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藍玉の章 ~アクアマリン~
16.取引と覚悟
しおりを挟む「いーい? サンディークスに依頼するのは、『人魚になる薬』だけよ。あいつが得意なのは調薬。だから、それ以外の依頼はかなり割高になるわ。あいつに薬以外の依頼は、絶対ダメ!」
よほどマーレのことが頼りないのか信用できないのか、パーウォーは先ほどよりもさらに強く念を押す。それに思わず苦笑いを浮かべたマーレだったが、ここで彼に逆らおうものなら更なる小言が追加されそうだと、ひとまず素直にうなずいておいた。
そんなやり取りを経て今、マーレはあの路地へと再びやってきていた。何の変哲もない、町はずれの路地。昼だというのに、人っ子一人いない静かな路地。周囲の建物に生活感はあるというのに、なぜかこの路地だけは、世界から切り離されたかのように静かだった。
右手に辰砂を握りしめ、マーレは路地を奥へと進んでいく。やがて突き当りに現れたのは、蔦に覆われたこじんまりとした一軒家――朱の魔法使いサンディークスの棲み処。
「こんにちは。今日はお願いがあってきました」
竜を模した叩き金を叩き、マーレはそのよく通る声でサンディークスへ呼びかけた。すると、ぎいいっときしむ音をたてながら、扉がひとりでに開いた。
昼間だというのに暗い廊下の奥、一つだけ灯りの漏れる部屋。そこを目指し、マーレは薄暗い家の中へと足を踏み入れた。
「やあ、きっとまた来ると思ってたよ」
サンディークスはマーレを見ようともせず、背を向けたまま何かの作業に夢中になっていた。マーレはそんな彼の邪魔をしないように静かに近づくと、適当な木箱に腰かけ、作業がひと段落するのを待つ。するとサンディークスは視線を己の手元に固定したまま、マーレにおなじみの問いを投げかけた。
「で、何が望み?」
「人魚になりたい!」
サンディークスは一度作業を止め、近くの棚から赤褐色の液体の入った小瓶を取り出した。
「これを飲めば、きみが望む姿になれる。鳥でも竜でも、もちろん人魚でも。ただし、この薬の代償は声。きみの声」
サンディークスの要求、それは前のものとは比べ物にならない大きな代償だった。
吟遊詩人であれ人魚であれ、彼らにとって声は命に次いで大切なもの。しかも、パーウォーから歌えない人魚の扱いは聞かされたばかり。種族を変えるというだけでも大きな不安が付きまとうというのに、さらに致命的な欠点まで付与されるというのだ。
これにはさすがのマーレも即答というわけにはいかなかった。マーレが黙り込むとサンディークスはやれやれとばかりにため息をつき、机の上に出した小瓶をしまおうと手を伸ばした。
「待って!!」
慌ててサンディークスの手首を掴んだマーレ。けれど、やはりそう簡単に決心がつくわけではなく。マーレはサンディークスの手首をつかんだまま固まってしまう。
「私はどっちでもいいよ。きみが代償を支払うというのならこれはきみのものだし、やっぱりやめるって言うのなら別の人のものになるだけだから」
「別の人……って、誰か他に欲しがってる人がいるってこと?」
「私がそれをきみに教える必要はないよね。さあ、決めて。代償を払ってこれを手に入れるか、諦めて帰るか」
サンディークスのちらつかせた――別の人――という存在は、揺らいでいたマーレの心を一瞬で大きく傾けた。
「払います! だからその薬、僕にください」
マーレの答えに、サンディークスは満足そうに目を細める。そして小瓶から手を離すと、「契約成立だね」と自分の手首からマーレの手を外した。
「ああ、そうそう。あれから少し調べさせてもらったんだけど……きみ、あの人魚どうやって助けるつもり?」
「えーと、あの洞窟って海から水を引っ張ってるみたいだから、その水路を見つけて助け出そうかと思ってたんだけど」
単純なマーレの答えを、サンディークスは鼻で笑った。
「言っておくけど、あの洞窟から続く水路の出口もきっちり塞がれてるよ。当たり前だろ、じゃなきゃあの人魚だってとっくに逃げ出してる。魔術結界が施されてたから、普通の方法じゃ歯が立たないね」
「そんな! じゃあ、どうやって……」
サンディークスが囁く。大きな瞳を三日月に細め、にぃっと口角を上げて。
「私なら消せるよ」
サンディークスの言葉に、マーレは勢いよく顔を上げる。食いついてきたマーレにサンディークスは満足そうにうなずき、机の引き出しから一振りの短剣を取り出した。
「これを使えばその結界、壊せるよ」
夕焼け色の魔法使いの甘言に、マーレは思わず小瓶の隣に置かれた短剣に手を伸ばしそうになった。それがあれば、リーリウムを助けることができる。そう思うといてもたってもいられなかったけれど、その衝動をぐっと抑え、マーレはサンディークスを見据え問う。
