様の場合は招かれたわけじゃなくて偶然だったんだけど」
と七穂は手元のワイングラスを見つめる。
「お父様は大学時代、写真を撮るために東渡良瀬島に来たの。帰る日の前日、最後に日没直前の島の外観を撮るために小船を借りて……でも突然の大雨と突風に流されて、この風哭島に漂着した。今と違って携帯も何もないし、民家の無い島の裏側に漂着したから、怪我をしたまま森の中を彷徨ってね。窪地の小さな灯を頼りにあの池に辿り着いて、御柱様と当時の巫女に助けられた」
「御柱様っていうのは、さっきの…?」
「そう。帰り際に目が合ったでしょ」
こともなげに頷く七穂に、おそらく御柱様というのは巫女等と同じ神職名なのだろうと千紘は思った。そう考えると見てきたばかりの“あり得ない光景”も、自分のこれまでの常識の中で説明がつくような気がしてくる。髪の色が変化したように見えたのも、あの冴えた満月の光が水に反射して、そのせいで錯覚したのかもしれない。何故ならあの人は紛れもなく生きている人間だったのだから――。
「あ、今日は遅いから泊っていってね?」
デザートのスフレを頬張りながら七穂が言う。
「さと子さんには連絡入れておいたから。……巫女の仕事って意外と疲れるから、さすがに私も早く寝たいの。聞きたいと思ってることは明日ね」
確かに肝心なことを聞けていなかった千紘は、七穂に胸の内を見透かされたように思った。
「後で部屋に案内させるから、のんびりしてて」
「はい、……ありがとうございます」
さっきまでの緊張がだいぶ解れ、千紘はほっとして食後のコーヒーに口を付けた。窓の外の満月も心なしか穏やかに見える。
やがて頃合いを見計らって、先ほどの運転してきてくれた青年が現れた。心得たように千紘の傍へ寄り、
「お部屋にご案内します、こちらへ」
と言う。青年について千紘が立ち上がろうとすると、そうそう、と七穂は水晶製のブレスレットを取り出して千紘に手渡した。
「この島にいる間はこれ着けておいて。前の巫女がお父様に渡したものよ」
アクセサリーの類は一切したことのない千紘が躊躇いながらも腕を通すと、美しいガラス質の、濁りもクラックもほぼない水晶玉のブレスレットは、採寸したかのようにぴたりと嵌る。
「……きっと、お父様に似てるのね」
と独り言のように呟いた七穂は、改めて千紘の顔を見て笑った。
「何て顔してるの」
「いや、こういう……その、パワーストーンみたいなのってしたことなくてですね」
明らかに居心地の悪そうな千紘に向かい、七穂は楽しそうに言った。
「まあ、この島にいる間は思う存分オカルトを楽しんで」
------------------------------------------------
久しぶりに父親の夢を見た。
最後に会ったのは亡くなる半年前、正月に実家に戻っていた時のことだった。元々父子家庭で、千紘が大学生になってからはカメラマンの父は海外にいることが多かったし、就職してからは実家を出てお互い別々に住んでいたから、正月を親子で過ごすことはほとんどなくなっていたけれど、その年は偶然色々な条件が重なって一緒にいることになったのだ。
もう記憶が曖昧だけれども、仕事の話をしていたことだけは何となく覚えており、その中でこれだけははっきり覚えている父親の言葉があった。
『失敗はしてもいい。取り返しのつかない後悔だけはするな』
夢の中の朧げな会話の中でも、やはりこの言葉を口にした父親は、生前と同じように穏やかな、どこか物寂しげな表情で千紘を見ていた――。
ふと気が付くと見慣れない天井が見え、千紘は自分がどこにいるのかしばらく思い出せなかった。身動きした拍子に左手に着けたブレスレットに指が触れる、水晶特有の柔らかな冷たさに記憶が引き戻され、ああ、神子邸にいるのだったと大きく息を吐く。
「起きたか」
突然降ってきた声に慌てて上体を起こすと、いつの間にか部屋の隅に人がいてこちらを眺めている。灰色のシンプルなセーターにジーンズという恰好、男性の声だと思ったけれど一瞬女性かと見間違えたのは肩に零れている艶やかな長い黒髪だった。あ、この人、と思った瞬間、
「七穂が食堂で呼んでる」
とだけ言うとその人はドアを開けてするりと部屋から出て行った。服装こそ全く違っていたけれど、昨日『御柱様』と呼ばれていた人に違いない。後でまた会えるのだろうかとぼんやり考えながら起きて身支度をする、10分ほど経った後にノックの音がして昨日さと子の家まで迎えに来てくれた青年が顔を出した。
「あ、起きてますね。七穂さんが呼んでるので、食堂まで来てもらえますか」
昨日よりもずっとくだけた雰囲気と言い方は年相応に見え、ようやく現実に戻ってきたような感覚に千紘はほっとする。
「すみません、さっき別の方に呼びに来ていただいたのに遅くなっちゃって。お待たせしてますよね」
と言えば、青年は不思議そうな顔をした。
「七穂さんが食堂に来たのはたった今ですから、大丈夫ですよ?」
「そう……ですか」
とすればさっきのは聞き間違いか、いずれにしても早い方がいいだろうと千紘は青年について部屋を出た。
「おはよう。良く眠れた?」
昨日と同じ食堂で、七穂はコーヒーカップを手ににっこり笑う。
「朝ご飯はセルフよ、お好きなだけどうぞ」
見れば側卓に、もちろん量は調整されているけれどもホテルの朝食ビュッフェのような設備と内容が整えられていた。
「ありがとうございます。……朝食も豪華なんですね」
「久しぶりのお客様だからカッコつけたかったの」
と屈託の無い七穂に釣られて笑い、千紘は側卓の傍へ寄る。大きな窓ガラス越しに庭が見え、良く晴れた空の下で二人の男性が手入れをしていた。七穂を含め、一体何人がこの屋敷にいるのだろうかとぼんやり考えた時。
「今は12人だな」
と思考を読まれたかのような声がして、千紘は危うく皿を落としそうになった。
「ああ、俺を入れたら13人か」
と付け足すように言いながらピッチャーからリンゴジュースをカップに注いでいる人を呆気に取られて眺めていると、七穂がため息を吐いた。
「……凪、初対面の人にそれをやるなって言ってるでしょ」
「そうか」
と肩を竦め、初対面か、と独り言のように呟いてカップを持ったまま食堂を出て行こうとする『御柱様』を七穂は腕を掴んで引き留める。
「ちょっと、興味があって出てきたんでしょ、挨拶くらいしていきなさい」
「いちいち煩いんだよ、お前は」
一応小声だけれど内容は全部聞こえており、儀礼的な笑顔を貼り付けたまま固まっている千紘に七穂は、ごめんなさい、と苦笑した。
「これがうちの“御柱様”。本名は凪っていうの。……ほら、ご挨拶は?」
とまるで子供にでもするようにその肩を掴んで千紘の前に押し出す、押し出された当の本人は眉間に縦皺を刻んだまま千紘を見上げ、
「どーも」
とぶっきらぼうに呟いてすぐに目を逸らす。その言動にやや気おくれはしたものの、
「初めまして、宮谷です。突然お邪魔してすみません」
と頭を下げ、千紘は初めてその人をまともに見た。神事の時はもちろん、起き抜けで見た時は分からなかったけれど、思っていたよりもずっと若い。運転手をしてくれた青年よりも年下だろう、下手をしたら中学性か高校生くらいにも見える。切れ長の一重の目は明るい朝の光の中でもその髪と同じように真っ黒で、日焼けしていない肌の白さと対照的だ。
綺麗な子だな、というのが率直な感想で、自分でも気が付かないうちにしげしげと眺めていたらしい、凪が居心地悪そうに身動きして、
「で、いつまでいるんだ」
と聞いてくるのへ我に返る。
「明後日です。帰りの船が出るんで」
ふーん、と呟いた凪は、ふと千紘の手首に目を遣った。
「……まだ残ってたんだな」
と指先で軽く水晶に触れる、その顔に神事で見た時のようなどこか切ないような表情が掠めるのを見たように思った時、
「名前は?」
と突然言われ、あれ、さっき名乗らなかったかな、と戸惑いながらも、
「宮谷です」
と再度言えば、
「それは同じ顔してんだから見りゃ分かる。下の名前」
とそれが癖なのかつっけんどんに言う。
「千紘です。……というか、あの、」
ふいにあることに気付いて千紘は思わず声が大きくなった。
「ひょっとして父の写真があるんですか?……若い頃、この島で当時の御柱様と巫女の方に助けられたんですよね。俺、父親にそっくりだって言われるんです」
複雑な家庭環境で育ったせいもあり、アルバム一つなく、自分のことはほとんど語らなかった父の昔の姿が垣間見えるかもしれないと期待した千紘をじっと見つめていた凪は、何も答えずに七穂を見た。七穂も凪を見返してから、手にしていたコーヒーカップを置いて千紘の方へ向き直った。
「残念ながら写真はないの。私もお父様の顔は知らないのよ」
「え、でも……今“同じ顔”って、」
「本当に気持ち悪いくらい正臣に似てる。遺伝子って凄いんだな」
と横から独り言のように言い、凪は何でもないことのようにさらりと続ける。
「……正臣は俺が助けた。七穂の二代前の巫女と一緒に」
沈黙が流れる、言われたことの意味が全く分からずに思考が停止する千紘に、七穂は苦笑した。
「ごめんなさい。……神子の呪いと現代のオカルトの世界へようこそ」
------------------------------------------------
古くから『神』に仕えてきた一族、それが神子一族である。
伝承によれば「許されぬ罪業」を犯した神子の祖先が地獄に落ちる代わりに『神』から戦、飢饉、疫病と、繰り返される人々の苦しみを和らげる役目を担わされたのだという。この一族だけに授かった『神饌』の儀式により、祈りのためだけに生きる人間を贄として捧げ、代々の巫女はその贄を守る役目を負う。御柱様というのはその祈りのためだけに生きる人のことを指すのだという。
「まあ、簡単に言えば生贄だな。殺すんじゃなくて逆に死なせないタイプの」
