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翠の国の姫君
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温度の低い希世の手は、彼が生者であるか死者であるか、観怜に判別を迷わせた。そして、この得体の知れない人間が春を告げる者であるという信じがたい事実、鳥を鳥たらしめる種の歴史に対して湧きあがる怒りと嫌悪で、観怜は頬を朱に染めていた。群青の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを見た希世は、この男を受け入れなければならない、という絶対的法則は認められないといった様子の観怜に憐憫の情を抱いていた。『恋の時節』にそうした反応を示す鳥も珍しくないことを、希世は知っていたのである。彼は観怜の、糖蜜菓子を貪ったかのような唇を奪おうとして――瞬間、頬に強い衝撃を感じることになった。羽を出す穴の空いた、くすんだ薄桃色の長羽織から覗く観怜の細腕で、これだけ力が出るのかとさしもの希世も驚いたようである。
「観怜様! ……」
観怜を探していた蔡月が、傘を片手に主人を見つけた時には、雨は濃密な霧のようになって新たな恋人たちを包んでいた。彼は平気な顔をしながらも、わざと大仰に頬をさすっている希世と完全に機嫌を損ねてそっぽを向いている観怜を交互に見た。蔡月は観怜に散々屋敷で振り回されている気苦労や、ついにこの時が来てしまった、という嘆息を忘れて、『恋の時節』で巡り合った人間が観怜を『真実の恋人』として大切にしてくれることを真に願っていた。希世は屋敷に久々にやって来た人間に対する蔡月のわずかな動揺を見てとってか、少々の軽口を叩いた。
「……これは随分と気の強い孔雀を持って、君も大変だな」
「『孔雀』じゃない。ぼくは観怜だ」
ええまあ、慣れましたけど、と返そうとした蔡月を遮って反論する観怜の気の強さを希世も多少好ましく思ったようである。彼は観怜を導く蔡月に促されて、鳥たちと共にぼんやりとした暗さのある灰色の屋敷に足を踏み入れたのだった。皇国の中枢たる『京』では、こうした外国浪漫は前時代の芸術とされている。過ぎ去った流行で造られた、鳥たちの小さな世界への内なる諦念を隠すように希世が目を閉じていることに、新しくどの服を着るか蔡月にあれこれと意見を(形だけ)求めている観怜は気が付いていないようだった。
……その夜、使用人たちが引き上げた後、蔡月は緑に囲まれた観怜の私室を訪れていた。希世の来訪という正解が、観怜の行き場のない気持の昂りを和らげる結果になっているかは、主人の様子を見ていると肯定しかねるところがあり、健気に心配しているのである。ひだの多くついたリボンのような芯の無い帯を寝間着に締めて、細かな金の縁取りがついた寝台の上で気難しい顔をしている観怜の横顔には、未知であった恋への期待や、今まで向けられたことの無かった熱烈な情欲への反感の混ざった、複雑な色があった。
「どうです、希世様は」
「……羽、触られたから。反対側も殴ってやった。何なんだ、あいつは。嫌いだ」
神経の通う鳥の羽を触るのは、親密な恋人同士にしか許されない行為であり、いわんや蔡月という第三者が目の前にいる場面では、というところである。もちろん、希世は人間だからそれを知らなかったわけではなく、彼なりに孔雀を娶る者としての親愛を示しただけなのかもしれない。しかし豊かで煌びやかな羽をぞんざいに扱われたと感じた観怜は相当腹に据えかねているようで、夜になって赤みの引いた両手を苛々と開いたり閉じたりしていた。
「同じ鳥として気持は分かりますが、あの方は京の文官……皇帝にも近い立場の方でしょう。再三申し上げているように、手荒な真似は控えていただけますか。これは観怜様の身のためでもあるのです」