「代償は?」
「守護石」
すかさず返ってきた答え。けれど今のマーレには、もうその条件は飲めなかった。
石人が守護石を失うということは、命を奪われると同意。その場で死ななかったとしても、守護石を失ってしまった石人は長くは生きられない。せっかくリーリウムと生きていくという覚悟を決め希望が見えてきた今、マーレにはもうその道は選べなかった。
「だったらいらない。死んでリーリウムの心に残るっていうのも悪くはないけど、やっぱり僕は生きて彼女と一緒にいたい。僕は欲張りだからさ、消えない思い出になりたいんじゃなくて、消せない思い出を作っていきたいんだ」
机の上から人魚になる薬だけを取ると、マーレは満面の笑みを浮かべた。
「声くらいならあげる。歌えなくたって、リーリウムがいればそれでいい。同情や罪悪感からだったとしても、彼女が一緒にいてくれるなら」
「石人ってのは、半身に対しては本当に強欲だねぇ。まあ、人間も似たようなものだけど。でも、私はきみたちのそういうところ、嫌いじゃないけどね」
サンディークスはにんまり笑うと、拾い上げた杖の先端をマーレののどにあてた。
「朱の魔法使いサンディークスの名にかけ、この者の声と引き換えに、紫鋼玉の変身薬を与えることを誓う。朱に染まれ、朱夏を謳歌せよ」
サンディークスが誓いの言葉を口にした瞬間、マーレの手の中の小瓶――正確には中の魔法薬――がまばゆい光を発した。
「契約は成立した。これでその薬は完全にきみのものだ。その薬を飲んだ者は、きみが望んだ姿になる」
マーレの手の中、そこにはすっかりと光のおさまった小瓶があった。先ほどまでは赤褐色だった中の液体はいまや美しい青紫色に変化していて、小瓶の中でゆらゆらと輝いていた。
ありがとう――そう、ただ一言告げようとして口を開いたマーレ。しかし彼からこぼれ落ちたのは、ひゅうというかすかな音だけ。
契約の完了と同時に、マーレはその美しい声を失った。
「これは対等な取引、礼は不要だよ。さあ、もう行くといい。さようなら、石人くん」
サンディークスはマーレの背に手を当てると、部屋の出口にむかって押しだした。
その力が思いのほか強かったため、マーレは思わずたたらを踏む。すぐに体勢を立て直し振り返ったが、その時にはもう、そこにサンディークスの姿はなかった。それどころか部屋も、いや、家も何もかも、一切合切なくなっていた。
何もない路地裏の行き止まり、そんな場所にマーレは一人ぽつんと立っていた。右手に青紫の液体の入った小瓶、左手に砕けた辰砂を握りしめて。
結局、結界を破る術など何も思いつかないまま、マーレは先ほどの岩場まで戻ってきてしまった。途方に暮れてその場にしゃがみ込むと、頭を抱え、深く長いため息をもらす。そしてポケットに手を突っ込み、砕けた辰砂と一緒にしまっておいた孔雀石を取り出した。
手の中の孔雀石を見つめ、マーレは考える。人魚になる薬は手に入れた。しかし、結界を破る手立てがない。パーウォーに頼めばなんとかできるかもしれないが、今のマーレにはもう、長い髪も美しい声もない。残る価値あるものといえば、それはサンディークスも欲した守護石くらいだろう。
どうしたものかとうなだれていると、どこからか幽かな歌が聞こえてきた。それはただの人間には聞こえない、魔力を紡いで奏でられた歌。歌は波音に乗り、マーレを呼ぶ。
深い深い海の底
光届かぬ海の底
光藻に照らされ浮かび上がる
真珠の都に住まうは人魚の民
蒼く輝く月の夜
水の乙女は囚われた
狂った若者に囚われた
二つの足もつ若者に囚われた
恋は若者の世界を輝かせ
恋は若者の目を曇らせた
乙女は潮だまりに閉じ込められ
同胞に嘆きの歌を送る
カエルラの人魚姫の旋律にのせた嘆きの歌が聞こえる。
耳を澄まし、マーレは岩場を奥へ奥へと進んでいく。すると、大きな岩のはざまに隠されるように、小さな洞窟が口を開けているのが見えた。波間からわずかにのぞく入り口は確かに見えない何かで塞がれていて、何人たりとも奥へと進めないようになっていた。
逸る気持ちのまま、洞窟に走るマーレ。けれど洞窟は、その大半が海の中。岩の上からでは、中がどうなっているか見ること叶わず。
――代償のことは聞いてから考えよう。
そう決めるとマーレは孔雀石を握りしめ、パーウォーを呼び出そうと深呼吸した。と、その時――
「お待ちしておりました」
不意にかけられた声に振り向くと、そこには四人の美しい人魚の娘がいた。
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