とリンゴジュースを飲みながら天気の話でもするような口調で言う凪を、千紘はぼんやり見守った。
「あの、……どのくらい、」
思わず言いかけて千紘は言葉を切った。自分が尋ねようとしたことへの返答を受け止めきれる自信がなかったからである。が、凪はその迷いなど気にかける風もなく、
「ざっと400年くらい生きてるか。正確には覚えてない」
とさっきと同じようにまるで千紘の頭の中を読んだようにあっさり言う。
さすがに、情報が処理しきれなかった。
つい先週まで普通の会社員として現代社会で働いていたのだ、オカルト系はおろかよくある都市伝説等にも全く興味を持たない人間だったのに、突然科学では全く証明できない世界を突き付けられたのである。一番簡単なのは全てを嘘だと否定してしまうことだけれど、凪も七穂もでたらめを言っているようには決して思えなかった。
凍ったように動かないでいる千紘をしばらくじっと眺めていた凪は、小さく笑った。
「ま、そんな世界もあるってことだ。……この島を出たら夢でも見てたと割り切って普通に暮らせ」
と言い、お前の父親もそう望んでるだろ、と小さく付け足した。
「父は、……この話を知ってたんですか?」
自分でも考えるより先に言葉が出た。その言葉を聞いた途端、凪の顔から笑みが消える、感情を抑え付けたようなぎこちない表情になり、
「……ああ、知ってた」
とだけ呟くと、ふいに食堂を出て行った。その様子が奇妙に千紘の胸に刺さる、理由も分からないのに何故かとても傷つけてしまったような気がしてならない。困り果てて七穂の方を向くと、彼女は穏やかに千紘を見て首を振った。
「気にしないで、あなたが何かしたわけじゃないから」
そういう七穂の表情にもどこか寂しそうな色があり、千紘は戸惑う。その時ふと、あの写真の裏に書いた父の言葉が脳裏に浮かんだ。
『許されることではないが、あの人に会いたい』
ひょっとしてあの人とは凪のことなのだろうか。一体、凪と父との間に何があったのだろう。
「あの、」
これ以上尋ねればさらに自分の常識では理解出来ない世界に触れるのだという恐れがありながらも、千紘は七穂に声をかけた。
「……もう少し話、聞かせてもらえませんか」
------------------------------------------
天気がいいから散歩しましょう、という七穂について神子邸の外へ出ると、秋晴れの柔らかな日差しが降り注いでいる。
「一昨日来たばかりなのに、情報量が多くて混乱してるでしょ。しかもふわふわした現実味のない情報ばっかり」
と苦笑する七穂に千紘も素直に頷いた。
「正直、……そうですね。まだちょっと夢見てるような気がしてます」
「そうだよね。私も神子の家に生まれなかったら絶対信じてないわ、こんなの」
と言いながら左手首にはめた金の透かし細工の腕輪を外すと、千紘の目の前に白い手首を差し出した。痣というにはあまりにも人工的な、三角形を組み合わせたような緋色の文様が手首の内側にまるで彫られたように浮き上がっている。
「タトゥーみたいだけど生まれた時からあるのよ。巫女の証ってやつ。この中二病みたいな模様と肩書背負って一生生きていかなきゃいけないんだけど」
かちりと腕輪の留金をしめながら七穂はため息をつく。
「時々ね、何で私なんだろうって思うんだよね。先祖の罪のために自由には生きられない。でも、凪は巫女以上に定められた枷の中でずっと生きてる」
「凪さん以外に御柱様はいなかったんですか」
「凪の前にはいたのよ。巫女の伝承だと、当初は御柱様として捧げられたのは若い女性だったの。何度も代替わりして……でも、あるきっかけで凪になってからは、ずっとそのまま」
この島を出ることもなく、と呟いて七穂は神子邸の方を振り返ったが、再び静かに歩き出した。
「巫女は死ぬか、存命中でも次の巫女が生まれて巫女職に就けるようになれば役目は解かれる。でも御柱様が役を解かれて“普通の人”に戻れる条件は一つだけ。……神子以外の人間から、その一生を捧げられること」
と言ってから、七穂は不思議そうな顔をしている千紘に小さく笑って付け足した。
「捧げるっていうと分かり難いけど、“一生添い遂げられる人間”と結ばれて全力で愛されることっていうと少し腑に落ちるかな」
「つまり結婚すれば、とかそういうことですか」
「厳密には違うけど、……まあそうかな。だから、若い娘が御柱様として捧げられていた頃は直ぐに相手が見つかったの。呪いと引き換えだかなんだか、神子の女は昔から器量だけは苦労しないから」
と真面目に自分の顔を指差す七穂に、なるほど、と千紘は素直に頷いた。七穂はもちろん、昨日神事に案内してくれた年配の女性も、お世辞抜きに美しい。
「……だからね、御柱様のために一生を捧げようっていう男はたくさんいたの。神事も今よりオープンだった。科学的でないものが受け入れられていた時代だったからね。でも、そのせいで……神事も御柱様の存在も、形骸化した。本来の贖罪の意味が薄れて、嫁入り前の儀式程度に考えられるようになってしまった。ある日、巫女に【神】の神託が下ってね、新しい御柱様が指名されたの。それが凪よ」
と静かに言い、七穂は表情を曇らせる。
「凪さん……男性ですよね」
「そう、当時の成人男性。……今の私達の倫理観からすると不愉快なことなんだけど……例えば、子供の頃に御柱様になっていたら身請けされていたかもしれないけど、そういう対象になるにはあまりにも大人だったし、自分の意思もしっかりあった。普通の人間に戻る【還俗】の儀式が成功するには、ただ相手が見つかるだけじゃなくて、御柱様自身がその相手を認めなきゃいけない。女性が誰かを養える時代でもなかったし、とにかく……凪が還俗出来る可能性は限りなく低かった。神子一族も役目が強化されてね、所謂経済活動を行って生活基盤を確保するグループと直接御柱様に仕える神職のグループに分けられて、神職のグループは凪と一緒にこの島に移された。でもどちらも凪を守るために存在するの。カミコホールディングスが超優良企業で存続し続けているのは、御柱様のためよ。もちろん企業理念には書けないけど」
さっと風が吹きつけてくる、潮風の匂いだと思った瞬間、七穂がにっこり笑った。もう少しよ、と急ぎ足になるのへ慌てて後を追った千紘の前に、ぱっと視界が開け、目の前に美しい青い海が広がった。
「綺麗でしょう。ここは島民も立ち入り禁止の場所なの。神子のプライベートビーチってとこね、小さいけど」
と言いながら、七穂は岩に囲まれた小さな砂浜を指差した。
「約400年前、凪と神子一族が初めてこの島に来た時の場所よ。……あなたのお父様が漂着したのも、ここ」
明るい日の光の中で見ると美しい場所でも、難破した父が暗闇の中辿り着いたことを考えると、さぞ心細かったろうにと千紘は思う。怪我をした体で岩場を抜け、満月の光だけを頼りに森へ迷い込んだ父。
疲労と寒さの中、窪地の灯に導かれてあの沼に辿り着いた父が見たのは、恐ろしいほど冴えた月明かりと銀色に光る水、そして白銀の髪の美しい人が振り返る、驚いたように見開かれた目と伸ばされた腕――。
はっと我に返る、それは今まで経験したことのない感覚だった。
まるで時間が巻き戻って、父の目を通してその光景を見たような感覚、昨日実際に自分が見た記憶とは違うはずなのに、まるで体験したかのような生々しさがある。
「……今のって、」
動揺する千紘に七穂はさらりと、
「百聞は一見に如かずっていうでしょう。……御柱様ほどじゃないけど、巫女にもオカルト的な力はある。今のはその水晶に転写されていたお父様の記憶をあなたの頭の中に一時的に再生させたの。何でもかんでも再生できるわけじゃないんだけど」
と言い、表情を改めて千紘を見た。
「でも、私が教えてあげられるのはこれだけ。起こったことは教えてあげられても、それでお父様がどうして写真の裏にあの言葉を書いたのかは分からない。……推測することは出来ても正しいかは不明」
海を見つめる七穂と並んで潮風を浴びながら、千紘は深呼吸してこれまでの情報を整理しようと努めた。
神子一族の呪いと伝承、秘められた美しい神事、霊異な力を持つ巫女と時間の外を生きる御柱様――。
神秘的なものや幻想的な風景が好きで、世界中を巡ってはそういう写真を撮り続けていた父だったから、おそらく神子の人々の存在に惹かれたのだろうと察しはつく。特に父の記憶に残っていた凪の、他に比べようのない独特の美しさは、もう一度この島に来たいと思わせるには十分だったのではないかと思われる。
だが、引っかかるところが一つあった。
「あの、一度島を出たら、御柱様には二度と会えないんですか」
「そんなことないわよ、来月も来る?仕事帰りに待ち合わせしてうちの船で来れば直通だから早いよ?」
あっけらかんと言う七穂に千紘は思わず笑う。
「そんな簡単な話なんですか」
「神事に参加するっていうハードルをクリアしちゃえばね。……昔はそんなことなかったけど、今は一般人は参加出来ないの。寧ろ一般の人たちの目から神事を遠ざけるのは巫女の役目の一つ。あなたは例外、お父様の件があったから」
「その父は……写真に“許されることではない”と書いてました。だから一度しか会えないのかと」
と感じた引っかかりを口にした千紘に返事はせず、七穂は黙って海を眺めていたが、やがて小さくため息をついた。
「これを伝えるのは……色々迷うところがあるんだけど。でも事実だけは教えてあげる。御柱様に会うことの出来た人間は、その後何度でも会うことは出来る。ただし、【還俗】に失敗した人間は別。忌みものとして扱われ、御柱様どころか神子一族にも近づくことは許されない。一度忌みものとされた人間に再び見えることは厄災を引き起こす……御柱様と巫女に授けられた戒の一つよ」
その言葉の持つ意味に千紘は混乱した。情報として理解はしても、それが父と結びつかない。
