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百花の章 ~廻る貴石の物語~
17.追走の魔法使い
しおりを挟む「エスコルチア! って、うわっ!!」
マレフィキウムに流れ込んできたのは、人魚石に残っていたエスコルチアの記憶。きらきらと輝く、母から見た世界の思い出。
母から見た父の姿は本当に輝いていて、彼女がどれだけ父を愛していたのかということを、マレフィキウムはこれでもかと見せつけられていた。
声を出すことも音を聞くこともできない母。けれど父はそんな彼女の仕草や表情から、まるで魔法のように意思をくみとっていく。彼女の元々の思考が単純ということもあったのだろうが、それでもやはりすごいと、マレフィキウムは父のことを心の底から尊敬した。
そしてそんな二人の関係がまぶしくて、とてもうらやましいと思った。
もちろん母は母で、慣れない人間の生活に馴染もうと懸命に努力していた。料理も洗濯も掃除も畑仕事も、自分でもできるものはすべて父に教えてもらい、積極的にこなしていた。
けれど時折、決まって父がいない時、母の視線は海へと吸い寄せられる。もう戻れない場所への郷愁か、失ったものへの悔恨か。温かな雨でにじむ彼女の世界は、つかの間海となった。
けれど、雨はいつか止むもので。地上での生活にも慣れた三年目の春、二人の間には待望の子供が生まれた。
――これが、僕?
赤くてしわくちゃで頼りない、小さな小さな生き物。泣くことしかできない、弱い生き物。けれどその小さな命――マレフィキウム――は、母の世界を一変させてしまった。
二人だけだったときも笑いの絶えない家だったが、マレフィキウムが加わってからは笑いに加え、困惑に驚愕にと大忙し。もう彼女の世界に雨の降る暇など与えてはくれなかった。
けれどそんなおとぎ話のような幸せな時間は、唐突に終わりを告げた。
ある日突然、領主の使いという者たちがやって来たのだ。彼らは無遠慮に三人の家へと踏み込むと抵抗する父を殴り、幼子を守る母を脅し、三人を謂れのない罪で捕縛した。そこからは、悪夢だった。
理不尽な要求を突きつけ恫喝してくる男たち、一方的に虐げられる父、泣き叫ぶ幼い自分の姿――
そして、運命の時は訪れた。
薬を飲んでも人魚に戻らない母に腹を立てた男はその薬効を疑い、あろうことか父に薬を飲ませるという暴挙に。薬はいわゆる粗悪品で、一流の魔術師や魔法使いの作ったものとは違い、欠陥だらけの不完全な代物だった。
健康的に焼けた父の肌を侵食したのは歪な青緑色の鱗。硬い鱗が肌をおおい隠すその様は、まるで岩に固着するフジツボのよう。次いで耳の後ろに現れたのは、アンコウの口のようなエラ。にじむ母の視界に映し出されたのは、見るも無残に変わり果ててしまった父の姿。
けれど、この光景を見ている母からマレフィキウムに伝わってきたのは、変わることない「愛おしい」という気持ちだけ。父を想う、母のたった一つの気持ち。
――すごい……。僕も、僕だけを想ってくれる、唯一が欲しい。
幼子を中心に抱き合い、固く寄り添う二人。しかし男たちはそれが気に入らなかったようで……無情にも三人を窓から投げ捨ててしまった。館が建っていたのは切り立った崖の上。下で三人を受け止めようと腕を広げるのは、岩より硬い母なる海。
『ルクスとレフィだけは、絶対に死なせない!』
伝わってきたのは悲壮な決意。尊く美しく、独り善がりで愛おしい決意。
「ルチア!!」
三人が海に叩きつけられる寸前、エスコルチアは海の泡となった。
『絶対に、守る!』
虹色の泡となり硬い海から二人を守ると、母は小さな涙色の石へと姿を変えた。
そしてきらきらと七色に揺らめく景色を最後に、マレフィキウムは現実へと戻ってきた。
「見えた?」
夢から覚めたマレフィキウムを見下ろしていたのは、泣きそうな顔を下手くそな笑顔で繕ったパーウォー。表情がわからないマレフィキウムにも、そのやるせない気持ちはひしひしと伝わっていた。
「僕……僕、は」
緑の瞳から温かな雨を滴らせたマレフィキウムは、パーウォーから手を離すと岩場に横たわる父へと向き合った。
「お父……さん」
しゃがみ込むと、マレフィキウムは父の顔をびっしりとおおった歪な鱗に触れた。