蔡月は何度注意しても直らない主人の短慮に、森の梢のような色の羽を降ろすようにして肩を落とした。屋敷の家令として、観怜のお目付け役として、主人に必要以上におもねらない蔡月である。美しいものに強い執着を示す若い皇帝は、政は腹心に任せて、自身は後宮で多くの鳥を侍らせて享楽に耽っていると専らの噂である。狂気と愚昧の渦巻く世界に、孔雀を渡すわけにはいかない――それは蔡月が、この屋敷で観怜に付き従っている命題そのものであった。彼のきっぱりとした声色に、観怜は真鍮の燭台の明かりをじっと見つめて、渋々ながら内省を始めたようである。
「希世は……人間は、鳥を本当に好きになるのか?」
「さあ、それは。悲劇も喜劇も、色々な話を聞きますから」
観怜の抱いている、『鳥と人間の物語』のイメージは、当事者にしてはあまりに綺麗で夢見がちなものであったが、蔡月は明言を避けて、観怜が自分で希世との交流について考えるのを促すことにした。鳥より人間の方が早く死んでしまうことは、神にしか覆し得ない悲しい摂理であったし、この二つの種族の交わりの不安定さは、お互いの種の保存には一切干渉しないのである。しかし、希世がただの軽薄な色男で終わるとは、観怜にも蔡月にもなぜか思われなかったのである。寝台から起き出した観怜は窓を開けて、雨上がりの空に輝く半月を見上げた。当惑しながらも希世の再来を描いているであろうその乙女のような後ろ姿に、蔡月はいくつかの挨拶をして、主人の元から下がった。観怜の好みそうな宝石の髪飾りを、明日のためにいくつか選定してから休もうと決めて、朝も夜も無い家令は衣装室へと歩みを進めた。
この花々の間を吹き抜ける雨の日を過ぎて、屋敷では朝から使用人たちが観怜の身支度に駆り出されていた。主人の朝日の光を受けたような金色の髪に最も似合う髪飾りは何か、という議題は結論をなかなか現さず、普段とやや趣向を変えた薄化粧を施された観怜は、使用人が打ち合わせるひそやかな声が飛び交う中、角度によって微細な趣向を示す、七色の硝子加工が入った手鏡を覗き込んだ。目尻に入った朱や墨色の線は、気もそぞろで力を失っているかのような観怜のつり目に誘惑のまじないを与えていた。蔡月が悩みに悩んで、最後に選んだ、心臓の色をした石を戴く宝冠を、編み込みを作った観怜の髪に絡ませながら使用人が乗せる。少々の沈黙があったが、場に蔓延した不安を払拭するように、いじらしい笑みを満面に観怜が浮かべたことで、使用人たちも皆一様に胸を撫で下ろした。彼が今日身に着けている、宝冠と同系統の、裾を引きながら着る深紅の礼装着物には、蝶や唐草といった刺繍が入っている。彼は高椅子から平たい形をした素足を着けて降り立つと、新しく輝かしい日々をこれから迎えるのだという、浮足立った気恥ずかしさで、指で口紅を軽く擦った。その時、玄関口の呼び鈴が鳴り、蔡月が応答しに奥の間から飛んでくる――のに合わせて、いつもどこかおぼつかない子供のような歩き方をする観怜が、ぱたぱたとその後ろを小走りでついていった。羽を広げて、さりげなく観怜を自身の後ろに立たせながら扉を開くと、先刻までの考え事をそのまま続けていそうな希世が、彼の鳥の華やかな装いに目を丸くしていた。
「いらっしゃいませ、希世様。観怜様は、こちらに」
「お前……希世……」
いざ完璧な準備を経て希世と再び対面したものの、言葉に詰まってしまう観怜は、着物の裾を強く握りしめた。希世に無礼を働かれたのは事実だが、さすがに過激な対抗手段に出てしまったことを謝ろうにも、そうした経験に乏しい観怜にはどうするべきかの判断がつかなかったのである。ばつの悪い顔をしている観怜に、希世はくすくすと笑った。
「今日はわたしをぶたないのか?」
「そうしてほしいなら、考えてやる」
「悪い話じゃないな」
自身の羽を撫でつけながら視線を落としている、観怜の憎まれ口が本心からのものではないことは、希世が彼の相手でなくても恐らく理解できたであろう。しかし、口元だけがふっと緩んでいる希世がまるで(わたしをあの時殺してくれても良かったのに)と言いたげに思えて、観怜は心臓の冷えるような心地がした。
「ぼくを貰い受けると言うなら……勝手にいなくなったりしたら許さないからな」
「分かった、約束するよ。……自分の鳥から離れる男があるものか」