「息してる?」
目の前でひらひらと手を振る七穂を、千紘はぼんやり見守った。
「……父は、凪さんを還俗させようとしたってことですか」
「さあ、どうかしら。……私もその推測をしたけど、さっき言った通り本当かどうかは分からない。知っているのは凪だけ」
と言ってから、七穂はつと手を伸ばして千紘の目を覆った。
「ひとまず質問は終わり。新しい情報を見るんじゃなくて、これまでの情報を整理して、それから自分の心に聞いてみて。……凪の言う通り、夢を見たことにして帰るのもいい。それとももっと情報が必要なのか、必要なのだとしたらそれは何故なのか。一旦立ち止まって考えてみて」
------------------------------------------
大月家に戻った千紘は、ひとかけらの悪意もない、だが全く好奇心を隠せていないさと子の質問攻めからようやく解放され、自室のベッドに倒れ込んだ。
短期間での情報過多でさすがに精神的な疲労が酷く、まだ昼前だというのに頭が上手く働かない。ほんの少し休息するつもりだったのがいつの間にか眠り込んでいたらしく、気付けばそろそろ夕方になろうという時刻になっていた。
慌てて階下に降りていくと、丁度さと子が庭先から洗濯物を取り込んでいるところだった。
「あら、起きた?お昼に起こそうかと思ったんだけど、あまりにも良く寝てたからそのままにしちゃったわ。お腹減ってない?」
「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと喉が渇いて」
「ああ、それならお茶淹れてあげるから待ってて」
と言うのへ礼を言い、指差された囲炉裏の部屋へ入るとあの老婆がぽつんと座っていた。
「こんにちは」
とそっと声をかけると、老婆は身動きもせず、ただ静かに、
「まさか……あの方に会ったのか」
と言う。一瞬躊躇ったものの思い切って、ええ、と返事をすると、彼女は驚いたように千紘を見、両手で顔を覆った。
「……格別の慈悲じゃ。あの方は身を削いでもあんたを思っておる。もう一度あんたに会えば、二度と元の人間には戻れないかもしれないというのに、何という……」
微かに肩を震わせて沈黙した老婆は、それ以上何も言わずに、覚束ない足取りで部屋を出て行った。その後ろ姿を見守りながら、おそらく彼女は自分と父を混同しているのだと千紘は思う。神子家で得た情報と照会すればそう考える方が自然ではないだろうか。あの方とは御柱様、凪のことを指すのだろう。
『一度忌みものとされた人間に再び見えることは厄災を引き起こす』
『もう一度あんたに会えば、二度と元の人間には戻れない』
七穂と老婆の言葉が符牒のように合い、やはり父は凪を還俗させようとして、そして失敗したのだと千紘は確信する。だが、確かに女性の影はなかったけれどストレートだと信じて疑いもしていなかった父が、いくら美しいとはいえ男性の凪に被写体としてではなく惹かれていた、という事実がどこか他人事のようにふわふわとしていて、自分の中に吸収されない。でも、これは――。
ふと、千紘の耳にある言葉が蘇る。それは元婚約者が最後に言った言葉だった。
『今までありがとう。愛されてるってずっと勘違いしていられれば、それはそれで幸せだったのかな』
船に乗せてくれた漁師が呆れたように聞いてくるのへ、千紘は苦笑した。
「まあ、……何ってわけじゃないんですけど」
「隣の東渡良瀬島ならダイビングスポットやらなんやらで人気出てきたけど、こっちはほとんど無人島だと思われてる。特に時季外れに来る人間なんか見たことないわ」
と無遠慮に言い放った漁師は、あ、と閃いたような顔をした。
「兄ちゃん、ひょっとしてあれか、ユーチューバーってやつか?何か人が行かんようなとこ行って中継したりするやつ。うちの孫が好きでよう見てるけど」
「いえ、僕はただの会社員です。……あの、この島って古い神社があるんですよね?」
「神社?あー、何か古い社があるな、何でも江戸時代よりずっと前からあるっつう。でも特に何かの文化遺産とかなわけでもねえよ、おんぼろで幽霊でも出そうな……兄ちゃん、」
とここで漁師は再び閃いたような顔をした。
「オカルト系ユーチューバーか?」
秋のヨーロッパを満喫しよう、婚約者とそんな話をしていたのは1年近く前のこと、もし人生がその通りに進んでいれば今頃美しい古都を幸せな気分で歩いていたのかもしれない、と千紘はぼんやり考える。自然は濃いけれども美しいというよりはどこか荒涼とした、日の落ちかかった山並みを眺めながら、予め電話で教えられたとおりの一本道を30分も歩いただろうか、やがて一軒の古民家が見えてきた。
玄関にたどり着いても表札も呼び鈴も何も見当たらず、思案したのちガラスの嵌っている古い扉を遠慮がちに叩くと、はーい、と元気な声がして50代半ばくらいの女性が扉を開けてくれた。
「ああ、あなたが宮谷さんね?初めまして、大月さと子です」
「宮谷千紘です。本当にすみません、突然連絡させてもらって……」
と千紘は表情を改めて、
「宿を引き受けて頂いてありがとうございます。五日間お世話になります」
と頭を下げた。
「いいのいいの、こんな遠いところまでよく来たね。さ、上がって」
気さくな明るい態度は長旅をしてきた千紘の緊張を解いてくれ、言われるままに靴を脱いで上がると、囲炉裏のある広間に通された。
「東京からだとびっくりするほど遠かったでしょう」
お茶を淹れながらさっきの女性が労わるように声をかけてくれる。
「そうですね、ここへ向かう交通手段があまりなくて。……あの、こちらのお家、とても素敵ですね」
「最近古民家カフェっていうの?何かそんなのが流行ってるみたいで、たまに取材とか受けるのよ。この辺はもう完全に限界集落なんだけど、どの家も古い時代のものがそのまま温存されてるし、一般的な古民家とも間取りやデザインが違ってるところが多いのよね。一つの地域にこれだけバリエーションがあるのは珍しいらしくて、建築関係の人やデザイナーさん達が泊りに来ることもあるわ」
と言うのを聞きながら、千紘はなるほどと思った。宿泊施設も何もないこの島へ来るのに、何とか探し出した伝手を頼ってこの家に泊めてもらえないかと連絡した時、さして怪しまれることもなかったのはこういうことかとひとり胸の内で頷く。
「宮谷さんもそっち関係の方?調査のために滞在したいって言ってたけど」
「いえ、僕は……特にそういう業界とは関係のない会社員なんですけど、古い寺社やその土地の歴史に興味があって、色々調べたりしているんです。こちらにあまり知られてない小さな神社があると聞いて」
さっきの漁師に言ったのと同じ、何度も練習してきた通りの嘘を言えば、女性は何も疑わない様子で、
「そうなの。確かに小さな社があるけど……でも、ずっと昔からある何の変哲もないお社よ?東渡良瀬島にある渡良瀬神社の方がまだ見どころあるんじゃないかな」
とこれも似たような返事が返ってくる。
「あんた……何で戻ってきた?」
突然後ろで声がして、振り向くとひとりの老婆がこちらを凝視していた。もちろん初対面だけれど、相手は千紘のことをそうは思っていないらしい。
「おばあちゃん、この人はしばらくここで泊めてあげるお客さんよ」
慣れたものらしい、女性は何を咎めるわけでもなくのんびりと老婆に言い、千紘に向かってやや声を落とし、
「ごめんなさいね、うちのおばあちゃんなんだけど、認知症なの」
と告げ、
「さ、おばあちゃん、お薬飲んでないでしょう。お部屋に持って行ってあげるから、戻りましょうね」
千紘に目配せをすると女性はさっと立ち上がり、老婆を介添えして広間から出て行った。ひとり残された千紘は、湯呑を両手で囲いながらほっと溜息を吐く。昨日の昼過ぎに家を出て、この島に来るのにざっと24時間以上、さすがに多少の疲れは感じている。程よい濃さの茶を啜ってから、脇に置いたリュックの中から一枚の古い写真を取り出す、裏に小さく書かれた文字はとっくに暗記しているけれど、もう一度読み返してみる。
『風哭島。
もう一度行きたい。許されることではないが、あの人に会いたい』
これは5年前に事故で他界した父が遺した写真だ。見つけたのはつい最近、思い切って父の蔵書を処分しようとしていた時のことである。写っているのは鬱蒼とした森の中に佇む古い社、どこで写したものなのか画面には何の手掛かりもなく、ただその裏に父の筆跡でこの文言が書いてあったのだ。
風哭島など聞いたこともなく、それがどこにあるのかは分からなかったけれど、『許されることではないが、あの人に会いたい』という言葉が千紘を捕らえたのである。
写真に記されている日付からこれが撮影されたのは父が20歳くらいの頃のこと、もちろん自分は生まれていないし母とも出会っていないから不倫などではないだろうけれど、小学生の頃に母と離婚して以来、全く女性の影も無かった、どちらかといえば堅物の父がこんな言葉を遺していたのが、奇妙に胸に刺さったのだ。それは結婚直前で婚約者に棄てられた今だからなのかもしれない。
「ごめんなさいね、ほったらかしにしちゃって。お部屋に案内するわね」
ぱたぱたと軽い足音がしてさっきの女性が戻ってきた。慌てて三和土に置いたままだったキャリーケースとリュックを抱え、千紘は女性の後に続いて二階へ上がる。通されたのは和室を改築した8畳ほどのフローリングの部屋で、テレビこそないものの、エアコンにベッド、パソコン用の机、椅子まで置いてあった。
「宿屋じゃないけど、若い人が泊りにくる機会が増えたから、お仕事出来るようにしてみたの。うちの子たちが学生時代に使ってたものをリメイクして。今はみんな大人になって島の外に出て行っちゃったけど」
「すごいですね!これはデザイナーさん達にとっても有難いと思います」