幸せそうに母と笑っていた父、家族を守ろうと必死に抗っていた父、最後、七色の景色の中、幼い自分を抱きしめ泣いていた父――パーウォーの見せた白昼夢の中の父の姿が、母の気持ちが、目の前で横たわる父の輪郭を明確にしていく。
「お父、さん!」
岩だらけの海岸に響くは、波の音と幼子の悲しみの歌。
※ ※ ※ ※
「レ……フィ」
懐かしい夢の中を揺蕩うマレフィキウムの鼓膜を揺らしたのは、大切な大切な、なんとしても守りたいと思った、未来を約束した女の子の声。けれど、そんな大切な女の子の声は今にも消えてしまいそうで。
「……ア」
マレフィキウムは言いようのない焦燥に駆られ、かすれた声で彼女を呼んだ。泥のように重たい体はまったく言うことを聞かず、開かないまぶたに焦りだけが募っていく。
「レフィだけは、絶対に死なせない……から」
ひどく嫌な何かがマレフィキウムの脳裏をよぎった。寝ている場合ではない、そう思うのに動かない体にマレフィキウムは心の中で舌打ちをする。とにかく起きねば。今起きなければ、何か取り返しのつかないことになる――嫌な予感に急かされ、鉛を流し込まれたかのような重いまぶたを強引にこじ開けた。
そしてようやく少しだけできた視界に映し出されたのは、床に這いつくばり手を伸ばすパエオーニアの姿。
「な……で!?」
ありえない、あってはならない光景にマレフィキウムの意識が一気に覚醒した。
「ニア!!」
飛び起きたマレフィキウムは、迷わずパエオーニアへと手を伸ばした。しかしその手は彼女に届くことなく、虚しく空を掴んだだけ。
「これはこれは! こちらでは『愛したものは彼の目覚めと共に眠りにつく』となりましたか。いやはや、他人の運命というものは本当に面白い」
完全に他人事として楽しむその腹立たしい物言いに、マレフィキウムは怒りを原動力に頭を上げた。彼の知りうる限り、このような物言いをするのはたった一人。
「エテルニタス……アンタさぁ、ニアに何してくれちゃってるの?」
這いつくばったまま怒気を放つマレフィキウムとは対照的に、余裕綽々の笑みを浮かべるのは額装の魔法使いエテルニタス。彼は杖を振ると、宙に浮いていたパエオーニアをマレフィキウムに見せつけるように硝子の棺に納めた。
「何も何も、私は彼女の願いを叶えただけ。貴方がそこで覚めぬ惰眠を貪っている間に、ね」
「ニアの願いを先に受けてたのは僕の方だよ。それを横取りとか、ちょっとないんじゃないかなぁ」
「言いがかりは困りますねぇ。願ったのは彼女、願わせたのは貴方。これは、貴方の迂闊さが招いたことでしょう?」
正論にぐうの音も出ないマレフィキウムに、エテルニタスは意地の悪い笑みを浮かべると追撃を放った。
「なぜこのような事態に陥ってしまったのか、詳細は私にはわかりかねますが……貴方には心当たり、あるのではないですか?」
エテルニタスは賢者の石と柘榴の欠片を弄びながら、マレフィキウムを横目で見下ろした。
「これは貴方の選択が招いた結末。功を焦り、分不相応なものに徒に手を出した結果」
エテルニタスの手からこぼれ落ちた賢者の石が、無垢材の床で無機質な音を奏でる。
「待って……待って!! お願いだから、ニアを連れていかないで!」
まだ体をうまく動かすことが出来ないマレフィキウムは、腕で上体だけを起こしエテルニタスへと手を伸ばす。けれどエテルニタスはそれを一瞥しただけで、構うことなくパエオーニアが眠る棺のふたを閉ざしてしまった。
「それでは、機会があればまたお会いしましょう」
「ニア!!」
マレフィキウムが最後に見たのは、真っ赤な悪魔の後ろ姿。そして届かなかった、硝子の棺。エテルニタスとパエオーニアは、額縁の向こうへ消えてしまった。
そして二人が消えてしまってから少しして、勢いよく部屋に飛び込んできたのは使い魔たち。
「ご主人様! わたくしたちにまで眠りの魔法を使うとは、いったい何をなさっていたのですか!!」
「ひどいですよぅ、ご主人! お風呂掃除の最中に寝ちゃったじゃないですかよぅ!!」
「アンタねぇ! 明日の食事の仕込みの最中になんてことしてくれんだい!!」
部屋へ踏み込んだ瞬間、三匹はマレフィキウムへと一斉に不満をぶつけた。ここで常ならば「ごめんね~」とへらへらした笑顔を浮かべて振り返るはずのマレフィキウムが、うつむいたまま微動だにしない。三匹は顔を見合わせると、恐る恐るマレフィキウムの前へと回り込む。