希世の瞳の奥底にあるものを、自身の目で覗いてみたくて、観怜は希世の元へ一歩不均衡な足取りで歩み寄った。彼が読み取れたのは、希世の孔雀を前にした陶酔というよりむしろ、庇護者としての悲壮な決意であった。(これはなぜ? ぼくは、人間のことを、いや、希世のことを何も知らない……)この知見から憂いを深めて羽をぴったりと閉じた観怜の頬に、希世は指を触れた。
「せっかくこんなに綺麗なのに、悲しそうな顔をしないで。……観怜」
ゆっくりと顔を上げた観怜の宝冠の鎖が、さらさらと音を立てて揺れた。その幽(かそ)けき響きは、遠望の利きすぎた希世の心にも確かに届いて、孔雀への渇望を色づかせた。
「観怜様! ……」
観怜を探していた蔡月が、傘を片手に主人を見つけた時には、雨は濃密な霧のようになって新たな恋人たちを包んでいた。彼は平気な顔をしながらも、わざと大仰に頬をさすっている希世と完全に機嫌を損ねてそっぽを向いている観怜を交互に見た。蔡月は観怜に散々屋敷で振り回されている気苦労や、ついにこの時が来てしまった、という嘆息を忘れて、『恋の時節』で巡り合った人間が観怜を『真実の恋人』として大切にしてくれることを真に願っていた。希世は屋敷に久々にやって来た人間に対する蔡月のわずかな動揺を見てとってか、少々の軽口を叩いた。
「……これは随分と気の強い孔雀を持って、君も大変だな」
「『孔雀』じゃない。ぼくは観怜だ」
ええまあ、慣れましたけど、と返そうとした蔡月を遮って反論する観怜の気の強さを希世も多少好ましく思ったようである。彼は観怜を導く蔡月に促されて、鳥たちと共にぼんやりとした暗さのある灰色の屋敷に足を踏み入れたのだった。皇国の中枢たる『京』では、こうした外国浪漫は前時代の芸術とされている。過ぎ去った流行で造られた、鳥たちの小さな世界への内なる諦念を隠すように希世が目を閉じていることに、新しくどの服を着るか蔡月にあれこれと意見を(形だけ)求めている観怜は気が付いていないようだった。
……その夜、使用人たちが引き上げた後、蔡月は緑に囲まれた観怜の私室を訪れていた。希世の来訪という正解が、観怜の行き場のない気持の昂りを和らげる結果になっているかは、主人の様子を見ていると肯定しかねるところがあり、健気に心配しているのである。ひだの多くついたリボンのような芯の無い帯を寝間着に締めて、細かな金の縁取りがついた寝台の上で気難しい顔をしている観怜の横顔には、未知であった恋への期待や、今まで向けられたことの無かった熱烈な情欲への反感の混ざった、複雑な色があった。
「どうです、希世様は」
「……羽、触られたから。反対側も殴ってやった。何なんだ、あいつは。嫌いだ」
神経の通う鳥の羽を触るのは、親密な恋人同士にしか許されない行為であり、いわんや蔡月という第三者が目の前にいる場面では、というところである。もちろん、希世は人間だからそれを知らなかったわけではなく、彼なりに孔雀を娶る者としての親愛を示しただけなのかもしれない。しかし豊かで煌びやかな羽をぞんざいに扱われたと感じた観怜は相当腹に据えかねているようで、夜になって赤みの引いた両手を苛々と開いたり閉じたりしていた。
「同じ鳥として気持は分かりますが、あの方は京の文官……皇帝にも近い立場の方でしょう。再三申し上げているように、手荒な真似は控えていただけますか。これは観怜様の身のためでもあるのです」
蔡月は何度注意しても直らない主人の短慮に、森の梢のような色の羽を降ろすようにして肩を落とした。屋敷の家令として、観怜のお目付け役として、主人に必要以上におもねらない蔡月である。美しいものに強い執着を示す若い皇帝は、政は腹心に任せて、自身は後宮で多くの鳥を侍らせて享楽に耽っていると専らの噂である。狂気と愚昧の渦巻く世界に、孔雀を渡すわけにはいかない――それは蔡月が、この屋敷で観怜に付き従っている命題そのものであった。彼のきっぱりとした声色に、観怜は真鍮の燭台の明かりをじっと見つめて、渋々ながら内省を始めたようである。
「希世は……人間は、鳥を本当に好きになるのか?」
「さあ、それは。悲劇も喜劇も、色々な話を聞きますから」