「何ならwifiも使えるから。机の引き出しにパスワード入ってるからご自由にどうぞ。あと1時間半くらいで夕飯になるから、また呼びに来るわね」
「大月さん、色々ありがとうございます」
「どういたしまして。……あと、この辺の人は私をさと子さんって呼ぶからそう呼んでね。大月さんって言われると一瞬身構えちゃう。役所か病院じゃないと呼ばれないから」
と屈託なく笑うのに釣られて千紘も笑った。
「それじゃ、さと子さん、この島って正式には西渡良瀬島にしわたらせじまですよね。何で“風哭島”って呼ばれるようになったんですか?」
「うーん、逆かな。西渡良瀬島って名前がついたのが明治時代で、それより前はずっと風哭島って言われてたらしいよ。この島から流れてくる風は泣いているみたいな音がするって言われて。……正式な文献なんかは見つかってないんだけど、何でも元々は流刑地だったっていう話もあるのよね」
「流刑地……ですか」
「まあ、言い伝えレベルだけどね。じゃあ、ご飯までゆっくりしてて」
さっきまで薄日が差していた島は、夕食が終わる頃にはすっかり闇に包まれていた。風呂を借り、長い廊下を通って部屋に戻る途中、さっと月明かりが差し込んで来る。思わずガラス戸に寄って空を見上げると、いつの間にか雲が切れて月が顔を出していた。
(満月……かな。いや、少し欠けてるか)
都会と違い、辺りに灯がないせいか、非常に冴えて美しい。こんな月を見たのは生まれて初めてかもしれない、とぼんやり考えていると。
「明日は満月。……だから戻ってきたのか」
と後ろから声がして、振り向くとさっきの老婆が静かに立ってこちらを見ていた。
「あの、……僕はこちらに来たのは初めてで……」
「あの方はあんたを責めん。恨んでもおらん。だが、その代わりとして二度とは会えん。……いくら満月を待ったところであんたの望みは叶わん」
どこか哀れむような、教え諭すような口調で言い、現れた時と同じように静かに廊下の先の闇へ消えていくのを見送りながら、千紘はあることに気付く。
さと子から認知症だと聞いてはいたけれど、あの老婆の言った言葉には単なる病から来る妄言だとは思われない何かがあった。自分のことを誰かと勘違いしてはいるけれど、その誰かに対して真摯に物を言っているような気がしてならない。満月、戻ってきた、二度と会えない――幾つかの言葉が理屈でなしに千紘の胸に刻まれる。
ふ、と目の前が暗くなる、綺麗に見えていた月が再び分厚い雲に覆われていた。風がガラス戸をかたかたと鳴らし、心なしかぐっと気温が下がったような気がする。湯冷めをして風邪を引いてはいけないと自室に戻った千紘はベッドに腰かけ、先ほどの父親が遺した写真を取り出した。明日はこの社へ行ってみようと思いながら再び裏の文言を辿る。
あの人に会いたい。
その文字と、さっきの老婆が言った“二度とは会えん”という言葉が不思議と重なり、何とはなしに千紘は落ち着かない気分になる。ふいに強い風が窓に吹き付けてくる、遠くで誰かが泣いているような声が聞こえた気がしてとっさに立ち上がり、カーテンを引いてみると、外は完全に月の隠れた闇夜になっていた。
------------------------------------------
翌日は曇天で、昨日よりもだいぶ肌寒い気温になっており、少し厚めの上着を持ってきて良かったと千紘は思った。リュックの中には今朝さと子が作ってくれた昼食用のおにぎりと水筒が入っており、手には紙の地図が握られている。
「コンビニはないし、GoogleMapは途中から使えなくなるからね」
と出かける前に笑いながら手渡されたもので、この地図もさと子が作ったものだという。この集落のあちこちにある家の場所と家主の名前、おおまかな特徴を書いたもので、古民家を調べている人には重宝する仕上がりになっている。千紘が行きたい社は、予め印刷された紙の上にマジックで位置が書き足されてあった。
「宮谷さんが行きたい社はね、だいたいこの位置。ここから歩いて……そうね、1時間くらいかな」
と言ってから苦笑し、
「でもね、水を差すようで申し訳ないんだけど……本当に小さくて古いだけだから、見るものなくて時間持て余しちゃうかも」
「そうしたら、折角ですから見せて頂ける家があったら見せて頂いてきます」
「うん、それがいいわね。あ、でもそしたら一つ注意」
とさと子は社に一番近い家を指差した。
「このお家は声を掛けない方がいいと思う。何ていうのかな……島民以外の人を歓迎しない傾向があるから。このお社もね、本当はこのお家……神子さんっていう古い地主さんなんだけど、そこの私有地内にあるのよ。お社までは行っても怒られないけど、その後ろには柵がしてあって、そこから先は私たちでも立ち入り禁止になってるから、間違って入らないように気を付けて」
田舎だからそういうことあるのよ、とさと子は肩を竦めた。
「分かりました。それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。暗くなる前に戻ってきた方がいいわよ、この辺って街灯ないから」
歩いて10分も経った頃、さと子の言った通り携帯は圏外になった。道そのものは農作業用の車も通れる広い一本道で特に迷うことはなかったが、あちこちに散らばっている民家はどれも広くそれぞれに趣きもあり、遠目から見ていてもなかなか面白い。時折もらった地図で家の位置を照らし合わせながら道を進み、40分ほど歩いたところで急に民家は途絶え、平坦だった道がそこそこ傾斜のついた上り坂になった。
地図によれば社があるのはこの先、よし、と上り切ったところで目の前に現れたのは、今まで見てきたどの民家とも違う、石垣に囲まれた、もはや民家というよりは“屋敷”レベルで、千紘はこの屋敷が地主であるという神子家なのだと気付いた。とすれば目的の社もすぐ近くのはずで、千紘は屋敷の右手側の道へ入る。これまでと違い、やっと人がひとり通れるだけの細い砂利道で、伸び放題の草や木の根がさらに歩くのを阻むように足元へ絡みついてくる。
苦労して歩いてようやく辿り着いた社は本当に小さく、古く、何度か言われてはいたものの実際に拍子抜けするほど何の変哲もないものだった。だが、例の写真を取り出してみると、紛れもなく被写体はこの社だったことが分かる。
近くに寄ってみれば、欅と檜で出来た小さな社は古びてはいるものの清掃が行き届いており、蜘蛛の巣や泥のはね跡も見当たらない。正面にある二基の石灯篭も綺麗に拭き清められ、社の周囲だけは草木の手入れもされており、誰かが管理しているらしいと考えながら千紘は社の裏に回ってみた。
(ああ、これが柵か)
さと子に教えられた通り、社からさらに後ろに続く細い道には柵と簡単な木戸が取り付けられてあって、それ以上進めないようになっている。木戸には一応南京錠がかかってはいるものの、柵は低く乗り越えることも出来なくはないが、木戸の向こう側には、無遠慮に踏み込むことを怖気付かせるようなあまりにも静かな空気があった。
あきらかに木戸を境に世界が違っているような感覚に襲われ、所謂オカルト的なものを一切信じない千紘もさすがに薄気味悪く感じる。これ以上見るものはなし、木戸から離れて社の表へ戻ったところで、さあっと風が吹いてきて、千紘はあることに気付いた。
木戸の向こうには風がなかった。
分け入るのが怖いような静かな空気だと感じたのは風がなかったからだ。地形の影響なのか生い茂る木々が防風の役割を果たしているのかは分からなかったけれど、理屈が分かれば何ということはない、と千紘は苦笑する。本当にこれでは時間を持て余すな、と思いながらもと来た道を引き返す、神子邸の前に出た時、この辺には似つかわしくないエンジン音と共に一台の黒塗りの車が乗り入れてきた。
がらりと重い音を立てて玄関の扉が開き、中から男性が2人と女性が1人出てくる。若い方の男性が駆け寄って後部座席のドアを開けると、降り立ったのは質の良いスーツに身を包んだ女性、すらりと背筋を伸ばした立ち姿は、一瞬ここが辺境の島だったことを忘れるほどのインパクトがあり、千紘は思わず立ち止まった。
年の頃は自分とそんなに変わらないくらいだろうか、都会的な美しい人だけれど、どこか浮世離れした近寄りがたい雰囲気を持っているのは何故だろうと取り留めのないことをぼんやり考えていると、ふ、とその女性がこちらを振り向いた。正面から目が合い、しまったと思うより早く、
「……この島の人じゃないよね?」
と真っ直ぐにこちらへ声を掛けられ、千紘は内心慌てながらも、
「はい、東京から来てます」
と答えると、何を思ったのか彼女はそのまま千紘の傍まで近寄り、声をかけたのと同じように真っ直ぐに目を覗き込んだ。
「……何しにきたの?こんなところまで」
と尋ねる声は静かで、どこか冷たく透き通って聞こえた。
「え、……っと」
あの船に乗せてくれた漁師やさと子に対して言ったのと同じ回答をすればいいものを、とっさに言葉が出てこなかったのは、彼女の持つ独特の雰囲気に気圧されたからだけではない。
――本当の理由は自分でも分からないのだと千紘は思う。
「東京の喧騒を離れて自然にでも癒されに来たってとこかな」
言葉に詰まったままでいる千紘に、女性は突然表情を和らげてこう言った。
「それとも古民家の見学?……ここで会ったのも縁だから家へ寄っていけば?」
「いや、その、ご迷惑になりますし、」
「いいわよ。うちは私がいる時じゃないとお客さん中に入れないから。あなたラッキーよ」
と決まったもののように言い、ハイヒールで軽快に砂利を踏みしめながら先を歩きだす。
「うちは神子っていうの。私は神子七穂。あなた、お名前は?」
「僕は宮谷といいます。申し遅れてすみません」
遅れないように少し速足で後に続いていた千紘は、突然立ち止まった七穂にぶつかりそうになった。
「みやがい……?」
「はい、……あの?」
「じゃあ、宮谷さんね」