「おい、百禍! お前、なんか妙な魔術を使っただろう!!」
「マレフィキウムさん! なんか魔法使ったでしょ!!」
そこへ飛び込んできたのはオルロフとファートゥム。不満をぶつけようとやって来た二人だったが、砕け散ったフラスコとその前でうなだれ座り込むマレフィキウムの姿に顔を見合わせると一時的に不満を飲み込んだ。
「ご主人、どうしたんですかよぅ。お嬢も、どこ行ったんですかよぅ」
「……僕が、失敗したから」
要領を得ないマレフィキウムの答えに眉をひそめる一同。とその時、床に転がる赤い石がファートゥムの目に入った。
「ちょっ、なんで賢者の石がこんなとこに!?」
慌てて駆け寄り賢者の石を拾い上げると、ファートゥムはうなだれるマレフィキウムの肩を掴んで無理やり視線を合わせた。
「マレフィキウムさん。これ、プリムラが持ってた賢者の石だよね?」
ファートゥムから目を逸らし、気まずげにうなずいたマレフィキウム。叱られている子供のような、そのなんとも情けない先輩魔法使いの姿にファートゥムは深いため息をつくと――
「しゃんとしやがれ、この考えなしの大バカが!!」
怒号と共に、マレフィキウムの脳天にきつい一発をお見舞いした。そしてそのまま腰に両手を当てマレフィキウムを見下ろすと、ファートゥムは静かに淡々と怒りを伝え始めた。
「この賢者の石が元は誰だったのか、どんな経緯で俺に託されたのか……アンタもさっき、プリムラから聞いてただろ? それを何も言わず勝手に持ち出して、あまつさえ相談もなしに使おうだなんて、さすがにひどいんじゃない?」
「……悪かったよ、ごめん。でも、もういいや。そいつは僕じゃ扱えないみたいだし」
「もういいやって、人のもん盗っといてその言い分……テメェ、後で覚えてろよ! ムカつくけど、俺のことはひとまず後でいいや。それより一つ確認したいんだけどさ、それってあの子を諦めるってこと?」
問いに答えることなく、ただうなだれるマレフィキウム。そのあまりにも情けない姿に、いよいよもってファートゥムの怒りが爆発した。
「マレフィキウム、お前の覚悟はその程度のもんだったのか!? 他人の大事なもん奪ってまで手に入れたかったもん、そんな簡単に諦めんのかよ! ふっざけんな!!」
マレフィキウムの胸ぐらをつかみ、今までにない剣幕でまくし立てるファートゥム。
「一人で決めて、一人で暴走して、挙句悲劇の主人公気取ってわかったような顔して諦めやがって!! 周りを見ろ! 頼れるやつがいるなら頼れ! 一人で突っ走っておっ死んで大切なやつを泣かせるような馬鹿なんてな、一人いればもう充分なんだよ!!」
そこまで一気に言い募ると、ファートゥムは掴んでいたマレフィキウムの胸ぐらを離し突き飛ばした。しりもちをついたマレフィキウム、その指先に何かがこつんと当たる。
「お母さんの、人魚石」
床に転がっていたのは、こぼれ落ちた涙のような母の形見。マレフィキウムは懐から落ちてしまった石をそっと拾い上げる。それはほんのりと暖かく、まるで人肌のような温もりを持っていた。
刹那よぎったのは、自らを犠牲にして泡になった母の姿。そしてそれに重なるのは、「絶対に死なせない」と微笑んだパエオーニアの姿。
「ご……めん。ごめん、なさい」
「賢者の石は無事だったし、今回は見逃してやる。だからさっさと立ち上がれ。そんで何があったか教えろ」
しばらくして落ち着いたマレフィキウムから語られた内容に、その場にいた全員が頭を抱えた。
「よりにもよって額装って……で、マレフィキウムさんはどうしたいの? やっぱり諦める?」
「諦めない! もう、絶対に諦めない。さっきはどうかしてた。もうあんな駄々っ子みたいなこと言わない。僕はニアの願いを叶えるって約束したんだ。だから、あの子を追うよ」
「当然だな。半身を見捨てるようなやつなら、今ここで俺が叩き斬ってた。しかし……」
オルロフが何かを言いかけたその時、騒ぎに居ても立っても居られなくなったプリムラが部屋へやって来た。
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