観怜の抱いている、『鳥と人間の物語』のイメージは、当事者にしてはあまりに綺麗で夢見がちなものであったが、蔡月は明言を避けて、観怜が自分で希世との交流について考えるのを促すことにした。鳥より人間の方が早く死んでしまうことは、神にしか覆し得ない悲しい摂理であったし、この二つの種族の交わりの不安定さは、お互いの種の保存には一切干渉しないのである。しかし、希世がただの軽薄な色男で終わるとは、観怜にも蔡月にもなぜか思われなかったのである。寝台から起き出した観怜は窓を開けて、雨上がりの空に輝く半月を見上げた。当惑しながらも希世の再来を描いているであろうその乙女のような後ろ姿に、蔡月はいくつかの挨拶をして、主人の元から下がった。観怜の好みそうな宝石の髪飾りを、明日のためにいくつか選定してから休もうと決めて、朝も夜も無い家令は衣装室へと歩みを進めた。
この花々の間を吹き抜ける雨の日を過ぎて、屋敷では朝から使用人たちが観怜の身支度に駆り出されていた。主人の朝日の光を受けたような金色の髪に最も似合う髪飾りは何か、という議題は結論をなかなか現さず、普段とやや趣向を変えた薄化粧を施された観怜は、使用人が打ち合わせるひそやかな声が飛び交う中、角度によって微細な趣向を示す、七色の硝子加工が入った手鏡を覗き込んだ。目尻に入った朱や墨色の線は、気もそぞろで力を失っているかのような観怜のつり目に誘惑のまじないを与えていた。蔡月が悩みに悩んで、最後に選んだ、心臓の色をした石を戴く宝冠を、編み込みを作った観怜の髪に絡ませながら使用人が乗せる。少々の沈黙があったが、場に蔓延した不安を払拭するように、いじらしい笑みを満面に観怜が浮かべたことで、使用人たちも皆一様に胸を撫で下ろした。彼が今日身に着けている、宝冠と同系統の、裾を引きながら着る深紅の礼装着物には、蝶や唐草といった刺繍が入っている。彼は高椅子から平たい形をした素足を着けて降り立つと、新しく輝かしい日々をこれから迎えるのだという、浮足立った気恥ずかしさで、指で口紅を軽く擦った。その時、玄関口の呼び鈴が鳴り、蔡月が応答しに奥の間から飛んでくる――のに合わせて、いつもどこかおぼつかない子供のような歩き方をする観怜が、ぱたぱたとその後ろを小走りでついていった。羽を広げて、さりげなく観怜を自身の後ろに立たせながら扉を開くと、先刻までの考え事をそのまま続けていそうな希世が、彼の鳥の華やかな装いに目を丸くしていた。
「いらっしゃいませ、希世様。観怜様は、こちらに」
「お前……希世……」
いざ完璧な準備を経て希世と再び対面したものの、言葉に詰まってしまう観怜は、着物の裾を強く握りしめた。希世に無礼を働かれたのは事実だが、さすがに過激な対抗手段に出てしまったことを謝ろうにも、そうした経験に乏しい観怜にはどうするべきかの判断がつかなかったのである。ばつの悪い顔をしている観怜に、希世はくすくすと笑った。
「今日はわたしをぶたないのか?」
「そうしてほしいなら、考えてやる」
「悪い話じゃないな」
自身の羽を撫でつけながら視線を落としている、観怜の憎まれ口が本心からのものではないことは、希世が彼の相手でなくても恐らく理解できたであろう。しかし、口元だけがふっと緩んでいる希世がまるで(わたしをあの時殺してくれても良かったのに)と言いたげに思えて、観怜は心臓の冷えるような心地がした。
「ぼくを貰い受けると言うなら……勝手にいなくなったりしたら許さないからな」
「分かった、約束するよ。……自分の鳥から離れる男があるものか」
希世の瞳の奥底にあるものを、自身の目で覗いてみたくて、観怜は希世の元へ一歩不均衡な足取りで歩み寄った。彼が読み取れたのは、希世の孔雀を前にした陶酔というよりむしろ、庇護者としての悲壮な決意であった。(これはなぜ? ぼくは、人間のことを、いや、希世のことを何も知らない……)この知見から憂いを深めて羽をぴったりと閉じた観怜の頬に、希世は指を触れた。
「せっかくこんなに綺麗なのに、悲しそうな顔をしないで。……観怜」
ゆっくりと顔を上げた観怜の宝冠の鎖が、さらさらと音を立てて揺れた。その幽(かそ)けき響きは、遠望の利きすぎた希世の心にも確かに届いて、孔雀への渇望を色づかせた。
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