にっこり笑って再び歩き出すのへ、千紘は何となく不安になる。今、ほんの一瞬七穂が見せた動揺は何だったのだろうか、思い過ごしではないような気がする。
「お客さんよ、お茶の用意お願い」
七穂は先ほど玄関口に出てきた女性に声をかけ、少し声を落として、
「……離れは?」
と言う。
「……お目覚めになりました。お変わりありません」
とこれも小声で返した女性は千紘に向かって、いらっしゃいませと頭を下げた。たった今会ったばかりの明らかにのよそ者の自分を突然家に招いた七穂の行動にも、驚いた様子も困惑した様子もなく淡々と従うのへ、千紘は再び浮世離れした雰囲気を感じる。この家も、人も、どこか日常の世界と切り離されているような――。
「入らないの?」
七穂の声に我に返る、現実に戻ったはずなのに、やはりこの家の扉がどこか別の世界へ繋がっているような気がして、千紘は再び返事に詰まった。七穂は千紘の様子に薄く笑い、怖いのかな、とまるで千紘の胸の内を見透かしたように呟いたが、これもさっきと同じようにがらりと表情を変え、
「ねえ、カミコホールディングスって聞いたことある?東証プライムに上場してるんだけど」
と突然現実的なことを聞いてきた。もちろん、日本有数の大企業を傘下に持つ持株会社であることは社会人なら誰でも知っていることではある、が。
「え、……あの、ひょっとして、」
「ここがカミコグループの創業者、神子一族の本家。……公式ホームページとウィキペディアには違うこと書いてあるけどね。ちなみに私も直系のひとりなの。普段は東京の神子電子で人事部長やってます」
「え、すげっ……じゃなくて、凄いですね」
思わず大声を出したのを慌てて取り繕えば、七穂は笑った。
「やっぱりこういう方が食いつくんだ。ね、面白いでしょ」
通された部屋は檜のフローリングに採光を考えた大きな窓ガラス、木とガラスを組み合わせたローテーブルや革張りのソファなどが置いてある、屋敷の外観からは想像もつかない現代風の、所謂和モダン調の居間だった。
「帰ってきてる時はここで仕事してるの。東京の人なら畳の広間よりこっちの方が肩凝らないでしょ」
と七穂は笑うが、置いてある家具やファブリックの類全て素人目にもハイブランドのものであると分かり、千紘は運ばれてきたコーヒーを飲むのにも緊張する。
「……で?改めて聞くけど、こんな何もない島に何しに来たの?古民家見学でもバードウォッチングでもないよね」
今度の尋ね方には先ほどの冷たさはないけれど、それでも有無を言わさぬ何かがあって、千紘はコーヒーカップを下に置いた。
「5年前に亡くなった父が遺した写真に、この島の社が写っていたんです。父にとって、……僕も良くは分からないんですけど、多分、……その、若い頃に大切な思い出があったみたいで」
と件の写真を手渡すと、七穂は確かにうちの社ね、と小さく頷いてそのまま写真を裏に返し、手書きの文字を黙ったまま見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「これは、お父様が書いた……?」
「ええ、父の筆跡です」
「……そう」
と呟くように言い、しばらく窓の外に目を遣っていたが、
「お父様から何か……この島に関することを聞いたことはある?」
「いえ、何も。この写真を見つけたのもつい最近なんです」
「立ち入ったことだけど、この写真だけでこの島に来ようと思ったのはどうして?東渡良瀬島に来るのだって一週間に一回しかフェリー出てないし、長期のお休み取らないと来られないでしょう」
「本当は……別の予定があって、この時期に休みを取っていたんです。それが無くなってしまって」
と言いかけて千紘は言葉を切る。先ほども答えられなかった通り、この島に来た本当の理由は自分でも分からない。ただ、この写真を見つけた時、まるで何かに引き寄せられるようにこの島にいかなければと思ったのだ。
この島に来ることで、自分は何を――。
「宮谷正臣さん」
ふいに言われた名前に唖然とする、文字通りぽかんと口の開いた千紘を見て七穂は笑った。
「……まあ、そういう顔になるよね」
「何で……父の名前を……」
「ねえ、運命とか……呪いとかって信じる?」
「や、……えーとですね、あの、」
人生で初めてというくらい混乱する千紘に、そりゃあ信じないわよねえ、と一人合点したように頷き、七穂は残りのコーヒーを飲み干して立ち上がると、そのまま千紘の座っているすぐ後ろへ来て、ふわりと肩に手を掛けた。
「お父様にこの島で何があったのか、自分の目で確かめなさい」
静かな声は最初に感じた時のように冷たく透き通り、この世のものではないような錯覚に捕らわれる。返事も出来ないでいる千紘の耳に、七穂は唇を近づけて囁いた。
「神子の巫女が招きである、そなたに神事を拝することを許す」
------------------------------------------
「上手くいけば玉の輿よ?あ、逆玉っていうのかしら」
どこか楽しそうに言うさと子に千紘は苦笑する。
偶然七穂と出会って家を見学させてもらううち、東京で似たような仕事をしていることが判明し、意気投合して、神子家の夕食に招かれた――という七穂が3秒で思いついた適当な話を恐る恐るさと子に話したところ、疑わないばかりかさらに都合よく解釈してくれたのは、この場合有難いというべきなのだろうか。
「実はうちのおばあちゃん、元々は神子家から大月家に嫁いできた人なの。何かの縁があるのかもね。普通は島の外の人とは交流しないお家だから」
と屈託の無いさと子の気を損ねないように相槌を打ちながら、千紘は七穂に言われたことを考えていた。
――お父様にこの島で何があったのか、自分の目で確かめなさい
何故父の名を知っているのか七穂は何も教えてはくれなかったけれど、この島に来てたった二日目でこんな言葉を聞くとは思いもよらなかった。子供の頃から自他ともに認める徹底した現実主義者で、神秘や宗教の類を信じることも興味を引かれることも一切なかったけれど、さすがに運命という言葉が頭をちらつく。
いつもなら明確な目的や自分で認識出来る情熱や嗜好がなければ行動しないはずなのに、たった一枚の古い写真をきっかけにこんなところまで来てしまったこと自体が通常の自分の行動パターンとは逸脱しており、その結果初対面の女性から何の情報もない『神事』に参列するようにと言われてしまった。
「あ、お迎えが来たみたいよ」
車の音にさと子は玄関の扉を開けた。先ほど七穂が乗っていた車が玄関の前に停まり、運転席からこれも先ほど神子家で見た若い男性が降りてきて、さと子と並んで立っていた千紘に丁寧に頭を下げた。
「宮谷様、七穂様の命によりお迎えに上がりました」
まだ大学生くらいの若さでありながら声音も立ち居振る舞いも落ち着いており、やや古風な言葉遣いにも少しも違和感がなく、それが何となくこれから非日常の空間に誘われるのだという印のようにも感じられて、千紘は一瞬怯む。
「どうぞ」
と青年が開けてくれた後部座席のドアを見つめるうちに、ふと千紘は本来のリアリストとしての自分の感覚が戻ってくるのに気付いた。まずは自分の目で見て情報収集、それから神子家と父との関係を調べれば良い、と肚を決め、千紘は思い切って車に乗り込んだ。
昼間は随分歩いたけれど、さすがに車だと10分もかからないうちに神子家の屋敷が見えてきた。が、車は玄関を通り過ぎ、そのまま石垣をぐるりと迂回して屋敷の裏側に停まる。車を降りると、目の前には小さいながらしっかりした門があって、左右の石灯篭の灯が周囲を仄かに照らしており、門から出てきた人影が千紘に向かって頭を下げた。
「よくお越しくださいました。ここからは私がご案内します」
見れば昼間に七穂と言葉を交わしていた年配の女性で、全身黒の和装に、手には白い提灯を下げている。
「あの、七穂さんは……?」
「巫女の務めがございますので、先に清め場におります。万事申し付かっておりますのでご心配なきよう」
言われたことの半分も理解出来なかったけれど、こちらへ、と促されるのに従って千紘は大人しく彼女の後に続く。15分ほども歩いた頃だろうか、斜め前方に小さな灯が見え、千紘はそれが件の社の灯籠の灯なのだと気付いた。とすれば、おそらく今自分がいるのはあの柵の向こう側、そういえばさっきまで感じていた風がない。
さすがにぞくりとするのを見透かしたように、女性は立ち止まってこちらを振り向いた。
「もう少しでございます。宮谷様に害のあるようなことは起こりませんから、お案じあそばしますな」
穏やかに言われるのへ何となく心が落ち着き、はい、と返事をして千紘は再び女性について歩き出す。しばらくすると緩やかだけれども長い石段があり、降り切ったところで女性は再び足を止めた。周囲には幾つか灯が見え、おそらく参列者か関係者か、ともかく人がいるのだろう。
「もう間もなく神事が始まりますので、こちらでお待ち下さい。半時間ほどで終わりますが、私がお声がけするまで決してこの場から離れたり声を出したりなさいませぬよう、お願い申し上げます」
千尋が頷くと、女性は黙って離れていった。辺りは月の隠れた深い闇、ところどころに揺れるか細い灯ではほとんど何も見えず、人の気配はあっても声は聞こえない。ただ、小さく水の湧くような音が聞こえており、近くに川でも流れてるのかとぼんやり考えていると、一筋の金属を打つような鋭く高い音が闇夜を裂く。次の瞬間、さあっと強い風が吹き、今まで分厚い雲に隠れていた満月が現れて、さっきよりも周囲がはっきりと見えるようになった。
目の前には澄んだ水を湛えた小さな池があって、どうやら中央付近から地下水が湧いているらしく、絶えず波紋が広がっている。左手には四阿のような建物があり、そこから石の道が池の中央にまで延びていた。冴えた月の光を反射した水が仄白く輝き、その幻想的な美しさに千紘は呆然とする。
と、再び先ほどと同じ音がして、四阿から人影が出てきた。白装束に黒髪を束ねているのは七穂だと直ぐに気付いたが、七穂の後ろから歩く人影に千紘は息を呑んだ。七穂のような白装束に、銀色を帯びた長く白い髪――。
呆気に取られる千紘の視線の先で、七穂は水際に立ち止まり、一旦石の道を降りて後続の人影に向かって一礼した。その人は正面を見据えたまま池の中央まで進み、最後の敷石の上で静かに満月を仰ぐ、それが合図にでもなったかのように吹いていた風がぴたりと止み、さらなる静寂が訪れる。
ますます冴えた月の光が水面をさらに明るく輝かせ、池全体が白銀の光に包まれる、と、月を仰いでいた人が石に膝をついた。すうっとその光が中央に集まったと思うと、周囲は再び闇に包まれ、その人だけがまるで自身が発光しているかのように見える。
それだけでも信じがたい光景なのに、千紘はあることに気付いて愕然とした。
少しずつ、少しずつ――白い髪が黒髪へと変化していったのである。
まるで時間が巻き戻されていくのを眺めているような感覚、これは夢に違いないと思い始めた千紘の耳に再びあの高い音が聞こえ、現実に引き戻される。穏やかな月明かりの中、今や完全な黒髪となったその人物は石の上に立ち上がり、僅かに月を仰いだが、やがて踵を返して石の道を戻り始める。水際で待っていた七穂は先ほどと同じように一礼し、今度はその人の後ろから続く形で、二人で池から離れていった。
「……以上でございます。宮谷様、一旦こちらへ」
いつの間にか案内してくれた女性が傍に立っており、促されるままに石段の近くまで移動する。
「御柱様が通ります」
と囁かれるのへ顔を上げると、いつの間にか散らばっていた灯が列を作り、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。その後ろから、七穂と、彼女に介添えされた先ほどの黒髪の人が続いて歩いてくる、未だ夢か現か分からないでいた千紘は、ふとこちらを向いたその黒髪の人と目が合った。
一瞬の出来事だった。
こちらが驚くより早く、その人の切れ長の目が大きく見開かれた。ほんの僅かに唇が動くのへ胸を衝かれ、とっさにその人の言葉を聞かなければと足が前に出る、するりと割って入ったのは七穂だった。
微かに笑みを浮かべてこちらの頬に触れ、後で、と囁いてその人を庇うように歩み去っていくのを見送った千紘は、今のが夢ではなく現実なのだと認識した。何故なら神事の時は神か魔か、とにかくこの世のものではないように思っていたその人は、間違いなく人間だった。
こちらの胸が苦しくなるような、切なげな表情を浮かべた生身の人間に違いなかった。
------------------------------------------------
「あー、もう無理。辛すぎる」
神子邸の美しい食堂で、千紘は七穂の食欲の前に圧倒されていた。ああいう儀式の後だから精進料理でも出てくるのだろうという予測に反し、夜遅くに摂るには重すぎる洋食のフルコースを次々に完食していく七穂は、その間中ひたすら千紘相手にぼやき続ける。
「これがほぼ毎月だからね。年によっては満月って13回あるのよ、学生時代ならまだしも、こっちは仕事してるっつーの」
肉をフォークで突き刺すその権幕に怯え、聞きたいことは山ほどあるのに、千紘はただ黙って頷くしかなかった。
「11歳から巫女やってるから修学旅行も行けたことないのよ?修学旅行どころかほとんど行けてないし、高校の時にいたっては卒業式も出られなかった。酷くない?」
とここでワインを一気飲みしてようやく一息つくのへ、
「あの、」
と千紘は恐る恐る声をかけた。
「……父も同じ儀式を見たっていうことですか」
「そういうこと。……まあ、お父様の場合は招かれたわけじゃなくて偶然だったんだけど」
と七穂は手元のワイングラスを見つめる。
「お父様は大学時代、写真を撮るために東渡良瀬島に来たの。帰る日の前日、最後に日没直前の島の外観を撮るために小船を借りて……でも突然の大雨と突風に流されて、この風哭島に漂着した。今と違って携帯も何もないし、民家の無い島の裏側に漂着したから、怪我をしたまま森の中を彷徨ってね。窪地の小さな灯を頼りにあの池に辿り着いて、御柱様と当時の巫女に助けられた」
「御柱様っていうのは、さっきの…?」
「そう。帰り際に目が合ったでしょ」
こともなげに頷く七穂に、おそらく御柱様というのは巫女等と同じ神職名なのだろうと千紘は思った。そう考えると見てきたばかりの“あり得ない光景”も、自分のこれまでの常識の中で説明がつくような気がしてくる。髪の色が変化したように見えたのも、あの冴えた満月の光が水に反射して、そのせいで錯覚したのかもしれない。何故ならあの人は紛れもなく生きている人間だったのだから――。
「あ、今日は遅いから泊っていってね?」
デザートのスフレを頬張りながら七穂が言う。
「さと子さんには連絡入れておいたから。……巫女の仕事って意外と疲れるから、さすがに私も早く寝たいの。聞きたいと思ってることは明日ね」
確かに肝心なことを聞けていなかった千紘は、七穂に胸の内を見透かされたように思った。
「後で部屋に案内させるから、のんびりしてて」
「はい、……ありがとうございます」
さっきまでの緊張がだいぶ解れ、千紘はほっとして食後のコーヒーに口を付けた。窓の外の満月も心なしか穏やかに見える。
やがて頃合いを見計らって、先ほどの運転してきてくれた青年が現れた。心得たように千紘の傍へ寄り、
「お部屋にご案内します、こちらへ」
と言う。青年について千紘が立ち上がろうとすると、そうそう、と七穂は水晶製のブレスレットを取り出して千紘に手渡した。
「この島にいる間はこれ着けておいて。前の巫女がお父様に渡したものよ」
アクセサリーの類は一切したことのない千紘が躊躇いながらも腕を通すと、美しいガラス質の、濁りもクラックもほぼない水晶玉のブレスレットは、採寸したかのようにぴたりと嵌る。
「……きっと、お父様に似てるのね」
と独り言のように呟いた七穂は、改めて千紘の顔を見て笑った。
「何て顔してるの」
「いや、こういう……その、パワーストーンみたいなのってしたことなくてですね」
明らかに居心地の悪そうな千紘に向かい、七穂は楽しそうに言った。
「まあ、この島にいる間は思う存分オカルトを楽しんで」
------------------------------------------------
久しぶりに父親の夢を見た。
最後に会ったのは亡くなる半年前、正月に実家に戻っていた時のことだった。元々父子家庭で、千紘が大学生になってからはカメラマンの父は海外にいることが多かったし、就職してからは実家を出てお互い別々に住んでいたから、正月を親子で過ごすことはほとんどなくなっていたけれど、その年は偶然色々な条件が重なって一緒にいることになったのだ。
もう記憶が曖昧だけれども、仕事の話をしていたことだけは何となく覚えており、その中でこれだけははっきり覚えている父親の言葉があった。
『失敗はしてもいい。取り返しのつかない後悔だけはするな』
夢の中の朧げな会話の中でも、やはりこの言葉を口にした父親は、生前と同じように穏やかな、どこか物寂しげな表情で千紘を見ていた――。
ふと気が付くと見慣れない天井が見え、千紘は自分がどこにいるのかしばらく思い出せなかった。身動きした拍子に左手に着けたブレスレットに指が触れる、水晶特有の柔らかな冷たさに記憶が引き戻され、ああ、神子邸にいるのだったと大きく息を吐く。
「起きたか」
突然降ってきた声に慌てて上体を起こすと、いつの間にか部屋の隅に人がいてこちらを眺めている。灰色のシンプルなセーターにジーンズという恰好、男性の声だと思ったけれど一瞬女性かと見間違えたのは肩に零れている艶やかな長い黒髪だった。あ、この人、と思った瞬間、
「七穂が食堂で呼んでる」
とだけ言うとその人はドアを開けてするりと部屋から出て行った。服装こそ全く違っていたけれど、昨日『御柱様』と呼ばれていた人に違いない。後でまた会えるのだろうかとぼんやり考えながら起きて身支度をする、10分ほど経った後にノックの音がして昨日さと子の家まで迎えに来てくれた青年が顔を出した。
「あ、起きてますね。七穂さんが呼んでるので、食堂まで来てもらえますか」
昨日よりもずっとくだけた雰囲気と言い方は年相応に見え、ようやく現実に戻ってきたような感覚に千紘はほっとする。
「すみません、さっき別の方に呼びに来ていただいたのに遅くなっちゃって。お待たせしてますよね」
と言えば、青年は不思議そうな顔をした。
「七穂さんが食堂に来たのはたった今ですから、大丈夫ですよ?」
「そう……ですか」
とすればさっきのは聞き間違いか、いずれにしても早い方がいいだろうと千紘は青年について部屋を出た。
「おはよう。良く眠れた?」
昨日と同じ食堂で、七穂はコーヒーカップを手ににっこり笑う。
「朝ご飯はセルフよ、お好きなだけどうぞ」
見れば側卓に、もちろん量は調整されているけれどもホテルの朝食ビュッフェのような設備と内容が整えられていた。
「ありがとうございます。……朝食も豪華なんですね」
「久しぶりのお客様だからカッコつけたかったの」
と屈託の無い七穂に釣られて笑い、千紘は側卓の傍へ寄る。大きな窓ガラス越しに庭が見え、良く晴れた空の下で二人の男性が手入れをしていた。七穂を含め、一体何人がこの屋敷にいるのだろうかとぼんやり考えた時。
「今は12人だな」
と思考を読まれたかのような声がして、千紘は危うく皿を落としそうになった。
「ああ、俺を入れたら13人か」
と付け足すように言いながらピッチャーからリンゴジュースをカップに注いでいる人を呆気に取られて眺めていると、七穂がため息を吐いた。
「……凪、初対面の人にそれをやるなって言ってるでしょ」
「そうか」
と肩を竦め、初対面か、と独り言のように呟いてカップを持ったまま食堂を出て行こうとする『御柱様』を七穂は腕を掴んで引き留める。
「ちょっと、興味があって出てきたんでしょ、挨拶くらいしていきなさい」
「いちいち煩いんだよ、お前は」
一応小声だけれど内容は全部聞こえており、儀礼的な笑顔を貼り付けたまま固まっている千紘に七穂は、ごめんなさい、と苦笑した。
「これがうちの“御柱様”。本名は凪っていうの。……ほら、ご挨拶は?」
とまるで子供にでもするようにその肩を掴んで千紘の前に押し出す、押し出された当の本人は眉間に縦皺を刻んだまま千紘を見上げ、
「どーも」
とぶっきらぼうに呟いてすぐに目を逸らす。その言動にやや気おくれはしたものの、
「初めまして、宮谷です。突然お邪魔してすみません」
と頭を下げ、千紘は初めてその人をまともに見た。神事の時はもちろん、起き抜けで見た時は分からなかったけれど、思っていたよりもずっと若い。運転手をしてくれた青年よりも年下だろう、下手をしたら中学性か高校生くらいにも見える。切れ長の一重の目は明るい朝の光の中でもその髪と同じように真っ黒で、日焼けしていない肌の白さと対照的だ。
綺麗な子だな、というのが率直な感想で、自分でも気が付かないうちにしげしげと眺めていたらしい、凪が居心地悪そうに身動きして、
「で、いつまでいるんだ」
と聞いてくるのへ我に返る。
「明後日です。帰りの船が出るんで」
ふーん、と呟いた凪は、ふと千紘の手首に目を遣った。
「……まだ残ってたんだな」
と指先で軽く水晶に触れる、その顔に神事で見た時のようなどこか切ないような表情が掠めるのを見たように思った時、
「名前は?」
と突然言われ、あれ、さっき名乗らなかったかな、と戸惑いながらも、
「宮谷です」
と再度言えば、
「それは同じ顔してんだから見りゃ分かる。下の名前」
とそれが癖なのかつっけんどんに言う。
「千紘です。……というか、あの、」
ふいにあることに気付いて千紘は思わず声が大きくなった。
「ひょっとして父の写真があるんですか?……若い頃、この島で当時の御柱様と巫女の方に助けられたんですよね。俺、父親にそっくりだって言われるんです」
複雑な家庭環境で育ったせいもあり、アルバム一つなく、自分のことはほとんど語らなかった父の昔の姿が垣間見えるかもしれないと期待した千紘をじっと見つめていた凪は、何も答えずに七穂を見た。七穂も凪を見返してから、手にしていたコーヒーカップを置いて千紘の方へ向き直った。
「残念ながら写真はないの。私もお父様の顔は知らないのよ」
「え、でも……今“同じ顔”って、」
「本当に気持ち悪いくらい正臣に似てる。遺伝子って凄いんだな」
と横から独り言のように言い、凪は何でもないことのようにさらりと続ける。
「……正臣は俺が助けた。七穂の二代前の巫女と一緒に」
沈黙が流れる、言われたことの意味が全く分からずに思考が停止する千紘に、七穂は苦笑した。
「ごめんなさい。……神子の呪いと現代のオカルトの世界へようこそ」
------------------------------------------------
古くから『神』に仕えてきた一族、それが神子一族である。
伝承によれば「許されぬ罪業」を犯した神子の祖先が地獄に落ちる代わりに『神』から戦、飢饉、疫病と、繰り返される人々の苦しみを和らげる役目を担わされたのだという。この一族だけに授かった『神饌』の儀式により、祈りのためだけに生きる人間を贄として捧げ、代々の巫女はその贄を守る役目を負う。御柱様というのはその祈りのためだけに生きる人のことを指すのだという。
「まあ、簡単に言えば生贄だな。殺すんじゃなくて逆に死なせないタイプの」
とリンゴジュースを飲みながら天気の話でもするような口調で言う凪を、千紘はぼんやり見守った。
「あの、……どのくらい、」
思わず言いかけて千紘は言葉を切った。自分が尋ねようとしたことへの返答を受け止めきれる自信がなかったからである。が、凪はその迷いなど気にかける風もなく、
「ざっと400年くらい生きてるか。正確には覚えてない」
とさっきと同じようにまるで千紘の頭の中を読んだようにあっさり言う。
さすがに、情報が処理しきれなかった。
つい先週まで普通の会社員として現代社会で働いていたのだ、オカルト系はおろかよくある都市伝説等にも全く興味を持たない人間だったのに、突然科学では全く証明できない世界を突き付けられたのである。一番簡単なのは全てを嘘だと否定してしまうことだけれど、凪も七穂もでたらめを言っているようには決して思えなかった。
凍ったように動かないでいる千紘をしばらくじっと眺めていた凪は、小さく笑った。
「ま、そんな世界もあるってことだ。……この島を出たら夢でも見てたと割り切って普通に暮らせ」
と言い、お前の父親もそう望んでるだろ、と小さく付け足した。
「父は、……この話を知ってたんですか?」
自分でも考えるより先に言葉が出た。その言葉を聞いた途端、凪の顔から笑みが消える、感情を抑え付けたようなぎこちない表情になり、
「……ああ、知ってた」
とだけ呟くと、ふいに食堂を出て行った。その様子が奇妙に千紘の胸に刺さる、理由も分からないのに何故かとても傷つけてしまったような気がしてならない。困り果てて七穂の方を向くと、彼女は穏やかに千紘を見て首を振った。
「気にしないで、あなたが何かしたわけじゃないから」
そういう七穂の表情にもどこか寂しそうな色があり、千紘は戸惑う。その時ふと、あの写真の裏に書いた父の言葉が脳裏に浮かんだ。
『許されることではないが、あの人に会いたい』
ひょっとしてあの人とは凪のことなのだろうか。一体、凪と父との間に何があったのだろう。
「あの、」
これ以上尋ねればさらに自分の常識では理解出来ない世界に触れるのだという恐れがありながらも、千紘は七穂に声をかけた。
「……もう少し話、聞かせてもらえませんか」
------------------------------------------
天気がいいから散歩しましょう、という七穂について神子邸の外へ出ると、秋晴れの柔らかな日差しが降り注いでいる。
「一昨日来たばかりなのに、情報量が多くて混乱してるでしょ。しかもふわふわした現実味のない情報ばっかり」
と苦笑する七穂に千紘も素直に頷いた。
「正直、……そうですね。まだちょっと夢見てるような気がしてます」
「そうだよね。私も神子の家に生まれなかったら絶対信じてないわ、こんなの」
と言いながら左手首にはめた金の透かし細工の腕輪を外すと、千紘の目の前に白い手首を差し出した。痣というにはあまりにも人工的な、三角形を組み合わせたような緋色の文様が手首の内側にまるで彫られたように浮き上がっている。
「タトゥーみたいだけど生まれた時からあるのよ。巫女の証ってやつ。この中二病みたいな模様と肩書背負って一生生きていかなきゃいけないんだけど」
かちりと腕輪の留金をしめながら七穂はため息をつく。
「時々ね、何で私なんだろうって思うんだよね。先祖の罪のために自由には生きられない。でも、凪は巫女以上に定められた枷の中でずっと生きてる」
「凪さん以外に御柱様はいなかったんですか」
「凪の前にはいたのよ。巫女の伝承だと、当初は御柱様として捧げられたのは若い女性だったの。何度も代替わりして……でも、あるきっかけで凪になってからは、ずっとそのまま」
この島を出ることもなく、と呟いて七穂は神子邸の方を振り返ったが、再び静かに歩き出した。
「巫女は死ぬか、存命中でも次の巫女が生まれて巫女職に就けるようになれば役目は解かれる。でも御柱様が役を解かれて“普通の人”に戻れる条件は一つだけ。……神子以外の人間から、その一生を捧げられること」
と言ってから、七穂は不思議そうな顔をしている千紘に小さく笑って付け足した。
「捧げるっていうと分かり難いけど、“一生添い遂げられる人間”と結ばれて全力で愛されることっていうと少し腑に落ちるかな」
「つまり結婚すれば、とかそういうことですか」
「厳密には違うけど、……まあそうかな。だから、若い娘が御柱様として捧げられていた頃は直ぐに相手が見つかったの。呪いと引き換えだかなんだか、神子の女は昔から器量だけは苦労しないから」
と真面目に自分の顔を指差す七穂に、なるほど、と千紘は素直に頷いた。七穂はもちろん、昨日神事に案内してくれた年配の女性も、お世辞抜きに美しい。
「……だからね、御柱様のために一生を捧げようっていう男はたくさんいたの。神事も今よりオープンだった。科学的でないものが受け入れられていた時代だったからね。でも、そのせいで……神事も御柱様の存在も、形骸化した。本来の贖罪の意味が薄れて、嫁入り前の儀式程度に考えられるようになってしまった。ある日、巫女に【神】の神託が下ってね、新しい御柱様が指名されたの。それが凪よ」
と静かに言い、七穂は表情を曇らせる。
「凪さん……男性ですよね」
「そう、当時の成人男性。……今の私達の倫理観からすると不愉快なことなんだけど……例えば、子供の頃に御柱様になっていたら身請けされていたかもしれないけど、そういう対象になるにはあまりにも大人だったし、自分の意思もしっかりあった。普通の人間に戻る【還俗】の儀式が成功するには、ただ相手が見つかるだけじゃなくて、御柱様自身がその相手を認めなきゃいけない。女性が誰かを養える時代でもなかったし、とにかく……凪が還俗出来る可能性は限りなく低かった。神子一族も役目が強化されてね、所謂経済活動を行って生活基盤を確保するグループと直接御柱様に仕える神職のグループに分けられて、神職のグループは凪と一緒にこの島に移された。でもどちらも凪を守るために存在するの。カミコホールディングスが超優良企業で存続し続けているのは、御柱様のためよ。もちろん企業理念には書けないけど」
さっと風が吹きつけてくる、潮風の匂いだと思った瞬間、七穂がにっこり笑った。もう少しよ、と急ぎ足になるのへ慌てて後を追った千紘の前に、ぱっと視界が開け、目の前に美しい青い海が広がった。
「綺麗でしょう。ここは島民も立ち入り禁止の場所なの。神子のプライベートビーチってとこね、小さいけど」
と言いながら、七穂は岩に囲まれた小さな砂浜を指差した。
「約400年前、凪と神子一族が初めてこの島に来た時の場所よ。……あなたのお父様が漂着したのも、ここ」
明るい日の光の中で見ると美しい場所でも、難破した父が暗闇の中辿り着いたことを考えると、さぞ心細かったろうにと千紘は思う。怪我をした体で岩場を抜け、満月の光だけを頼りに森へ迷い込んだ父。
疲労と寒さの中、窪地の灯に導かれてあの沼に辿り着いた父が見たのは、恐ろしいほど冴えた月明かりと銀色に光る水、そして白銀の髪の美しい人が振り返る、驚いたように見開かれた目と伸ばされた腕――。
はっと我に返る、それは今まで経験したことのない感覚だった。
まるで時間が巻き戻って、父の目を通してその光景を見たような感覚、昨日実際に自分が見た記憶とは違うはずなのに、まるで体験したかのような生々しさがある。
「……今のって、」
動揺する千紘に七穂はさらりと、
「百聞は一見に如かずっていうでしょう。……御柱様ほどじゃないけど、巫女にもオカルト的な力はある。今のはその水晶に転写されていたお父様の記憶をあなたの頭の中に一時的に再生させたの。何でもかんでも再生できるわけじゃないんだけど」
と言い、表情を改めて千紘を見た。
「でも、私が教えてあげられるのはこれだけ。起こったことは教えてあげられても、それでお父様がどうして写真の裏にあの言葉を書いたのかは分からない。……推測することは出来ても正しいかは不明」
海を見つめる七穂と並んで潮風を浴びながら、千紘は深呼吸してこれまでの情報を整理しようと努めた。
神子一族の呪いと伝承、秘められた美しい神事、霊異な力を持つ巫女と時間の外を生きる御柱様――。
神秘的なものや幻想的な風景が好きで、世界中を巡ってはそういう写真を撮り続けていた父だったから、おそらく神子の人々の存在に惹かれたのだろうと察しはつく。特に父の記憶に残っていた凪の、他に比べようのない独特の美しさは、もう一度この島に来たいと思わせるには十分だったのではないかと思われる。
だが、引っかかるところが一つあった。
「あの、一度島を出たら、御柱様には二度と会えないんですか」
「そんなことないわよ、来月も来る?仕事帰りに待ち合わせしてうちの船で来れば直通だから早いよ?」
あっけらかんと言う七穂に千紘は思わず笑う。
「そんな簡単な話なんですか」
「神事に参加するっていうハードルをクリアしちゃえばね。……昔はそんなことなかったけど、今は一般人は参加出来ないの。寧ろ一般の人たちの目から神事を遠ざけるのは巫女の役目の一つ。あなたは例外、お父様の件があったから」
「その父は……写真に“許されることではない”と書いてました。だから一度しか会えないのかと」
と感じた引っかかりを口にした千紘に返事はせず、七穂は黙って海を眺めていたが、やがて小さくため息をついた。
「これを伝えるのは……色々迷うところがあるんだけど。でも事実だけは教えてあげる。御柱様に会うことの出来た人間は、その後何度でも会うことは出来る。ただし、【還俗】に失敗した人間は別。忌みものとして扱われ、御柱様どころか神子一族にも近づくことは許されない。一度忌みものとされた人間に再び見えることは厄災を引き起こす……御柱様と巫女に授けられた戒の一つよ」
その言葉の持つ意味に千紘は混乱した。情報として理解はしても、それが父と結びつかない。
「息してる?」
目の前でひらひらと手を振る七穂を、千紘はぼんやり見守った。
「……父は、凪さんを還俗させようとしたってことですか」
「さあ、どうかしら。……私もその推測をしたけど、さっき言った通り本当かどうかは分からない。知っているのは凪だけ」
と言ってから、七穂はつと手を伸ばして千紘の目を覆った。
「ひとまず質問は終わり。新しい情報を見るんじゃなくて、これまでの情報を整理して、それから自分の心に聞いてみて。……凪の言う通り、夢を見たことにして帰るのもいい。それとももっと情報が必要なのか、必要なのだとしたらそれは何故なのか。一旦立ち止まって考えてみて」
------------------------------------------
大月家に戻った千紘は、ひとかけらの悪意もない、だが全く好奇心を隠せていないさと子の質問攻めからようやく解放され、自室のベッドに倒れ込んだ。
短期間での情報過多でさすがに精神的な疲労が酷く、まだ昼前だというのに頭が上手く働かない。ほんの少し休息するつもりだったのがいつの間にか眠り込んでいたらしく、気付けばそろそろ夕方になろうという時刻になっていた。
慌てて階下に降りていくと、丁度さと子が庭先から洗濯物を取り込んでいるところだった。
「あら、起きた?お昼に起こそうかと思ったんだけど、あまりにも良く寝てたからそのままにしちゃったわ。お腹減ってない?」
「いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと喉が渇いて」
「ああ、それならお茶淹れてあげるから待ってて」
と言うのへ礼を言い、指差された囲炉裏の部屋へ入るとあの老婆がぽつんと座っていた。
「こんにちは」
とそっと声をかけると、老婆は身動きもせず、ただ静かに、
「まさか……あの方に会ったのか」
と言う。一瞬躊躇ったものの思い切って、ええ、と返事をすると、彼女は驚いたように千紘を見、両手で顔を覆った。
「……格別の慈悲じゃ。あの方は身を削いでもあんたを思っておる。もう一度あんたに会えば、二度と元の人間には戻れないかもしれないというのに、何という……」
微かに肩を震わせて沈黙した老婆は、それ以上何も言わずに、覚束ない足取りで部屋を出て行った。その後ろ姿を見守りながら、おそらく彼女は自分と父を混同しているのだと千紘は思う。神子家で得た情報と照会すればそう考える方が自然ではないだろうか。あの方とは御柱様、凪のことを指すのだろう。
『一度忌みものとされた人間に再び見えることは厄災を引き起こす』
『もう一度あんたに会えば、二度と元の人間には戻れない』
七穂と老婆の言葉が符牒のように合い、やはり父は凪を還俗させようとして、そして失敗したのだと千紘は確信する。だが、確かに女性の影はなかったけれどストレートだと信じて疑いもしていなかった父が、いくら美しいとはいえ男性の凪に被写体としてではなく惹かれていた、という事実がどこか他人事のようにふわふわとしていて、自分の中に吸収されない。でも、これは――。
ふと、千紘の耳にある言葉が蘇る。それは元婚約者が最後に言った言葉だった。
『今までありがとう。愛されてるってずっと勘違いしていられれば、それはそれで幸せだったのかな』
2
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?
寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。
ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。
ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。
その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。
そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。
それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。
女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。
BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。
このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう!
男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!?
溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。
アルファとアルファの結婚準備
金剛@キット
BL
名家、鳥羽家の分家出身のアルファ十和(トワ)は、憧れのアルファ鳥羽家当主の冬騎(トウキ)に命令され… 十和は豊富な経験をいかし、結婚まじかの冬騎の息子、榛那(ハルナ)に男性オメガの抱き方を指導する。 😏ユルユル設定のオメガバースです。
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
魔力なしの嫌われ者の俺が、なぜか冷徹王子に溺愛される
ぶんぐ
BL
社畜リーマンは、階段から落ちたと思ったら…なんと異世界に転移していた!みんな魔法が使える世界で、俺だけ全く魔法が使えず、おまけにみんなには避けられてしまう。それでも頑張るぞ!って思ってたら、なぜか冷徹王子から口説かれてるんだけど?──
嫌われ→愛され 不憫受け 美形×平凡 要素があります。
※溺愛までが長いです。
※総愛され気味の描写が出てきますが、CPは1つだけです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる